文春に関しては、そんなわけで、あっぱれと申し上げるほかにないのだが、その一方で、文春以外のメディアが、どうしてこれほどまでに弱体化してしまったのかについて、思いを馳せずにおれない。
そして、その答えのひとつが、これまた文春砲の記事の行間に書いてあったりする。なんという運命のめぐりあわせだろうか。既存メディアはもはや文春砲の標的であるのみならず、火薬供給源にその身を落としているのだ。
新聞が御用告知機関に成り下がり、テレビが馬鹿慰安箱に転落したのは、これはもはや時代の必然というのか自業自得以外のナニモノでもないわけなのだが、私が個人的に残念に思っているのは、自分自身がその周縁で糊口をしのいでいる出版の世界が、全体としてゆっくりと死滅しつつあることだ。
今回の文春砲は、そのわれらが出版業界の醜態を撃ち抜いている。私は自分の心臓を撃ち抜かれたような苦い痛みをおぼえながら、当該の記事を読んだ。
記事は、文春オンラインに掲載されている。ネット上から閲覧することができる。ぜひ一読してみた上で、当稿に戻ってきてほしい。
詳細はリンク先の記事の本文に譲るが、要するに大手出版社の社員編集者が、女性フリーライターにセクハラを仕掛けたあげくに、ボツにした原稿料を踏み倒したというお話だ。
ここまでのところで
「なるほど、よくある話だ」
と思ったあなたは、業界の現状をよく知っている事情通なのだろう。
しかしながら、この話を「よくある話」として聞き流してしまえる人間は、世間の常識から考えれば、非常識な人物でもある。
別の言い方をすれば、わたくしどもが暮らしているこの出版業界という場所は、世間のあたりまえな常識とは別の、狂ったスタンダードがまかり通っている、狂った世界だということだ。
私が、世間的にはずっと大きいニュースである黒川検事長の辞任問題よりも、この小さな出版界で起こったちっぽけで異様でケチくさくてみっともない下品な箕輪厚介氏の話題を今回のテーマに選んだのは、箕輪セクハラ案件の扱いが「あまりにも小さい」と思ったからだ。もう少し丁寧な言い方で説明すれば、文春砲以外のメディアがこの事件を扱う態度が、あまりにもお座なりだったからこそ、私は、自分が微力ながら力を尽くして原稿を書かなければいけないと決意した次第なのである。
当初、私の頭の中にあったのは、「ナインティナイン」の岡村隆史氏が、つい先日、女性蔑視発言で四方八方から盛大に叩かれていた事件との比較だ。
岡村氏の事件についてあらためて説明する行数はないので、各自ごめんどうでも検索してください。
とにかく、私が思ったのは、岡村氏の発言が、どれほど不適切かつ無神経かつ不穏当かつ不潔であったのだとしても、あれは、直接のフィジカルな被害者のいない、言葉の問題にすぎなかったということだ。
一方、箕輪氏の今回のセクハラ案件は、言葉の上の問題ではない。概念上の不具合でもない。生身の肉体を持った実在の女性に向けて発動された具体的な行動としてのセクハラ行為だ。犯罪として直接に立件可能な性被害としてはギリギリ未遂に終わっているものの、企図は明確だ。繰り返し明示的に被害者たる女性ライターを脅かした事件でもある。証拠も揃っているとみられる。
とすれば、どちらが悪質であるのかは明白ではないか。
しかしながら、世間の扱いは逆だ。
岡村氏の事件は、発言の直後から複数の新聞紙上で記事化され、様々な回路を通じて盛大に報道された。しかも、生放送のラジオ番組を通じて、本人が公式に謝罪したにもかかわらず、いまだにSNS上での組織的なバッシングが続いている。番組の降板運動も沈静化していない。
一方、箕輪氏のケースは、徐々に黙殺されようとしている。
なにより、箕輪氏は、文春オンラインがこの件の記事を配信(5月16日)した3日後(同19日)のテレビ番組(「スッキリ」NTV系)に、リモート出演の形ではあるものの火曜日のレギュラーコメンテーターとして生出演している。
