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18代斎院 娟子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
けんし きよこ
(または「うるわしこ」か)
一品
両親 生年月日 没年月日
父:後朱雀天皇(1009-1045)
母:皇后禎子内親王[陽明門院]
  (1013-1094,三条皇女)
長元5年(1032)9月13日 康和5年(1103)3月12日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
後朱雀(1036~1045,父) 卜定:長元9年(1036)11月28日
   (源道成宅)
初斎院:長暦元年(1037)4月13日
   (右近衛府)
本院:不明(長暦2年(1038)4月?)
退下:寛徳2年(1045)1月18日
   (または1月16日?)
天皇(父)崩御?(または譲位)
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
良子(1030-1077,同母姉) 卜定:長元9年(1036)11月28日
初斎院:長暦元年(1037)4月3日
   (大膳職)
野宮:長暦元年(1037)9月1日
群行:長暦2年(1038)9月11日
   (長奉送使:藤原資平)
退下:寛徳2年(1045)1月16日
天皇(父)譲位

略歴:
 長元5年(1032)(1歳)9月13日、誕生。
 長元9年(1036)(5歳)4月17日、父後朱雀天皇践祚。(7月10日即位)


7月10日、後朱雀天皇即位。


11月28日、後朱雀天皇の斎院に卜定。(当時は女王)


12月5日、内親王宣下。
(卜定、宣下共に同母姉良子内親王(斎宮)と同時)


12月20日、着袴。
 長暦元年(1037)(6歳)4月13日、初斎院(右近衛府)入り。
 長久3年(1042)?(11歳)一品。
 寛徳2年(1045)(14歳)1月16日、後朱雀天皇譲位、異母兄後冷泉天皇践祚。

1月18日、父後朱雀上皇崩御。

同月、斎院退下。(父帝の譲位または崩御による)
 天喜5年(1057)(26歳)源俊房と密通。9月、俊房に降嫁。
 康和5年(1103)(72歳)3月12日、薨去。

号:狂斎院
同母兄弟:良子内親王(1030-1077,斎宮,一品)
     後三条天皇(1034-1073)
夫:源俊房(1035-1121,いとこおじ)

後朱雀天皇第二皇女。
 母禎子内親王は、父後朱雀天皇の従兄妹。
 (※後朱雀の母・上東門院彰子と禎子の母・妍子が姉妹)
 19代禖子内親王、20代正子内親王の異母姉。
 夫源俊房は、父後朱雀・母禎子双方の従兄弟にあたる。

      藤原道長
       |
       ├────┬────────────┐
       |    │            │
 源師房===尊子   彰子=====一条天皇  妍子===三条天皇
     |    [上東門院] │           │
     |      ┌───┴───┐       │
     │      │       │       │
     │    後一条天皇   後朱雀天皇=====禎子
     │                   │ [陽明門院]
     │         ┌───┬─────┤
     │         |   │     │
    源俊房=======◆娟子  良子  後三条天皇
                   (斎宮)

 小右記によれば、娟子内親王の誕生は非常な難産であったという。
 娟子内親王の本院入りに関する記録は残っていないが、長暦元年4月13日に初斎院入りしたことは判っている。このことから、翌長暦2年4月の賀茂祭の頃に入御したものと思われる(『春記』(長暦2年11月12日条)の斎院で神楽が奏された記録に「於神殿前庭有此事」とあり、この頃既に斎院娟子は紫野本院にいたことが判る)。

 平安中期頃から、今上天皇の娘たる内親王が斎宮・斎院となる例は減少しており、同母姉妹の同時卜定は当時極めて稀であった。しかも后腹の皇女が同時に卜定されたのは、斎宮・斎院史を通じてもこの良子・娟子の二人が唯一の例である(※母禎子内親王が立后したのは翌年2月13日だが、当時後朱雀の唯一の正妃として既に立后が内定していたと見てよかろう)。なお先代後一条天皇の時には、次女の馨子内親王が中宮威子所生ながら斎院とされたが、長女の章子内親王はついに斎王には選ばれなかった。
 にもかかわらず、後朱雀の嫡出長女・次女である良子・娟子の二人を敢えて斎宮・斎院としたのは、禎子内親王と折り合いの良くない頼通らの圧迫であったとする説がある。良子・娟子の卜定が生母禎子内親王の立后前であり、しかも両名の内親王宣下よりも先だった点も、異例の「后腹内親王の卜定」を避けようと急いだためとも考えられる。
 ただし当時、良子・娟子以外で斎王未経験だった章子内親王(後一条皇女、11歳)は既に一品であった。また嫄子女王(敦康親王女、21歳)も関白頼通の養女(つまり皇族ではなく藤原氏)として後朱雀の女御代となり、12月には入内が確定していたらしい(『範国記』長元9年12月10日条)。このため当時、他に候補となる未婚内親王がいなかったのも理由のひとつであろう(※なお小一条院の娘が二人いたと思われるが、長女栄子内親王?は当時消息不明、次女儇子内親王は藤原信家との結婚が決定していた可能性が高い)。

