この世界で、君と。
あの日、私の世界から色がなくなった。ファインダーを覗いても、全てがモノクロに写る。何を見ても、聞いても、話しても、全て光がなくて冷たい寂しい世界。こんなところに1秒だっていたくなくて、刃を自分に向けても、死ぬことすらできない。頭とは裏腹に、身体は生きたいと願っている。どうしようもなく勇気が出ずに、ひたすら絶望に潰されながら生き抜く日々。こんなことになるのなら、あの時あんな風に出会わなければよかった。カメラなんて持たなければ。私なんて生まれてこなければ。そんな思考がぐるぐると渦を巻いて脳内を占拠する。
“時間が解決してくれる、だって世界は色でありふれているから”
一度だけ、そう誰かが私に言った。その言葉が心に残っているのは、希望のためじゃない。そんなこと起こり得ないという確信。期待なんてしたところで、裏切られて終わってしまう。いつだってそうだった。あの時も、あの時もみんなそうだった。
鮮やかな色はもう、私に希望すら与えてくれない。寧ろ、私を惨めにする呪いのようなものでしかない。
こんな思考だからいけないんだって、そう思って涙を流す時期もあった。確かに、そうかもしれないけれど、でも、最早私には必要のないものでしかない。そう思って、花にカメラを向ける。逆光で黒く影の差すバラの花が、今の私には美しく見えているのだ。
光の裏には影がある。それは昔から変わることのない因果であって、どう頑張っても変えることのできない現象。そこに美しさを見いだせたことだけでも、一歩前進だと思っている。カメラを触れなかった時期もあった。もう壊してしまおうとも。でも、それができなかったのは私の身体が、本能が、この世界を記録したいと叫んでいたからだと思う。
あの日から、もう6年も月日が経っていた。6年間、私は色のない世界を生きている。呪いのように、私の心に鍵をかけたアナタを恨んだって何もならないのに。
でも、私はもう、こうして生きていくと決めた。影の世界でひっそりと、好きなものに囲まれて、誰も、誰にも傷つけられることのない世界で生きていこうと。
甘いなんてわかっている。ただ、そうしなければ生きていけない。日の光の下で、今日もモノクロの世界をひたすらに写す。
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6年前
「来週、あの公園へ行こう。バラが綺麗に咲いてるって」
アナタからの電話に心を踊らせ、綺麗なワンピースを着て出かけて行った。日曜日の自然公園は太陽に恵まれていて、赤や黄色の花に靡く風さえも柔らかな色に染まっている。
カシャ、カシャッと歯切れの良いシャッター音。切り取られていく世界。何もかもが私の瞳に美しく飛び込んでいく。後ろで倒れているアナタにも気が付かずに、私はひたすらに世界を写していた。
呆気なく、この世界からアナタは消え失せて、それと同時に全く色も見えなくなってしまった。
空の青さも、樹々の緑も、信号の色だって、モノクロの影のようにしか見えてこない。
サヨナラも告げずにアナタ、私を置いて行くなんて。
いや、、違う、そうじゃない。私がアナタを置いてきぼりにしたの。あの時、顔色を窺っていれば、あの時、すぐに気がついていれば。夥しいほどの「…していれば」に追いかけられて、私は気が狂う。
ひとつだけ、覚えている色といえば、死んだアナタの血の通っていない肌の色。冷たく硬直した、憮然たるあの肌色だけが今も頭の片隅に残っている。
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はっと目を覚ました時、自分の部屋の天井が目に入った。…また、あの時を思い出していたのね。
眠れた気のしない脳みそが震えている。眠気まなこにカメラを手に取り、カーテンの隙間からモノクロの世界を覗いてみる。まだ夜の明けていない暗がりに、街灯の光が静かに息をしていた。
ベッドを立ってコーヒーを淹れて椅子に座り、おもむろにテレビの電源を入れる。ザーッという音と共に砂嵐が流れて、その音と一緒にコーヒーを流し込む。香りも味もしないただのお湯のような、何の意味もないこの飲み物を喉に流すのは、まだアナタを忘れられないから。悲しみすらも飲み込んで、しばらく砂嵐を見つめてみる。
少ししたら、出掛けよう。カメラを持って、何かを撮りに。
ふらふらと街灯の明かりを辿っていく。少し肌寒い朝。もう少しで日の出てくる時間だ。見慣れた風景をなんとなくカメラに収める。角度を変えて、明るさを変えて。写る世界は全てモノクロだというのに、少し変わったように見える気がする。
「ねぇ、お姉さん」
肩を叩かれ、はっと後ろを振り向くと見知らぬ少年がそこへ立っていた。黙っていると
「僕のこと、撮ってもらえませんか?」
と、尋ねてくる。
『え…?』
返す言葉もなく、顔を見ることすらのできない私に、「ダメ?」と小さく聞いてくる。
その言葉の続きに、「遺影に使うからさ」と物騒なことを言い始めた。
ただただ、地面を見つめることしかできず立ちすくんでしまう。足が言うことを聞かない。このまま何も言わずに逃げてしまいたい。
つかつかと歩み寄ってくる少年に後退りしながら、『いやです』とだけ口にした。精一杯の私の抵抗。
そんな答えを予想してなかったように少年は眉を下げる。
「遺影に、ってのは嘘です。僕、写真とか苦手なんだけど、なんだろう。お姉さんに撮ってもらいたいなって思ったんです。ダメですか?記念に」
なんの記念かもよくわからない。出会えた記念?そんなの、馬鹿げている。
『ダメです』
やっと声が出て、足も動きそうな気がする。踵を返して逃げようとした瞬間、手を掴まれてしまった。
「お願いします。一枚だけ」
驚いて少年の容姿を見た瞬間、世界が真っ暗になった。見覚えのある、懐かしい表情。全然違うはずなのに、あの時のアナタを思い出させる。
『…一枚、だけ』
そう答えてレンズを少年に向ける。ファインダーを覗くふりをして、顔を見ずに一枚だけ写真を撮った。もちろんモノクロで。
カシャン
と、シャッターのおりる音。
切り取られたモノクロの世界の真ん中に、少年は写る。
??
