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25代斎院 禎子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
しんし よしこ/さだこ/さねこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:白河天皇(1053-1129)
母:中宮藤原賢子<贈皇太后>
  (1057-1084)
永保元年(1081)4月17日 久寿3年(1156)1月5日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
堀河(1086~1107,同母兄) 卜定:康和元年(1099)10月20日
   (源清実[越前守?]
    大炊御門南京極西宅)
初斎院:康和2年(1100)5月28日
   (侍従厨)
本院:康和3年(1101)4月13日
退下:嘉承2年(1107)7月19日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
善子(1077-1132,異母姉)
 [六角斎宮]
 父:白河天皇
 母:女御藤原道子
卜定:寛治元年(1087)2月11日
   (加賀守藤原家道
    三条烏丸宅)
初斎院:寛治元年(1087)9月21日
   (左近衛府)
野宮:寛治2年(1088)9月13日
群行:寛治3年(1089)9月15日
   (長奉送使:藤原公実)
退下:嘉承2年(1107)7月19日
天皇崩御

略歴:
 永保元年(1081)(1歳)4月17日、誕生。
 永保2年(1082)(2歳)3月1日、内親王宣下。
 応徳元年(1084)(7歳)9月22日、母藤原賢子崩御。
 康和元年(1099)(19歳)10月20日、准三宮。兄堀河天皇の斎院に卜定。
 康和2年(1100)(20歳)5月28日、初斎院(侍従厨)に入る。
 康和3年(1101)(21歳)4月13日、野宮に入る。
 嘉承2年(1107)(27歳)7月19日、退下。(同日兄堀河天皇崩御)
 天治2年(1125)(45歳)10月17日、出家。


12月25日、土御門高倉第に遷御。
 大治2年(1127)(47歳)8月14日、養母太皇太后寛子崩御。
 大治4年(1129)(49歳)7月7日、父白河法皇崩御。
 大治5年(1130)(50歳)11月8日、土御門高倉第焼亡。
 久寿3年(1156)(76歳)1月5日、薨去。

号:四条宮の姫宮、土御門斎院、枇杷殿斎院、宇治前斎院、東山前斎院
同母兄弟:敦文親王(1074-1077)
     媞子内親王(1076-1096,郁芳門院)
     令子内親王(1078-1144,24代斎院,二条太皇太后)
     堀河天皇(1079-1107)

白河天皇第四皇女。名前の表記は「禎子」の他、「禛子」とする史料もある。
 母藤原賢子は源顕房女で、後三条天皇の再従兄妹。関白藤原師実養女となり入内した。
 (※父方の祖母尊子が、後三条天皇の祖母上東門院彰子・三条天皇中宮妍子の異母妹。なお養父師実と実父顕房は従兄弟)

      藤原道長
       |
 ┌───┬─┴────────┬──────────┬───┐
 |   |          |          |   |
 頼宗  彰子===一条天皇  妍子===三条天皇  尊子  頼通
 |      |          |       |   |
 |      |          |       |   ├───┐
 |      |          |       |   |   |
 能長   後朱雀天皇========禎子     源顕房  師実  寛子
 |            |            |      [四条宮]
 |            |            |
 |          後三条天皇          |
 |            |            ├─────┐
 |            |            |     |
 道子==========白河天皇=========藤原賢子  源雅実
       |            |     (師実養女)
       |    ┌────┬──┴─┬────┐
       |    |    |    |    |
       善子  堀河天皇  媞子   令子  ◆禎子
      (斎宮)       [郁芳門院]

 誕生後数ヶ月で四条宮寛子(太皇太后、後冷泉天皇皇后)に引き取られ、猶子となり「四条宮の姫宮」と称された(『栄花物語』巻四十「紫野」、『水左記』永保元年8月10日条。なお四条宮寛子は、禎子の養祖父師実の姉にあたる)。24代令子内親王は禎子の同母姉であるが、上記史料などから二人が同居したことは殆どなかったと見られる(高野瀬恵子氏論文参照)。
 斎院を退下した後の禎子は再び養母寛子と共に暮らし、寛子亡き後はその遺産を相続した。禎子の没後、遺産の一部は高陽院や八条院に渡ったとされる。