 なお父天皇の崩御により退下した斎院の例は多いが、天皇譲位で退下した可能性があるのは、2代時子と娟子の二人のみである(26代官子も鳥羽天皇譲位により退下とされるが、『中右記』(大治2年4月6日条)に官子を鳥羽・崇徳2代の斎院とする記述があり、崇徳天皇践祚後の退下と思われる)。ただし娟子の父後朱雀天皇の譲位から崩御まではわずか二日で、しかも当時の史料による記録は存在しない。さらに当時天皇譲位では斎院は退下しないのが慣例であったと見られるため、父上皇崩御による退下であった可能性が高いと思われる(『重憲記』は「寛徳二年正月十六日、退斎居」とするが、この「居」が「宮」の誤りだとすれば、姉の斎宮良子と誤ったことになる。また『一代要記』は譲位による退下とするが、後世の史料で誤りもたびたびあることから信頼性はやや低い。なおさらに時代は下るが、『皇代暦(歴代皇紀)』は「退之依上皇崩御也」としている)。
 ともあれ、次の19代禖子内親王(娟子の異母妹)が卜定されたのは娟子退下から1年以上後の諒闇明けであった(※なお諒闇は通常「天皇の父母の喪」を指すが、それ以外に「父母に準じる人物」に対しても服喪した例もある)。
※娟子内親王の斎院卜定(並びに姉良子内親王の斎宮卜定)は、非常に珍しく先帝崩御と同年に行われている。
 平安中期以降、先代斎王が天皇・上皇崩御により退下した場合は、退下から一年以上後に(=諒闇が明けてから)新斎王を卜定した例が殆どである(これは新斎王が故先帝の娘の場合に限らず、異なる皇統の皇女・女王でも同様だった)。ただし新帝後朱雀にとって、故先帝後一条は父ではなく兄であったので、三条天皇の時には父冷泉院崩御で翌年延期となった大嘗会が年内に行われている(後冷泉天皇崩御・後三条天皇即位の際も同様)。よって後朱雀の娘(即ち後一条の姪)である良子・娟子姉妹の卜定も、年内で差し支えなかったものと思われる(※なお後一条崩御の時も「諒闇」はあったが、後一条が崩御した長元9年4月17日から二ヶ月後の6月20日には既に明けていたことが『左経記』等から判っている)。

 斎院退下後、娟子は源俊房と密通した。これより約40年前にも、前斎宮当子内親王(三条天皇皇女)と藤原道雅の密通事件があったが、娟子は何と母皇太后禎子内親王の御所を出奔して大騒動となり、「狂斎院」と仇名される。この前代未聞の不祥事は、特に同母弟の東宮尊仁親王(のちの後三条天皇)を激怒させた。
『栄花物語』巻37「煙の後」には、尊仁が怒りのあまり俊房への厳しい処罰を望み、また母禎子にも姉娟子との文のやり取りを禁じたことや、一方で姑の尊子(俊房の母。道長女、母は源明子)が娟子を大切に世話したこと等が記されている。のち二人は許され、娟子は正式に俊房室となるが、子女はなかった。


【娟子内親王の名前のこと】
「娟子」の名前の読みについては、藤本孝一氏が『範国朝臣記(範国記)』(長元9年11月28日条)に「二宮御名娟子、読麗」と記載のあることを指摘、恐らくは「うるわしこ」であろうと考察している。また娟子の姉・斎宮良子内親王についても「一宮御名良子、読長」とあり、こちらは香淳皇后(良子女王)と同じく「ながこ」で間違いなかろう(※『平安時代史事典』は良子・娟子共に「よしこ」としているが、異字とはいえ姉妹で同訓の名は不適当と思われる)。このように訓読みの判っている女性名は、この時代皇族でも非常に稀で貴重な例である。

関連論文:
・藤本孝一「内親王名の附け方と読み方」
 (『日本歴史』(648, p92-93, 2002)初出、『中世史料学叢論』(思文閣出版,2009)収録)
※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
・「女性に名前をたずねるなんて…」(斎宮歴史博物館)
・「良子の妹、賀茂斎院・娟子内親王」(斎宮歴史博物館)
・「範国記」(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ提供)
 [image 053]に長元9年11月28日条あり





