SINK

なんで、愛情がほしいんだろう。

服も着ずに、窓に映る満月を見つめる。

女らしくもなく胡座をかいて、フーッとタバコをふかす。煙たいだけの白い闇が部屋を埋めて、虚無を演出してくれる。

これも、なんのために吸っているのかわからない。ただ、口が寂しいから、それだけ。煙を肺に入れることをいいと思ったことも、この煙を美味しいと思ったこともない。

ただ、何かに縋りたいだけ。私のバランスが崩れてしまう前に、支えてくれる棒が欲しいだけ。

愛情はそのひとつ。1人は好きだけれど、独りは嫌だと思ってしまう。出来ることなら、誰かに愛されて、幸せに、笑っていたい。なんて、何処かで聞いたことのあるような、安いセリフをのうのうと頭に浮かべてみる。


でも、それは無理な話なのかもしれない。

私の後ろでスヤスヤと眠るこのセフレとも言えない男に、愛情なんて捧げたことがないし、そんなものなくたってセックスは出来る。


そう教えてもらえただけでも、儲けもんだったりして。


ああ、私は空回り。

何をするにもうまくいかないのは、物事の本質を全て取り違えているから。


もう頑張りたくないの。

努力をしたくないの。


…なんて、嘘。



本当は、もっときちんと、素敵な人になりたかったのに。なんでこうなっちゃったの。っていつも思うけれど、それはいつだって私のせいで。頑張ろうと思えば思うほど、糸の絡まったミシンのように、ガタガタと音を鳴らす。ただのガラクタ。


もう、遅いかしら。まだ、遅くないかしら。



窓をすこし開けると、透き通る風が部屋の中を浄化する。白い闇を照らしてくれた。


ごめんね、ごめんね。きっとたくさん傷つけたのは私の方なのに。

可哀想な顔して、傷付いたようなフリをしてごめんなさいね。



最低なのは私の方。

私の中の最高の男は、あなたではないけれど、本当の意味で優しい人だね。


今晩で最後よ。本当にほんと。

でろんと伸びた腕に頭を乗せて、最後の晩餐の夢を見る。


あなたは幸せ?


…私は、しあわせだよ。



(きっと、ね。)

軒下に咲いたタンポポも、今は綿毛になって、風が吹けば飛んでいく。そんな、儚いものなんだよ。またね。

3月31日

「君、桜の見頃はどのくらいの期間だと思うかね?」


『…?1週間くらいでしょうか?』


「ふむ、そのくらいまでは確かに花がついているね」


『ええ、どうも、そう思います』


その人は少し黙って上を見上げた。そして、ゆっくりとこう続ける。


「私はね、一瞬だと思っているのだよ」


『…一瞬、ですか?』


予想外な答えをしたその人の横顔を、僕は見つめた。依然として一点を見つめながらこう続ける。


「そう、一瞬だ。君、今日の桜は何分咲きかね?」

『…さあ、七分咲き、というところでしょうか?』


所々満開ではあるが、まだ大きく膨らんだ蕾のある桜の木。ソメイヨシノと呼ばれるこの木は、江戸時代から日本人に親しまれてきた交配種だ。

白に近い花びらは密集して、柔らかなさくら色を作り出す。青く晴れた空によく映えて朗らかに咲いているのであった。


「そうか、七分咲きか。この気候であれば明日の方が見頃と言ってもいいかもしれないな。そう思うかね?」


『ええ、明日の方がもう少し花が開くでしょうね。満開になるやもしれません』


「だろうなぁ。だが、明日、雨が降ってしまえばどうだろう?」


『半分は散ってしまうことになるでしょうね』


「そうだろうとも。すると、やはり今日が見頃だったかもしれないと後悔することにはならないか?」


『ええ、きっとそう思います』


「…自然とは予想ができないものだ。今日どうなるか、明日どうなるかなんて誰もが知り得ない情報だ。一寸先も明暗なのだよ、君。そこで思うのは、一瞬を大切にすることだ。桜はね、寒い冬をじっと堪えて暖かくなると一気に花開く植物なのだそうだ。いつ散ってしまうかも分からぬまま、懸命に咲き乱れる。花開くどの瞬間をとっても、それは見頃なのかもしれない。君、人生においても同じことのように、私は思うのだよ」


『…はぁ、難しいものですね』


「ああ、実に難しい。こればかりは容易い問題ではない。もしかすると、失敗が起こるかもしれぬからな」


1ミリたりとも視線を逸らさず、真っ直ぐに目を細めて桜を望む。ゆっくりと流れる雲は、我々の感じている時の流れとは全く別のもののように思えてきて、慌ただしく心を疎かにしていたことを気付かせてくれるようだった。

もう、桜の咲く時期か。思い返せば、あっという間に時間は過ぎてしまっていて、目の前にあることに一生懸命になり過ぎていた。出会いと別れに慣れすぎて、自分がサイボーグにでもなってしまったかのように思う。いつの日か涙を忘れ、笑顔を忘れ、機械のように動き回り、〈頑張っている、頑張っているんだ〉と言い聞かせるようにして自分を納得させていた。

自分自身で〈頑張らねばならない世界〉に仕立て上げていたのかもしれない。しかし、それはそれで間違いではなかった。不安や焦りに追い越されぬように、自分を保てるようにする術だった。


「君、花は毎年必ず開く。この花を見る人は変わっても、この花を咲かす木は変わらない。誰が見なくたって、この桜は咲くのだよ。ただね、我々のことを見ている人はどこかにいるんだ。良くも、悪くもね。たった一瞬の良い行いも、たった一瞬の悪い行いも、きっと誰かは見ているのだと、私はそう思うのだよ」


『ええ、同感であります』


「だからね、一瞬を大切にしたいと私は思う。死ぬ、その瞬間まで。これは大いに難の多いことだけれども、ね。その一瞬には、花を咲かすまでの苦労と想いと喜びとが凝縮されているように思うからね。そこに気付けるような心を養いたいね」


つまらない話だが、と最後に付け加えてその人は桜並木を歩いて行く。あんなに大きく見えていた背中が、少し古ぼけて映った。ただ、偉大なる背中に変わりはなかった。長く慕ってきたその姿が、どんどんと小さく遠くに行ってしまう。手を伸ばしても、もう届かないところへと旅立っていくように思えてきて、訳もわからず頬に一筋の温みさえ感じた。


僕は春が嫌いだった。新しい一歩を踏むのは楽しみでもあるが、不安にも思うから。ただ、始まってしまえば順応していく。それは経験を積んでからわかるようになったことだった。

僕はその一瞬が嫌いなだけだったのかもしれない。食わず嫌い、みたいなもので。


どんなに遠くに居ても、同じ空の下。その人の姿、言葉、表情を心に焼き付けている。支えてもらっているという温もり。たくさんの感謝で心が溢れる春。なんて暖かい風なんだろうか。