『今鏡』には、斎院退下の後に禎子内親王が仏道に心を入れていたことや、歌合わせを好みゆかしい暮らしぶりであったことが記されている。また歌人の待賢門院堀河(源顕仲女)は『金葉集』によれば始め「前斎院六条」と称したといい、この「前斎院」は禎子を指すと思われる(同母姉令子の御所にも「二条太皇太后堀河」と呼ばれた女房がいたらしいが、高野瀬恵子氏は「待賢門院堀河」と「二条太皇太后堀河」は別人であろうと考察している)。


【禎子内親王の呼称のこと】
 禎子内親王は養母寛子の御所枇杷殿(左京一条三坊十五町)に住んだことから「枇杷殿斎院」と号し、『山槐記』『兵範記』の薨去記事にもこの名称で記載されている。また寛子と共にしばしば宇治を訪れたことから、史料では「宇治前斎院」の呼称も見られる。
 出家後は叔父源雅実(母賢子の弟)の土御門高倉第(左京北辺四坊三町)を御所としたことから「土御門斎院」とも号し、この呼称が最もよく知られている(『今鏡』『一代要記』)。なお土御門高倉第は大治5年(1130)11月8日に火災で焼失しており(『中右記』『長秋記』ほか)、この前年に父白河院が崩御したこともあってか、これ以降の禎子の消息を伝える史料は極めて少ない。

 ところで『兵範記』には仁平3年(1153)から久寿元年(1154)にかけて、「東山前斎院」と呼ばれる人物が幾度か登場する。この「東山前斎院」は「白河前斎院(28代統子)」と並んでしばしば公卿らの慶申(よろこびもうし)を受けており、当時存命の皇女たちの中でも重んじられる存在であったことが伺えるが、特に右大将藤原兼長の慶申記事(仁平4年8月21日条)に「令參東山前齋院給、<枇杷殿齋院也、>」とあることから、この「東山前斎院」が禎子であることが判る。また『一代要記』には禎子内親王が「法住寺御所」で亡くなったとあり、これが正しいとすれば、父院没後の禎子は恐らく大治5年(1130)~仁平3年(1153)の間に法住寺かその近隣の邸宅に居を構え、東山の地で晩年を送ったものと思われる。
 なお現在の法住寺は三十三間堂東隣にあり、三十三間堂を含む一帯に後白河院の譲位後の御所「法住寺殿」があったとされる。禎子が没したのは後白河の在位中であったので、大叔母禎子の死後に主不在となった邸宅を後白河院が引き継ぎ、法住寺殿として拡張した可能性が考えられる(なお法住寺殿成立以前には、信西の邸宅や法住寺堂もあり、その跡地も法住寺殿に含まれると思われる)。


【堀河天皇崩御と禎子内親王退下】
 嘉承2年(1107)7月19日、同母兄堀河天皇の崩御と同日に禎子内親王は退下したとされる。『中右記』同日条には「斎院日者不例、今日危急、運命殆欲盡、卜筮所告退斎院吉也、仍亥時許、俄奉出長官長兼直盧、即有平愈[癒?]事、誠是神明不受歟。(中略)斎王者興帝(堀河天皇)同母也、同日有此事、誠以希有也」とあり、病による急な退下であったようである。これに従えば、禎子内親王の斎院退下は堀河天皇の崩御によるものではなかったと取れる(堀河天皇崩御は『殿暦』『中右記』によれば巳刻で、禎子の退出は上記『中右記』の通り亥時であるから、禎子の退出の方が遅い。)。
 堀河天皇は在位のまま崩御したが、当時の慣例としてこうした場合も「如在之儀」により、名目上は天皇譲位の後退位・崩御したものと見なされた。このため、本来天皇譲位では斎院退下とはならない(※天皇崩御の場合も、斎院が天皇の娘でなければ退下はない)はずであったが、禎子の病状悪化により結果として譲位(崩御)と同日に退下となったものと思われる。

 ところでこの時禎子は「今日危急、運命殆欲盡」とまで言われて斎院退下となったが、その後は結局歴代斎院の中で最高齢の76歳という長寿を全うしており、あるいはこの退下時の病というのはあるいは形ばかりの口実で、帝崩御の混乱に乗じての退下であった可能性も考えられる。ただし禎子の退下時の病は日頃からのものであったらしく、またその後もたびたび病臥したとの記録もあり、19代禖子内親王同様に長命ながら病弱なのは事実だったようである。また兄堀河天皇崩御の際は、宮中が大混乱であった様子が『中右記』『讃岐典侍日記』等諸記録にも残されている。病床で兄帝の死を知った禎子が精神的衝撃から危篤状態に陥り、急遽退出となったものであろうか。