後一条天皇
史料 年月日 記述
小右記
日本紀略
長元5年9月13日 【東宮第二王女(娟子)誕生】
『小右記』
 東宮御息所一品禎子戌時産女子(娟子)、夜闌中納言(藤原資平)従彼宮来云、難産、適被遂、不着座帯出、
『日本紀略』
 東宮妃一品内親王産生第二女子(娟子)。去四月。渡坐少納言橘義中御門宅。
小右記 長元5年9月15日
【娟子産養】(9月16日条)
 昨一品宮(禎子)産養、関白(藤原頼通)被用意、参會卿相、<関白、内府(藤原教通)、大納言(藤原)頼宗、(藤原)能信、(藤原)長家、中納言(藤原)実成、(源)師房、(藤原)経通、(藤原)資■[平]、(藤原)定頼、参議(藤原)兼経、(源)朝任、(藤原)兼頼、(藤原)公成、(藤原)重尹、(源)経頼、>有攤興云々、

※■は縦線
小右記 長元5年9月18日
【娟子五夜産養】
 去夜事当中納言(藤原資平)、報云、本宮所被儲也、上達部殿上人禄有差、饗饌如常、関白(藤原頼通)、内府(藤原教通)、大納言三人、<(藤原)頼宗、(藤原)能信、(藤原)長家、>中納言五人、<(藤原)実成、(源)師房、(藤原)経通、(藤原)資平、(藤原)定頼、>参議六人、<(藤原)兼経、(源)朝任、(藤原)兼頼、(藤原)公成、(藤原)重尹、(源)経頼、>廿日作人文云々、
小右記 長元5年9月19日
【娟子七夜産養】
 今日東宮(敦良親王)御産養云々、中納言依多武峯物忌不参、宰相中将(藤原兼頼)云、諸卿禄大褂、本宮加児衣襁褓等歟、中将録加襁褓、参入卿相、内府(藤原教通)、大納言(藤原)齊信、(藤原)頼宗、(藤原)能信、(藤原)長家、中納言(藤原)実成、(源)師房、(藤原)定頼、参議(源)朝任、(藤原)兼頼、(藤原)公成、(藤原)重尹、(源)経頼、無和歌之興、有擲采之戯云々、
小右記 長元5年11月2日 【娟子御五十日儀】
 宰相中将(藤原兼頼)同車参内、依東宮(敦良親王)一品王子五十日事、待賢門内執続松、少納言資高迎来春花門、参宣耀殿、<件殿一品宮(禎子内親王)直廬、>関白(藤原頼通)<左大臣、> 内大臣(藤原教通)、并諸卿在饗座、予未到彼殿之門[間?]、中納言(藤原)資平迎来、就食勧盃、太如在也、東宮渡給、母宮(禎子内親王)并王子(娟子)前物等、殿上人執之、只三人廻之後、陪膳宰相中将(源)顕基、左兵衛督(藤原)公成、
亥時羞王子餅、関白起座参簾中、依其事歟、良久之後巻御簾、東宮出給、数圓座簀子、先関白候座、召男等、大進(藤原)隆佐参入、召諸卿、余先参入、次内府已下皆着座、々席狭、下﨟候殿上、給衡重、次敷伶人座於庭前、<自御前在東方、>供御前、<懸盤六基、蘇芳螺鈿打敷云々、>右兵衛督(源)朝任陪膳、解剣置笏、須指笏於腰底者也、失也、次召伶人、笙者横笛二人、無唱哥人、亦無絲絃、極見苦、大納言(藤原)能信和琴、拍子(藤原)中納言実成、唱哥大納言(藤原)齊信、(藤原)頼宗等也、今夜御遊不似往昔、不異狄楽、可類蝦遊、和琴唱歌極不便也、不[盃?]酒二巡之後給禄有差、大臣女装束、已下褂袴歟、不慥見、伶人禄白褂、可給疋絹歟、殿上人禄不見、可尋、参入諸卿、左大臣、余(右大臣藤原実資)、内大臣、大納言齊信、頼宗、能信、(藤原)長家、中納言実成、(源)師房、資[平]、参議(藤原)兼経、朝任、(藤原)兼頼、顕基、公成、(藤原)重尹、(源)経頼、子夜事了、
後朱雀天皇
史料 年月日 記述
左経記
(類聚雑例)
長元9年7月6日 【皇女(良子)等、先帝(後一条)の御服】
 及子二刻今上女一宮皇子(良子内親王)、於北陣外被着故院(後一条天皇)御服云々、
範国記
扶桑略記
長元9年11月28日 【斎宮(良子)、斎院(娟子)卜定】
『範国記』(京都大学所蔵。以下同)
 有斎宮斎院卜定事、豫仰大学頭義忠朝臣、令勘申二宮御名字、左頭中将(藤原兼頼)持参、殿下御覧、被奏、<一宮御名良子、良字読長、二宮御名娟子、読麗>
『扶桑略記』
 良子女王為斎宮。娟子女王為斎院。
範国記 長元9年12月5日 【斎宮良子・斎院娟子、内親王宣下】
(前略)還御之後、斎宮(良子)斎院(娟子)被下可為親王之宣旨。<良子娟子可為親王書一帋下之>外戚公卿等参御在所令奏慶賀。一宮(親仁親王)始入御。殿上人奉仕御前。