好きだ。

今の僕は、そんなふうに思える。


ああ、今度は。

そう、今度は僕の番だ。

どんな一瞬も、包めるように。


季節外れの雪を溶かして、道なき道を踏み分ける。


『ああ、今日は見頃ですね…見ていますか?』


今は亡き師の面影を桜の花びらに重ねながら、遠くの空を見上げて笑った。


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前に進むことが怖いこともある。きちんと出来るかわからないし、嫌われたくないし、なんだよ弱っちいな俺って思うし、くよくよすんなよ、前向け前って。

でも、やっぱり少しでいいから前へ。たまに休んでもいいから、時にがむしゃらに、不器用なりに、もがいてみないと始まらない。

‪自分を見つめ直して、努力をしよう。自分の非は認めて、ちゃんとごめんなさいとありがとうを伝えられるように。曖昧な自分とはさよならを告げて。‬

人が離れていくってことは、もちろん俺に原因があるわけで、きちんと受け止めないといけない。


「自分らしさ」と「自分の好きに生きる」を俺は履き違えていたと思う。本当に頭が悪い。殺したくなるよ、自分を。


でも、そうする勇気もないから今日も息をする。


甘えすぎていた、周りにも自分にも。

嫌いな自分を変えたい。今年は過渡期だと思う。自分に厳しく、負けない。

雨のち春

雨だ。

曇天の中、サーっと降り注ぐ雫たち。

雨樋を伝う音が心地いい。一応作っておいたてるてる坊主が、窓越しに揺れる。白くてふわふわのスカートが、少し透けている。


今日は私のハレの日。この制服に袖を通すのも、今日で最後だ。

世間で話題になっているウイルスのせいで、式が中止になってしまうところもあるらしい。行きたいような、行きたくないような。そんな葛藤が私の中で渦巻いていた。

今までの物語がすべて思い出になってしまう。長編小説を読み切ってしまう時の、切なさとそれでも読み進めてしまう心の早まりが交錯したような、なんかそんな気持ち。


ちゃんと噛みしめたい。

そんな思いに駆り立てられて、今日は少し早めに家を出ることにした。


「いってらっしゃい」


玄関を後にする私の背中に向けて、いつもの声が響く。

今日はカバンがいつもよりずっと軽い。嗚呼、そっか。もうお弁当はないんだ。ファスナーにつけたキーホルダーたちをカラカラと鳴らして、『いってきます』と声を出した。



バッと空色の傘を広げて、てくてくと歩く。3年間、毎日通った通学路。むわっと広がるアスファルトの匂いを吸い込みながら、まっすぐに歩く。草に溜まっていく水に町並みが映ると、なんだか急に寂しくなってきた。


まだ着慣れない制服に身を包んだあの日。新しい友達ができるかどうか不安で仕方がなかった。引っ込み思案だった私は、そんな自分を変えたくて、地元の友達があまり行かない学校を志望したっけ。

名前も知らない人の群れに怯えて、教室の机と椅子に身を隠すように座って、窓から見える雲の流れを必死に目で追っていた。


そんな不安も杞憂に終わり、すぐに何人か友達ができた。


クラスの出し物、なかなか決まらなかったなぁ。夜遅くまで学校に残って、おやつパーティーなんかして先生に怒られたり。

古文の授業はいつも子守唄に聞こえて、ぐっすり眠ってしまっていたり。

日本史でとった33点のテスト、覚えるのが苦手だった。ノート一冊分、歴史上の人物で書き潰したっけ。

友達に貸した教科書、落書きされて返されてたの知らなくて、授業中に笑っちゃった。


失恋に終わった恋も、初めて両想いになった恋も。あー、これはちょっと忘れたいかも。

つまらない時間はゆっくりと、楽しい時間はあっという間に。時の流れは平等なはずなのに、体感速度は違っていたように思う。


そんなことを悶々と考えているともうバス停に着いていた。日に5本しか出てないバスには困らされた。

熱を出して迎えにきてもらった夏の日。あたふたしているお父さんにコンビニで買ってもらったハーゲンダッツ。

甘くて冷たくて、ちょっと高級な味で。熱も悪くないな、なんて。


毎日お弁当を作ってくれた、お母さん。仕事もあるのに、それだけは欠かさず作ってくれた。少し早く家を出る日も、一緒に起きてくれて、「いってらっしゃい」と言ってくれる。


時に喧嘩もするけれど、朝起きたら何事もなかったように「おはよう」をくれて、狸寝入りのときも「おやすみ」と囁いてくれる。


なんだ、こうして考えるとすごく幸せだったんだ。恵まれていた。なんでもない、当たり前のことをだけど。


灰色に霞む景色を眺めて、窓ガラスに伝う雫をなぞった。呆気なく流れ落ちてしまうそれをずっと眺めて。ブロロンと排気ガスを出しながら走るバス。何度寝過ごしてしまったかは数えていない。

あの角を曲がると、私の通う学校が見える。大きくそびえる学舎が、今日に限って少しだけ異世界のものに見えた。


錆びた下駄箱、くすんだ上履き。焦げ茶色のローファーは少しくたびれている。

いつもの教室、ガラガラと扉を引くと少しお澄ましした友達たち。空気が少しだけピリッと感じて、でもいつもと変わらない笑顔がそこにあった。

みんなそれぞれに就職や進学が決まっている。春からバラバラ。遠くに行く子もいる。


こうして、当たり前のようにここで過ごした日々。笑い合った時間。喧嘩した日。泣いた日、怒った日。春、夏、秋、冬。全てが詰まったこの教室。各々で聞こえてくる話し声。胸につけた生花のコサージュ。黒板にあるおめでとうの文字は、担任の先生の字。


式は速やかに、ひっそりと行われた。保護者の参列も二人までとされて、みーんなマスクをして。少し変な感じがする。いつもなら来賓の長ったらしい式辞や祝電披露があるけれど、そんなことも今年に限ってはカットされて足早に済んだ。そそくさと体育館を後にして、最後のホームルーム。一人一人卒業証書が手渡され、思いの丈を話す先生。涙で何言ってるかほとんど聞き取れなかったけれど…。

ただ、「つまずいて転んでも、立ち上がって。生きてたらいくらでもやり直せるから、あなたらしさを忘れないで」って言葉をくれた。

今まで、たくさんの人が私たち子供の前にレールを敷いてくれていた。できるだけ転ばないように、つまずかないようにと願って。大人は経験を重ねている分、後先がわかってしまうらしい。そうしたら失敗する、とか。

でも、私たちはそれを知らずに走っていってしまう。手を引かれると、振り払いたくなってしまう。その気持ちが少しずつなくなっていく感覚が今は少しだけあって、あの時はごめんなさいと思うこともあるけれどやっぱり言葉にはできない。


