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追記:
思ったより読んでくださる方が多かったので。
まず「オープンワールド」の定義について。これはレベルデザイン論やシステム論など諸説あるのだが、この記事における定義としては、純粋に「面積がバカ広いマップ全て」と考えて欲しい。
なので、当然ゲームによってオープンワールド制を採用する理由は異なる。にも関わらず、多くのゲームのマップで「窮屈」に感じることが多いので、この記事を書いた。
結論部分にその原因を憶測ながら挙げたが、結局は開発費の高騰や膨張したボリュームの管理など、原因もまた諸ゲームの差異も考慮して尚同じようなものに感じた。
最近「”あの”シリーズが遂にオープンワールド化!」とか、「広大な世界で”自由度”を味わえ!」とか、正直そういうパターンのウリ文句は食傷気味だ。
むしろ最近、安易なゲームの「オープンワールド化」が、遊ばれない無駄なマップだけ広げ、逆に遊ぶために必要なマップを狭める傾向にあると思う。
こういう、安易なフリーローミング化は身を滅ぼすと思ったのは、『DQ11』を遊んだ時の話。『DQ11』の凄い所は、何年も待って最新技術で『DQ』が蘇るというのに、根本的なゲームプレーは殆ど変わってないところだった。
まず、戦闘は極めて伝統的なコマンド式。ストーリーを進行する際も、ムービーが僅かに挿入されるものの、基本は「読んで」理解する前提の作り。そして、オープンワールドのようでも、一本道のようでもない、絶妙なマップ。
マップに関しては、当初は些か窮屈すぎる(ゲームの進行以外で他エリアを探索するのはほぼ不可)とは思ったが、未だにちゃんと各地の名所を覚えているものだ。詰める場所にしっかりコンテンツが詰まっており、全く無駄がなかった。リニアでもオープンでもない、絶妙な造りだと妙に納得した。
そもそも、踏破すら不可能な「背景」が多い
むしろ、「オープンワールド化」によって狭っ苦しくなったゲームは結構あると思う。同じスクエニから出た『FF15』は正にそれではないだろうか。
街、と言えるのはレスタルム一つだけで(オルティシエは隔離エリアだし)、あとは同じような、小さくて狭いガソリンスタンドやダンジョンがポツポツあるだけ。おかげで、新しいエリアに来ても、全く期待感が湧かなかった。
結局、シリーズのリニアな冒険の方が、よほど印象に残るロケーションが多かった。「ゴールドソーサー」や「歓楽都市ノーチラス」にシームレスに移動できることを期待していたのに。
しかも、本筋ではリニアな冒険を委ねてくるので、余計に混乱する。普通、パーティ4人が万全の状態で冒険したいところが、物語の都合で仲間が一人抜けたり、ダンジョンに放り込まれて隔離されたりする。結局どう遊ばせたいのかわからない。
『FF15』の場合はシステム面で「狭くなった」と感じたけど、もっと率直に感じるのが、FPSやTPS等の戦闘を楽しむことに重きを置いたゲーム。
『MGSV:TPP』はその典型だった。「広大な世界で自由に潜入!」というのが売りなんだけど、広がった世界では単に移動するだけで、肝心の潜入するための「戦場」自体は凄く狭まっている。
前作のシャドーモセスやビッグシェルのような「巨大な基地で実現不可に思えるスニークミッション」というスケールは皆無で、せいぜい軍の前哨基地、まぁ現実の特殊部隊でもどうにかなるかな、というスケール。
当然、こうマップが狭いと、偵察や潜入ルートの確保なんて必要なく、何となく入って目に入る敵に麻酔銃を打ち込んでいけば攻略できる。
ビークルや迫撃砲など、潜入の手段は増えたが、肝心の攻略する敵やレベルは縮小化してしまった。
一方、『TPP』の前日章となる『Ground Zero』は大変よく出来ており、キューバのグアンタナモ収容所は攻略し甲斐のある要塞だった。まず海岸部分を突破し、収容エリアを壁で隔てた先には、更に厳重な軍事施設が広がっている。攻略している最中も、潜入ルートを練ることに暇がなかった。
同じようなガッカリ感は、『FARCRY』シリーズもあった。『1』『2』は、「敵地の中たった一人でゲリラ戦をする」緊張感がたまらなかったが、まるで型で作ったように戦闘エリアが隔離されてからは、逆に「狭いエリアに押し込められた敵を四方から握り潰す」だけの作業ゲーになってしまった。
あと思いつく限り『Ghost Recon: Wildlands』とか、『ドラゴンズドグマ』とかも、面白いんだけどオープンワールドはなくて良かったんじゃないかと感じた。
一方、「オープンワールド化」の好例を紹介すると、『Witcher 3』が挙げられると思う。このゲームは原作小説が存在するだけにかなりリニアなRPGだったのだが、『3』で一転してオープンワールド化。それが大ヒットした。
何故成功したかというと、まず『Witcher 2』の戦闘やビルド制等の戦略性が余り面白くなかったという批判点から、先述したような戦闘の面白さは関係なく、一方で原作小説から練り続けた設定を一気に展開できた点だと思う。
街やダンジョンは、ゲーム的には平凡なものでも、「Witcher文学」が加わると化けてくる。些細な雑魚的に細かなバックグラウンドがあり、お使いサブクエストにはハートフルボッコな物語が潜んでいる。でかいだけのもみの木が、燦然と輝くクリスマスツリーへ変身したのだ。
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では「オープンワールド化」に当たって、何が成否を分けているのか、個人的に3つ思いつく点がある。
まず膨大なリソースと、その計画的な運用が必要なこと。『MGSV』とか『FF15』が顕著だったけど、明らかに途中で予算が尽きていて、中途半端な所で「世界」が途切れていたりする。
次に、これは伝統的なシリーズモノにありがちなのだが、ゲーム本来の方向性が捨てきれない問題。『MGS』にしろ『FF』にしろ、元々かなりリニアなタイトルが、一気にオープンワールドに振り切れると、開発陣側も上手く意思統一が取れていなくて(気がする)脱線する。
最後に、オープンワールド化最大の問題は、コンテンツを希釈化させてしまう点。マップを広げる以上、ゲームの部分毎はリニアなゲームより薄い濃度となる。仮にマップ全てを味わえば、100%の濃度を味わえるが、そもそも全プレイヤーがゲームの全てを味わい尽くすのも無理な話。
要するに、オープンワールド化するなら、ゲームの面白さを効率よく伝える工夫も必要だと思う。『Witcher3』や『ゼルダの伝説:BotW』は、これを上手く解決していた。特に任天堂は「線」と「面」の両方でレベルデザインを構築するのが本当に上手い。
さもないと、無駄な部分だけ広げて、プレイヤーがゲームとして遊ぶ、楽しむ部分に絡められるマップが狭くなるという、非常に本末転倒な結果になってしまうのだ。
さて、長年期待されてきた日本の新作が「オープンワールド」という形で発売される予定だが、これが丁か半か。