※帋=紙の異体字。
範国記 長元9年12月20日 【斎院(娟子)神殿に入御。同日著袴】
(前略)斎宮(良子)斎院(娟子)始入御神殿。斎院今日令着御袴給。有時定無御儲只刻限令着御袴許給也。
範国記 長元9年12月22日 【親仁、尊仁、斎宮良子、斎院娟子に別封】
(前略)次被下一二宮親王宣旨、<書加懸帋或人云親仁一宮尊仁二宮、>義忠勘申之一宮、<藤大納言、>二宮、<右兵衛督(源隆国)、>齋宮齋院被奉別村各三百戸、<但宣旨詞良子娟子嫡子内親王、娟子内親王 所稱也、>
行親記 長暦元年2月8日 【禎子内親王、斎院に行啓】
『行親記』(2月9日条)
 今日一品宮(禎子内親王)従斎院(娟子)渡御斎宮(良子)、即還御云々、昨夜渡御斎院也
行親記
年中行事秘抄
長暦元年4月13日 【斎院(娟子)御禊、初斎院入り】
『行親記』
 斎院御禊、<従[源]道成朝臣宅、入御右近衛府、>従一条大[傍書]路東行給、還御之時自二条大路西行、従東大宮北行、従一条大路御右近府、御前左大弁(藤原重尹)、左衛門佐(源)経季・尉(藤原)章経、右衛門佐貞孝、左兵衛佐代兵庫頭業任・尉、右兵衛佐(源)朝棟・尉、次■[第?]使右馬助親清、行列使左馬允顕輔、所衆六人、院別当左馬頭(藤原)良経朝臣等也、行事右衛門督(藤原資平)<中宮大夫(藤原長家)依有服親被改定、>無宰相、今日供奉人無雑色、所衆等間有雑色、 典侍候矣、
『年中行事秘抄』
 四月 初斎院御禊年雖八日不當神事灌佛停止●
 長暦元年。寛治四年例也。<近代多雖不當神事。初齋院年停止。>
 經頼記云。長暦元年四月三日。齋宮良子。入大膳職。同八日雖不當神事。依伊勢賀茂齋院禊無灌佛。同十三日丙辰。齋院娟子。入右近府。

