番組放映まで半年…ノーギャラで会議を重ねた日々

西日本新聞

放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(27)

 幸運(努力もしましたが)にもテレビの世界へ第一歩を踏み出した私は、1982年春の日本テレビ「ゲバゲバ90分!+30」の放映の半年前から、番組チーフを務める河野洋さんのマンションに通う生活が始まりました。河野さんは「君も俺たちと同じバカのようだから一緒にやろう」と放送作家業を勧めてくれた方。半年前から先輩放送作家と会議、会議の連続です。

 事務所を兼ねる東京・赤坂の河野さん宅を身が引き締まる思いで初めて訪れたときのこと。玄関を開けると、白いポロシャツに茶色のブルゾン、スラックス姿で河野さんは迎えてくれました。優しい目をした背の高い方。日曜午後3時の集合時間に間に合ったのは私だけでした。

 「ゆっくりしなよ」とリビングに通されました。テレビから流れていたゴルフやアメフットの中継を隅っこで見ていました。放送作家たちが集まったのは1、2時間たってから。来るなり「眠いよ」って横になった人は喰始(たべはじめ)さん。「ゲバゲバ」や「天才・たけしの元気が出るテレビ‼」、劇団「WAHAHA本舗」の演出。超売れっ子でした。

 コントの世界では有名な人たちばかりですが、無名の私のことを知っていました。「おまえがあの海老原かぁ」と声を掛けられました。どうやら、放送作家募集の面接で100本を超えるコントを持参したうわさが広がっていたようです。

 会議は2時間程度で終わり、食事を兼ねた飲み会が始まります。そこからが本当の会議でした。

 先輩たちが飲みながら、次から次にアイデアを出し合います。「ゲバゲバ90分!+30」には、69年から71年まで放映された「巨泉×前武(まえたけ)ゲバゲバ90分!」で司会を務めた大橋巨泉、前田武彦がいません。代わって、15分間のコントを充実させることになりました。今や名優となった西田敏行が若手の一人としてお笑いに挑戦し、宍戸錠、藤村俊二、朝丘雪路ら著名な俳優陣もコントに参加しました。

 彼らに合わせたネタを出し合い、自宅に帰ってコントを仕込む。新人の私も書きまくる日々でした。収入が不安定なフリーのコピーライターをしながらの会議出席。会議では当然、ギャラは支払われません。横浜で妻と幼い長女を養っていました。私の生活への不安を案じたのでしょう。河野さんがささやきました。

 「大丈夫。ちゃんとやったら、お金は後からついてくるから。頑張れ」

(聞き手は西日本新聞・山上武雄)

………………

 海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。

※記事・写真は2019年07月18日時点のものです

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