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Perfume公演でのプロジェクションマッピングなど、先鋭的な音と映像の演出をプログラミングで支援している真鍋大度氏。テレビ番組「情熱大陸」にも登場し、米Apple社のMac誕生30周年スペシャルサイトにてジョン前田、ハンズ・ジマーを含む11人のキーパーソンの内の一人に選出されたた鬼才メディアアーティストだ。
(取材・文/上阪徹 総研スタッフ/馬場美由紀 撮影/栗原克己)作成日:14.01.31
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株式会社ライゾマティクス 取締役 |
きらびやかなアーティストが次々に登場する「第64回NHK紅白歌合戦」でも、最も印象的なパフォーマンスだと感じた人も多かったのではないか。動きに合わせてさまざまなグラフィックが投影される。テクノポップアーティストPerfumeのステージは、まさに、お茶の間の度肝を抜いた。 |
コンピュータとの出会いは、最初はやっぱりゲームからですね。小学校一年生の時アメリカに住んでいてATARIのゲームをやってました。高学年になると「MSX」を買ってもらい、その後「PC8801」を買ってもらって。BASICが流行っているころで、専門誌をよく買ってプログラミング言語を写経していました。秋葉原にも通っていたので、大人の人とかとも仲良くなってコピーツールを教えてもらったり。
高校に入ると、親戚のDJをやっている人の影響で、DJにはまるんです。サンプラーやエフェクターなどが面白くて。今のガジェット好きの原点ですよね。音楽を一から作るのは、かなりハードルが高いじゃないですか。ところが、DJミックスやサンプリングを使ったトラックメイクはちょっと覚えたらすぐにできる。しかも、それを人前で披露できるわけですね。楽器演奏に比べると学習コストが低い点が、DJの醍醐味でした。仲間を集めてバンド組んでライブで演奏しなくても、曲さえたくさん知っていればあっという間にクラブで披露できちゃうわけですから。 |
大学在学中もDJを続けていました。六本木で週に5~6日、1日で3件ハシゴでDJしていたような時期もあって稼いでいたし、これで食える気もしていました。僕の父はプロのベーシストで、母がヤマハに勤めていたこともあり、バリバリの音楽一家でした。DJもいいかな、と思って父に相談したら、本気でDJを目指すなら大学辞めてアメリカに行ってこい、と言われて。DJと数学の両立はとてもできないぞ、と。実際、一年のとき留年しましたが、そのころからまたパソコンをよく触るようになり、Hiphopのサンプリングネタをシェアするサイトを立ち上げたりしてました。アクセスカウンタとか付けて。大学の環境はUNIX+emacsでした。
DJは結構いいところまではいったけれど、当時は人生を賭けて勝負するところまでいけなかった。大学を辞める勇気はなくて。それでDJは月1回くらいになって、今度は家庭教師や塾の先生をやったり、空いている時間で勉強もできるからと警備員のバイトをしたり。実際、勉強は大変でしたから。素晴らしいJazzミュージシャンの方々との出会いもあってバンドにDJで参加させてもらったりもしました。 入社したのは、日本を代表する電機メーカー。いい会社でした。関わったプロジェクトは大規模なシステムの設計と開発。ドキュメントを読んで機能を拡張するのがメインの業務でしたが、新入社員にいきなりこんな責任のある仕事を任せるのか、と驚きました。 |
会社に入ったのが2000年。ちょうどITバブルの時代だったんですよね。大学の研究室の同級生で、後にライゾマティクスを一緒に立ち上げる友人が一足先に入っていたWebベンチャーに誘われたんです。それで、転職したんですね。Flashを触ったり、クラブやテレビとWebをつなげる企画を考えたりしていました。美女コンテストをやって、リアルイベントにつなげたり。サウンドデザインの仕事はこのころ多くなってきました。大規模なシステム開発から、2~3人でできるコンテンツ制作へと一気に仕事は変わってしまいました。 本当は3年くらい大手で下積みをしたほうが、よかったのかもしれません。若気の至りでした。でも、プログラムの書き方や設計や保守をきちんと考えて仕事を進めるなど、大手に勤めて身になったものは大きかった。大勢が関わるシステム作りのルールとか。いきなりメディアアートの作品を作っていたら、こうはならなかったと思います。すぐに辞めてしまい、会社に迷惑をかけて申し訳なかったと思っています。
しかも転職したベンチャーは、トラブル続出で結局、半年で僕からお願いしてクビにしてもらったんです。そうすれば失業保険がすぐに出ますから。以後、ハローワークに通ったりしていました。どうやってやり直すのか、悩みました。全部、中途半端に来てしまったわけです。 会社を辞めて半年くらい経っていました。学校は岐阜でしたから、東京から完全に離れることになる。自分でもよく決断したと思います。でも、結果的にこれが大きな転機になるんです。 |