●=㕝(古+又。事の異体字。こちらを参照(字源))
春記 長暦2年11月12日 【神楽を斎院(娟子)に奏す】
(前略)今夕於斎院有御神楽、是公家所被行也、但其事有先例、又雑事等彼院所行也、
晩頭<直衣>参斎院、(藤原)行経、(源)実基、(藤原)経季、(源)資綱、(藤原)良経、(源)経成、(藤原)定房等参入、有杯饌事、事畢雑興云々、少時有御神楽、於神殿前庭有此事、孝義朝臣、信頼、資範、自餘有障不参云々、近衛司男共又候之、殿上人或束帯或宿衣参入、但非色掌并垣下、垣下院司役殿上人、南階東掖庭敷畳祇候、為見物也、
亥刻許事畢、各々分散、予退私、(後略)
春記 長久元年4月22日 【斎院(娟子)御禊】
 齋王(娟子)御禊日也、早旦參關白(藤原頼通)殿、適拝謁申承今日事等、雖非指事、是例事等也、内府(藤原教通)以將曹時國被仰云、府粮二百石、讃岐國司進濟也、而諸家下部等檢封之、不令下行由云々、早可申關白者、即申殿下、被仰云、太不便事也、早奏事由、仰上卿可下遣史部者、予即參内奏此由了、遣仰藤中納言已了者、即仰藏人了、良久申可參入由、而及數刻不參入、仰云、被景漸欲闌、不可默止、件扇等汝只以書状可送(藤原)良經許、被院者依仰以書状奏遣了、御扇一枚、女房料廿枚、童女料四枚也、太以美麗也、尤過差也、就中童料太以遷駕也、已非王事歟、差小舎人送良經朝臣許已了、及午時所雜色等不參、頻遣催仰、未二刻許、御覧肥牛等、其儀如御馬御覧也、予先候御前、即令引牛等、第一牛<關白牛御車料也、先是行事藏人申事由、>出納引之、近江肥牛五頭、山城肥牛五頭等、小舎人<皆着衣冠也、件牛等兼以所牒所召也、>引之、三廻後引出了、可遣齋院之由仰了、申一刻許藏人所雜色一人衆四人參入、雜色今一人不參、仰云、日已暮、先只可御覧者、予即參御前、如御馬御覧也、少時雜色已下合五人、<本數六人也、>入自瀧口戸、列居御前庭中、<西上北面、随御前儀也、>又仰可向南之由向了、予仰云、馬取<天>參來、<まうこ、>各退出、少時各引乘馬<此度雜色今一人參、合六人也、>參入、<雜色節頼、兼宗、時任、衆恒、定致、■任、助光、>兩三廻後仰云、罷乗<れ>各騎了、但兼宗馬遷駕不能騎乘、仍召右將曹令取騎之了、一兩廻了、仰云、罷下、<與>即下了、仰云、早可參齋院、各退出了、予即退出、參齋院、<經一條大路、>此間女房等乘車云々、天陰欲雨、于時申三點許歟、即寄御車、予等着御車、上達部殿上人多以參入、殿上人依仰所催也、乘御車了、予(源)實基同乘見物、人々從者皆如法、多有染色、不遑記、相從參河原院、皇后宮大夫(藤原能信)、右衛門督(藤原資平)等參入、殿上人又如之、御禊後予參内、于時戌刻許也、參御前申今日事、依陪膳不候、予勤兩度陪膳、宿侍、今夜不雨、
春記 長久元年4月25日【賀茂祭】
 賀茂祭候女房陪膳、仰云、今日早可催藏人所御前也、予令仰藏人章行催之、今日不御覧肥牛、只御覧所前駈也、今日着麹塵也、午刻許右頭中將(藤原)信長參入、予奏事由、相替退出、是早爲參齋院也、早旦送摺袴於使少將許了、予退私、未時許到祭使許、左少將基家出立左大辨經輔大炊御門家也、先是舞人陪從等着座也、新宰相修理大夫(藤原経任)在之、二獻巡行間也、予即退出、參齋院、皇后宮大夫(藤原能信)被參候、行事殿上人多々參候、申時許事成了、寄御輿、予(源)實基同乘見物、申三點許齋王(娟子)渡御也、内藏寮仲康、近衛府使少將基家、后宮使少進資國、春宮使亮隆佐、山城介爲行、齋院長官章經等也、件等人々從者裝束、或有染色、但其衣員皆如制也、使々車等殊無過差風流也、女房車等如例、但衣員減定云々、次第使馬允政則云々、女使典侍<藤芳子、>云、糸毛車可在齋院車次、仍可在彼出車上也、爲之如何、予云、専不然事也、有内侍前駈、是例事也、何可次齋院糸毛車哉、尤無由事也者、仍渡了、見物了、予即營歸解脱、着宿衣騎馬、<頼資馬也、定成、爲恒在共、>參下御社、爲供奉齋王御共也、此間齋王御坐假屋也、先是皇后宮大夫、右衛門督(藤原資平)、左宰相中將(藤原兼頼)參候、又殿上人十許人參候之、少時乘御輿參給御社了、女房供奉御奏幣之後歸給、乘移御車、參給上御社、殿上人等執炬火前駈、予同供奉、儀式同下御社、但齋王下御云々、良久之事了、又歸給神館、殿上人等又供奉之、此間左少將經季爲勅使參入也、下御了、予等即歸蓬戸、近習人々留候也、于時及五更、心神太辛苦、(後略)
春記 長久元年4月26日【賀茂祭(還立)】
 巳時許參内、仰云、夜來之動静如何、此由參向神館可傳示者、即參神館、以仰旨令女房傳申了、先是上達部殿上人多參候之、有饗饌、未時許使々參入、申初許有歌舞、此間予(源)實基相共同乘車、於紫野見物了、又參齋院、上達部殿上人參入、近衛司使參入供歌舞了、敷庭前座、使々參着之、有酒肴事、漸了間予退出、參内奏復命、(中略)
而賀茂祭以前奏不行、至于今過畢、何日可行哉、可示關白者、參彼殿以源大納言(師房)令申案内、被奏云、承了、(後略)
春記 長久元年12月20日 【除目】
 今日京官除目也、(中略)
關白(藤原頼通)仰云、諸宮内官當年給早可進之由可仰宰相中將者、予仰之、被申齋院(娟子)并皇后宮(禎子内親王)(禎子内親王)前齋院(馨子)御給名簿未被進者、予申此由、被命云、除目已欲了、(後略)
一代要記 長久3年? 【斎院二品娟子内親王、一品に昇叙】
 長久■年■月■日叙一品