 なお歴代斎宮・斎院の中で、在任中または退下即日に死去した斎王は斎宮が4人、斎院が3人いるが、天皇崩御と同時期に死去した斎王はいない。ただ約60年後の嘉応3年(1171)3月1日、前斎宮休子内親王(後白河院皇女)と前斎院僐子(二条院皇女)が同日に相次いで死去するという事件が起こった。この直前には火星が双子座に接近する天変が奏上されており、右大臣九条兼実は日記『玉葉』(2月27日条)に「天変不定、豈不恐哉」と述べている。あるいは斎院禎子の場合も、天皇崩御に加えて現任の斎院薨去という凶事が重なることを恐れ、退下を急いだのかもしれない。

関連資料:
・朧谷寿「平安京にみる村上源氏の邸第管見」(『奈良平安時代史の諸相』高科書店,1997)

関連論文:
・高野瀬恵子「令子内親王家の文芸活動-院政前期の内親王とその周辺-」
 (『総合研究大学院大学学術情報リポジトリ』(日本文学研究専攻), 2008)
 [機関リポジトリ全文あり]
・堀裕「天皇の死の歴史的位置 : 「如在之儀」を中心に」
 (『史林』81(1), p38-69, 1998)
・上村和直「法住寺殿の成立と展開」
 (『京都市埋蔵文化財研究所・研究紀要』(9), p39-78, 2004)
 [機関リポジトリ全文あり]
※その他関連論文はこちらを参照のこと。





