電脳筆写『 心超臨界 』

最善を尽くして後悔した者はいない
( ジョージ・ハラス )

不都合な真実 《 盧溝橋事件の「犯人」 》

2020-05-10 | 04-歴史・文化・社会
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日本の侵略など絶対にありえないことは、客観的な事実から明らかです。先に述べたように、日本軍の兵力は5600でしたが、宋哲元の率いる第29軍は15万の軍勢(ぐんぜい)でした。「15万」対「5600」という力関係です。いわば、日本軍は中国の大部隊に取り囲まれていたわけです。そんな十倍もの相手にこちらから戦いを仕かけるなどという無謀なことはありえないのです。


◆盧溝橋事件の「犯人」

『国難の日本史』
【 藤岡信勝、ビジネス社 (2015/4/30)、p209 】

盧溝橋事件は1937年(昭和12年)の7月7日に起こりました。

午後10時40分ごろ、北京の南西郊外の盧溝橋で演習をしていた日本軍部隊(支那駐屯軍第3大隊および歩兵砲隊)に銃弾が撃ち込まれたのが発端です。最初に1発撃ち込まれ、しばらくしてから、また十数発の弾丸が飛んできました。

盧溝橋というのは永定河(えいていが)という川にかかる大きな石の橋で、マルコ・ポーロが『東方見聞録』(平凡社ライブラリー)のなかで「みごとな橋だ」として紹介したところから、「マルコ・ポーロ・ブリッジ」などと呼ばれることもあります。日本軍はその橋の近くの荒れ地で演習をしていたのです。

さらにその近くには中国国民革命軍29軍が駐屯していました。司令官は宋哲元(そうてつげん)という人でした。

日本側は隠忍自重(いんにんじちょう)していましたが、翌朝の3時25分にまた銃撃があり、さらに5時半にも銃撃されました。そこで最初の銃撃から7時間後の午前5時半、日本軍もついに反撃を開始したのです。すると、盧溝橋上、その北にある城塞都市・宛平県城(えいへいけんじょう)、そして永定河の川中島から反撃を受けました。

こうして両軍の戦いとなりますが、では、最初に日本軍に銃弾を撃ち込んできたのはだれなのか? ここが重要なポイントとなります。

これには3つの説が出されています。

①「日本軍の計画的な軍事行動であり、侵略であった」とする説。これは中国の公式見解です。また、日本共産党の公式見解でもあります。さらにいえば、村山富市(むらやまとみいち)氏が首相在任当時、盧溝橋へ行って帰国したとき述べた発言もこの説を採っていました。日本の教科書でもこの説を採用しているものがかなりあります。

②次は、偶発的な出来事だったという説。昭和史を扱った一般書の多くがこういう書き方をしています。

③そして、「中国共産党の陰謀である」という説。その背景にはコミンテルン(国際共産党司令部)の方針があったとされます。

以下、各説を順番に検討していきたいと思います。

まず、①の「日本軍の計画的軍事行動」説は次の4つの理由から成り立ちません。

ひとつ目は、「なぜ中国に日本の軍隊がいたのか。それがそもそも侵略ではないか」という人がいますが、これはまったく事実を知らない議論です。どういうことかというと、1900年に「義和団事件」がありました。義和団というのは民間宗教を土台にした土着集団です。その暴徒が北京に押し寄せ、各国の大使館や公使館を包囲攻撃しました。そこで日本をふくむ8カ国が連合軍を出し、これを鎮圧しています。そして翌1901年、「北京議定書」が結ばれ、各国が自国民保護のため、中国に軍隊を駐留させることが清朝政府とのあいだで取り決められたのです。アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ロシア、イタリア、日本の8カ国に加えて、ベルギー、スペイン、オランダの計11カ国がこれに調印しています。要するに、日本軍駐留は北京議定書に基づく、合法的なものだったのです。

盧溝橋事件当時、日本は他国より多い5600人の軍を駐屯させていましたが、これは民間人の居留民が33000人と、ほかの国よりずっと多かったからです。民間人ひとり当たりの兵員をみますと、日本軍は民間人6人に兵ひとりという割合です。これに対してアメリカは民間人2人に兵ひとりでした。