※同母姉良子内親王が同年6月24日一品(『一代要記』)なので、娟子はそれ以降か。
本朝世紀
一代要記
寛徳2年1月16日 【父後朱雀天皇譲位、斎宮(良子)・斎院(娟子)退下】
『本朝世紀』(康和5年3月4日条)
 前斎院娟子内親王薨去(中略)
寛徳二年正月十六日退斎居。
『一代要記』
 娟子内親王、(中略)寛徳二年正月十六日退之
後冷泉天皇
史料 年月日 記述
扶桑略記
百錬抄
ほか
寛徳2年1月18日 【父後朱雀上皇崩御】
『扶桑略記』
 太上天皇(後朱雀)春秋卅七。於東三条第崩。
『百錬抄』
 太上天皇(後朱雀)落餝入道。即刻崩于東三条院。<卅七。>葬高隆寺乾原。安御骨於円教寺。
(※娟子の斎院退下は後朱雀の崩御によるか?)
一代要記
ほか
天喜5年9月 【源俊房に降嫁】
『一代要記』
 天喜五年九月適参議左中将源俊房卿
百錬抄 康平3年12月11日 【参議源俊房、勅勘を免ぜられる】
 宰相中將(源)俊房被免勅勘。依前齋院<娟子。>強奸事。此一兩年籠居。
白河天皇
史料 年月日 記述
扶桑略記
ほか
延久5年5月7日 【同母弟後三条院崩御】
『扶桑略記』
 太上天皇(後三条)春秋四十崩。
水左記 承保4年8月26日 【同母姉良子内親王薨去】
 此日一品良子内親王早世、<年卅九、>是依疱瘡也、後朱雀院第一皇女也、母陽明門院(禎子内親王)
扶桑略記
ほか
永保2年12月9日 【大納言源俊房、右大臣に昇任】
『扶桑略記』
 大納言(源)俊房任右大臣。年四十八。前太政大臣(源)師房朝臣一男也。母入道大相国(藤原)道長女(尊子)也。
扶桑略記
ほか
永保3年1月19日 【右大臣源俊房、左大臣に昇任】
 右大臣源朝臣俊房任左大臣。(後略)
堀河天皇
史料 年月日 記述
中右記 寛治7年11月28日 【娟子内親王、父後朱雀院のために観音像を造立】
(前略)今日左府(源俊房)醍醐堂供養也、(中略)
件堂安置等身正觀音像一躰・兩界曼陀羅、後聞、前朱雀齋院(娟子内親王)爲後朱雀院御被建立也、後朱雀院正月十八日御國忌也、仍爲彼菩提造立觀音造云々、但無願文、是有由緒也、左府偏營了、
中右記
扶桑略記
ほか
寛治8年1月16日 【母陽明門院(禎子内親王)崩御】
『中右記』
(前略)今夜子時許、陽明門院崩于鴨院、<是依疱瘡也、御年八十二、>
禪定仙院者、諱禎子、三條院第三女、母皇太后藤妍子、入道太相國(藤原道長)之女也、長和二年七月六日誕生、同十月爲内親王、同四年准后、治安三年一品、万壽四年入東宮、<十五、>長元十年爲中宮、同三月皇后、寛治[徳]二年落餝、永承六年爲皇大[太]后、五年稱陽明門院、在后位卅三年、院号後廿六年、爲當時太上皇(白河院)祖母、養中宮(篤子内親王)爲子、(後略)
『扶桑略記』
 陽明門女院禎子崩。年八十五。三条天皇御女。後朱雀院后。後三条天皇之母儀矣。赤疱瘡所害也。
中右記
重憲記
殿暦
康和5年3月12日 【娟子内親王薨去】
『中右記』
 今日未時許、左大臣(源俊房)室家前斎院卒去云々、斎院名娟子、後[朱]雀院女、母故陽明門院(禎子内親王)也、往年成左大臣妻、已送多歳、今日已卒去<年七十二云々>
『重憲記』
 前斎院娟子内親王薨、内親王者後朱雀天皇第二女、母陽明門院(禎子内親王)也、長元五年九月十三日誕于中宮大進橘義通朝臣宅、御産以前、自東宮以少進則経為使被献紅御袴一腰、是有由緒云々、
九年十一月廿八日卜定賀茂斎王、時年五也、
十二月六日勅為内親王、外戚卿相等進弓場奏慶之由、
長久■[三]年■月■日、授■[一]品、
寛徳二年乙月十六日退斎居、
天喜五年九月偸降嫁参議左近中将源俊房卿、世以為不可、
薨時春秋七十二、予依召参左府殿(源俊房)、仰云、
来十八日可有斎院御葬礼、公家御衰日不可憚歟、又薨葬如何、申云、親王以下御送葬、強不可被避公家御衰日歟、又六条前斎院(禖子内親王)薨時無薨奏、今度事可随仰者、
『殿暦』(3月15日条)
 去此左府(源俊房)北方前齋院(娟子)入滅、件人院(白河院)の御をは(伯母)なり、

