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プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく 史上最大の集金作戦 広島カープ/市民とナインの熱い日々

プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく 史上最大の集金作戦 広島カープ/市民とナインの熱い日々


発行: 日本放送出版協会
シリーズ: プロジェクトX 挑戦者たち
価格:100pt
形式:XMDF形式⇒詳細 
対応端末:パソコン ソニー“Reader”
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解説

 広島カープ。県や市が出資する日本で唯一の“市民球団”として、昭和25年に誕生した。原爆で深い傷を受けた広島にとっては、復興への大きな希望の星だった。
 初代監督を引き受けたのは、石本秀一(52)。広島商業を3度の全国制覇に導き、その後タイガースの監督も務めた、野球の鬼だった。両親と兄弟を原爆で失った石本は、故郷復興へに役立ちたいと、広島に駆けつけた。
 しかし大企業の後ろ盾がない球団は深刻な資金不足だった。有名選手を集められなかった。石本は、高卒の新人や、喫茶店のマスターをしていた元プロ野球選手までかき集めた。合宿所の窓は閉まらず、雨が吹き込んだ。遠征の時は3等列車の床で寝た。シーズンが終了してみれば圧倒的な最下位だった。
 そして、結成翌年の3月、資金難から、カープの解散が発表された。石本と選手たちは唖然とした。
 その時、立ち上がったのが広島の市民たちだった。路面電車の運転手、坂田政利(23)は私設応援団を結成。球場の前で一人一人に募金を呼びかけた。
 「復興への希望の灯を消すな!」。それを合い言葉に、全市民を巻き込んだ募金作戦が展開されていく。それは想像を超えた壮絶なものとなっていった…。
 “市民球団”広島カープが、存続の危機を乗り越えていく感動のドラマを描く。

目次

一 初めての「市民球団」創設
二 金もない、選手もいない
三 カープを救え! 市民達は立ち上がった
四 カープはよみがえった

抄録

一 初めての「市民球団」創設


 お荷物球団「広島カープ」


 日本で人気ナンバーワンのプロスポーツといえば野球である。ワールドカップを来年に控えてサッカーJリーグも盛り上がってきたし、伝統の大相撲の人気なども依然として高いが、しかしファン層の広がりや観客動員数において野球にははるかに及ばない。プロ野球は、誰もが楽しめる、まさに国民的娯楽なのである。
 野球は明治初年にアメリカから輸入され、明治・大正を通じて大学野球・中等野球など主として学生のスポーツとして徐々に浸透した。それが昭和の初め、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどの超一流選手を選抜した米大リーグチームが来日して、けた違いのパワーと技を披露するに及んで、一躍、人気沸騰する。その人気の波に乗って日本にも「職業野球団」が誕生し、東京巨人、大阪タイガースなど七チームでリーグ戦を開始したのが、戦前の昭和一一(一九三六)年。これが、日本におけるプロ野球の始まりである。
 以来六十数年、太平洋戦争末期のわずかな中止期間を除いて、プロ野球はずっと、日本のトップ・プロスポーツとして人々に愛されてきた。そして時代ごとに、球史を飾る名選手を生んだ。古くは沢村栄治や三原脩・水原茂・川上哲治(いずれも巨人)、また戦後なら青田昇(巨人)、大下弘(東急)、別当薫(毎日)、金田正一(国鉄)、中西太・稲尾和久(西鉄)、やや下って村山実(阪神)、杉浦忠(南海)、山本浩二(広島)、近年なら江川卓(巨人)、落合博満(ロッテ)、さらに現在なら松井秀喜(巨人)や松坂大輔(西武)といった面々である。もちろん、長嶋茂雄と王貞治(いずれも巨人)が時代を超えたスーパースターであることは言うまでもない。
 一方、チームの面から見ればどうか。右にあげた選手たちのうち半数近くが巨人軍所属であることからもわかるように、プロ野球界は草創期から巨人軍を中心に動いてきた。同チームは、昭和一一年から昭和二四年までの一リーグ制の時代に八回優勝し、昭和二五年から現在の二リーグ制になって以降も五一年間に二九回の優勝(うち日本シリーズ優勝は一九回)を数えている。この数字は断突で、他のチームの追随を許さない。
 では、二リーグ制となって以来、セントラル・リーグ(セ・リーグ)で巨人に次ぐ優勝回数の多いチームはどこか。
 答えは、赤ヘル軍団「広島東洋カープ」(昭和四二年からの球団名。それまでは「広島カープ」)である。カープは、昭和五〇(一九七五)年に初優勝して以来、通算六回のリーグ優勝(うち三回は日本シリーズ優勝)を果たしているのである。平成三(一九九一)年から一〇年間、優勝から遠ざかっているカープだが、右にあげた実績からいってもセ・リーグの有力チームであることは間違いない。
 しかし、その広島カープが、かつては“お荷物球団”といわれていたことをご存じだろうか。創立二六年目に初優勝を遂げるまでは、三位がただ一度だけ(昭和四三年)で、あとはすべて四位以下、しかも最下位八回という弱小チームだったのである。
 なぜ、そんなに弱かったのか。最大の理由は、カープが「日本一の貧乏チーム」だったことにある。そのため、創立に際しては年俸の高い有名選手を連れてくることはできなかった。また当初は、遠征費にも事欠いて旅館に泊まることもできなかったし、寮は粗末で満足な食事もできなかった。野球用品の支払いさえままならない状態だったのである。これでは、強いチームを期待するほうが無理というものだろう。当然ながらカープは、設立早々、解散の危機に直面する。
 しかしそのとき、市民たちが立ち上がった。全球団のなかで唯一、オーナー会社の後ろ楯を持たない、いわゆる「市民球団」として出発したカープは、広島県民にとってはまさに自らとともにあるチームだった。そんなチームの存続のため、市民たちは「おらがチームをつぶすな」を合言葉に、乏しい生活費を削っての「金集め作戦」を展開したのである。
 その市民たちの熱意を支えに、広島出身の監督はチーム存続に奔走し、若い選手たちは力を振りしぼって戦いつづけ、そして、彼らは一体となってチーム解散の危機を乗り越えた。もし、このときチームがなくなっていたら、のちにリーグ優勝の栄冠を手にすることも、まして三度の日本一に輝くこともなかった。その意味で、広島カープという球団の歴史にとって決定的な出来事だったのである。
 これは、日本でただ一つの市民球団を守るために戦った人々の物語である。


