「知識がない人間は政治に口出しするな」という批判の怪しさと危うさ 自分の首を絞めることになる
検察庁法改正が大きく話題になるなか、芸能人らによる政治的な発言も増えている。これに対して「知識がないのに政治に口を出すな」という批判も聞かれるが、果たしてどう考えるべきなのか。『デモクラシーの論じ方』などの著書がある政治学者の杉田敦氏が歴史にヒントを探る。
〔PHOTO〕iStock
芸能人は判断力がない?
芸能人などがツイッターで政府の方針に批判的な発信をしたのをきっかけに、「知識がないのに政治に口を出すべきではない」といった議論がネット上で起きているようです。しかし、これは奇妙な議論です。ツイッターなどで発言した方々はいずれも選挙権をお持ちのようで、選挙権を持つということは政治的な発言権を公的に認定されているということですから、その方々が政治的な発言をしてはならないというのは端的に間違っています。以上終わり。
としてもいいのですが、もう少し詳しく考えてみましょう。
そもそも、芸能人の方々に政治的な「知識がない」という認定はどのようになされたのでしょうか。芸能事務所に所属すると選挙権を失う制度があるとは、寡聞にして聞いたことがありません。ある種の人々は別の人々よりも、その属性からして政治的な判断力がないと当然に判断できる、ということでしょうか。
実際、昔はそのような考え方が支配的でした。市民革命以前には、議会は貴族や司祭のような特権的な人々の声だけを代表するものとされ、一般の人々が政治的な意見をもったり発言したりすることなどありえませんでした。
市民革命後、議会が国民を代表する機関になり、選挙が行われるようになっても、長い間、財産資格が制度化されていました。政府に多額の固定資産税を納めているような人々だけに選挙権は与えられたのです。
その理由は、17世紀イギリスで起きたピューリタン革命時に普通選挙導入に反対したクロムウェルの主張によれば、土地を持たないような人々は国が他国に征服されても痛痒を感じないので無責任な政治的判断しかできない、からでした。財産資格は日本を含めて、1920年代まで維持されました。
アメリカ合衆国などでは人種に基づく制限があり、南北戦争後にアフリカ系市民にも選挙権が認められたにもかかわらず、実質的には制限され、ようやく1960年代の公民権運動の結果として保障されるようになりました。
もう一つの資格制限は、性別に基づくものでした。女性には政治的な判断力がないとされ、財産資格よりもさらに後まで、日本を含むほとんどの国々で制限は維持されました。
要するに、かなり長い間にわたって、財産を持つ男性以外のかなりの人々に対して、「知識がないのに政治に口を出すべきではない」という制限が行われていたのです。
しかし、そうした制限が正しかったと今日、主張する人はいるでしょうか。財産制限を言う人がいるでしょうか。女性には政治的知識がないので口を出すなと言う人がいるでしょうか。いや、実際にはそう思っている人々はかなり存在し、だからこそ日本を筆頭に、政治家に占める女性の割合は低いままです。
しかし、そうした議論を、根拠を持って公然と主張できる人はいないはずです。それは、人の属性に基づいて政治的な知識や判断力を云々することは、許されない差別だという認識が広まったからです。
年齢による制限は合理的か
もっとも、今日でも選挙権について制限がないわけではありません。それは、年齢制限です。そして、これが合理的な区別かどうかはわかりません。15歳の時に気候変動問題について政治的な発言を始めたスウェーデンの少女のように、成年に達しなくても政治について深く考えている人はいます。そういう人の選挙権も一律に年齢で制限しているのはおかしいのではないか、と問われたら、なかなかうまく答えられません。
子どもに対しては両親や教師の影響力が強いので、独立性が低いと認定できる、というくらいは言えるでしょうが。ただ、そういうことを言い始めると、「財産を持たない人は経済的に誰かに従属しがちではないか」といった面倒な議論がまた出てきて、整合性がとりにくくなるのも事実なのです。
なお日本でも選挙権は18歳にまで引き下げられましたが、高校での有権者教育は選挙の仕組みなどの形式的な内容にとどめられがちで、各政党の特徴について学習しようとすると「政治的中立性」に反すると批判され、デモに参加することは実質的に禁じられたりしています。選挙権を与えるとは、独立して政治的判断ができると認めることであるにもかかわらず、です。高校生が政治的な知識を得たり政治活動をしたりすることを禁じたいのなら、選挙権など認めるべきではありません。