ふとカメラの画面を見ると、思いの外強張った表情をしている少年が目に入った。眉間にシワを寄せて、大きな目を細めこちらにガンつけているような。
ああ、だから?思わずクスッと笑ってしまった。少年の写真嫌いの理由が腑に落ちたから。
「??何かおかしかったですか?」
不思議そうな顔をしてコチラに寄ってくる。カメラを見せてやると「またか…」と肩を落とす少年。
「僕が写真苦手な理由、わかっちゃいました?」
しょんぼりと捨てられた子猫のような表情で呟く。
『もっと、力を抜いたらいいのに』
はっ、と気がついて手で口を覆う。自分でも驚くほど自然に、話しかけてしまった。見ず知らずの人と、こんな。人と会話をすること自体、久しぶりだった。恐る恐る、少年に視線を向けると、困ったような笑みを見せてくる。
「やっと、笑ってくれた」
『え?』
聞き返すように声が出てしまうと、少年は慌てふためいている。
「いや、あの、、、なんでもないです!それじゃあまた!」
すたこらと走っていく姿が謎めいていて、首を傾げながらその背中を見送った。なんとも、不思議な少年。どことなく懐かしい雰囲気を持っている。どこかで会ったわけでもないのに。
ため息がつきたくて空を見上げると、白い霧が薄く薄く空気を染めていた。
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あれから朝方に出かけると、少年と会うようになった。相変わらずうまく笑えないが、彼は一生懸命に笑顔の練習をしている。指で口角を上げてみたり、頬をマッサージしてみたり、脇腹をくすぐってみたり。その姿が可愛らしくて、私は笑ってしまう。その姿を、写真に収めてみる。
カシャン
むむっとした顔がモノクロに写る。ひょこっと隣から
「どんなのが撮れました?」
と、覗き込んでくる少年。あ、見られた…。ささっと画面を隠してみたが、一足遅かったようだ。
「なんでモノクロ?本当に遺影にするの?」
冗談交じりに聞かれても、何も答えられずにただ黙っているしかない。この人に、あのことを言ってもいいのだろうか…。
『私、色が見えなくなったの。だからいつも、モノクロの写真しか撮れなくて…それで…』
俯いた先には地面が広がっている。やはり色はなく、グレーに染まる辺りを味気ないとさえ感じてしまう。あの山は何色、この花は何色。もはや季節でさえ、わからなくなってしまった。長くこの景色を見てきた。色のない世界から抜け出したいと思い始めたのかも知れない。
「僕も、その気持ちわかります。僕はうまく笑えない。だから…」
??
その続きが気になって俯きかけた顔を上げる。
「だから…、僕が色を教えるから、あなたは僕に笑顔を教えてください」
こくん、と一つ返事をした。首を縦に振って、真っ直ぐに君を見つめる。やはりどこかで出会っているような、不思議な気分。また困ったように微笑む彼が一つ頷いてくる。すると、私のカメラに手を伸ばし、カチカチといじっている。
「こうすれば、少し色に慣れてきますよ」
今までずっと、モノクロに設定された画面は、赤か青かよくわからないぼんやりとした色を放っている。一瞬で少し明るくなる世界。これも一歩踏み出せた、ということかもしれない。そっと、カメラを撫でて思考を巡らす。
今週末はアナタの法事が入っていた。これももう今年で最後にしよう、と思えるようになってきていた。
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バケツを返したように、黒い雨が降っている。
昨日の夜から続いていた雨に打たれないよう、真っ黒い傘をさして、式場へ向かった。
ピシャピシャと跳ね返る雨粒。
今日はカメラを置いて、アナタへ最後のお別れを言いに行く。
この数日で少年は少しずつ私に色を教えてくれた。
街路樹の緑、これは光を浴びると金色に光るらしい。山の向こうに差す夕日は茜色。昔から日本人に愛されてきた色だそうだ。唇の色は桜色。黒や白にも様々に名前がついていて、一概にモノクロで染めてしまうには勿体無いということ。
ファインダーから覗く世界は、少しずつ色を取り戻していく。少しずつ、人の見る世界が蘇ってくる。
白と黒で作られた式場は、この間までの自分を見ているようだった。一番後ろの席に座り、仏前を見つめる。
位牌になってしまった、アナタの顔。もう、どんな顔で笑うのかも、どんな顔で泣くのかも忘れてしまった。
すると、親族がゾロゾロと式場へ入っていく。その中に、何故かあの少年の姿があった。
どくん、と心臓が跳ねる。なんで、こんなところへ?嫌な予感が心を占拠していく。黒い雨が降り止まない今日。どんどんと気持ちが不安の煙に包まれていく。
ふと、何かに気がついたように、少年はこちらに目をやる。私と目が合った瞬間、あの困った笑みを浮かべた。
なんで、なんで?