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白河天皇
史料 年月日 記述
帥記 永保元年4月17日 【皇女禎子誕生】
(前略)是依中宮(賢子)御産氣也云々、仍歸來之路遣使尋問宮邊、歸來云、有御氣色云々者、申刻更參彼宮、<殿下(藤原師実)右大將(源顕房)別當祇候、此後人々漸參、>入夜左馬頭告殿下有召之由、即參西、大宮大夫被候、宣云、山階寺多武峯等事且可申行者、<山階別當法印經任威儀師兼明停止、又法印目代々々被拂御寺、入道源覺召名、又多武峯檢校圓壽被停檢校職出事、僧經譽追補宣旨、>僧三人<召搦山階寺少綱事、>給檢非違使云々、予候東面之間、藏人辨伊家仰云、威儀師兼明可停任者、予目辨云、可被仰下者、辨稱唯退了、予終日祇候、依力屈、示付少納言云、若御産氣急者可告者、仍白地退出了、子刻許少納言遣人告云、御産欲成者、即馳參入門之間御産成了、春宮大夫(藤原実季)并殿上人五六人下立、予昇候、大宮大夫(源俊房?)、左大將(藤原師通)、新中納言、別當同昇候、給布施於僧等、又給勤仕御祓陰陽師等了、陰陽頭道言注獻勘文、<子二點、女宮(禎子)云々、>有頃退出了、<于時鶏鳴、>左衛門督(源俊明)被行解陣云々、
水左記
帥記
永保元年4月19日 【禎子の御湯殿始、御三夜儀】
『水左記』
 中宮(賢子)今夜御産三夜也、上達部着座、今夜無六十坏物、
帥記 永保元年4月21日 【禎子の御五夜儀】
帥記 永保元年4月23日 【禎子の御七夜儀】
帥記 永保元年6月16日 【禎子の御五十日儀】
 今日若宮(禎子)御五十日也、酉刻許參内、先參殿御宿所、<二條殿御上被薨云々、>先是宰相中將<(藤原)公實、>所候也、及昏殿下昇給、<此間新中納言、別當、左兵衛督(藤原家賢)、左京大夫(藤原公房)、左大辨(藤原実政)、三位中將(藤原公実)參入、先是春宮大夫(藤原実季)參入本宮御方、>其儀如常、<有上達部禄、又殿上人疋絹云々、>
水左記 永保元年8月2日 【禎子の御百日儀】
『水左記』
 今日今上第四姫宮(禎子)御百日云々、
水左記
為房卿記
永保元年8月10日 【禎子、内裏から四条宮へ移徒】
『水左記』
 今夜東宮(実仁親王)令入内給昭陽舎、來廿一日可有御元服之故也、博陸候■■車給云々、又今上第四姫宮(禎子)出自内給、參太皇太后宮(後冷泉后寛子)了、依是爲御子可被養也、兩大將(左大将藤原師通、右大将源顕房)被參云々、
為房卿記 永保元年8月27日 【皇女禎子の家司を補す】
十三代要略
一代要記
永保2年3月1日 【皇女禎子、内親王宣下】
『十三代要略』
(白河院皇女)
 禎子内親王<母同媞子。>
  永保二年三月一日。爲内親王。
為房卿記 永保2年3月25日 【禎子内親王、初めて入内】
為房卿記
一代要記
応徳2年8月25日 【禎子内親王に封三百戸】
堀河天皇
史料 年月日 記述
後二条師通記
中右記
寛治6年12月19日 【禎子内親王不例】
中右記 嘉保元年2月14日 【太皇太后(寛子)、禎子内親王不例】
本朝世紀
中右記目録
長秋記目録
兵範記
ほか
康和元年10月20日 【禎子内親王、准三宮並びに斎院卜定】
『本朝世紀』
 左大臣(源俊房)已下参入、被定行善子内親王<伊勢斎王>、禎子内親王、准三宮勅書事、左大将(藤原忠実)依重服無内覧事、勅書奏下了、大臣以下進弓場殿、被拝賀准后事、次還著仗座、有斎院卜定事<禎子内親王、今上同胞、太后(太皇太后寛子)被収養、今夜自枇杷第被渡清実大炊御門南京極西宅>、蔵人頭左中将(源)顕通朝臣為勅使、行事<権中納言(源)俊実、左少将顕隆、史>勅別当<権大納言(藤原)家忠、左馬頭師隆朝臣>次行事上卿、被定申奉幣大祓日時<来十[廿]三日可有両事>、又今日被始行事所<神祇官>
『長秋記目録』
 齋院卜定事、齋宮(善子)齋院(禎子)准后事、敕使事、御禊事、指榊事、禄給主殿司事、
『兵範記』(嘉応元年10月3日)
 先例康和元年枇杷殿斎院(禎子)卜定之時、四条宮(太皇太后寛子)御同宿有憚沙汰、太后入御宇治殿由有初見、今度申入其例、此沙汰也
本朝世紀 康和元年10月23日 【賀茂社へ奉幣使を定める】
