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【ドラニュース】デビューの年に35勝・防御率1.70…権藤博の投手人生は『閃光』だった 凄まじい結果以上に凄まじい内容2020年5月15日 11時46分
渋谷真コラム・龍の背に乗って[強竜列伝・権藤博]権藤博(1938~)の投手人生は、いわば目もくらむ閃光(せんこう)だった。激しく、短いが美しい。デビューにしてクライマックスは61年。ドラフト制はまだない。巨人からも口説かれた権藤は、1軍監督に就任する濃人渉との縁と「先に声をかけてくれた」という理由で中日を選んだ。義理を重んじる九州男児は、投げて投げて投げまくった。
登板69試合、35勝19敗、防御率1・70。結果もすさまじいが、内容はもっとすさまじい。32完投、12完封、ダブルヘッダーに連投したこと4度(うち3度は完投&救援)…。429イニング1/3は永久不滅、2リーグ分立後の最多記録である。つまり、当時の物差しで測っても、権藤の投げっぷりは尋常ではなかった。 「野球をできるだけで幸せだろうと。あのころはまだ、赤紙一枚で戦地に駆り出された人が監督になっていた。そういう風潮だったから」 権藤は戦中生まれだが、濃人は中国戦線で砲弾の破片を受けた。あこがれていた稲尾和久と同じように「頼むぞ」と言われれば黙って投げた。権藤、権藤、雨、権藤。有名なフレーズは、巨人のエース堀本律雄が報道陣に漏らした言葉が元になっていると伝わる。それに最も近かったのは7月5日からの11日間。完投、雨、移動日、完投、雨、移動日、先発、雨、雨、移動日、先発…。チームの勝ち星(72勝)のほぼ半分を稼ぎ、巨人(71勝)を上回ったが、引き分けの差で2位に甘んじた。タイトルを総なめにし、2年目も30勝。しかし、右肩の寿命が尽きた。成績は急降下。野手転向をへて、8年で引退した。 PR情報
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