これからは、自分の道を自分で作っていかなければいけない。みんなの目は不安と、それよりも大きな希望でキラキラと光を含んでいる。



一人佇む教室。机の上にあるたくさんの文字が書かれたノートのページの最後に、ありがとう、と一言書き足した。

裏表紙をそっと閉じてしまうと、幕を閉じた一つの物語。


新しいノートの真っ白なページには、なんて書こう。



いつまでも色褪せない思い出を、心の片隅にそっとしまって。新しい一歩を踏み出す。



そう、明日桜が咲く。

漠然と、しかし何かを確信した私は、軽いカバンを背負って教室を後にした。


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いつの日か、また。あの日と変わらぬ笑顔で。

頑張ったけど、努力はしてない、出来てない。「頑張った!」って胸張ってる自分が惨めに見える。努力するのは苦手。でも努力あってこその「頑張った」だと思ってる。結局表面だけ。薄っぺらいね、俺。

やるしかないんだよ。やれよ。立てよ。

好きなことばっかして生きてんなよ。

なんとなく心にはあるんだけど、どう言葉で表せばいいかわからない。そんな気持ちを言葉にして物語に乗せることのできる人は本当にすごい。だから、文字が好きだ。

コーヒーは苦いから苦手。

どんどんと体は大きくなって、それに伴っているのかはわからないが、それなりに心も成長していって、すっかり大人になってしまった。毎日仕事に追われて、忙しいを理由に自分を疎かにしてしまう。

心が死んでいく感覚が、これほど苦しいなんて知らなかった。


ただ味覚だけはまだまだ子供で、コーヒーはブラックで飲めない。そして甘いコーヒーもまた苦手だ。

牛乳を並々に注いで、少しだけコーヒーを。要は甘くないコーヒー牛乳が好み。


たまに、自分の殻に閉じこもってしまう時があって、どうしようもなく苦しくて。深く、深く、海のそこに沈んで行く感覚。自分の口からもれる空気が海面へ消えていく。自分を輝かせる何かが、少しずつ失われていくような。もがけばもがくほど苦しくて、自分のことが嫌いになりそうで。助けを求めて伸ばした手が、空を切る。


そんなとき、君の言葉がどこかで聞こえてくる。ゆっくりと心に染みて、少しずつ空気が戻ってきて。


はっ、と気がついたら夕方だった。

ゆっくり、どこかで過ごしたい。


馴染みの喫茶店に足を運びメニューを見る。

穀物コーヒー。優しい響き。迷わずそれを頼んだ。もちろん牛乳多めで。


あたたかいカップ。立ちのぼる湯気。

初めて感じた、甘いコーヒーの香り。

ふーっと一息ついて、ひとくち。


なんだか、ふわふわと柔らかな君を思い出す。大きな毛布に包まれているような、安心感。

初めて、甘いコーヒーを飲みたくなった。和三盆のような、滑らかな砂糖をスプーンに2杯。サラサラとコーヒーへ溶けていく感覚も心地いい。


少し甘くなったコーヒーを飲んで、出されたクッキーを齧って。心に栄養を補充した気分。


帰ってから昼寝をしたせいで眠れなくなってしまったけれど、今日はもう一度目を閉じよう。


嫌なこと、苦しいこと、忙しいこと、辛いこと、現実の世界にはたくさん壁があったりして、たまには行き止まったりするけれど。遠回りでもいい、休んだっていい、マイペースに苦しみも包み込んで。



オロナインを塗ってくれた君の、指先の温もりを忘れない。

slowly


チュンチュン…


どこからともなく鳥の声が聞こえる。窓から入ってくる眩い光が、ちょうど目の当たりに差している。その光から逃れるように寝返りを打って、瞼を固く瞑る。起きてる、起きてるんだけど起き上がりたくない。俺は朝に弱いんだ。休みの日くらい、寝かせて欲しい。


