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読書人紙面掲載 特集
更新日:2020年4月4日 / 新聞掲載日:2020年4月3日(第3334号)

ジャン=リュック・ゴダール
純真な信徒〔フィデル・カンディード〕
『イメージの本』からの発言(翻訳=久保宏樹)

二〇一九年はフランスにおけるジャン=リュック・ゴダールの年だった。二〇一八年のカンヌ映画祭以来見ることのできなかった『イメージの本』が、五月なかば急遽一般向けに公開された。映画館ではなく、ARTE(テレビ局)のウェブサイトでの公開だった。十月には、パリ郊外のナンテール=アマンディエ劇場において、ゴダールの企画展が行われ、そこで仏国内では初めての『イメージの本』の「上演」となった。二〇二〇年一月から三月にかけては、シネマテーク・フランセーズでレトロスペクティブが行われ全作品が上映されている。そのような経緯もあり、多くのメディアでゴダールの名前を目にすることになった。以下は、映画批評の季刊誌『トラフィック』一一二号(P・L・O、 二〇一九年一二月刊)からの転載である。言葉の採録をしたダヴィッド・ファルーは、二〇一八年の『ゴダール――政治映画の発明』で広く知られることになったゴダール研究者である。
今回の転載を快諾してくれたジャン=リュック・ゴダール、ダヴィッド・ファルー及び『トラフィック』編集部に感謝する。〔なお、原題の「純真フィデル信徒カンディード」(Fidele Candide)からは革命家フィデル・カストロが連想される〕。(翻訳・註=久保宏樹)
第1回
映画にとどまること

映画『イメージの本』より
無意識に、少しずつ意識的に、世界に結びついて好奇心を持ちたくなりました。そして同時に、庭師のようにして、世界への純真な関係――ヴォルテールのカンディード〔註1〕のような――を持ち続けたくもなりました。人々が多かれ少なかれ現実・・と呼ぶものを、私たちは参照することができます。しかし、自分自身の現実にとどまりながら、つまり「映画作り」を通じてです。またはすでに作られた作品を通じて。またはすでに作られた映画を通じて。アメリカと中国の間の商業的小競り合いに関心を寄せることもできますが、映画の中にとどまることによって、私は今日の世界をメタファーの器械・・・・・・・・のように考えています。

そうした考えに、私は少しずつ達していきました。例えば、スクリーンは平面である、こう考え始めることによって、そのように見ることになりました。今日では、各々がスクリーンの中に奥行きを生み出そうと工夫を凝らしています。その一方で私は、「最も難しいのは、深さの中に平面(=du plan)を位置させることだ」というセリーヌの一節を思い出します。

私は、いつでも映画にとどまることを好んできました。『ゴダール・ソシアリスム』を監督した際に、ユークリッドが閃いたような一つの公理を見つけました。「X+3=1」つまり「X=-2(マイナス2)」というモンタージュのための一種の公式です。もし一つのイメージを見つけたいのであれば、別の二つを取り除かなければいけない。子供ですらわかる初歩的なことです。その作品にはアラン・バデュウが参加していたので、私は彼がそれについてどのように考えるかを尋ねてみました。彼は、いくつかの公式を見つけようとしました……なので私は彼に対して、「それは定理なんかではない。メタファーの方程式だ」と言いました。もし私たちが、そのようなことを言えるのであれば。何を意味することになるか、私にはわかりません……実用的に考えるならば、学生たちに教えることができます。

『ゴダール・ソシアリスム』では、「ソシアリスム」は作品の名前です〔註2〕。社会主義についての・・・・作品、もしくは研究ではありません。もし私たちが「フィルム・ジレジョーヌ」〔註3〕を作るのならば、その作品はジレジョーヌでなければいけません。「形式においてナポレオン風」であろうとしたアベル・ガンスの『ナポレオン』のようになるでしょうか? そうかもしれません。ガンスは成功しませんでした。ネリー・カプラン〔註4〕との結びつきは幸運なものではなかった。彼女はガンスにいい影響を与えなかった。しかし、彼の『マジラマ』には、何かがありました。今日では、アベル・ガンスの三つのスクリーン、「ポリヴィジョン」について、私は次のように考えています。「一つのスクリーンでは十分ではない。なぜならば、平面だからだ。セリーヌの考えが適用されていないからだ。ゆえに、別のスクリーンを置く必要がある」。それが、ある瞬間には、私を3Dへと駆り立てました〔註5〕。しかしながら、私たちがCNC〔仏国立映画センター〕に助成金を頼んだ際、彼らは「どうして3Dで犬を撮影するのか」と言いました。少なくとも三という数字が必要なのです。ギリシャ人にとって、一は最初の数字ではありません。一は全てでした。一であるものとしてのスクリーンに関しては、今日ではそのスクリーンこそが絶対的な全てですが、私は「そうではない。それが全てではない」と考えました。