〔PHOTO〕iStock
ともあれ、年齢制限を別にすれば、政治的な発言権は平等と見なすべきで、不当な差別を持ち込んではならない、というのが現代世界の共通理解であることまでは、ひとまず確認できたとしましょう。特定の属性を持つ人々について「知識がないのに政治に口を出すべきではない」と言うのは、特定の人種や女性について同じような偏見を持っていた人々と同様の主張となってしまいます。
「投票して、あとは大人しく」でいいのか
その上で、次の問題なのですが、ここまで読んだ方々の中には、「この著者は何を言っているのか。われわれは選挙権など問題にしていない。投票はしてもいいが、それ以上は控えろ、と言っているのだ」と反発する方々もいるかもしれません。それも無理からぬところで、実際、政治学者の中にもそのような意見の持ち主は、かなりいるものと推定されます。
そうした考え方を20世紀半ばに広めたのが、経済学者のシュンペーターでした。彼によれば、普通の人々は経済についてはまともな判断ができるが、政治についてはできない。なぜなら、売れない商品を抱えたら破産するし、変な商品を買ったら損をするので慎重な判断をする。しかし、外交がどうなろうと、自分の身には及ばないので、みな無責任な判断をしてしまうのだ、というのです。
その上で彼は、普通の人々がすべきは、どの政治家に任せるかを決め、選挙で投票することだけで、選挙が終われば、次の選挙まで余計な発言はせずに黙っているべきだ、としました。
しかし、この種の議論は、重大な矛盾を抱えていると思います。普通の人々が自分たちの損得しか考えていないとすれば、どの政治家が当選するかなど、まさに自分たちにとっては関係のない、どうでもいいことのはずです。それなのに、どうして彼らは政治家の選択を慎重に行う動機づけを持ちうるのでしょうか。さらに言えば、仮にそういう動機づけがあったとしても、政治についてよくわからない(とされる)彼らは、何を基準にしてまともな政治家を選別できるのでしょうか。
〔PHOTO〕Gettyimages
有権者には政治的判断力はないが選挙はできるという議論を前提にすると、選挙結果は政治的判断力がない人々が行ったものにすぎないということになるので、選挙というものの価値は非常に低下することになります。さらには、選挙の結果として成立した政府の正統性さえ疑わしいものになりかねません。
このように、「知識がないのに政治に口を出すべきではない」という議論は、選挙にもとづくデモクラシーという政治体制をやめない限りはうまく成り立ちにくい、ということを申し上げておきたいと思います。
「知識がなくていい」わけじゃない
その上で、最後にふれておきたいのですが、それなら逆に「知識がなくても政治に口を出していい」と開き直ってもいいかといえば、それもまたよろしくありません。
「知識がなくてもいい」という考え方を反知性主義と呼び、この反知性主義にも、あまりに小賢しい議論が横行しているところでは解毒剤としての一定の効果が期待できます。しかし、反知性主義がはびこると、自分たちに都合の悪いことには見て見ぬふりをするようになり、フェイク・ニュースを消費し、その結果として、非常に間違った政治的決定をするはめになります。
そして、シュンペーターはそうは思わないようですが、政治的失敗の効果は、しばしば普通の人々の身にも及びます。「知識がなくていい」という主張もデモクラシーをむしばむのです。
ソクラテスもそう勧めたように、自分には十分な「知識がない」のではないかと自問自答することは誰にとっても必要です。むしろ、他人を「知識がない」と決めつけている人々は、自分の知識については根拠なく自信を持っているだけの場合も多そうです。私たちがなぜ話し合わなければならないかと言えば、それは誰も確かなことはわかっていないからなのです。「知識がない」人は黙らなければならないと攻撃し合えば、誰も発言できなくなります。
知識があるとされる特定の人々だけが物事を決めるような政治体制に変えるのなら話は別ですが、デモクラシーを採用している以上、「知識がない」として誰かを排除することはできません。誰が語っているかを問題にするのではなくて、あくまでその発言内容について議論を続けるべきです。ツイッターという形式が、そのような落ち着いた議論の場を提供するものとして適切なのかどうかについては、私には疑問がありますが、それはまた別の話です。