『ね、起きて?』


耳元で、聞こえるか聞こえないかくらいの声がする。んんっと喉を鳴らしながら体を伸ばす。春はまだ遠く、布団から出した腕が瞬時に冷たくなっていく。


「おはよ…」


目を擦りながら挨拶をすると、『おはよう』と返事が返ってくる。当たり前、だけども幸せ。


今日は特に何も予定がない。どこへ出掛けるでもなく、かと言って1日家で寝ようとも思っていなかった。ちょうど君も、仕事が休みらしい。


『ごはん、食べる?』


こくんと頷き時計を確認する。時刻は9時。休みの日にしては上出来な起床時間だ。


重い腰を上げ、キッチンへと向かう。窓から差し込む光は白くて眩い。冬の柔らかな暖かさが部屋に充満していた。


さらに乗せられた半熟の目玉焼きと少し焦げたパン。不器用さが少し見えるところ、きらいじゃない。パリパリと音を鳴らして頬張り、もくもくと噛んで飲み込む。

向かいに腰掛けた君は、ボーッとその様子を見ながら『今日は何する?』と首を傾げてきた。



んー、何しよう。家でのんびり?外に出掛ける?とりあえず思いついたのは「ゲーム、しようか」


『いいよ』


ふっと笑った君は立ち上がりテレビの前へスタンバイ。コントローラーを握って待っている。


「早いよ」


やっと全てを口に入れた俺は、もぐもぐしながら君の隣に腰掛ける。


『今日は負けないからね』


画面に釘付けになる君を横目に、ふっと口元が緩む。アナタ、ゲーム強いからなぁ。臨むところ、って感じ。もう負けず嫌いが顔に出ちゃってて、それもまた面白い。


肩を並べて気が済むまでゲームに打ち込んだ。もう何戦目?太陽も高く昇ってきたので薄いカーテンを閉める。

昼飯も食べず、ずーっとゲーム。少し疲れてきたなーっていうタイミングで君が立ち上がった。


『お昼寝したい』


俺の心の中を読んでるかのように呟く君。

いいよ、昼寝でもしよう。コントローラーを置いて、くっつくわけでもなくその場に寝転ぶ。ふかふかのラグと程よく入り込む太陽の日差しが二人の体を包んでくれる。

誘発される眠気に耐えきれず、自然と目を瞑ってしまった。


次に目が覚めたのは、午後6時。

なんだか腹が減ったなーと思って目を開けると、君はまだ夢の中だった。鼻を摘んでみると、ふがっと息をついて目をパチリと開く。

怒るわけでも笑うわけでもなくむくりと起きて『お腹減ったね』


なんか、買いに行こうか。

「俺、ハンバーグ食いたい」


作れと言わんばかりの独り言に、君はこくりとうなずいて立ち上がる。


まだまだ冬だった。コートを羽織りニット帽を被って二人で外へ行く。

はーっと白い息が夜空に溶ける。天を望めばちらついている星屑たち。


澄んだ空気に、冬もなかなか悪くないなと思う。ま、寒いのは苦手だけどね。


並んでテクテクと歩いている途中、ふと思い立ったように君は

『作るの、めんどくさくない?』

と、ばつが悪そうな顔をした。


「はは、俺もそう思ってたところ」


なんとなく、君とは気が合う。居心地がいいんだよ。さて、ここらでUターン。さっき通り過ぎた店で、ピザでもテイクアウトして帰ろっか。


君と過ごすゆるい週末。明日からも頑張れそう。

世界はどこも同じ空の下にある。恙無く過ごせますように。

DEEP IMPACT


久しぶりに休みが重なった今日。

2人で出掛けようかという話になった。

「どこに行きたい?」と聞くと、

『あなたの好きな場所』なんて、慎ましい言葉が返ってくるもんだから、張り切ってしまう。


好きで好きで、君のことばかり考えて。

君の驚く顔が見たくて。

だから、飛び切りのデートプランを用意した。

気に入ってくれるといいんだけど。


君の姿が映る。僕の大好きな真っ白いワンピースに袖を通して、お化粧をして、香水を振って。そして、結婚指輪を大切そうに眺めている。

ああ、早く迎えに行かないと。


愛車に乗り込んで勢いよくドアを閉める。

君の家まで約10分。会えるのが待ち遠しい。


そよ風に揺れる、白いワンピース。清楚な出で立ち。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

君にぴったりの言葉だと思う。

車を停めると、すぐ助手席へ回ってドアを開ける。


「どうぞ、乗って」


紳士を気取ってみたりなんかして。

その姿にクスリと笑いながら『ありがとう』と返事がくる。


隣へ君を乗せて、シートベルトが閉まったことを確認すると、ゆっくりとアクセルを踏み込む。


『どこへ連れて行ってくれるの?』

君の声が弾む。


「それは、お楽しみだよ」

クスリと笑いながら運転する。


もうすぐお昼だし、ランチでも食べよう。君の好きなお店へと車を走らせた。僕はここで食事をするのは初めてだから、どんなおいしいものが食べられるか楽しみだ。


カランカランと店のドアを開けて、予約していた窓際の席へと通される。ランチメニューに目を通すまでもなく、僕は一目散にナポリタンに決めてしまった。


メニューを見ながら、うーんと眉間にシワを寄せる君。


「ハンバーグは、食べちゃったから違うものがいいんじゃない?」


『えっ?』


驚いたように僕の顔を見る君。


「この間、ハンバーグ食べたんでしょ?」


首を傾げながら聞くと


『そうなの!ハンバーグ以外の物にしよっかな』


にこにことメニューへ視線を落とす。


『今日はオムライスにしよっと』


「うん、決まりだね」


店員にメニューを告げてから頬杖をつく。

君の顔をじっと見つめて、にこりと微笑む。本当にこうして二人で出掛けるのはいつぶりだろう。最近はお互いに仕事が忙しくて、会う頻度も減っていた。連絡は取り合っていたが、少しの時間でも会おうということはなかった。君は忙しい人だ。しかし、片付けはどんな時でも怠らない。素晴らしいことだなって思う。僕の部屋も片付けてほしいくらいだよ。


他愛のない会話。仕事のことが主になってしまう。ポンコツな上司、世間知らずな後輩、鬱陶しい同僚。君は色んな人からモテる。いつ言い寄られるか心配だよ。魅力的な男なんてこの世に腐るほど居るから、僕とこうして過ごしてくれること自体が奇跡のようだった。やってきた料理をペロリとたいらげた僕に対して、君はゆっくりと味わっているようだった。


次に訪れたのは小さな水族館。君はこの世で一番水族館が好きだという。幻想的な世界が広がるここを君と歩いてみたかった。

ペンギン、蟹、ラッコ、サメ。愛らしさ満点の水槽内。僕は雑学を話すのが好きで、ここに来ると何かと口が動いてしまう。一言一句同じことを聞かされても、君は嫌な顔をせずうんうんと頷いてくれる。


そんな姿がいじらしく思えて、一番大きな水槽の前で思わず後ろから抱きしめてしまった。


『ちょ、みんな見てるよ…』


「そんなの、気にしないで」


館員のお姉さんがこちらに気がついたようだ。君の顎をクイと上げ、お姉さんの方を向かせる。二人とも目を逸らしてしまう。そりゃあそうか、こんな甘いシーンを直視できる日本人はそういない。気を遣って、なのだろうか。初めてじゃないくせに。



『ねぇ、ほら、次のところ行こう?』

そう言って僕の腕を離れて行ってしまう。

何をそんなに恥ずかしがっているのかな?

恋人同士なんだからさ、もっと近くにいてよ。

するりと手を伸ばして小さくて華奢なその手をしっかりと握る。指と指を絡めるように。もう逃げられないよ、なんて思いで。


陽が傾き始めた。カフェのテラスへ出て椅子に座る君は、さっき僕が買い与えた白いイルカのぬいぐるみを抱えて俯いている。売店でコーヒーを買って、差し出した。砂糖なしのミルク多め。君は甘いコーヒーが飲めない。


『疲れちゃった?』


声をかけると「んーん」と首を横に振って笑う君。作り笑顔が輝かしい。

そうやって、嘘がつききれないところも愛らしい。

まだもう一つ行きたいところがあるんだ。



再び車に乗り込んで、アクセルを踏む。僕の話にもだんだん返事をしなくなっていく君。そんなことはお構いなしに話を並べる僕。

久しぶりなはずなんだから、たくさん喋ったってバチは当たらないだろう?ほら、君もこんなに、疲れ切っていることだしね…。間がもたなくなってきた。



30分ほど車を走らせると、もうすでに空は暗くなっていた。大きな橋桁の近くにある広場に車を停める。そこから星のように広がる夜景が煌めいて見えた。コートに首を埋めながら歩く君。最早何を話しかけても返事をしてくれなくなった。瞳に映る夜景すらも、光を失っているようだ。ボーッと柵の前へ歩いて『きれー…』とだけ呟いた。


「見飽きちゃった?」


『…!何言ってるの?!どういうこと?』


ついに怒り出しそうな君。あらら、今日のデートプラン、気に入ってもらえなかったかな?


クスクスと笑いながら耳元で囁く。

チラッと時計を確認すると夜の7時まで、あと30秒。これで君は…。


ご、よん、さん、に、いち。


プルルルル…プルルルル…

君の携帯へかかる着信。


「電話、出たら?」とわざとらしく言う。


君は画面を確認して『いい…』とだけ残す。


あらら、最後の着信だったかもしれないのに。

彼女の体を包み込んで、優しく頬に口付ける。おや、涙かな?少ししょっぱい。


『…知ってたの?』


なんのことだかさっぱりわからない。

首を傾げて、君を見る。怒りに震えている、肩。赤くなる耳。吊り上っていく目。


知らないわけがないだろう。僕の方が君の浮気相手だったなんて。お見通しに決まってる。

ほら、この薬指だって、しっかり指輪外しちゃってさ。

僕以外を愛すなんて、許すわけないじゃない。だから、少し怖がらせちゃおうって思って。


全部、同じにしたんだ。そう、全部。一言一句ね。


旦那さん、単身赴任なんだってね。もう2年かな?

赴任先で一緒に暮らそうって言われたんでしょう。知ってたよ。

本当は今日、僕に別れを告げようとしてたことも。忙しいって嘘ついたのは、引っ越しの準備でしょ?


