素人から放送作家へ、覚悟の最終面接 “コントの天才”から「君はバカだな」
放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(25)
一つ目の関門をくぐり抜けました。1982年春に日本テレビで放映されるコント番組「ゲバゲバ90分!+30」。その半年前にあった番組の放送作家募集に120人ほど応募し、最終面接にたどり着いたのは私を含め10人。プロの放送作家や漫画家もいました。
合格するのは1人だけ。素人の私が生き残るにはどうしたらいいか。1次面接では100本のコントを書いて、応対した日本テレビディレクターの斎藤太朗さんに「こんなに書いたの?」と半ばあきれ顔をされながらも自分を印象づけることに成功しました。
考えた結果は、さらにほかの人よりも多く書くことでした。1次面接から数日後、日本テレビの会議室に呼ばれて斎藤さんから告げられました。「この10人は河野洋さんに会いに行ってください」と。
河野さんは放送作家、作詞家としても腕利きだった青島幸男さんの一番弟子。斎藤さんとともに一世を風靡(ふうび)したバラエティー番組「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」を手掛けた方です。芸能評論でも鳴らす名エッセイストの小林信彦さんは河野さんの笑いを作るセンスを非常に高く評価していました。そんな人が私の前に立ちはだかる最後の壁だったのです。
小林さんの著作に「日本の喜劇人」という昭和の笑いを分析した名著があり、その中に「河野洋はコントの天才である」と書かれています。果たして私は、天才に認めてもらえるのか。
残暑の9月。扇風機が回る中、勢いづけのウイスキーを飲みながら、書いて書いて書きまくりました。
もし放送作家の夢がかなわなかったら安定した収入のために就職しよう。最もしたくなかったことだけど、妻と子のためにサラリーマンライターとして広告会社に勤めようと覚悟しました。
最終面接に持参した130本ほどのコント台本を見るなり、その多さに河野さんも1次面接の斎藤さんと似たような反応を示しました。「こんなに書いてきたんだ」と苦笑いしながら、真面目に真剣に読んでくれました。
読み終えた河野さんから言われました。「君はバカだな」と。ショックでした。俺はバカだからダメなんだ、と思った次の瞬間「こんな書くバカだから、一緒にやるか」。
壁の門が開きました。合格です。「バカ」と呼ばれて、これほどうれしいことはありませんでした。
(聞き手は西日本新聞・山上武雄)
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海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。
※記事・写真は2019年07月15日時点のものです