推測が頭を駆ける。
もしかして、私への制裁だったのか。
私に近づいて、大切な人を見殺しにした私を責めるために。
今すぐにも、この場を立ち去りたい。
アナタに別れもつけず、傘も持たずに私は式場から飛び出していた。
降り頻る雨の中、髪も、喪服も、パンプスもびしょびしょに濡れて、モノクロの大空に叫ぶように泣き喚いた。
この雨じゃ、誰にも私の泣く声など届きもしないのに。
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あの日から、一歩も外へ出ていない。
また、私はモノクロの世界へ堕ちていった。何を食べても味がしない。起きているのも嫌になる。こんな世界に生まれた意味など、本当にあるのだろうか。なのに、また死ねない。神は私の死を許してはくれなかった。
カメラも何度も壊そうとして、振りかざした手。しかし、壊せない自分が、振りかざした手を止める。苦しい、苦しい。何もかもが嫌になって、頬を伝うのは色のない透明な涙だけ。
たまに浮かぶ、少年のあの表情。きちんと挨拶もせずに、ただ飛び出した私の足。
まだ、昼の空の色も、星の色も、少年の瞳の色だって教えてもらっていないのに。
私、このままでいいの?
自問自答したその時に、どこからか声が聞こえる。
“世界は色でありふれている"と。
土砂降りの中、ビニール傘とカメラを手に走り出す。撮らないと。この世界が終わってしまう前に。
ピシャピシャと駆け出した足はすでに水浸しになっていた。こんな雨の中にも色なんてあるのだろうか。信号も、空気も、街も灰色のように燻っている。しかし、走り出した足は止まることがなかった。
はぁ、はぁ、と息を切らして辿り着いた先に、見覚えのある影。
一人ずぶ濡れになって立っている少年の姿がそこにあった。
「あ…」
こちらを振り返る、大きな瞳。
逃げ出したくて、でも、きちんと話がしたくて、そっと透明な傘を傾ける。
自ずと口を開いたのは、少年の方だった。
「僕、あなたの恋人の弟です。黙っててごめんなさい。僕、笑えなかったんです。カメラを向けられると怖くて。ずっとずっと昔から。でも、兄の隣にいるあなたはいつも楽しそうで、笑顔で溢れてて。僕、あなたを見ていると笑顔になれる気がしたんです」
何も言わずに、ただ君の言葉を聞く。
「あなたが一番、傷を負っているってわかってました。僕よりもずっとずっと。兄の代わりになんてなれません。でも、僕はあなたに色を教えてあげられます」
そう言って、一輪の花を私に渡す。花屋で買ってきたのであろう。雨に濡れて包装は力なく萎れている。葉は濃い緑に白い柔らかな生毛で覆われている。凛とした茎の先に小さな花がいくつもついた美しい花の名前は、ブルースター。空に似た淡く優しい水色だった。
「時間が解決してくれる。だって世界は色でありふれているから…」
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晴れた日の朝。光に向かって彼は歩いていく。楽しそうに、時折スキップを踏みながら。そしてこちらを振り向こうとした瞬間、私は"今だ!"と思った。降り注ぐ太陽の光が、彼の肌を照り返している。小さな星屑を纏ったように、キラキラと粒が輝いて目を開けているのがやっとだ。その光の中に、他愛のない柔らかなそうな肌が写った。ああ、肌色って、こんなにも温みのある、優しい色だったっけ。血色のある健康な色。やっと、見えた。やっと、感じた。今まで見えてこなかったものが、やっと私の瞳に、鮮明に映し出される。私に色が戻ってきたこの瞬間に、この世界で、ファインダー越しに真っ直ぐ君と目が合った。
『ねぇ…笑って』
カシャンとシャッター音がきれる。
私の瞳に映る世界は、何よりも鮮やかな君の笑顔で満ちていた。