※『重憲記』は平田俊春『私撰國史の批判的研究』(国書刊行会、1982)による。
(長久年間の叙品記事に関する註は、『大日本史料』を参照とした)
重憲記 康和5年3月18日 【娟子葬送』
 左大臣(源俊房)御室前斎院(娟子)御葬送也、今日公家御衰日也、不被沙汰、可然云々、
重憲記 康和5年3月22日 【中宮篤子内親王、伯母娟子薨去に服喪】
 是日中宮(篤子内親王)著御服給、依前斎院(娟子)事也、
重憲記 康和5年4月30日 【娟子法事】
 是日、左大臣殿(源俊房)故斎院御法事也、


史料 記述
一代要記

後朱雀天皇
斎院 娟子内親王 帝二女、長元九年十一月二八日為賀茂斎、年五歳、
同十二月五日為内親王、長久■年■月■日叙一品、
寛徳二年正月十六日退之、天喜五年九月適参議左中将源俊房卿

賀茂斎院記

娟子内親王
後朱雀院第三皇女也。母禎子内親王。<号陽明門院。>三条院女也。
長元九年十一月卜定。其後配堀河左大臣俊房。号狂斎院。

栄花物語
(31・殿上の花見)

【娟子内親王誕生の頃】
 東宮(敦良親王=後の後朱雀天皇)には、一品宮(東宮妃禎子内親王)の御腹に姫宮二所(良子、娟子)おはしませども、それは疎くて(離れてお住まいなので)見たてまつらせたまふことなし。

栄花物語
(33・きるはわびしとなげく女房)

【娟子内親王の幼少時】
(後朱雀天皇の)二の宮(尊仁親王)は、一品宮(皇后禎子内親王)の御腹に三つばかりにておはします。女一宮(良子内親王)は斎宮に、女二宮(娟子内親王)は斎院にゐさせたまふべしなど聞ゆ。

栄花物語
(34・暮まつほし)

【娟子内親王、斎院に卜定】
 皇后宮(禎子内親王)陽明門院におはします。女一の宮(良子内親王)は斎宮、女二の宮(娟子内親王)は斎院、(後に)左の大殿(左大臣源俊房)の上(正室)にならせ給へりき。(中略) 皇后宮、一、二の宮、斎宮、斎院にゐさせたまひぬれば、一所若宮(尊仁親王)うち遊ばしきこえさせたまひて、物をのみおぼしめしておはします。(中略)
 内(後朱雀天皇)には斎宮(良子)をぞいみじうかなしうしたてまつらせたまひける。男宮(尊仁)をば、またいかでかはおろかには思ひきこせさせたまはん。女二の宮(娟子)をば、宮(皇后禎子)ぞいとかなしうしたてまつらせたまひける。(中略)

 皇后宮には、斎宮伊勢に下らせたまひ、斎院は本院になど、皆よそよそにおはします。

栄花物語
(36・根合はせ)

【後朱雀天皇譲位・崩御、斎宮良子内親王・斎院娟子内親王の退下】
(後朱雀院が)斎宮、斎院をまたもえ見たてまつらせたまはずなりぬる、いみじくあはれに、かぎりなき御有様も、かかることのおはしましけるもあはれなりける。(中略)

 東宮は、十二におはします、閑院に皇后宮(禎子内親王)一所におはします。斎宮(良子内親王)・斎院(娟子内親王)も(後朱雀院が崩御したので)下りさせたまへり。さまざまなる御服姿いとあはれなり。(良子は)十七、(娟子は)十五におはしませば、わざとの大人のうつくしうささやかなるにておはします。御かたちどもいとめでたくおはしますとぞ。

栄花物語
(37・けぶりの後)

【娟子内親王、源俊房と密通し出奔】
 源大納言(源師房)の御太郎君(長男)は、新中納言俊房と聞ゆる。
 かの朱雀院(後朱雀天皇)の二の宮(娟子内親王)は、前斎院とて、皇太后宮(禎子内親王)と一つ所におはしますに、(娟子の)御乳母子(めのとご)を語らひて、忍び忍びに参り給ひけり。
 さて忍びて迎えたてまつらせたまひてければ(俊房がこっそりと娟子を自分の元へ引き取ったので)、内(後冷泉天皇)・東宮(尊仁親王=後の後三条天皇)いと便なきものに思しめしたる中にも、東宮は一つ御腹(娟子の同母弟)におはしまして、心やましくめざましう思しめして、内にも「一人かくのみ思ひはべるべきことにもあらず(私一人がこのように心配するようなことではない=公的に処罰をあたえるべきだ)」と、いみじく申させたまへば、(俊房は)かしこまりてものしたまふ(謹慎していらっしゃった)を、(東宮は)なほ飽かず、「これよりまさりたらん罪にもありなん(もっと重い罰を与えるべきだ)」と、いたく申させたまへば、いかなることかと、大納言殿(師房)は思し嘆かせたまふ。
 六条(旧具平親王邸)にいとおかしき所、大納言殿の領ぜさせたまひけるにぞ、おはしまさせたまひける。
 大宮(皇太后禎子)をも、「すべて御文など通はさせたまふな」と、東宮のいみじく申させ給へば、いとかなしくしたてまつらせたまひしかど、かき絶えておはします。
 大納言殿の上(俊房の母・藤原尊子)、よろづに扱ひ申させたまふ。宮(娟子)の御有様いとめでたくおかしげにおはします。中納言(俊房)、物語の男君の心地したまひて、いとあてやかになまめかしき御様なり。

