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「寂しい」

(91歳で亡くなった母の言葉)

 どうにか歩けて食欲もあって元気でデイサービスに通っていた母が、私の旅行中にショートスティで転倒し、その後急に体調を崩して昨年秋にあっという間に逝ってしまいました。

 母は亡くなる一年ほど前から、「お父さんの処へ帰る」とか「姉ちゃんはどこへ行ったの」とか、亡くなって久しい人たちのことを尋ねるようになりました。落ち着きをなくし、自分の部屋に一人で居られなくて何度も私をたずねてくる徘徊(はいかい)もありました。

 その時に涙を流しながら「寂しい」と漏らした母の言葉が、私の心に留まって離れません。今になって、その言葉への思いはより強まっています。

 6年前に父をみとり、その頃から母は忘れっぽさがひどくなったため、我が家で同居することになりました。我が家に来てからも、夜になると不安になるようでした。これから先自分が生きていくお金を心配し、口癖は「どこか働くところがないかしら?」。たまたま私が夜中に目覚めると、母がひとりで通帳を見ていたことが幾度となくありました。母の不安の大きさをあらためて感じ、かわいそうでたまりませんでした。しかしどうすることもできず、その度に「大丈夫よ、今までに十分あなたは働いてきたし、あなたは年金をもらっているから」と言いましたが、徘徊は続きました。

 亡くなる1年ほど前から、「寂しい」ともらすようになりました。寂しさに対してどう言葉をかけたらよいのか分からなくて、途方に暮れました。何度も言ってくるので困り果てて、「人間、年をとると寂しいものじゃないの?」と言い放ってしまいました。

 今思えば、自分の部屋と私の部屋を何度となく徘徊するのは、「寂しいから私の部屋に来て一緒に居て」という私へのサインだったのではなかったか。「一緒にテレビを見よう」とか、「ここに居て」というようなそぶりを見せていました。

 こう思うようになったのは、母の遺品を整理していて、母が趣味にしていた川柳の同人誌に初めて目を通したことがきっかけでした。同人誌にあった句や我が家に来てディサービスや夫の趣味のお花を見て作った川柳など900句ほどあり、私も年齢を経て理解できる句があると気付きました。

 「ランタナの 奔走切れば 匂い立つ」  国子 76歳

 「花の名を 忘れた貧しさ 涙ぐむ」   国子 88歳

 我が家に咲いていた花を見て、園芸が趣味だった母が感じて書いた句です。いろいろ大事なものも好きなものも忘れていく寂しさを共感出来ます。

 「生きること 厳しい時代に 寝て過ごす」  国子88歳

 物忘れがすすんでもこんな気持ちはいつもあったのね。

 「介護論 橋はいっきに 渡らねば」     国子73歳

 介護について母の気持ちを書いています。おかあちゃん一気に渡ったよ。

 母の川柳は分かりにくかったから、生前に読んでいませんでした。しかし分からなくても読みたいと思い始めた時が、母を理解し、寄り添おうと思うはじまりだった気がします。以前の私はそんな余裕も優しさもなく、自分のやりたいことに時間をとっていました。

 母は大連で生まれ育ちました。我が家に来てからも、大連で両親の愛情をいっぱい受けて育った日々、大連で商社に勤めて楽しかった日々を語る時の母はうれしそうでした。それを何度でも聞いてあげればよかった。

 昭和14年5月、母は15歳の時、日本に修学旅行に来ました。そのときのことを「わたしの鍵……私の大切な事」と題して、66歳の頃に川柳誌に書いていました。「(大連への)帰路、鴨緑江を渡るとそこは見渡す限りの地平線、その時の不思議な安堵(あんど)感は私だけの郷愁だったのかもしれない」と。

 鴨緑江とは? 母の死後、私はネットで検索し、写真や地図を見る日々が続きました。引き揚げの時はどんな風だったの? NHKの戦争証言アーカイブスで、満州からの引き揚げ者の回想録や大連の写真なども見るようになりました。母が晩年「寂しい」と漏らしたとき、「鴨緑江とは?」とか「大連からの引き揚げはどんな風だったの?」と質問を交えて話を聴いていたら寂しさに寄り添えたのでは、と今になって思います。また、「戦争は止めてと天に叫びたし」という母の川柳を見るにつけ、戦争体験を十分話せなかったことを寂しいと感じていたのかもしれないとも想像します。

 「私、最後はどこで死ぬの?」。母は亡くなる1年ほど前から、私に何回か尋ねました。「ここよ。我が家よ」というと、母は安心した様子でした。「終局には機械の助けを借りず、自分の鼓動でさよならが言いたいとおもっている」と母は書いていました。亡くなる1カ月ほど前、母の介護に来ていた妹に「さようなら」と何度か言いました。「おかあちゃん、もう死ぬことわかっているんやね」と、妹は台所に来て涙ぐんで私に告げました。そして私はベッドサイドで母の望み通りに最後をみとったことが、今の心の支えです。

 ごめんね おかあちゃん。私は、あなたの寂しい心に寄り添うことができなかった。ただ、おかあちゃんの寂しさが少しずつ分かるようになった今、戦争のことを子や孫たちに伝えるべき使命が私にはあると思うようになったよ。

◆ 兵庫県 鍋谷君子さん 71歳

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 朝日新聞文化くらし報道部「介護 あのとき、あの言葉」係

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