甘いんだよ。なんか、おかしいなって思位始めた頃に君の部屋にカメラをつけた。ほら、一度家にお邪魔したでしょ?あの時だよ。

君の鞄にはマイクをつけて。セリフ、完璧にするまで何回聞き直したことやら。ああ、ごめんごめん。そんな怯えないでよ。僕が怯えさせてるんだけどね。


さっきの電話、旦那さんでしょ?

僕が電話してって頼んだんだよ。奥さん、浮気してるから、夜7時きっかりに電話してごらんって。


何その絶望に満ちた顔。堪んないね。

君はどこから異変に気が付いたんだろう。ハンバーグの件?それとも水族館のお姉さんかなぁ?すごい怪訝そうな顔してたよね。それもそうか、この間見た男とは違う人に同じことされてるんだもんね。

でも、言えないよね、気がついちゃったとしても。自分が悪いんだからさ。言い出せるわけがない。

ほら、もう僕から逃げられないよ。





『今日はもう帰る?それとも、これから二人で…ねぇ、聞いてる?』


呆然と立ち尽くす君には、もう僕の声なんか聞こえていないのだろう。


プルルルル…ピッ

今度は僕の携帯に着信が入った。

用件だけ聞いて電話を切る。



『あ、旦那さんのことだけど。今、したi…

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お疲れ様。


ぐー、ぐー。

おっきないびきをかいて、パパは僕のおとなりで寝ています。今日は少し早く帰ってこれたけど、ご飯も食べないまま、おふとんに飛び込んで、そのまま寝てしまいました。


僕のパパは、とっても頑張り屋さんです。大きなトラックで重たい荷物を運んでいます。たくさん運転をします。

帰ってくるのが遅いこともよくあります。僕はお家に1人だけど、平気です。

買ってあったお弁当をチンして、お腹いっぱいに食べます。パパが忙しくてごはんが買えない時は、おとなりに住んでいるおばあちゃん家にいきます。くたくたになった肉じゃがと柔らかく炊いてあるホクホクのご飯を食べると、心がぽかぽかとします。


お母さんは、いません。僕がもっとちっちゃい時にどこかへいってしまったそうです。元気にしていればいいなと思います。

パパはひとりで僕の面倒をみてくれます。怒ると怖いけど、でも優しいです。たまにお休みの時はキャッチボールをしに公園へいってくれるし、おかいものもします。おもちゃ売り場にあるロケットモンスターのぬいぐるみは買ってくれないけど、いつもウサギの絵がついたラムネを買ってくれます。

ちょっとしか入ってないけど、パパは半分こにしようって言います。


ピンクときいろと白のラムネを口に入れると、しゅわしゅわと弾けてべろが甘くなります。それがなんだかくすぐったくて笑っていると、パパも一緒に笑ってくれます。


疲れて寝ているパパは、何も言いません。夢の中で僕が出てきてるかなぁ?

お話しできないのは少し寂しくて、鼻の奥がツンとしてきます。でも、わざと鼻をかんで鼻水のせいだなって思います。泣いたらかっこ悪いもん。

いつも僕のために頑張ってくれてありがとう。

疲れている時はどうするのがいいかわかりません。でも、パパが先に寝ちゃった時だけ、僕はパパの布団に潜り込みます。パパの硬い腕にしがみついて、心の中でたくさんお疲れ様とありがとうを言います。


大好きなパパ。すこしでも元気になるといいな。

ありがとう。ありがとう。僕はパパがいてしあわせだなって思うよ。

こんどのお休みの日は、ロケットモンスターのぬいぐるみ買ってくれるかなぁ。


パパ、パパ…。


眠たくなって、目を瞑っちゃいそうな時にパパの大きな手が僕の頭を撫でる。

鼻をパパの腕にすりすりしながら、僕はゆっくりと夢の中。


明日も頑張ってね。僕、お利口してるから。

だから、無事に帰ってきてね。

どんな時も、傍にいる。

拝啓


今年の冬はあまり雪も降らず、例年よりは過ごしやすいような気がします。本当に久しぶりに筆を取りました。元気でやっていらっしゃるでしょうか。


ふと、思い立ったように机についた。引き出しから引っ張り出した、いつに買ったかもわからない真っ白な便箋へ、秘色のインクで文字を乗せる。ただ、ここから筆が進まない。


それもそのはずだった。だって毎日のように連絡を取り合っている。目には見えない電波のおかげで、薄い板をなぞっていけば筆記具を使わずとも簡単にキミへ想いが届く。そんな時代をもう何年も生きてきた。


びっくりさせてやろう。そんな思いで今ここへ座っているのだが、はて、いざ書こうと思うとうまく言葉が紡げない。書きたいことは沢山ある。しかし、妙にスマホを使うのとは訳が違って思えた。


手紙って、こんなに難しかったかな?手紙を書く事自体は嫌いではなかった。子どもの頃は年賀状だけではなく、暑中見舞いだってクラス中に出して回った。その分返事が来るとうれしかった。ミミズの這ったような字、力強い大きな字、まあるくて小さな字。決して上手とは言えないが、一生懸命に書いたであろう文字からはその人の顔がちゃんと思い浮かぶ。不思議なことに読むと声までも脳内再生されて、まるであなたが近くにいるようにさえ思える。


優しい記憶と宝物になっていく紙切れ。


さて、何を書こうか。頭の中でぐるぐると言葉達が旋回している。一文書いたら、ああやっぱり違うなぁ…。半分書いては違うなぁ……とやはり思ったようには書けないのであった。

丸めた紙屑がゴミ箱に溜まっていく。


クシャクシャと頭をかいて、しまいには伏せってしまう。くそ、なんなんだよ。やっぱり、慣れないことはするもんじゃない。ただ、目を瞑ると脳裏にはキミの顔が浮かぶ。笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔、悔しい顔、悪戯な少女のように、目まぐるしく表情は変わる。


なんだよ、これ。大好きだなぁ。まるで末期の病気のように、キミの姿が頭から離れない。


ドルン、と音がして光るスマホの画面にはキミからのメッセージ。返そうかと手に取ったが、今日はもう寝たことにしよう。


話している時間はもちろんキミを想ってる。けれども、話せない時間はもっとキミを想ってる。この気持ちが届いた時、キミはどんな表情を見せてくれるのだろう。


言葉で伝えきれない愛は、きっと、行動に現れるのだろう。

効率も大事だけれど、切なさや嫉妬や羨望も愛の深さに繋がるような気がしている。

なんか、大人になったのか?なんて、根拠のない結論に自惚れながら、汚い字で短く紡いだ言葉。


ホクホクとした心持ち。己の顔がにやけているのがわかったので、小さく"ファッキュー"と呟いて手紙に封をする。


キミの幸せを間近で見たい、ただそれだけ。

手数はあるはずなのに、ぴったりを選ぶのは世界一難しかったりする。ああ、不器用。それでもって、キミを想う気持ちは誰にも負けやしないんだ。

昔から、一番に気になるものは人の目でした。私の全てを見透かすような、ギラギラと化物のような目を恐れて、顔はにこやかに、心は冷ややかに、愛想だけはピカイチに磨き上げ、ふらふらと渡り歩く。それが一番人に嫌われずに済む生き方なのではないかと模索していたものです。