ですから、最初の疑問――「なぜ中国に日本の軍隊がいたのか。それがそもそも侵略ではないか」というのは、まるで歴史を知らない人の言い方にすぎません。

2つ目に、日本の侵略など絶対にありえないことは、客観的な事実から明らかです。

先に述べたように、日本軍の兵力は5600でしたが、宋哲元の率いる第29軍は15万の軍勢(ぐんぜい)でした。「15万」対「5600」という力関係です。いわば、日本軍は中国の大部隊に取り囲まれていたわけです。そんな十倍もの相手にこちらから戦いを仕かけるなどという無謀なことはありえないのです。

世界的なスケールで当時の兵力をみてみると、中国が210万でトップ。次いでソ連(現ロシア)の160万。これに対して、日本は25万の兵力しかありませんでした。私たちは、日本がたいへんな「軍事大国」であったかのごときイメージを植え付けられておりますが、現在の自衛隊(24万)と変わらない数の兵しかもっていなかったのです。そんな日本がみずから侵略行動を開始するという想定自体、成り立ちません。

3つ目として、「軍事演習を行うこと自体、中国側に対する挑発ではないか」という議論があります。なるほど日本軍は盧溝橋付近で演習を行っていましたが、仮想敵は中国軍ではなく、ソ連軍でした。「野宿をし、暗闇のなかで適地に接近し、明け方に攻撃する」という訓練はまさに対ソ戦を想定した演習でした。

4つ目、決め手といってもいいようなポイントは、当夜の日本軍の装備です。

日本軍は銃こそもっていましたが、実弾を込めていませんでした。空砲です。ですから、もし攻められても応戦できません。ましてこちらから攻めることなどありえません。しかも日本兵は鉄帽をかぶっていませんでした。頭がまる出しの状態です。こんな装備で戦闘を目的にしていたなど、絶対にありえないのです。

このように装備から見ても、当時の戦力配備から見ても、「日本軍の計画的侵略行為」という説は成り立ちません。微視的に見ても、巨視的にいっても、ありえません。

②の「偶発的事故」という説もむりでしょう。というのも前述したとおり、日本軍に対する銃撃は午後10時40分の1発ではなく、その直後の十数発、さらに翌朝の3時25分、5時半と連続しているからです。その銃撃が意図的であったことは否定できません。

では、「犯人」はだれなのか。

それは中国共産党です。したがって、③が正解ということになります。

じっさい日本軍が反撃を開始した8日午前5時半の数時間後、延安にある中国共産党本部から「78通電」と呼ばれる電報が発信されています。日本国際問題研究所の『中国共産党資料集』(勁草書房)第8巻によれば、以下のような電報です。

  7月7日夜10時、日本は盧溝橋に於いて中国の駐屯軍馬治安部隊
  に対し攻撃を開始し、馬部隊に対し、長辛店(ちょうしんてん)への
  撤退を要求した。

  日本軍のかかる挑発行為が遂に大規模な侵略戦争にまで拡大するか
  否かにかかわらず、天津と華北は日本軍に武装侵略される危険があ
  り、頗(すこぶ)る切迫している。

これはおかしい。ご覧のように、この電報は「7月7日夜10時、日本は盧溝橋に於いて……攻撃を開始し」と書いています。しかし日本軍が反撃したのは実際は翌8日の午前5時半でした。

これはいったいどういうことか?

この電報は「予定稿」だったのです。いまも触れたように、日本軍が攻撃を開始したのは「7月7日夜10時」ではなく、翌8日午前5時半ですから、この電報は明らかに事前に用意されたものなのです。

つまり中国共産党は7日の夜10時ごろ、日本軍を銃撃する計画をもっていたのです。すると、日本軍は当然、応戦してくるだろう。だから、「7月7日夜10時、日本は盧溝橋に於いて……攻撃を開始」と書いてあるのです。ところが彼らが最初の銃弾を放ったのは予定より遅れて、10時40分でした。盧溝橋と延安は千キロも離れていますから、この40分の遅れをつかみ損ねたということでしょう。

しかも、日本軍はただちに攻撃に移りませんでした。反撃に転じたのは翌朝です。そのため、この「予定稿」は自分たち(中国共産党)の策動をみずから暴露することになってしまったのです。

産経新聞の平成6年9月8日付夕刊によれば、支那派遣軍情報部北平(ほくへい)(北京)支部長・秋富重次郎大佐は次のように証言しています。

事件(盧溝橋事件・藤岡注)直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共の軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」(成功した)と3回連続反復送信していた。

要するに、盧溝橋事件というのは中国共産党の仕組んだものだったのです。「犯人」は中国共産党だったのです。
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