IAMASも最初は衝撃でしたね。自分が生きてきた世界とはまるで違っていたから。発想が自由なんです。グループワークで課題をやったりするわけですが、僕は自分が実際に作れそうなことしか発想できない。実現可能なつまらないアイデアなんです。僕はコンピュータのキーボードに感圧センサを付けて、タイプする強さによってフォントサイズが変わるというベタなものを、IAMASに入って一番最初の課題でプレゼンしました。 当初はアナログレコードと音声解析技術を駆使して何かやろうと思っていましたが、そのアイデア自体がすぐに一般的なものになり、しだいに振動や低周波に興味を持つようになって。家まるごとスピーカーにしてライブをやったらどうか、なんて実験もしていました。木造の建物に巨大な振動子を取り付けて、共振する振動数でひたすら揺らすのですが、これが本当にものすごく揺れるんですよ。さすがに最後まで続けられませんでしたが。 2年間、卒業後にどうするかは考えずにやりたいことを、片っ端からいろんな実験をやっていました。アーティストになりたい気持ちはありましたが、どうやってそれで食べられるのか、全然わからなかったんですよね。ところが、メディアアート的な考え方で、インスタレーションや、エンジニアリングを仕事にしている先輩がいたんですよね。石橋素さん、纐纈大輝さんでした。たまたま石橋さんから東京芸術大学の非常勤講師を引き継いだこともあって、接点が持てたんです。
話をしてみたら、一緒にやろうよ、と言われて芸大の同僚たちと仕事することになりました。ショールームの常設のインスタレーションで、エントランスにカメラを設置して、人が入ってくると検知して照明パターンが変わったり、映像表示をしたりするシステムを一緒に作ったり、広告や小規模なライブなどでアート的なサポートをしたり。2004年くらいでしょうか。これが意外に食べられてしまって。 |
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友人と共同での会社設立は2006年。IAMAS卒業の2年後だった。当時30歳。だが、真鍋氏は案件との出会いがなかなかない。過去の実績をもとに、さまざまな会社に企画を提案しに行くも、全く相手にしてもらえなかった。ここから5年間、なんと真鍋氏は会社に住んでいたという。オフィスの一角の6畳間を自分の部屋にして、寝泊まりしていたのだ。コンピュータに向き合い、それこそ朽ち果てるようになるまで実験し、眠り、起き、また実験に取り組む日々。
そんな中、ほかの案件でノウハウを蓄積した「筋電センサー」や「低周波刺激装置」を使い、自ら実験することを思い立つ。テーマは、「ある人間の表情は別の人間にコピーできるか?」。このテストのために本人が実験台となり、電気信号で表情を強制的に変化させるユニークな映像をYouTubeにアップする。「Electric Stimulus to Face」だ。これが世界中で話題になり、160万回も再生されることになる。2008年のことだ。
卒業してからも、IAMAS時代に課題でやっていたことを、ダムタイプの藤本隆行さん、照岡正樹さんの元でいろいろと研究していました。心拍や筋電位などの生体データを使ってデバイスをコントロールしたり、音を生成したり。実はあのころ習得した技や考えていたことが、今もほとんどそのまま使えているんです。例えば、映像を音に変換するとき、そのままピクセルの値を周波数に変換するとピヨピヨ言うだけで使い物にならないのですが、それをピッチではなく、シンセシスのパラメーターに割り振ってあげることで急に格好良くなる。そういったノウハウをたくさん溜め込みました。
「Electric Stimulus to Face」をYouTubeに公開して面白かったのは、国内と海外で反応が違ったこと。日本では、「どうやるの?」というHowが中心だったのに対して、ヨーロッパでは「どうしてやるの?」というWhyを聞かれたこと。変なガジェットを作って実験しているヤツがいるという日本の感覚と、アートプロジェクトとして見てくれていた海外と。法医学者、スポーツ選手、ダンサー、音楽家をはじめとした多種多様なジャンルの人からメールをもらったのですが、いろんな視点で観てもらえたのが面白かったです。 でも、これが思わぬ反響になって。オーストリアのメディアアートの祭典で知られるアルス・エレクトロニカ・センターから、美術館のリニューアルで、こけら落としのパフォーマンスをやってほしいという依頼が来ました。無名の謎の日本人を呼ぶなんて、それこそすごいなと。YouTubeにアップしたやつをアップデートしてパフォーマンスにして、それから世界中のハッカーたちとコラボレーションする企画にも参加して。その時に一緒に開発しているハッカーたちにはできないプログラミング技術を、自分が持っていることにも気づいて、なんとなく世界のクリエイターの中での自分の立ち位置がわかった気がしました。 |
Perfumeのプロジェクトは、ライゾマティクスを立ち上げる前から、IAMASの同級生とPerfumeだったら何ができるかっていう話をよくしていました。とはいえ僕は当初、Perfumeのことをよく知らなくて、ミュージックビデオが面白いアイドルくらいに思っていました。そもそもポップミュージックのライブを見に行くこと、そのものがなかった。ところが初めてコンサートに行って、衝撃を受けたんです。ショーの完成度がものすごく高かった。今や誰もが映像の前でパフォーマンスしていますが、そういうことを当時からいち早くやっていて、映像と人のインタラクションが見事でした。
ただ、もっといろいろできるんじゃないか、とも思ったんです。例えば、リアルタイムで彼女たちの動きを赤外線カメラで解析して何かやるとか、お客さんにデバイスを渡してライブに参加してもらうとか。そこで、自分たちがほかのプロジェクトでやっていたことを、何度か提案したんですが、話は通りませんでした。顔に電気を流してる、よくわからないお兄ちゃんがよくわからないことを提案しているわけですから、なかなか信頼ももらえないのも当たり前でした(笑)。 結果的にLEDを内蔵した巨大風船が楽曲に合わせて明滅する舞台装置や、メンバーがレーザーで風船を撃ち抜く演出、3Dカメラで撮影したダンス映像が実際のメンバー3人と競演する様子などが大きな話題になりました。