何が悪いのかもわからず、ただごめんと謝り、何に怒っているかわかるかと言われれば、的の外れた答えを返し、それにまた怒られ、生きづらい世の中だと思いながら歩んできました。私の頭の中にあるものを全て出してしまっては、きっと嫌われてしまう。私の心にあるナイフのような言葉の数々は、あなた自身を滅多刺しにして、そうして私が悪いのだと、私自身の首に突き刺さる。

人はそういうものだと、心の中で思いながら、裏切り、裏切られを繰り返し、嘘をついて自分を取り繕って、全然面白くもない話に笑い、全くもって興味のない話に相槌を打って、その場しのぎの生き方を、上手に上手に育てていったのです。


ただ、育てているのに花は咲かず、茎と葉だけがひょろひょろと伸びる朝顔のような、平凡よりも平凡で、なんの取り柄も面白みもない人生に気を病みました。



自分が何者であるか、たまにわからなくなるのです。なぜこのような顔貌に生まれたのか、なぜこの指は動くのか、体の中では目に見えない数々のビタミンが存在していること、ある日突然病気を発症することなどを不思議と感じ、この世界が終わるとどうなるのだろうと疑問に思うこともよくありました。


ただ、こんな事を人に言えば、必ず"変な人"扱いをされることは目に見えていたので、不思議や疑問はいつまでも私の中で渦を巻きます。消えることのないその疑問たちは、やがて私のなかで重たい塊となり、吐き出すこともできずに蓄積されていくのです。



幼い頃の喧嘩は、大概、友達の方から怒り始めます。「言いたいことがあるなら言って」と暗い形相で私を問い詰めます。しかし、思っているうちを全てさらけ出せば、"酷い"と罵られ、どうすればいいのかわからなくなっていきました。そうやって、自分の心を解放する術を少しずつ知らないことのように手放していったのです。

「私が我慢すれば」を続け、少しずつ心はくすんでいきます。私はただ、愛が欲しかった。私を包んでくれる、大きな愛が。でも、それはみんな同じであり、私が愛を提供する側にまわればいいと、そう思いました。その方が、明らかに簡単だとも思っていました。私が勝手に無償で提供する愛であって、要らなくなれば離れていく。人間はそんなものだと思っていましたし、私はその踏み台であればいい、と。

寧ろ、それが幸せなのではないか、と。求められることを欲していたのです。求められることこそが、最大の愛であり、私は人に必要とされる存在になりたい。私を忘れないで欲しい。そんな浅はかな欲望を満たし、他人の欲求を満たす。言わば都合の良い存在であることが、私の存在する意義なのではないか、とも思うようになりました。


しかし、人の心は移ろいに勝てません。そんなものです。私だってきっとそうです。いつまでも、同じ場所に留まることは至難の業だと思います。一度は違う場所を見て、知らない心に触れて、初めましての人に出会います。


もちろん出会いは心を動かします。新しい感情が芽生えることもあります。出会いは素晴らしさを持ち合わせています。それと同時に恐怖と平穏を失うリスクもあるのです。


結局のところ、自分と一番付き合う年数が長いのは、親でも、友達でもなく、自分です。己自身をうまくコントロールし、これから長い時間を連れ添っていかなければならない。頑張れない日もやらないといけないことは全うしながら。

天は理不尽なことを突きつける代わりに、たまに幸せという名の褒美をくれたりする。その褒美とやらにあやかって、今日も少しずつ息をしながら命を燃やすのであります。


まだ生きていてもいいでしょうか。自分で命を絶やす勇気もないので、もう少しだけ。


さっき、書くのを忘れてた。私は薄っぺらい人間です。どうしようもなく。殺してやろうかな、と思うほどにね。それでもまだ生きてるのは、これを読んでる人や周りにいてくれる人のおかげです。ありがとう。殺されずにまだ生かされていることの方が、よっぽど残酷なように思います。恥と共に生きていきます。

こんな寒い日だったきがする。


人が狂う瞬間を、見たことがあるか。

無意識に死を求める瞬間を。


呼吸が荒くなって息をした気がしない。

いわゆる過呼吸というやつか。


君は何をそんなに我慢しているの。

何かそんなに悲しいの。


そんなこと、君以外の誰にもわかったっていいもんじゃない。

教えてもらっても、すべてをわかってやれるわけではない。

知った気になって、慰める?そんなの君は求めていないでしょう。

人間とは、本当は無慈悲な生き物なのではないだろうかと、たまに考えることがある。


君が手首を切って、夜な夜な泣いていることを俺は知らないフリをする。

君が毎朝壁に頭を打ち付けていることも、知らないフリをする。


人の前で笑って、独りになると泣いて、しかしながら、助けを請うわけでもなくて、誰も助けてやれる力なんて持ってなくて。


死は君を楽にするのかい?死は君を助けられるのかい?


目の前で過呼吸を起こす君の目がどんどんと白くなっていく。

無意識のうちに、君は自分の手を首にかける。

俺は馬乗りになって、君の手を解こうとする。その細身の腕からは想像もできないほどの力で、自分の命を絶とうとする君。


言葉にならない声を、力いっぱい張り上げながら、君は死を選ぼうとする。


この腕を解こうとするには、腕を折った方が早い。ただ、そんなこともできずに、精いっぱい力で腕を離させる。


君は、死んだ方が楽なのか?


俺にはその答えが出せない。


君の腕を掴んだところが、みるみるとアザになっていく。


本当にこれで良かったのだろうか。

本当に、これで。


生きることに疲れた君の死を、また邪魔してしまったね。嗚呼、ごめんね。気を失ってまで泣かないでよ。


本当、生きるって難しい。

いちいちきゅう。

ぷるるるる、ぷち。

「すみません、救急車を一台」

この世界で、君と。

あの日、私の世界から色がなくなった。ファインダーを覗いても、全てがモノクロに写る。何を見ても、聞いても、話しても、全て光がなくて冷たい寂しい世界。こんなところに1秒だっていたくなくて、刃を自分に向けても、死ぬことすらできない。頭とは裏腹に、身体は生きたいと願っている。どうしようもなく勇気が出ずに、ひたすら絶望に潰されながら生き抜く日々。こんなことになるのなら、あの時あんな風に出会わなければよかった。カメラなんて持たなければ。私なんて生まれてこなければ。そんな思考がぐるぐると渦を巻いて脳内を占拠する。


“時間が解決してくれる、だって世界は色でありふれているから”


