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トンボのめがね

【第45号】河野齢蔵

深志同窓会名簿に松本夜間中学校の旧職員に河野齢蔵の名がある。担当教科は「校長・修身」と記されている。

齢蔵は、慶応元(1865)年2月、安曇郡犬飼新田村(現松本市島内)の庄屋河野通重の4男として生まれた。齢蔵の長兄は平瀬学校長の河野彦司、次兄は山本一蔵(飼山、松本中学第30回)の父幾蔵。三兄は北海道開拓の父といわれた常吉である。

19歳で同族の河野家の養子となり、長女と結婚。53歳で正式に分家、60歳になって、松本市の新田町の自宅に入った。

齢蔵は、明治16年に中学科教員免許状を受け、18年に長野県尋常師範学校に入学、22年に卒業後、上水内学校、北安曇高等小学校、松本尋常高等小学校訓導をへて、長野県尋常師範学校助教諭、大町尋常高等小学校訓導兼校長、長野高等女学校教諭、長野師範学校教授嘱託、下伊那高等女学校校長、松本女子師範学校主席教諭となった。その後、上伊那農業学校長、長野高等女学校長兼教諭、諏訪高等女学校長、松本第二中学校教授を嘱託。昭和6年4月に教育界を引退した。

齢蔵は、在職中から、近県はもとより北海道・千島・樺太まででかけ、高山植物の生態分類分布を究めた。多くの著書を著し、高山植物研究の第一人者と称された。宮家の人がアルプス登山に来ると、齢蔵に県知事から案内依頼があった。

齢蔵が日本ではじめて試みた高山植物のロックガーデンは、松本中学、松本第二中学などでも手掛けている。

齢蔵が48歳のとき、今の田町の松本地方裁判所宿舎のところに家を新築したが、1年後の明治45年4月22日、北深志の大火で類焼、蔵書・高山植物培養品や標本等の大部分を焼失した。齢蔵は、昭和14年4月、松本市新田町の自宅で亡くなった。

この6月27日に、松本サリン事件がおきてちょうど20年になる。第一発見者の河野義行さんの住んでいた河野家には、いまでも「河野齢蔵」の表札が掲げられている。


筆者紹介 : 小松 芳郎

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