糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
05月20日の「今日のダーリン」
・世の中、じぶんの好きな人ばっかりだったら、
なんの問題もないわけで。
好きな人ばっかりいるわけじゃないのが、
「世の中」というゲームボードなんですね。
ちょっとこらえ気味に言えば、だからおもしろいんでね、
毎日晴天じゃなくて、雨風雪嵐もあるから変化もあるし、
ゲームのなかに「嫌いだなぁ」という人だっているから、
変化もスリルもあるということでしょうか。
ま、それも、がまんして考えればということです。
どんなにご陽氣な人にだって、嫌なものはありますさ。
ぼくも、じぶんがなにを嫌だと思っているのだろうと、
考え続けてはきましたよ、こらえ気味に、おちついてね。
考えのちがい、趣味のちがい、生き方のちがい、
望みのちがい、国籍や人種のちがい、性別のちがい、
よくよく考えてみると、実は、そういうことでは
「嫌いだなあ」とは思えないんです。
かつて、吉本隆明さんが語っていた話で、
鶴見俊輔さんが数寄屋橋公園で座り込んで、
ハンガーストライキをやっていたとき、
道を隔てた向こう側では赤尾敏が街宣車で演説している。
この景色がだんだん馴染んできたら、鶴見さん、
向こう側にいる赤尾敏さんに親近感をおぼえてきた。
吉本さんも、「そういうことはありますよね」と。
右と左で絶対相容れないように見えて、
正反対に思える相手のなかに「じぶん」を見る。
ぼくも、ほんとうに、そういうことはあると思えます。
じゃ、「嫌だ」って、なんなんだ?
と考えてきて、このごろ「これかもしれない」と思うのは
「敬意」というものの有る無しなのではないか、と、
そんな結論に達しつつあるんですよね。
敵であれ味方であれ、低いものであれ、異なものであれ、
その相手への「敬う気持ち」がほしいんです。
犬や猫に対してでも、赤ん坊に対してでも、
悪人や罪人に対してでも、最低限の「敬意」は必要で、
それを蔑ろにしている人を、ぼくは嫌っているようです。
ま、ほんとは「敬意」のない人に対しても、
こちらからは「敬意」を失わないことが大切ですけどね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人が人にひどいことを言えるのも、敬意を捨ててるから。
なんの問題もないわけで。
好きな人ばっかりいるわけじゃないのが、
「世の中」というゲームボードなんですね。
ちょっとこらえ気味に言えば、だからおもしろいんでね、
毎日晴天じゃなくて、雨風雪嵐もあるから変化もあるし、
ゲームのなかに「嫌いだなぁ」という人だっているから、
変化もスリルもあるということでしょうか。
ま、それも、がまんして考えればということです。
どんなにご陽氣な人にだって、嫌なものはありますさ。
ぼくも、じぶんがなにを嫌だと思っているのだろうと、
考え続けてはきましたよ、こらえ気味に、おちついてね。
考えのちがい、趣味のちがい、生き方のちがい、
望みのちがい、国籍や人種のちがい、性別のちがい、
よくよく考えてみると、実は、そういうことでは
「嫌いだなあ」とは思えないんです。
かつて、吉本隆明さんが語っていた話で、
鶴見俊輔さんが数寄屋橋公園で座り込んで、
ハンガーストライキをやっていたとき、
道を隔てた向こう側では赤尾敏が街宣車で演説している。
この景色がだんだん馴染んできたら、鶴見さん、
向こう側にいる赤尾敏さんに親近感をおぼえてきた。
吉本さんも、「そういうことはありますよね」と。
右と左で絶対相容れないように見えて、
正反対に思える相手のなかに「じぶん」を見る。
ぼくも、ほんとうに、そういうことはあると思えます。
じゃ、「嫌だ」って、なんなんだ?
と考えてきて、このごろ「これかもしれない」と思うのは
「敬意」というものの有る無しなのではないか、と、
そんな結論に達しつつあるんですよね。
敵であれ味方であれ、低いものであれ、異なものであれ、
その相手への「敬う気持ち」がほしいんです。
犬や猫に対してでも、赤ん坊に対してでも、
悪人や罪人に対してでも、最低限の「敬意」は必要で、
それを蔑ろにしている人を、ぼくは嫌っているようです。
ま、ほんとは「敬意」のない人に対しても、
こちらからは「敬意」を失わないことが大切ですけどね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人が人にひどいことを言えるのも、敬意を捨ててるから。