書評
『愛の夢とか』(講談社)
植物にも似た言葉が生む、しずかな奇蹟
一冊まるごと全部が、言葉にならないはずのものでできている。とらえどころのないものが、とらえどころのないままに、どういうふうにしてか捕獲されて放たれている。どうすればこんなことができたのかわからない。一編ずつが、しずかな奇蹟だと私は思う。小説だから、もちろん言葉で構築されている。それどころか、言葉で編まれた揺りかごのような短編集だと言ってもいいのだが、でも、同時に、言葉ではないもの――水とか、日ざしとか、どこかで誰かがついたため息とか――で書かれているとしか思えない短編集でもあって、頭ではなく心に直接しみこんでくる。
わずか七ページの短さで、筋というほどの筋もないのにただごとではなくうすさびしい「アイスクリーム熱」も、男女の喧嘩のあとの空気を描写しただけなのに、生理のどこかを激しく揺さぶられる「いちご畑が永遠につづいてゆくのだから」も、死と喪失を概念の外側にだしてみせてくれる「十三月怪談」も。
川上未映子の小説を読むと、私はいつも、自分が子供に戻る気がする。目の前の世界を、ありのままに、一切の前提なしで、ただ見る以外になくなるという意味だ。まったく知らないものを見る目で。
「三月の毛糸」は、言葉で、まっすぐ、震災に斬込んだ一編だけれど、絶望も希望も排した書きぶりは見事で、その厳しさとフェアさは、おそらく著者の意図すらも超えて、優雅にまろやかに小説を小説たらしめている。
言葉というのは人為的なものであるはずなのに、この人の書く言葉は、人為より自然に属すもののように思える。奔放で、生命力があり、人為より自然に属すものがすべてそうであるように慎み深い。そのことに私はいつも感嘆するのだが、とくにこの本のそれは顕著で、信じられなければ読んでたしかめてほしいのだけれど、ここにある言葉は、誰にも見られていない庭に、静かに、いきいきとするするとのびる、健やかなつる植物のようだ。
植物といえば、この本には美しい庭のでてくる小説が二編収められている。ブラックな味わいがあり、こわいので見たくない、知りたくない、と思いながらひきこまれてしまう「お花畑自身」と、表題作でもある「愛の夢とか」がそれだ。
愛の夢とか。絶妙なタイトルではないだろうか。甘やかで、あいまいで、つかみどころがなく、可笑しみもあり、非常に不たしか。漠然としているのに、妙に密度が濃く、閉塞感もある。
この一編を、私はすばらしいと思った。「ばらの花には何百という種類があるから、このばらの、ほんとうの名前はわからない。でもこれが、ばらだということはわかる。(中略)どこをみて、これがばらだとわかるのだろうと、ときどき不思議な気持ちになる。とげがみえるし、花びらも、やっぱりどこかしらがばらだから、見るだけでそれはばらということがわかってしまう。(中略)どんなにはじめてみるばらであっても、それがばらであるなら、それはばらであることを、わたしはただちに知るだろう――なんちって」という出だしからしてゴキゲンなのだが、人の孤独にはさわれないし、さわるべきでもなく、けれど人は、たぶんとても風変りなやり方で、その孤独を互いに尊重し、飼い慣らし、守ることができるのではないかと思わせる、この一編は文学的に気高い。互いをテリーとビアンカと呼び合う老婦人と若い主婦の、どちらの過去も事情も語られないからこそ成立する物語空間の、完成度と美しさに息を呑んだ。
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