刑事司法の世界において「疑わしきは罰せず」という原則が重視されているのは承知している。しかし、テレビの出演者に関しては、これまで、慣例として、司法の判決を待つことなく、なんであれスキャンダルが報じられれば、その時点で出演を見合わせるのが不文律になっているはずだ。
とすれば、あれほど衝撃的な内容の記事が出て、判断に費やすことのできる日数が3日もあったのに、それでもテレビ局側が出演を容認したことは、普通に考えて、テレビ局側が、当該の事件を
「不問に付した」
と考えて差し支えなかろう。つまり、「スッキリ」は、
「箕輪さんは言いがかりをつけられているだけで、無実です」
ということを、全国の視聴者に向けて告知したに等しいわけだ。
本人が生放送のテレビ番組に顔出しで生出演したことも、
「自分は濡れ衣を着せられていますが、視聴者の皆様に対して後ろめたく思うところはまったくございません」
と宣言したのと同じ意味を持っている。
この点も見逃せない。
コメント45件
春
朝日新聞と産経新聞が癒着していたなんて。
権力を持つ者は、左翼も右翼も馴れ合いなんですね。
らま
女性により公開された被告の『春樹的な感じね』という発言は、通常の羞恥心をもつ者であれば、10年は人前にでられない程度の恥辱であり、その意味で被告は社会的制裁をすでに受けているといえる。よって被告、箕輪厚介氏を情状酌量に・・・なるわけないか。
(^_^;)...続きを読むあ
本文に全く関係ないのですが、「ライター」という表現で、昔読んだ音楽雑誌か何かで「最近原稿の質が落ちたのは書いてる人間の肩書きが音楽評論家から音楽ライターになったからだ」というのを読んだのを思い出しました。まあ「音楽評論家」で蔵建てたのは自分
が知ってる範囲では渋谷陽一大貫憲章伊藤政則の3人しかいないですが確かに最近の音楽関連コラムって内容スカスカか自己陶酔してる気色悪いものしかない記憶が。
...続きを読む尤も、小田嶋センセイは評論家ってスタンスにはなってほしくないなあ。勿論そんな気は毛頭ないでしょうが笑
山川草木
黒川氏が自ら危険牌を切ったのではという小田嶋さんの見立てについては、私も同様な感想をもった。
辞めるに辞められない状況にあったのではないかと思うし、この先、安倍と同じ舟に乗っていてあまりいいことがあるとも思えない。
周囲の流れを読んで
うまくそれに乗ることでキャリアを重ねてきた結果として今の黒川氏があり、本人としては麻雀をやるようなつもりでやっていたら最後に振り込んだみたいな感じか。
...続きを読むさて、このあと安倍側がどうやってここを切り抜けるかが問題。どちらに転ぶのか注目だ。
箕輪氏の件については、出版界の置かれた状況がよくわかった。
新聞・テレビの体たらくは黒川氏の件で改めて浮き彫りにったが、出版界も相当ひどそうだ。
出版不況の中、因習まみれの出版界を刷新すべき旗頭的な存在が箕輪氏ということか。
ネットやITの周辺でマネーを巡って魑魅魍魎が集合している図は想像がつく。出版をマネタイズしようとしているわけか。
70~80年代にしてもすでに作家より編集者、クリエイターよりはプロデューサーという状況にはなっていたろう。
おそらく「モノ」から「マネーや情報」へと価値が移る流れの中の出来事だったのだろう。
それが21世紀となった今も、古臭い人間的欲望の基本は変わらず、紙媒体がネットに置き換えられただけということか。
本来は創作分野でもっと本質的な変化が起こらなければいけないのだろう。
テクノロジー面でいうなら、出版界がやろうとしていることはすでに
グーグルやアマゾンがもっとエレガントに幅広く徹底的に行っている。
人間のでる幕はなくなっているともいえるが、それは古くさい因習的な人間が駆逐されるという意味ではむしろよかったのかもしれない。
問題は、その上にたって、我々がどんな芸術的な営みを行い、創作環境を作っていくかということだろう。
あ
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