一度だけ、そう誰かが私に言った。その言葉が心に残っているのは、希望のためじゃない。そんなこと起こり得ないという確信。期待なんてしたところで、裏切られて終わってしまう。いつだってそうだった。あの時も、あの時もみんなそうだった。

鮮やかな色はもう、私に希望すら与えてくれない。寧ろ、私を惨めにする呪いのようなものでしかない。


こんな思考だからいけないんだって、そう思って涙を流す時期もあった。確かに、そうかもしれないけれど、でも、最早私には必要のないものでしかない。そう思って、花にカメラを向ける。逆光で黒く影の差すバラの花が、今の私には美しく見えているのだ。


光の裏には影がある。それは昔から変わることのない因果であって、どう頑張っても変えることのできない現象。そこに美しさを見いだせたことだけでも、一歩前進だと思っている。カメラを触れなかった時期もあった。もう壊してしまおうとも。でも、それができなかったのは私の身体が、本能が、この世界を記録したいと叫んでいたからだと思う。


あの日から、もう6年も月日が経っていた。6年間、私は色のない世界を生きている。呪いのように、私の心に鍵をかけたアナタを恨んだって何もならないのに。

でも、私はもう、こうして生きていくと決めた。影の世界でひっそりと、好きなものに囲まれて、誰も、誰にも傷つけられることのない世界で生きていこうと。

甘いなんてわかっている。ただ、そうしなければ生きていけない。日の光の下で、今日もモノクロの世界をひたすらに写す。



_____


6年前


「来週、あの公園へ行こう。バラが綺麗に咲いてるって」


アナタからの電話に心を踊らせ、綺麗なワンピースを着て出かけて行った。日曜日の自然公園は太陽に恵まれていて、赤や黄色の花に靡く風さえも柔らかな色に染まっている。


カシャ、カシャッと歯切れの良いシャッター音。切り取られていく世界。何もかもが私の瞳に美しく飛び込んでいく。後ろで倒れているアナタにも気が付かずに、私はひたすらに世界を写していた。


呆気なく、この世界からアナタは消え失せて、それと同時に全く色も見えなくなってしまった。


空の青さも、樹々の緑も、信号の色だって、モノクロの影のようにしか見えてこない。

サヨナラも告げずにアナタ、私を置いて行くなんて。

いや、、違う、そうじゃない。私がアナタを置いてきぼりにしたの。あの時、顔色を窺っていれば、あの時、すぐに気がついていれば。夥しいほどの「…していれば」に追いかけられて、私は気が狂う。


ひとつだけ、覚えている色といえば、死んだアナタの血の通っていない肌の色。冷たく硬直した、憮然たるあの肌色だけが今も頭の片隅に残っている。


_______


はっと目を覚ました時、自分の部屋の天井が目に入った。…また、あの時を思い出していたのね。

眠れた気のしない脳みそが震えている。眠気まなこにカメラを手に取り、カーテンの隙間からモノクロの世界を覗いてみる。まだ夜の明けていない暗がりに、街灯の光が静かに息をしていた。


ベッドを立ってコーヒーを淹れて椅子に座り、おもむろにテレビの電源を入れる。ザーッという音と共に砂嵐が流れて、その音と一緒にコーヒーを流し込む。香りも味もしないただのお湯のような、何の意味もないこの飲み物を喉に流すのは、まだアナタを忘れられないから。悲しみすらも飲み込んで、しばらく砂嵐を見つめてみる。


少ししたら、出掛けよう。カメラを持って、何かを撮りに。




ふらふらと街灯の明かりを辿っていく。少し肌寒い朝。もう少しで日の出てくる時間だ。見慣れた風景をなんとなくカメラに収める。角度を変えて、明るさを変えて。写る世界は全てモノクロだというのに、少し変わったように見える気がする。


「ねぇ、お姉さん」


肩を叩かれ、はっと後ろを振り向くと見知らぬ少年がそこへ立っていた。黙っていると


「僕のこと、撮ってもらえませんか?」


と、尋ねてくる。


『え…?』


返す言葉もなく、顔を見ることすらのできない私に、「ダメ?」と小さく聞いてくる。


その言葉の続きに、「遺影に使うからさ」と物騒なことを言い始めた。


ただただ、地面を見つめることしかできず立ちすくんでしまう。足が言うことを聞かない。このまま何も言わずに逃げてしまいたい。

つかつかと歩み寄ってくる少年に後退りしながら、『いやです』とだけ口にした。精一杯の私の抵抗。


そんな答えを予想してなかったように少年は眉を下げる。


「遺影に、ってのは嘘です。僕、写真とか苦手なんだけど、なんだろう。お姉さんに撮ってもらいたいなって思ったんです。ダメですか?記念に」


なんの記念かもよくわからない。出会えた記念?そんなの、馬鹿げている。


『ダメです』


やっと声が出て、足も動きそうな気がする。踵を返して逃げようとした瞬間、手を掴まれてしまった。


「お願いします。一枚だけ」


驚いて少年の容姿を見た瞬間、世界が真っ暗になった。見覚えのある、懐かしい表情。全然違うはずなのに、あの時のアナタを思い出させる。


『…一枚、だけ』


そう答えてレンズを少年に向ける。ファインダーを覗くふりをして、顔を見ずに一枚だけ写真を撮った。もちろんモノクロで。


カシャン


と、シャッターのおりる音。

切り取られたモノクロの世界の真ん中に、少年は写る。

??

ふとカメラの画面を見ると、思いの外強張った表情をしている少年が目に入った。眉間にシワを寄せて、大きな目を細めこちらにガンつけているような。

ああ、だから?思わずクスッと笑ってしまった。少年の写真嫌いの理由が腑に落ちたから。


「??何かおかしかったですか?」


不思議そうな顔をしてコチラに寄ってくる。カメラを見せてやると「またか…」と肩を落とす少年。


「僕が写真苦手な理由、わかっちゃいました?」


しょんぼりと捨てられた子猫のような表情で呟く。


『もっと、力を抜いたらいいのに』


はっ、と気がついて手で口を覆う。自分でも驚くほど自然に、話しかけてしまった。見ず知らずの人と、こんな。人と会話をすること自体、久しぶりだった。恐る恐る、少年に視線を向けると、困ったような笑みを見せてくる。


「やっと、笑ってくれた」



『え?』


聞き返すように声が出てしまうと、少年は慌てふためいている。


「いや、あの、、、なんでもないです!それじゃあまた!」



すたこらと走っていく姿が謎めいていて、首を傾げながらその背中を見送った。なんとも、不思議な少年。どことなく懐かしい雰囲気を持っている。どこかで会ったわけでもないのに。

ため息がつきたくて空を見上げると、白い霧が薄く薄く空気を染めていた。


______


あれから朝方に出かけると、少年と会うようになった。相変わらずうまく笑えないが、彼は一生懸命に笑顔の練習をしている。指で口角を上げてみたり、頬をマッサージしてみたり、脇腹をくすぐってみたり。その姿が可愛らしくて、私は笑ってしまう。その姿を、写真に収めてみる。


カシャン


むむっとした顔がモノクロに写る。ひょこっと隣から


「どんなのが撮れました?」


と、覗き込んでくる少年。あ、見られた…。ささっと画面を隠してみたが、一足遅かったようだ。


「なんでモノクロ?本当に遺影にするの?」


冗談交じりに聞かれても、何も答えられずにただ黙っているしかない。この人に、あのことを言ってもいいのだろうか…。


『私、色が見えなくなったの。だからいつも、モノクロの写真しか撮れなくて…それで…』


俯いた先には地面が広がっている。やはり色はなく、グレーに染まる辺りを味気ないとさえ感じてしまう。あの山は何色、この花は何色。もはや季節でさえ、わからなくなってしまった。長くこの景色を見てきた。色のない世界から抜け出したいと思い始めたのかも知れない。


「僕も、その気持ちわかります。僕はうまく笑えない。だから…」


??