 新球団、創設へ


 敗戦後、プロ野球は絶大な人気を誇っていた。野球観戦のひととき、人々は貧しい日々の暮らしを忘れ、心地よい高揚感に浸ることができた。占領軍もまた、アメリカの国技ともいうべき野球の人気が高まるのを好意的に眺めていた。
 当時、バットマン・レースでしのぎを削っていた川上・青田・大下・別当などのスター選手は、それこそ現代のアイドル並みに少年たちの憧れの的で、ブロマイドやカードが飛ぶように売れていたのである。
 こうして、プロ野球が“健全娯楽”の王者として君臨していた昭和二四(一九四九)年春。新しく日本野球連盟(プロ野球の中央機構)会長に就任した正力松太郎が、「二リーグ制」導入という画期的な構想を発表した。日本のプロ野球の発展のためには、アメリカ大リーグにならって二リーグ制をとり、相互に切磋琢磨するのが望ましく、ついては、従来の八球団に新たに四球団を加え、それを二つに分けて各六球団による二リーグにしようという構想である。
 これが引き金となって、プロ野球参入を狙う企業の動きがにわかに盛んになり、毎日新聞や近畿鉄道(近鉄)、大洋漁業などの参入が噂された。健全娯楽で、しかも人気があり、つまりは商売にもなるとなれば、ある意味で当然ともいえる動きだった。
 しかし一方、そうした思惑がらみの球団増設の動きとは別の目的をもって、プロ球団創設に向けて動き始めているところもあった。それが、広島である。
 昭和二〇(一九四五)年八月六日、一発の原子爆弾の投下によって広島市街地は壊滅し、死者は一三万人を超えた。以来四年、文字どおり灰塵に帰した街の復興は思うように進んでいなかった。また、一瞬のうちに家族や職場を失った人々の心の傷は、たやすく癒えるものではなかった。広島の街にはいまだに、どこか無力感が漂っているようだった。
 そんな広島の街と人に元気を与え、復興の足がかりとするために、人気の高いプロ野球の球団をつくってはどうかという話が、地元の中国新聞社や企業などの一部の人々の間で交わされ始めたのは、昭和二三年のころである。
 さらにもう一つ、強力な動機もあった。広島県は何といっても「野球王国」なのである。例えば戦前の中等学校野球大会(現在の高等学校野球大会)では、広島商業が春一回・夏三回、広陵中が春一回、呉港中が夏一回と、実に六回もの優勝を遂げている。これは愛知県(春・夏で九回優勝)に次いで全国で二番目の成績である。
 また、当時のプロ野球界を眺めれば、山本(鶴岡)一人(広島商・南海)、藤村富美男(呉港中・阪神)、岩本義行(広稜中・太陽)、柚木進(呉港中・南海)、白石勝巳(広陵中・巨人)など、広島県出身の名選手たちが第一線で活躍していたのである(実際、彼らは球史に名を残した選手たちである)。なるほど、これほどの「野球王国」ならば、プロ球団の一つもないほうが、むしろ不思議なくらいだった。
 このようないきさつで、広島に新球団創設の機運が生まれ始めたところに出たのが、「二リーグ制」構想だった。しかも、この構想は瞬く間に構想の枠を越え、半ば既定のことでもあるかのように多方面で具体的な話が進められはじめた。こうなっては広島も、プロ球団創設とリーグ参入に急いで取り組まなくてはならない。その推進役を引き受けたのは、広島出身の元代議士・谷川昇だった。谷川は、広島一中からアメリカに留学しハーバード大学を卒業、戦時中には山梨県知事を務め、戦後昭和二二年四月の総選挙で当選した。しかしその後、戦時中の大政翼賛会奉職が公職追放令に抵触して失職、雌伏の時にあった。