 被立賀茂奉幣使、依斎王卜定事也、参議(源)師頼以下為使、又於八省東廊、有同由大祓事
中右記目録
朝野群載
康和2年3月27日 【左近衛少将藤原実隆を斎院別当に補す】
殿暦
中右記目録
長秋記目録
康和2年5月28日 【斎院御禊、初斎院(侍従厨)に入る】
『殿暦』
 今日初斎院御禊、申時許令入諸司給也、件諸[司]侍従厨云々、件厨無屋、而周防守経忠為重任不日作進、御禊公卿前駈宰相中将(源)顕通云々
『中右記目録』
 初斎院御禊、<入御諸司、>
長秋記目録 康和3年4月6日 【斎院、物忌により硯蓋・銀器を内裏に返上】
 自齋院被返上御硯蓋等於内事、齋院返上銀器等、依御物忌預藏人事、
中右記目録 康和3年4月7日 【斎院(禎子)御禊定のこと】
 斎院(禎子)御禊定、
長秋記目録 康和3年4月8日 【斎院(禎子)御禊前駈のこと】
(前略)御禊前駈雖着出居座、不献布施事、
殿暦
中右記目録
長秋記目録
年中行事秘抄
吉記
康和3年4月13日 【斎院(禎子)御禊、紫野本院に入る】
『中右記目録』
 初斎院御禊、<入野宮>
『長秋記目録』
 御禊儀、勤仕前駈、
長秋記目録 康和3年4月26日 【斎院(禎子)御禊口取禄】
長秋記目録 康和3年4月27日 【斎院(禎子)御禊車金文沙汰】
殿暦 康和3年7月2日 【斎院(禎子)御悩】
中右記目録 康和3年11月23日 【斎院(禎子)相嘗祭】
 斎院(禎子)相嘗御神楽、
殿暦 康和3年12月12日 【右大臣藤原忠実、斎院(禎子)御封を沙汰】
中右記 康和4年4月11日 【賀茂祭御禊前駈定】
殿暦 康和4年4月15日 【斎院女房装束を諸国に催す】
殿暦
中右記
康和4年4月22日 【斎院(禎子)御禊】
殿暦 康和4年4月23日 【斎院(禎子)御障あり】
殿暦
中右記
康和4年4月25日 【賀茂祭】
殿暦
中右記
康和4年4月26日 【斎院還御】
長秋記目録 康和4年11月11日 【斎院(禎子)御神楽】
 齋院(禎子)御神楽、不憚當月姙者、
中右記
重憲記
康和5年4月8日 【斎院(禎子)御禊前駈定】
殿暦 康和5年4月10日 【斎院(禎子)記事】
殿暦 康和5年4月19日 【忠実、斎院(禎子)御禊に御車牛の進献を辞退】
殿暦 康和5年4月20日 【御車牛の進献決まらず】
殿暦 康和5年4月21日 【内大臣源雅実、御車牛を進献】
殿暦
中右記
本朝世紀
康和5年4月22日 【斎院(禎子)御禊】
殿暦 康和5年4月25日 【賀茂祭、斎院(禎子)御悩】
中右記 康和5年5月2日 【斎院御所に穢、神事を停止】
中右記 康和5年10月16日 【源国信を斎院勅別当に補す】
中右記 康和6年1月20日 【斎院(禎子)夢のこと】
殿暦
中右記
玉葉
長治元年4月7日 【斎院の觸穢を軒廊御卜す】
中右記 長治元年4月10日 【賀茂社に奉幣、斎院の觸穢を奉告】
中右記 長治元年4月18日 【賀茂祭】
中右記 長治元年4月24日 【斎院神殿のことにより軒廊御卜】
中右記 長治元年4月24日 【斎院に盗賊、女房の衣を盗む】
殿暦
中右記目録
長治元年8月13日 【斎院(禎子)御悩】
中右記 長治元年10月7日 【斎宮・斎院(禎子)記事】
中右記 長治元年11月22日 【斎院(禎子)御神楽】
中右記 長治2年2月15日 【園・韓神祭延引。斎院(禎子)で穢れのため】
中右記 長治2年4月10日 【斎院(禎子)御禊前駈定】
中右記
殿暦
長治2年4月15日 【斎院(禎子)御禊】
中右記 長治2年4月18日 【賀茂祭】
永昌記 長治3年4月1日 【斎院(禎子)御禊準備】
中右記
永昌記
長治3年4月6日 【斎院(禎子)御禊前駈定】
永昌記 長治3年4月8日 【斎院の侍闘争】
永昌記 長治3年4月10日 【斎院(禎子)御禊前駈沙汰】
殿暦
中右記
永昌記
百錬抄
嘉承元年4月13日 【賀茂社焼亡】
永昌記 長治3年4月14日 【斎院(禎子)御禊前駈沙汰】
永昌記 長治3年4月17日 【斎院(禎子)御禊前駈未定】
中右記
永昌記
長治3年4月18日 【斎院(禎子)御禊延引を検討】
永昌記 嘉承元年4月20日 【斎院長官藤原長兼、次官敦遠等を蔵人所に召して推門】