その続きが気になって俯きかけた顔を上げる。


「だから…、僕が色を教えるから、あなたは僕に笑顔を教えてください」


こくん、と一つ返事をした。首を縦に振って、真っ直ぐに君を見つめる。やはりどこかで出会っているような、不思議な気分。また困ったように微笑む彼が一つ頷いてくる。すると、私のカメラに手を伸ばし、カチカチといじっている。


「こうすれば、少し色に慣れてきますよ」


今までずっと、モノクロに設定された画面は、赤か青かよくわからないぼんやりとした色を放っている。一瞬で少し明るくなる世界。これも一歩踏み出せた、ということかもしれない。そっと、カメラを撫でて思考を巡らす。

今週末はアナタの法事が入っていた。これももう今年で最後にしよう、と思えるようになってきていた。


_____


バケツを返したように、黒い雨が降っている。

昨日の夜から続いていた雨に打たれないよう、真っ黒い傘をさして、式場へ向かった。

ピシャピシャと跳ね返る雨粒。

今日はカメラを置いて、アナタへ最後のお別れを言いに行く。

この数日で少年は少しずつ私に色を教えてくれた。

街路樹の緑、これは光を浴びると金色に光るらしい。山の向こうに差す夕日は茜色。昔から日本人に愛されてきた色だそうだ。唇の色は桜色。黒や白にも様々に名前がついていて、一概にモノクロで染めてしまうには勿体無いということ。


ファインダーから覗く世界は、少しずつ色を取り戻していく。少しずつ、人の見る世界が蘇ってくる。


白と黒で作られた式場は、この間までの自分を見ているようだった。一番後ろの席に座り、仏前を見つめる。

位牌になってしまった、アナタの顔。もう、どんな顔で笑うのかも、どんな顔で泣くのかも忘れてしまった。

すると、親族がゾロゾロと式場へ入っていく。その中に、何故かあの少年の姿があった。

どくん、と心臓が跳ねる。なんで、こんなところへ?嫌な予感が心を占拠していく。黒い雨が降り止まない今日。どんどんと気持ちが不安の煙に包まれていく。

ふと、何かに気がついたように、少年はこちらに目をやる。私と目が合った瞬間、あの困った笑みを浮かべた。

なんで、なんで?


推測が頭を駆ける。

もしかして、私への制裁だったのか。

私に近づいて、大切な人を見殺しにした私を責めるために。


今すぐにも、この場を立ち去りたい。

アナタに別れもつけず、傘も持たずに私は式場から飛び出していた。

降り頻る雨の中、髪も、喪服も、パンプスもびしょびしょに濡れて、モノクロの大空に叫ぶように泣き喚いた。

この雨じゃ、誰にも私の泣く声など届きもしないのに。


_____


あの日から、一歩も外へ出ていない。

また、私はモノクロの世界へ堕ちていった。何を食べても味がしない。起きているのも嫌になる。こんな世界に生まれた意味など、本当にあるのだろうか。なのに、また死ねない。神は私の死を許してはくれなかった。

カメラも何度も壊そうとして、振りかざした手。しかし、壊せない自分が、振りかざした手を止める。苦しい、苦しい。何もかもが嫌になって、頬を伝うのは色のない透明な涙だけ。


たまに浮かぶ、少年のあの表情。きちんと挨拶もせずに、ただ飛び出した私の足。

まだ、昼の空の色も、星の色も、少年の瞳の色だって教えてもらっていないのに。


私、このままでいいの?

自問自答したその時に、どこからか声が聞こえる。


“世界は色でありふれている"と。


土砂降りの中、ビニール傘とカメラを手に走り出す。撮らないと。この世界が終わってしまう前に。


ピシャピシャと駆け出した足はすでに水浸しになっていた。こんな雨の中にも色なんてあるのだろうか。信号も、空気も、街も灰色のように燻っている。しかし、走り出した足は止まることがなかった。

はぁ、はぁ、と息を切らして辿り着いた先に、見覚えのある影。

一人ずぶ濡れになって立っている少年の姿がそこにあった。


「あ…」


こちらを振り返る、大きな瞳。

逃げ出したくて、でも、きちんと話がしたくて、そっと透明な傘を傾ける。


自ずと口を開いたのは、少年の方だった。


「僕、あなたの恋人の弟です。黙っててごめんなさい。僕、笑えなかったんです。カメラを向けられると怖くて。ずっとずっと昔から。でも、兄の隣にいるあなたはいつも楽しそうで、笑顔で溢れてて。僕、あなたを見ていると笑顔になれる気がしたんです」


何も言わずに、ただ君の言葉を聞く。


「あなたが一番、傷を負っているってわかってました。僕よりもずっとずっと。兄の代わりになんてなれません。でも、僕はあなたに色を教えてあげられます」


そう言って、一輪の花を私に渡す。花屋で買ってきたのであろう。雨に濡れて包装は力なく萎れている。葉は濃い緑に白い柔らかな生毛で覆われている。凛とした茎の先に小さな花がいくつもついた美しい花の名前は、ブルースター。空に似た淡く優しい水色だった。



「時間が解決してくれる。だって世界は色でありふれているから…」


_______



晴れた日の朝。光に向かって彼は歩いていく。楽しそうに、時折スキップを踏みながら。そしてこちらを振り向こうとした瞬間、私は"今だ!"と思った。降り注ぐ太陽の光が、彼の肌を照り返している。小さな星屑を纏ったように、キラキラと粒が輝いて目を開けているのがやっとだ。その光の中に、他愛のない柔らかなそうな肌が写った。ああ、肌色って、こんなにも温みのある、優しい色だったっけ。血色のある健康な色。やっと、見えた。やっと、感じた。今まで見えてこなかったものが、やっと私の瞳に、鮮明に映し出される。私に色が戻ってきたこの瞬間に、この世界で、ファインダー越しに真っ直ぐ君と目が合った。


『ねぇ…笑って』


カシャンとシャッター音がきれる。

私の瞳に映る世界は、何よりも鮮やかな君の笑顔で満ちていた。