吉本新喜劇からの打診…現れたのはカタギに見えないプロデューサー
放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(57)
東京・銀座7丁目劇場の支配人をしていた吉本興業のモリタから「新喜劇をどない思います? やってもらえませんか」と打診されたのは1995年ごろだったでしょうか。
当時「ドリフ大爆笑」や「お江戸でござる」の台本を書いていた私。ほぼ同じ時期、吉本がつくったタレント養成学校NSCの東京校で講師もしていました。素人時代の品川庄司あたりが受講生でしたね。
こうした縁があっての誘いでしょう。少年時代は故郷の長崎・佐世保でテレビの吉本新喜劇に笑い転げていました。「好きだけど」と答えたのが運の尽き。新喜劇のプロデューサー、ハシモトに会うことになりました。
吉本新喜劇の舞台、大阪・難波で初対面。まあ、なかなかの風貌。顔面凶器。強豪の大学柔道部出身で体重は3桁。とてもカタギには見えません。金融会社を舞台に金を巡る人間模様を描いた漫画「ナニワ金融道」に出てきそうな男で、東京のテレビ関係者にはいないタイプ。今の岡本昭彦社長も同じような感じですが、吉本には伝統的にそんな一派がいるんですよ(苦笑)。
でも私には愛想がよくて「センセー、センセー」と腰が低い。「メシでも食いに行きまへんか」と誘われ食事に。意外と気が利くところがあり、手を替え品を替え接待してくれました。これも懐柔策でしょう。
東京と違い、べたな笑いを求める大阪。かつて東京の放送作家が何人か新喜劇の台本を書いたことがありますが、続いたためしがなかったそうです。東京人にとっては完全アウェー。独特のムラ社会についていけなかったのか、笑いのセンスの違いなのか、大変だったようです。
その点、私は大阪の笑いも好きだったし、抵抗もありません。新喜劇だけでなく、藤田まことさんが出演したコメディー「てなもんや三度笠(がさ)」など、大阪的な笑いも子どもの頃から大好きでしたから。それに「やすきよ」の東京進出を成功させた木村政雄さんが、陰で私をプッシュしてくれたようです。木村さんは同じ公開番組のコメディー「お江戸でござる」での私の仕事ぶりを評価していたようで、信頼には信頼で応えるのが九州男児ですたい。
で、大阪でナンバーワンのお笑いの舞台に、男・海老原、作家の一人として参加することになったんや。わてが42歳の頃やな。せやけど、簡単にいかへんかったわ。
(聞き手は西日本新聞・山上武雄)
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海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。
※記事・写真は2019年08月23日時点のものです