中右記
永昌記
嘉承元年4月21日 【賀茂別雷社炎上の穢により、斎院(禎子)御禊を延引】
永昌記
殿暦
中右記
嘉承元年4月22日 【斎院(禎子)御禊】
永昌記 嘉承元年4月24日 【賀茂祭】
永昌記 嘉承元年4月25日 【斎院(禎子)還御】
永昌記 嘉承元年10月22日 【斎院(禎子)相嘗祭沙汰】
 爲御使始以退出參院、尊勝寺庄園公驗被納本寺事、明日御祈齋院相嘗等沙汰了、入夜歸參宿侍、
中右記
永昌記
嘉承2年4月2日 【斎院(禎子)御禊前駈定】
殿暦 嘉承2年4月4日 【斎院(禎子)御禊前駈のこと】
永昌記 嘉承2年4月8日 【斎院(禎子)御禊祭行事】
永昌記 嘉承2年4月11日 【斎院(禎子)御禊点地】
中右記
永昌記
嘉承2年4月17日 【賀茂祭】
永昌記 嘉承2年5月16日 【斎院長官に相折の相違を推問】
中右記
帝王編年記
嘉承2年7月19日 【斎院禎子、病により退出。同日堀河天皇崩御】
『中右記』
(前略)斎院(禎子)日者不例、今日危急、運命殆欲盡、卜筮所告退斎院吉也、仍亥時許、俄奉出長官長兼直盧、即有平愈[癒?]事、誠是神明不受歟。(中略)
斎王者興帝(堀河天皇)同母也、同日有此事(天皇崩御と斎院退出)、誠以希有也
『帝王編年記』
堀河院(中略)
 齋院 禎子内親王<同(白河法皇)第四皇女康和元年十月廿日卜定嘉承二年七月十九日依病退出>
鳥羽天皇
史料 年月日 記述
中右記 嘉承2年7月22日 【前斎院(禎子)、枇杷殿へ渡御】
殿暦
中右記
嘉承3年2月2日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
中右記 天仁元年7月10日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、五条京極房へ還啓】
殿暦 天仁2年6月24日 【落雷により、太皇太后と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
殿暦
永昌記
天永元年6月17日 【前斎院(禎子)、唐崎で御禊】
『永昌記』(6月24日条)
<辛崎御祓事、>
 今日上皇(白河法皇)以左中辨爲使、被申去十七日辛崎御祓毎事不請人々可令處勘者、近江致遠被下院廰、雅職廣房泰兼召籠、盛雅被立門前、仲兼隨追却、後又免雅職、召籠仲兼、國司懈怠御宿所鋪設用舊者、但無實云々、諸大夫等不取松明、任意前行者、
長秋記 天永2年10月15日 【仁和寺十種供養。前斎宮(善子)と前斎院(禎子)臨席】
殿暦
中右記
天永3年3月24日 【白河院六十の算賀。前斎院(禎子)出席】
 殿下於東三條可御覧御賀童舞也、仍今朝、殿下(藤原忠実)、并太后(寛子)、前斎院(禎子)、大北政所殿、已上渡給也、(後略)
長秋記 永久元年1月2日 【源師時、枇杷殿の大宮(寛子)・前斎院(禎子)に参上】
長秋記 永久元年6月29日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
中右記 永久2年6月24日 【前斎院(禎子)病悩、土御門亭へ渡御】
(前略)夜半前斎院(禎子)依御悩重、渡給内府(源雅実)土御門亭、日者御成信房之間、在南大将軍成祟云々、
殿暦 永久2年9月19日 【前斎院(禎子)御悩】
中右記 永久2年10月9日 【前斎院(禎子)不例】
(前略)今朝参院(白河法皇)、次参前斎院(禎子)、不例御坐也、(後略)
殿暦 永久2年10月22日 【前斎院(禎子)御悩】
殿暦 永久3年7月30日 【前斎院(禎子)御悩】
殿暦 永久3年8月6日 【前斎院(禎子)御悩】
中右記 元永元年1月2日 【藤原宗忠、太皇太后(寛子)御所に参上】
中右記 元永元年1月4日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
中右記 元永元年5月 【前斎院(禎子)令爵申文】
中右記 元永元年9月14日 【前斎院(禎子)渡御】
殿暦
中右記
元永元年閏9月22日 【太皇太后寛子、十種供養。禎子臨席】