 野球界とのつながりも特にない谷川が、在京代表という困難な役を引き受けたのは、何よりも郷土愛だった。原爆で根こそぎ破壊され、遅々として復興の進まない広島の人々に、野球は夢を与えてくれるのではないか、「新球団が復興の旗印となるなら、どんな苦労でも受け入れよう」と思い定めたのである(『カープ50年~夢を追って』)。
 とはいえ、問題は資金である。通常、プロ球団は親会社を持っている。というより、大企業である親会社が、豊富な資金をバックに球団経営に乗り出すのである。当時の既存球団を見ても、阪急・南海・東急と、そのものズバリ、親会社の名称が球団名になっているところが多かった。しかし、原爆で大きな痛手を受けた地元企業には、どう逆立ちしても球団運営資金の一三五〇万円が用意できないことは明らかだった。どうするか。ここで、谷川は発想を転換した。新球団は親会社を持たずに、経営は県・市民で支えようというのである。すなわち、「市民球団」の発想である。具体的には、自治体からの出資と株式募集で賄うことになる。うまくいくかどうかはともかく(事実、すぐに深刻な資金難に陥ることになるのだが)、従来には見られない清新な理念というべきだろう。谷川は、資金援助を取りつけるため、広島県、および県内五市(広島市・呉市・福山市・尾道市・三原市)、あるいは商工会議所などと折衝を重ねることになった。
 その一方で谷川は、早くから球団創設に心を砕いてきた地元中国新聞社の築藤鞆一郎(代表取締役)、広島電鉄の伊藤信之(専務)との連名で、昭和二四年九月二八日、日本野球連盟に対して正式にプロ球団設置の意思表示を行った。その書面には、新球団の名称は「広島野球クラブ・カープ(鯉)」と記してあった。


 カープ誕生に沸く市民


 昭和二四(一九四九)年一一月二八日、新球団「広島カープ」は中央リーグへの加盟が認められた。中央リーグとは聞き慣れない名だが、すなわちセントラル・リーグのことである。二日前の一一月二六日、半年にわたる侃侃諤々の論議の末、プロ野球は分裂し、セントラル・リーグ(中央リーグ、セ・リーグ)とパシフィック・リーグ(太平洋リーグ、パ・リーグ)の二大リーグとして再出発することになったばかりだった。新生セ・リーグには、既存球団からは巨人・阪神・中日・太陽の四チームが参加していた。
 新球団誕生のニュースに市民は沸き返った。広島の街には、まだ焼け跡の瓦礫の山がそこかしこに残り、多くの人は仮建設のバラックに住んで、急造された職場に通っていた。みな生活に疲れていた。そんなときに飛び込んできたのが、プロ球団誕生のニュースだったのである。しかもそれは、企業のものではない市民の球団、市民一人ひとりが支える球団だという。街では、人が寄れば球団の話になった。市民の心に、希望の光がさした。


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