電脳筆写『 心超臨界 』

最善を尽くして後悔した者はいない
( ジョージ・ハラス )

読む年表 《 ペリー浦賀来航 》

2020-05-11 | 04-歴史・文化・社会
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『読む年表 日本の歴史』
【 渡部昇一、ワック (2011/6/3)、p160 】

1853(嘉永6年)
《 ペリー浦賀(うらが)来航 》
勅命(ちょくめい)を無視した幕府への怒りから「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」が生まれた

老中(ろうじゅう)水野忠邦(ただくに)の失脚(しっきゃく)から十年後の嘉永6年(1853)にアメリカのペリーが黒船(くろふね)で浦賀(うらが)に来航した。これはなんといっても大事件であった。

この頃(ころ)日本近海に現われたのはペリーだけではない。文化(ぶんか)元年(1804)にロシアのレザノフが通商を求めて長崎に来航したり、同5年(1808)にイギリスの軍艦フェートン号が長崎に侵入したりする事件があった。にもかかわらず、幕府は文政(ぶんせい)8年(1825)に「異国船(いこくせん)打ち払い令」を出したりするだけで、真剣に対応してこなかった。

すでに60年前の寛政(かんせい)3年(1791)に林子平(はやししへい)が、「細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀(おらんだ)迄、境なしの水路なり」という有名な言葉で始まる『海国兵談(かいこくへいだん)』を出版して江戸湾に外国船が侵攻するおそれがあることを指摘し、江戸沿岸の防備を提言していたが、時の老中松平定信(松平定信)は「奇言(きげん)人心を惑(まど)わず」という理由で、版木を没収し、子平を蟄居(ちっきょ)せしめてしまった。

ところが、今回のアメリカの開国要求は強硬かつ執拗(しつよう)だったため、

  泰平(たいへい)の眠りをさます上喜撰(*)  
  たった四杯(しはい=四隻)で夜も眠れず

  注(*):上喜撰(じょうきせん=銘茶の名で“蒸気船”にかけている)

という狂歌(きょうか)にあるように、町人・農民までも夜も眠れなくなって天下は騒然となった。

幕府は対処しきれなくなり、諸大名に相談する。このときの老中首座(しゅざ)は備後(びんご)福山侯の阿部正弘(あべまさひろ)だったが、これはしてはならないことだった。国政を合議制で決定しようという「公議輿論(こうぎよろん)」の考え方が広がり、幕府の権威を下げる結果につながった。ペリー来航の前年には江戸城で二度も火事が起こり、翌年には皇居が炎上、その次の年には江戸に大地震があって死者二十万を出した。幕府は復興事業に追われているところだったから、まさに内憂外患(ないゆうがいかん)であった。

幕府には鎖国など続けられないことがすぐさま理解できた。黒船が江戸湾に入ってきて江戸城を砲撃されたら止めることはできない。幕府は攘夷(じょうい)の不可能なことを知り、開港に向かった。だから、幕府は初めから責任をもって断固開国するというべきだった。

阿部は老中首座を堀田正睦(ほったまさよし)に譲り、安政(あんせい)4年(1857)、38歳で亡くなる。あとを引き継いだ堀田も、前任者阿部と似たような誤(あやま)ちを犯した。アメリカの駐日総領事(ちゅうにちそうりょうじ)ハリスに登城を許し、将軍家定(いえさだ)に国書を呈出(ていしゅつ)させたまではよいが、それからハリスの上申書を諸大名に示し、開港通商に関して意見を建白(けんぱく)させたのだ。幕府の自信のなさを示したものと考えてよい。

さらに安政5年(1858)、朝廷に修好通商条約(しゅうこうつうしょうじょうやく)締結のお伺(うかが)いを立てるに至って、幕府は崩壊への道を歩み始めたと言ってよい。朝廷に外交への発言権が生まれたからである。公家(くげ)たちの会議では議論が沸騰(ふっとう)したが、結局、修好不許可の勅命を出した。

その直後、井伊直弼(いいなおすけ)が大老(たいろう)に就任(しゅうにん)する。幕府では「条約調印に勅許(ちょっきょ)は不要である」という幕府側から見ての正論が大勢を占め、井伊大老もやがて屈して、ついに安政5年6月19日、神奈川において日米修好通商条約が調印された。攘夷(じょうい)に熱心だった孝明(こうめい)天皇はこれに震怒(しんど)し、二度も攘夷の意思を表明した。かくして「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」のスローガンが生まれることになった。
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