長秋記 元永元年10月21日 【前々斎院(禎子)、梁園(輔仁親王邸)に渡御】
長秋記 元永元年10月22日 【斎院(禎子)、六条坊門に還御】
中右記 保安元年12月2日 【前斎院(禎子)御病】
中右記 保安元年12月8日 【前斎院(禎子)、右大臣源雅実の木我山荘へ移徒】
中右記 保安元年12月20日 【前斎院(禎子)、淀に方違】
中右記 保安元年12月26日 【前斎院(禎子)、淀に方違】
中右記 保安元年12月28日 【前斎院(禎子)、右大臣源雅実の土御門第に移徒】
崇徳天皇
史料 年月日 記述
中右記目録
皇代暦
天治2年10月17日 【前斎院(禎子)出家】
中右記 天治2年12月25日 【前斎院(禎子)、土御門第へ還御】
中右記 大治2年5月5日 【蔵人藤原隆能叙爵。前斎院(禎子)給爵による】
中右記 大治2年8月14日 【太皇太后藤原寛子崩御】
長秋記 大治3年1月 【禎子内親王給】
中右記
長秋記
大治4年3月12日 【前斎院(禎子?)土御門御堂供養】
中右記
長秋記
ほか
大治4年7月7日 【白河法皇崩御】
中右記 大治4年7月15日 【故白河院葬送。皇后(令子)・前斎院(禎子)・前斎宮(善子)ら、素服麻布を着用】
中右記 大治4年7月22日 【土御門前斎院(禎子)御悩重】
中右記 大治5年1月6日 【叙位。前斎院(禎子)申文】
中右記 大治5年9月28日 【前斎院(禎子)申文】
中右記
長秋記
百錬抄
大治5年11月8日 【前斎院(禎子)御所土御門高倉第焼亡】
『中右記』
 亥時図許当北有焼亡、下人云、前斎院(禎子)御所土御門高倉第也、是入道太政大臣(源雅実)宅所如法家也、先年彼相府有大饗、其後被進斎院、数年為御所、今夜焼亡、南至残了、是壊渡枇杷殿被成小堂也、斎院御坐南堂廊云々
『長秋記』
(前略)此間北方有焼亡、前々齋院禎子御所也、院御坐御堂輦御車程也、先是無一人、寄予車乘女房、御所已爲灰燼、御堂僅雖除、破損殊以甚、但以不焼爲善歟、此後別當右衛門督(源雅定)左大辨等參、經數剋退出、
『百錬抄』
 前斎院<禎子。>土御門第焼亡。<故入道大相國(源雅実)第也。>
中右記
長秋記
大治5年12月3日 【前斎院(禎子)五十講結願】
中右記 天承2年1月8日 【前斎院(禎子)申文】
中右記 長承元年12月25日 【前斎院(禎子)申文】
近衛天皇
史料 年月日 記述
本朝世紀
重憲記
天養元年12月17日 【大外記中原師安に、禎子内親王年爵申文の事を勘申させる】
兵範記 仁平3年9月16日 【新宰相藤原兼長、慶賀を申す。両前斎院(禎子・統子)へ参上】
兵範記 仁平3年9月18日 【従二位藤原師長、慶賀を申す。東山前斎院(禎子)・白川前斎院(統子)へ参上】
兵範記 仁平3年閏12月27日 【権中納言右中将藤原兼長、慶賀を申す。白川前斎院(統子)・東山前斎院(禎子)へ参上】
兵範記 仁平4年8月21日 【右大将藤原兼長、慶賀を申す。東御堂御所に参上、前斎院(統子)に言上。東山前斎院(禎子)に参上】
兵範記 久寿元年11月13日 【権中納言藤原師長、慶賀を申す。枇杷前斎院(禎子)、白河前斎院(統子)に参拝】
後白河天皇
史料 年月日 記述
兵範記 久寿2年10月23日 【(後白河天皇)御即位叙位。禎子内親王御給、統子内親王御給】
兵範記
帝王編年記
一代要記
ほか
久寿2年10月26日 【後白河天皇即位式】
兵範記 久寿2年11月5日 【女叙位。統子内親王御給、禎子内親王御給】
兵範記 久寿2年11月22日 【大嘗会叙位。禎子内親王未給】
山槐記
兵範記
一代要記
久寿3年1月5日 【前斎院禎子内親王薨去】
『山槐記』
(前略)枇杷殿前齋院(禎子)今曉薨御云々、
『兵範記』
(前略)今日枇杷殿前齋院(禎子)、令薨逝給了、御邪氣云々、御年七十六、故白川院皇女、四條宮(藤原寛子)猶子、宇治殿(藤原頼通)御物并庄園多令相傳給、而此後如何、歿後事、中院右府入道(源雅定)御沙汰云々、
『一代要記』
(白河天皇)
 皇女 愼子内親王(中略)
 保元元年三月九日薨七十六、于時坐法住寺御所
(堀河天皇)
 斎院 禎子内親王(中略)
 保元元年正月五日薨年七十六、號土御門斎院


