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【プロ野球】

9回に6点差を…“マシンガン打線”がおこした「帯広の奇跡」 ペナントの分岐点になった日没コールド引き分け再試合

2020年5月9日 13時3分

日没引き分け試合を報じる1998年7月13日付の中日スポーツの紙面

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「プレイバック あの人、あの時」

 記者が思い出の出来事を振り返る「プレイバック あの人、あの時」。第5回は千葉亨記者(50)が横浜ベイスターズ(現DeNA)が38年ぶりのリーグ優勝、日本一達成の分岐点となった1998年7月12日の横浜ー中日戦(帯広)を振り返る。横浜は6点を追う9回裏に中日必勝リレーの落合英二、宣銅烈に6安打を集中させ、同点に追い付き延長12回日没コールド引き分け。黒星を回避したこの引き分けを挟んで連勝は10にまで伸び、Vロードを駆け上がっていった。

 「マシンガン打線」の威力を思い知らせる猛攻撃が、北の大地で繰り広げられた。首位に立つ横浜は7月11日、2ゲーム差で追う2位の中日と釧路で対戦。6ー5の接戦を制して3ゲーム差に広げた。翌日に帯広で行われた中日戦は8回まで3ー6とリードされ、9回表に山崎武司の3ランで3ー9。6点差に広がり敗色濃厚となったが、逆にこの3ランが“奇跡の扉”を開いたともいえる。3点差なら9回裏の頭から守護神の宣が起用されるはずが、セーブがつかない状況。8回途中から救援の落合をイニングまたぎで続投させる呼び水となったからだ。

 ミラクルは9回裏の先頭打者、駒田徳広の左前打から始まった。ここから中根仁、代打佐伯貴広の連打でまず1点。さらに代打井上純の一ゴロを山崎武司が後逸したことでマシンガン打線が止まらなくなった。代打荒井幸雄の中前適時打で4点差、無死満塁として落合をKO。慌てて宣が救援したが、その後も石井琢朗、波留敏夫の連続適時打と鈴木尚典の押し出し四球で1点差。そして1死後の満塁、この回10人目の打者となった駒田の二ゴロで1点を奪い試合を振り出しに戻した。

 その後は両チーム共に譲らず無得点。当時の規定は延長15回まで戦える規定だったが、「帯広の森野球場」は夜間照明設備がなかった。日が暮れてきた延長12回裏終了時点で審判団が協議、日没コールドの引き分け再試合となった。

 土俵際で6点差を追い付いて中日との3ゲーム差をキープし、この引き分けを挟んで10連勝。横浜に勢いをつけたこの試合はターニングポイントとなったが、今でも記者の印象に残っているのは権藤博監督の先発投手に対する信念だ。

 帯広で先発した野村弘樹は2回に7本もの長短打を集められ、一挙に5点を失った。普通ならばこの回途中、遅くてもこの回限りで代えられてもおかしくない。しかし野村は3回もマウンドに送られた。後日、記者は「なぜ続投させたのですか?」と聞いてみた。「今の先発投手が投げるのは1週間に1度。中継ぎ投手と違って残り6日間は投げないのだから6、7イニングぐらいはしっかり投げなきゃいかんでしょう」。それが権藤監督の答えだった。

 目先の1試合にとらわれず、権藤監督は常に1年間トータルで考えていた。野村のようなエース格に求めていたのは歯を食いしばってマウンドを守り、中継ぎに負担を掛けぬ責任感。序盤に5点を奪われようとも、この信念が揺らぐことはなかった。むしろ野村の身をもって先発投手全員に周知させるいい機会だと考えたかもしれない。同時に権藤監督は「打たれっ放しだと先発投手は嫌なイメージを1週間ずっと引きずってしまう。最後は良いイメージでマウンドを降りてもらいたかった」とも語っていた。指揮官の期待に応えるように、3回以降の野村は5イニングを被安打3の1失点。2回の負のイメージを上書きして消去するには十分な内容だったかもしれない。

 その野村は1週間後の登板で広島を相手に6イニングを2失点。当時リーグトップタイの8勝目を挙げた野村は「我慢して投げていれば野手のみんなが点を取ってくれると思った」と話した。1週間前に野村の心に刻まれた打線への信頼感…。それが他の投手にも次々と広がっていった。土俵際で6点差を追い付き、日没コールド引き分けに持ち込んだ「帯広の奇跡」。98年の横浜の結束をさらに強める契機となった。

 

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