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【ドラニュース】

世界最長“延長28回”を完投…唯一20勝と40本塁打記録した男 初代ミスタードラゴンズ・西沢道夫伝説

2020年5月13日 13時9分

[渋谷真コラム・龍の背に乗って 強竜列伝・西沢道夫]

グリップに息(気合い)を吹きかけて構えに入る西沢独特のポーズだった=1950年

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 渋谷真記者による本紙の名物コラム「龍の背に乗って」。13日からは「強竜列伝」として、球団史上を彩った名選手を基本、隔日で紹介します。

 今の世に西沢道夫(1921~77)が生まれていたら、間違いなく大谷と並ぶ二刀流として世界中の注目を集めていたはずだ。投手として60勝、打者として1717安打。同世代の川上哲治は11勝、2351安打の数字を残しているが、本塁打では西沢(212本と181本)が勝っている。そのパワーの源は、大正生まれとしては規格外の6尺(約182センチ)という身長にあったのかもしれない。

 1935(昭和10)年の初冬。のちに初代ミスタードラゴンズと呼ばれる西沢は、意外な形でスタートを切っている。翌年1月に正式発足する名古屋軍の入団テストを受けた。職業野球への認知度は低く、学生野球のスターにはそっぽを向かれていた。選手不足を見越し、養成選手の募集をかけたのだ。今でいえば育成選手。9人の合格者の中に、品川の第二日野小学校高等科に在学中だった14歳の西沢がいた。首位打者と打点王に輝く52年に雑誌「野球界」に「苦難を越えて」というエッセーをつづっている。

 「私たち養成選手や見習選手はなかなかきつい練習をしたものです。外野の練習中何本も何本もノックを捕っている間にすっかりヘバッてぶっ倒れたこともありました」

 まさに苦難を越えて、37年9月に初出場。16歳0カ月は今も最年少記録である。戦前は投手として活躍した。40年には20勝。しかし、応召され復員したときには右肩を痛めていた。戦後は打者に転じ、50年に46本塁打。投打ともに秀でていた選手は他にもいたが、20勝と40本塁打を記録したのは西沢のみ。いずれも切れ味鋭い名刀だったが、同時に持つことがなかったのが残念だ。

 77年に野球殿堂入りした際に語った思い出は、打撃コーチ兼任だった54年の日本一と「昭和17年に延長28回を投げ抜いたこと」だった。42年5月24日の大洋戦(後楽園)は、延長28回、日没引き分けの死闘だった。延長無制限の大リーグでさえ例のない世界最長試合を、投手の西沢は完投した(相手の野口二郎も完投)。いわば超過勤務手当として、球団は出場選手に20円を支給したが、西沢だけは50円だったそうだ。

 71年に脳血栓で倒れ、闘病生活が続いていた。そのため、77年の球宴の際に行われた殿堂入り表彰式には車いすで出席した。草創期の職業野球を支えた大選手にとって、これが最後の晴れ舞台となった。同年12月に逝去。56歳だった。来年は生誕100周年。9月1日の誕生日に合わせ、監督以下、全選手が永久欠番の15を背負い、初代ミスタードラゴンズに敬意を表するのはどうだろう。

 

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