ビッグアーティストのドーム公演というビッグプロジェクトでしたが、プレッシャーを感じることはありませんでした。むしろ、そんなプロジェクトに実際に携われるという興奮のほうが大きかった。あとは、あれだけの規模の一度きりの大事な公演に、当日まで成功するか失敗するかわからない僕たちを、スタッフのみなさんやMIKIKO先生、関くん、Perfumeのメンバーが使ってくれたという英断に感激しました。僕らでなくてもよかったんですから。僕らは選んでもらって本当にラッキーだったんです。 |
いろんな仕事をさせてもらっていますが、基本は自分がやりたい仕事だけを選んでやっています。大きく成功した事例が出ると、どうしても、それと同じことをやってほしい、という依頼になりがちなんですね。でも、僕たちがやりたいのは、それをアップデートすることであり、違うことをやること。だから、必ず違う提案をします。ただ、新しいことをやるのは、何かしらリスクが発生する。しかも、本番まで見たことがないことをやろうとすることになる。
進捗を示したり、最終的なアウトプットを提示することもありますが、多くの場合、ドライバやファームウェアなどローレベルの開発から始まるので、最後の最後までアウトプットが見えない。システムを作ってからコンテンツを制作しますから。そのプロセスはいわゆる映像制作とは全く違うため発注者を不安にさせてしまうこともあります。しかも、僕たちは時間の最後の最後ギリギリまで使います。それでも信じて待ってもらえるか。一緒にチャレンジしてもらえるか、ということが大事になりますね。 僕がひとつ、強調しておかなければいけないのは、僕の名前が前面に出ることは多いけれど、たくさんのプロフェッショナルたちのコラボレーションでできているプロジェクトだということです。優秀な人たちに囲まれている僕は、本当にラッキーだと思っています。名前を挙げ始めたらキリがないですが石橋素さん、比嘉了君、堀井哲史君のようにアイデアも技術もあるトップクリエーターが集っているし、僕が苦手な営業的なプロジェクトマネジメントをやってくれるチームもいる。だから、クリエーターチームはチャレンジすることに集中できるんです。優秀だし気が合うな、と思って声をかけて入ってもらった人がほとんどですが、公募もスタートしています。 プロジェクトごとにチームを結成するスタイルです。こんなの来たけど、誰かやる?という感じで声をかけあって進めてますね。基本的には個人の集まりなのでそれぞれが自分のプロジェクトを持っている感じです。僕は実装だけで入る時もあるし、企画だけの時もあります。全部一人でやるのは年に1~2個くらいしかないですね。 |
僕たちが考えると、どうしてもテクノロジードリブンになりがちですが、Perfumeのプロジェクトでは、全く逆です。この間もお客さんの上を歩ける靴が欲しいとリクエストされました(笑)。逆に新鮮なんです。アイデアや夢を聞いてワクワクさせてもらっている。そしてそこから新しいチャレンジをします。リスクを取ってチャレンジするモチベーションは、やっぱり人を感動させたい、驚かせたい、ということですね。Perfumeの場合は、メンバーの3人に喜んでもらえたらうれしいということもありますが、それが一番大きいかもしれない(笑)。
IAMASのころも、会社を作ってからも、今の状況は誰も予想していませんでした。みんな違う未来を考えてた。意外な方向に来たのは、いろんな人との出会いも大きいし、テクノロジーの進化も大きい。環境変化が自分たちのやってきたことに合ってきたんです。 僕たちは本当に運も良かったことが多かったけれど、異分野でチャレンジして業界のトレンドを変えるくらいのことをやろうとすることが大事だと思うんです。違うフィールドに踏み込む場合、いろいろな制約を知らないし、成功体験もないからから素人として自由に発想できる。だけど、プログラムで扱えるデータにさえなっていれば玄人的に実装できる。常識をくつがえして、いろんな新しい場を作っていく。それこそ、サービスやユーティリティ分野は競争率が高いし、込み合っていますよね。誰もが目指すのと、違うところに、抜け道があるかもしれない。そう思っています。 |
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真鍋 大度氏 株式会社ライゾマティクス 取締役 メディアアーティスト
1976年、東京都生まれ。東京理科大学卒業後、大手電機メーカーにシステムエンジニアとして入社。Webベンチャーを経て、2002年にIAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)に進学。プログラミングを駆使した表現を学ぶ。2006年、ライゾマティクス設立。2008年、石橋素氏とアンカーズラボ設立。2010年から『Perfume official global website』プロジェクトはじめ、数々のPerfumeプロジェクトに携わる。グッドデザイン賞、文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門大賞など受賞作多数。
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