大鏡

【皇后禎子内親王と後朱雀天皇、五月五日に歌を贈答】
 この宮(皇后禎子内親王)に女宮二所(良子、娟子姉妹)おはします。(良子は)斎宮・(娟子は)斎院に居させたまうて、いとつれづれに、宮たち恋しく、世もすさまじく思し召すに、五月五日に、内(後朱雀天皇)より、

(後朱雀)
 もろともにかけし菖蒲(あやめ)のねを絶えてさらにこひぢにまどふ頃かな

御返し、

(皇后禎子)
 かたがたにひき別れつつあやめ草あらぬねをやはかけむと思ひし

古事談
(1・王道后宮 55)

 堀川左府(源俊房)参議の時、前斎院(娟子内親王)を取り籠め奉り、亭に置き奉りたりけるを、天皇(後冷泉)は宇治殿(藤原頼通)を憚らしめ給ひて、謬(いつは)りもてなさせ給ひけるを、春宮(尊仁親王)は事の外に憤らしめ給ひて、「あはれ吾れ一人が妹にてもなき物を(私の姉だというだけではありません=帝にとっても異母妹ではありませんか)」と仰せられけり。
 仍りて(後三条天皇の)受禅の後、其の御意赴(趣)に依りて、追ひ籠めしめ給ふ<帯ぶる所は解かず、と云々>。延久の間は召し仕はれず。六絛右府(源顕房)などにも超越せらる、と云々。白川院の御時召し出だされて、大納言にもなされける。
 前斎宮・前斎院は人の妻に成り給へども、子息無し、と云々。

今鏡
(4・藤波)

 この女院(陽明門院)の御腹に女宮たちおはしましき。(中略)
 次の姫宮(第二皇女)は娟子の内親王と申しき。長元九年霜月のころ、賀茂の斎院(いつき)と聞えしほどに、まかりいで給ひける後、天喜五年などにやありけむ、長月のころ、(娟子内親王が)いづこともなくうせ給ひにければ、宮の内の人、いかにすべしともなくて、明し暮しけるほどに、三条わたりなる所に住み給ふなりけり。
 はじめは、人の扇に一文字を男(源俊房)の書き給へりけるを、女(娟子)の書き添へさせ給へりければ、男また見て、一つ添へ給ふに、互に添へ給ひけるほどに、歌一つに書き果て給ひけるより、心通ひて、「夢かうつつか」なる事(=『伊勢物語』の斎宮密通のような秘事)も出できて、心や合はせ給へりけむ、負ひ出だしたてまつりて、やがてさて住み給ひけり。
「男咎あるべし」
なんど聞えけれど、人柄の品も、身の才などもおはして、世も許し聞ゆばかりなりけるにや、もろともに心を合はせ給へればにやありけむ、さてこそ住み給ひけれ。男そのほどは、宰相中将など申しけるとかや。後には左の大臣までなり給へりき。

今鏡
(7・夢の通ひ路)

 また大臣殿(俊房)の斎院(いつき=娟子)を取りすゑ給へりしかばにや、御末の官(つかさ)のぼりがたくおはすると申す人もあるとかや。九条殿(師輔)の北方(きたのかた)の宮(康子内親王)も、びんなき事なれど、それはただ宮ばかりにおはしき。これは斎院に居給へる人を籠めすゑ申し給へりし、類(たぐひ)なくや。
 業平中将も、「夢かうつつか」の事(斎宮恬子内親王との密通)にて止みにけり。道雅の三位も、「木綿(ゆふ)しでかけしいにしへに」などいひて、忍びたること(前斎宮当子内親王との密通)にこそ侍りけれ。これ(俊房と娟子の密通)はぬすみ出だして、取りすゑ給へれど、業平中将にはかわりて、前(さき)のなれば(娟子は既に斎院の任を退いた方なので)、さまで過りならずやあらむ。斎宮の女御(徽子女王。伊勢斎宮、のち村上天皇女御)なども、またいつきのおり給ひて、后になり給へるもおはせずやはある。また大臣までぬしのぼり給ひしかば、末のかたかるべきにあらず。おのづからの事なるべし。



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