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読書人紙面掲載 特集
更新日:2020年4月4日 / 新聞掲載日:2020年4月3日(第3334号)

ジャン=リュック・ゴダール
純真な信徒〔フィデル・カンディード〕
『イメージの本』からの発言(翻訳=久保宏樹)

第3回
全てを言う、あることを除いて…

人々がすることについては、何時間でも何時間でも話すことができます。『映画史』において、私はオスカー・ワイルドの言葉を引用しました。「正真正銘の歴史家は為されなかったことについて語る」。ペギー〔註7〕は『クリオ』の中で「為すことについて言うのを除けば、何でも言うことができる」と書いていました。私たちが為すことになるのは、イメージです。何でも言うことは当然のことです。しかし、為すことそのものについて言うことはありません。なので、例外と手を組む必要があるのです。私はそこに、人々が為すことだけではなく、為さないことも付け加えました。要するに私が試みたのは、「されないことをしてみよう」ということです。なぜなら、人々がすることならば、わざわざ試す価値はないからです。私は、誰かがすることを繰り返す気はありません。利用することはあるかもしれませんが。私の考えでは、そうした試みは、『カイエ』の人々が――私の知らない他の人々も同様に――昔から今日まで好み続けている、私たちの好きな全ての映画作家が、自分たちなりに考え言っていたことなのです。まさに、そのような闘争家の映画においては、テレビが行わない類いのものを作るようにしましょう。

「私にとって、言語は戦術であり、戦略ではありません。言語活動はもっぱら戦略であり、戦術ではありません。そのことは、何を意味するのでしょうか。私にはわかりません。」


名前を思い出そうとしなければ、それは隠れたままだったでしょう。でも私は何と呼ぶのかと考え続けてしまうので、名前が「そこにいたのに」と言いながら、ふと姿を現わすことになるのです。言葉は、誰かがそれについて話していても見つけることができない時に、ふとそばにやって来るたちの悪いものです。イメージは、言葉ほど質が悪くありません。

アルファベットの全ての文字の中には倒錯したものが含まれています。言語はとても倒錯しており、全ての不幸は言語に由来します。人々は、自分たちの話していることを理解していません。私たちが映画作品について話したのどうかは誰にもわかりませんし、あなたたちが批評誌の中でそれを行い続けるだけです。

テキストに対する私の古くからの敵対心――多分に使役しながらも警戒している――について、今日では、もう釈明すること・・・・・・はありません。もうしたくないのです。純真カンディードであり続けるほうがいいのです。

ある時期には、ジャック・リヴェットとは反対に、映画的言語活動――今日では「言語」と言われるものでしょう――があると考えていました。映画的言語はとても貧しいものです。文学言語はより豊かです。本当に優れた映画作家よりも、本当に優れた文筆家の方がより多くいるのです。マルグリット・デュラスの一つのテキストは、例えば、ゲディギャン〔註8〕のすべての作品に値します。彼の映画の中には、面白いものが確かな数あり、そのことに関して尊敬もしています。しかし、「彼の憤慨は真摯であるが、それは彼の筆先には届かなかった」(サルトル)。

私の気持ちを述べます。偉大な文学と偉大な絵画の領域では、プルーストまたはドストエフスキー、ブランショがおり、偉大な文筆家としては、ジョイス、ドストエフスキーなどが、自分たちの書く物よりも遠くへと行こうとしていたということです。私は、映画作家たちが相対的に等しい存在であるように考えています。つまり、映画の中には「自由、平等、博愛」という良い面があるのです。「ダグラス・サークがカサヴェテスよりも優れてる」と言うことはできません。彼らは相対的に平等であり、それぞれが可能な限りのことを行おうとしていました。一方で文筆家たちは「文学よりも遠くへ行く」という、明確な目標を持っています。

しかし、ラングロワの遺産としての「映画の原因(=大義)」を共有する映画作家は、本当に僅かです。リヴェットは共有していたと言えます。彼の評論「秘密と法」の断片を、『イメージの本』の第四章「法の精神」の中に置きました。

絵画に忠実であり続ける画家は依然としています。彼らの行っていることは、もうドラクロワでもレンブラントでもありませんが、いずれにせよ絵画ではあります。絵画のある種の考えは、印象派画家たちによって締め括られました。私にとってロスコは、印象派の画家です。絵を見るために列をなす人々は相変わらずいます。見るために列をなすということは、ある時代において、私とかつての二、三人の友人たちにとっては映画の発見であり、自分自身への忠誠であった、誠実さのようなものです。「映画を体現しているのか」。意識してきませんでした。もしかすると、経済的に役立っていたのかもしれません。映画は、何かへの誠実さのイメージです。

〔註7〕[訳註]シャルル・ペギー=作家(一八七三―一九一四)。作品『クリオ』は『ゴダールの映画史』「4B徴は至る所に」においても使用されている。
〔註8〕[訳注]ロベール・ゲディギャン=映画監督(一九五三―)。『マルセイユの恋』『シャン・デ・マルスの散策者』などで知られる。
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