「紙」は長い友達
木曾の妻篭宿で和紙を漉く所を見た。
これを見て、会社に入って、変圧器開発で、様々な紙の開発に携わった事を懐かしく思い出した。
紙と油の組み合わせは、電機絶縁材料として広く使われている。特にケーブルやコンデンサーなどは、油浸紙で完全に電極間を埋めて絶縁を保つ必要があるため、紙の研究が盛んで、この方面の博士が、製紙会社や研究所におられ、研究懇談会などにも出させてもらい、色々と勉強させてもらったものである。
ここで知ったことは、日本の紙の歴史は長く、その伝統が今でも生きていると言う事であった。
すでに、奈良時代から、朝廷への献上物としての紙の記録があるように、紙に適したこうぞやみつまたと言った植物繊維、きれいな水、縄文時代以来の水さらしの技術などが、美しい和紙を生み出したのである。
紙の強度は、繊維の長さと強度、繊維を叩いて解す(ほぐす)叩解度、抄紙による繊維の絡み合い、セルロースの分子の水との親和性による結合度などで決まる。
しかし、長い繊維を緻密に漉くためには、繊維が分散して上手く絡まるような工夫が必要で、そのための分散材(エマルジョン)として、とろろ葵の根が使われてきた。
このような、和紙は、貴重品であったが、江戸時代に各藩が産業奨励のために、紙の生産を進めて、普及し、様々な用途に広く使われるようになった。
「美濃紙」「土佐紙」などの名称は今でも残っている。今では、少なくなった提灯、団扇、乾漆器、唐かさ、紙子、千代紙、凧などあらゆるところで使われてきたのである。
さて、変圧器の話に戻ると、絶縁は、強度や冷却のために、油浸紙と油の組み合わせで構成される。電線に巻く紙などは、ケーブルなどに使うものを使えばよいが、コイルを支え、油の通路や絶縁支持体を構成するプレスボード(板紙)はいいものが無かった。
プレスボードには、昭和40年代までは、木綿のボロを買い集めて針葉樹のクラフトパルプに混抄したPB-1とクラフトパルプ100%のPB-2があった。
メーカーも、高知にあった日本特紙と加古川の三菱製紙のみで、当時は日本特紙のPB-1を使っていた。
この日本特紙の作り方は、かなり、古典的で、「土佐和紙」の作り方の延長線上にあると言っても良い。原料のパルプとボロを混ぜて、ビーターと言う風呂桶の親分みたいな時期のタイルを張った桶の中で拡販し、ベテランの作業者が手で握って叩解度をその感触で判断する。 遠心分離や磁石も使わないから、ボロの中には、しばしば、金属異物が入っていたりする。
出来た原料を抄紙機にかけて薄いウエットシートとするのであるが、これが古典的な丸網式(量産には一般に長網式が使われる。長くなるので詳しい説明は、省略する)
を使って行う。丸いドラムの外側と内側に水位の差を作り、圧力差で、ドラムの上の網に紙の層を作るのである。
このやり方は、紙の強度に縦横の方向性が少なく、大量生産でない和紙の製作などに用いられている。
この薄いシートを、ドラムからさっと切り取り、平板の上に展開し、何層も重ねていく。これもまた、匠の技である。このシートをロールに掛け水分を取って生乾きにする。
これを屋外に持っていって、天日で乾燥する。大きさが、幅1.6mもあるのであるから乾燥すれば、当然せんべいの如くでこぼことなるが、これにロールをかけて仕上げる。凹凸が多く、そのままでは、仕上げが難しいと考えられると、局部的に霧を吹きかけ、上手く、平らにする、これもまた、匠の技と言えよう。
ある時、変圧器を乾燥した後、プレスボードの表面が、黒い斑点が出たことがある。
研究所で分析すると、硫黄分があると言う。出かけていって調べてみると、工場の近くに風呂屋があり、そこで使った燃料に何かが入っていて、風向きによって飛んできて、天日干しのシートに付いたものと分かった。
こんなものは、いくらなんでも、500kV変圧器に使えない。
したがって、100%クラフトパルプのPB-2に切り替えた。こちらは、繊維を長い網の上に流し、紙の薄いシートを作り重ねていく。そして、多段式のプレス機で過熱圧縮して作る。当時は、日本特紙と三菱製紙にあり、三菱からも購入することとし、ここも、何回も行って、製造法の比較検討を行った。
このプレスボードを使ってみると、圧力をかけて乾燥すると、厚さにばらつきが出る。
なぜか分からなかったが、よくよく製造法を聞いてみると、当時のプレス機は、全体に圧力をかけるため、上下と中央で圧力のかかり方が違うため、厚さにむらが出来る。出来上がりを一定にするため、重ねるウエットシートの枚数を変えるなどして、見かけの厚さを一定としていたことが分かった。
結局、この問題は、三菱製紙が、白河工場に新型のプレス機を入れ、新しく本州製紙が欧州の技術で、新しい製造設備を中津川工場に入れて参入したことで、ようやく解決した。
日本特紙は、結局、業界から撤退し、主な技術者は、三菱製紙に移ったのである。
紙以外でも、あらゆる材料について、そのメーカーに行って自分で見て確認したが、紙が一番長い付き合いである。
それは、稲沢の会社に来ても、紙幣や印刷物などの紙を扱う機械に関係することになったからである。
日本中が物つくりに懸命であった時代、製作者も使用者も一緒になり、問題点を討論し、解決していった時代、若造でもどの会社も工場の製作工程を見せてくれた時代、古い匠の下で、若い人達が、懸命に努力した時代でもあったのである。