史料 記述
一代要記

白河天皇
皇女 愼子内親王 永保二年三月一日為内親王、二歳、
応徳二年八月廿五日給別封三百戸、
承徳元年十一月十四日准三后、
保元元年三月九日薨七十六、于時坐法住寺御所

堀河天皇
斎院 禎子内親王 白河院三女、永保二年三月一日為内親王、二歳、
応徳元年十一月十四日准三宮、
保元元年正月五日薨年七十六、號土御門斎院

賀茂斎院記

禎子内親王
白河院第九皇女也。母同令子。
康和元年卜定。
号土御門斎院。

栄花物語
(39・布引の滝)

【禎子内親王誕生】
 中宮(白河后賢子)には、このたび女宮(禎子)にておはします。四条宮(後冷泉皇后寛子)に、つれづれにおはしますにとて渡したてまつらせたまひつ。

栄花物語
(40・紫野)

【四条宮寛子と禎子内親王の様子】
 四条宮(後冷泉皇后寛子)も宇治に御堂(みどう)建てて通ひ住ませたまふ。故中宮(白河后賢子)の姫宮一所(禎子)は、この宮におはします。かしづきたてまつらせたまふさまおろかならず。(中略)

 一院(白河院)の姫宮(令子内親王)、殿におはします、斎院にゐさせたまひぬ。いと華やかにめでたき御有様なり。
定まらせたまひなば御対面難(かた)かるべければ、院に渡らせたまふ。四条宮の姫宮(禎子)も渡らせたまふ。若き人々、薄物、綾、かとり(※)の単襲(ひとへがさね)の色々なるに、裳、唐衣などめでたくをかしう、花の色々を織りつくして十人、さらに大人などは織りたる五重なる三重なる、浮線綾など着たるもあり。四条宮の姫宮の御方にも四人ばかりぞさぶらはせさせたまふ。かたち、有様心ことに選らせたまへり。斎宮(媞子内親王)の御方もおろかならんやは。院いづれもおろかならず見たてまつらせたまふ。

※「かとり」=糸偏に兼。絹を固く織った平織りの布地のこと。
 字はこちらを参照(字源)。

新古今和歌集
(巻8・哀傷)

 禎子内親王かくれ給ひて後、悰子内親王(27代斎院)かはりゐ侍りぬと聞きてまかりてみれば、何事もかはらぬやうに侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて女房に申し侍りける、中院右大臣(源雅定)

  ありす川おなじ流はかはらねど見しや昔のかげぞ忘れぬ

今鏡
(7・有栖川)

 また土御門の斎院と申して、禛子内親王と申すおはしき。その斎院は、常に法(のり)の筵(むしろ)などひらかせ給ひて、法文のことなど、僧参りあひて、尊きことども侍りけり。(源)雅兼入道中納言など参りつつ、もてなし聞え給ひけるとかや。
 歌なども、人々参りて詠む折も侍りけり。「水の上の花」といふ題を、時の歌詠みども参りて詠みけるに、女房の歌、とりどりにをかしかりければ、木工頭(むくのかみ)俊頼も席(むしろ)につらなりて、
「この歌は、囲碁ならば互先(かたみせん)にてぞよく侍らむ」など、とりどりに誉められけるとぞ。その一人は、堀河の君(待賢門院堀河)とて、(源)顕仲伯の娘のおはせし歌、

  雪と散る花の下行く山水のさえぬや春のしるしなるらむ

また、

  春風に岸の桜の散るままにいとど咲きそふ浪の花かな

このほかも聞き侍りしかど、忘れにけり。入道治部卿(雅兼)の「嵐や峰をわたるらむ(花さそふ嵐や峰をわたるらむ桜波よる谷川の水)」と詠み給ふ、そのたびの歌なり。白河院、歌ども召し寄せて、御覧じなどせさせ給ひけり。
 一院(いちのいん=白河院)の御娘なればにや、ことのほかにあるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房、中臈になりぬれば、みづから侍に物いひなどはせざりけりとぞ聞え侍りし。
 この斎院(禎子)かくれさせ給ひて後、そのあとに、堀河の斎院(27代悰子)つぎて住み給ひけるこそ、昔思し出でて、中院の入道大臣(源雅定)詠み給ひける、

  有栖川同じ流れと思へども昔のかげの見えばこそあらめ



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