どのようにして、そうした考えが徐々に現れてきたのでしょうか。私の作った映画を年代順に少しずつ考えることによってです。

制作された際の状況のせいで、少しも好きになれなかった一本の作品を覚えています。『彼女について知っている二、三の事柄』と並行して、事故のようにして作られた『メイド・イン・USA』です。デビュー当時に援助してくれたプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールを手助けするために制作されました。「先立って配給が期待できて僅かなお金を稼ぐことのできる作品を一本作ることはできないだろうか」と彼に頼まれました。マリナ・ヴラディに会いに行ったニースで買った「セリ・ノワール叢書」〔ガリマール社の推理小説レーベル〕の一冊を手早く翻案することを提案しながら、私は了承しました。当時は、その作品を本当に好きにはなれませんでした。一時間半の尺にするために様々なショットを引き伸ばしました。すべきことがわからなかったからです。したがって、少し後ろめたく感じていました。その作品を見返したら、実は全く異なったものであったということがわかりました。あえて言えば、私自身のやり方において、非具象芸術を再開していたのです。ナチスの支配からの解放の少しあとに始まった非具象絵画では、ハンス・ハルトゥング、ジャン・バゼーヌ、ギュスターヴ・サンジェといった二、三人の画家が私を狼狽させました。要するに、何かを訴えかけてきたのです。『メイド・イン・USA』は、そうした経験を通じて現れたものです。もしくは、後になって見たニコラ・ド・スタールのようなベタ塗りによってです。ええ、以前には考えていなかった一方で、私の映画のフォルムとして現れてきた非具象的なものがあったのです。以前、それはどちらかといえば「現実」でした。(もしくは、近くのニヨンの映画祭〔註6〕が「現実のヴィジョン」と呼んでいるもの、そのような呼称は共感を見出させることで愉快な気持ちにしてくれます。)

今日では、『メイド・イン・USA』ような作品に、ベタ塗りの色を、もしくは何よりも様々な色を知覚しています。それらの色は社会的現実でもあったのに、そう見ることができていませんでした。要するに、「私の行っていたことは本当に無意識だった。いずれにせよ、手が導こうとするのとは別のことを、筆が勝手に行っていたようだ」と言い聞かせ、私は自らを納得させています。言うならば、筆が一人で仕事をしていたのです。

セザンヌについてのかつてのインタビューを覚えています。とある通行人が、百回目のサント・ヴィクトワールを描いているセザンヌに遭遇し「ああ。セザンヌさん、あなたの山は美しい」と言いました。セザンヌは彼に「馬鹿者! これは山ではなく絵だ」と言いました。今では、私も自分の作品に対して、そのように言う誘惑を持ち得ます。私にとっての「断絶」は、『フォーエヴァー・モーツァルト』とそれに続くいくつかの作品を出発点として起こりました。「そうだ、見返してみたらどうなのだろうか」と思ってたまたま見返した『メイド・イン・USA』のような、先行する作品もありました。私自身の作品をDVDで見返すことは稀です。完全なコレクションを手元に置こうとはしていません。欠けている作品があります。

〔註1〕[訳註]ヴォルテールの著作に『カンディード、あるいは楽天主義説』がある。「カンディード」は「純真、無邪気、愚直」の意味を持つ形容詞。
〔註2〕(JLG)「当初、私はその作品に対して、別の呼び方をしていました。何と呼んでいたかはもうわかりません。『フィルム・ソシアリスム』〔註3参照〕というタイトルは、ジャン=ポール・クルニエがシナリオを読んだ際の、彼の思いつきです」(『民主主義についてのエッセイ』二〇一七)。ジャン=ポール・クルニエ=作家(一九五一―二〇一七)。とりわけ『完膚なき海賊行為』で知られる。(JLG)「彼の本は、船の内部において、海賊たちの社会はとても非常に平等であったということを示していました」。
〔註3〕[訳註]『ゴダール・ソシアリスム』の原題は『フィルム・ソシアリスム』。「ジレジョーヌ(黄色いベスト)」は、二〇一八年秋から続いている仏政府に対するデモ運動のシンボル。
〔註4〕[訳註]ネリー・カプラン=作家(一九三一―)。一九五四年から、アベル・ガンスのアシスタントおよび女優を務めた。『マジラマ』(一九五六)はスプリットスクリーンとは異なり、実際に三つの映写機を用いた。
〔註5〕『三つの災難』(オムニバス映画『3×3D』(二〇一三)の一編)と『さらば、愛の言葉よ』(二〇一四)。
〔註6〕[訳註]「現実のヴィジョン―ニヨン国際映画祭」。ゴダール居住のスイスの自治体ロールから一五キロ離れた自治体ニヨンで毎春開催。
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