偏見と風評の問題は根深いものです。いくら科学的には安全であろうとも、「事故を起こした原発からの処理水」に対して素朴な不安や疑念を感じてしまうのは自然な感情の一面もあります。そうした感情を科学的な安全性で否定されることに、「冷たい」「不愉快だ」と感じる方も少なくないかもしれません。
しかし一方で、客観的事実に耳を塞ぎ続け、こうした自然な感情に過剰に「寄り添う」ことは、不当な差別や風評の正当化と固定化につながりかねない危険なものです。
どんなに対策を重ね、事実や成果を積み重ねようとも「福島は汚染されている」と否定されることを、人間の出生にあてはめてみればどうなるでしょうか。科学的な事実が明らかにされることが、たとえば、過去に起こったハンセン病当事者と家族への差別を緩和してきた歴史なども軽視できません。
科学、ひいては客観的な事実や証拠を「振りかざす」などとネガティブに捉えて、人間の「素朴な感情」の正当性や無謬性を過信するべきではありません。
すでに事実がほぼ明らかになった、終わらせるべき議論を終わらせず、「誰もが納得し安心できるまで念のため警戒すべき」と保留し続けること自体が、当事者をさらに苦しめ、偏見を長期化・固定化し、損害をますます大きくします。
このままでは、処理水問題は莫大なリソースを浪費した末に、その代償は国民へとかかってくることが避けられません。「なんとなく不安だから」という根拠で、処理すべきものを処理せず溜め込むことにより、数十兆円規模にまで今後膨らむと言われるコストを、国民が電気料金や税金などで全て負担することにもなりかねません。
健康リスクを上昇させない「処理水」を海洋放出することで懸念されるのは、科学的に観測できる「汚染」ではなく、人の感情の問題、偏見と風評被害の拡大です。
東電福島第一原発に溜められている処理水はこれまで、環境処理可能なレベルまで無害化できること自体が周知されないまま、「処分できないもの」「溜め込むしかないもの」という誤解が既成事実化してしまいました。この誤解は時が経つとともにますます広まり、固定化され、状況はさらに悪化しています。
また、「海洋放出さえしなければ、リスクと風評拡大を防げるというわけではない」という視点も忘れられがちです。処理水を放出せず溜め続けることで生まれるリスクと風評もあり、しかもそれは処理水がある限り悪化するのです。
もしそれらを放置した果てに、タンクの老朽化、あるいは事故や災害などで中身が溢れたりしたらどうなるでしょうか。「流すも風評、流さぬも風評」という厳しい状況の中で、損害を最小限に抑制するための戦略が求められます。