まあいまさらもう隠す必要なんてないんですけどね。
先の記事ではそれでもボカして書きましたが、そろそろ限界なので。
たつき信者(たつ信)の言動を書きだすときりがないので、
いくつか特筆の点を列挙します。
ひたすら詭弁・妄想・不誠実な言動を繰り返すために全く話が通じない。詭弁はもちろん、個人の妄想を既成の事実であるとして論難してくるため、
全くまっとうな議論が行なえない。
ほぼ全ての場合で、他人から言われたこと、KFPが公表した情報を
自己の都合に合わせて文脈を無視して曲解し、
ときには捏造まで加えた言説を吹聴する。
そのためたつき信者の主張を逐一吟味することが必要であるが、
それには到底個人では負担しきれないコストがかかる。
それに対してたつき信者が自己の妄想の言説を創作し公然とばらまくためのコストは
非常に安いため、この非対称性がたつき信者の増長を加速している。
そのようなデマ・ガセの情報を収集・拡散する『けものフレンズちゃんねる』というまとめサイトがあるが、
このようなあからさまに『けものフレンズ』とその制(製)作者とキャスト、けものフレンズファンに対する
誹謗中傷・名誉毀損を公然と行なっているサイトを平然と擁護する。
また、その記事を事実として論拠に常用する。
例:ニコニコ動画への中傷動画を制作・アップロードし続けている通称「ワイトキング」
投稿動画の例:
たつき信者は自己を「けものフレンズのファン」と称し、
自己に都合の悪い言動を行なう者をその「ファン」をおとしめるとして
「真フレ」「工作員」などといった蔑称で呼ぶ。
これは、自己の言動は『けものフレンズ』にとって「本来あるべき姿」になるような
有益な活動であると確信しているためである。
無論その「本来あるべき姿」とは、
単に自己にとって都合のよい存在であるという意味以上のものではない。
さらに言えば、自分たちと同種の主張をなす同類の者が、
自分たちにとって都合の悪い言動をなすと、その者を
「対立煽り」「イナゴ」などと称して
あたかも自分たちとは全く関係がないと分断を図り、
さも自分たちは当初から清廉な言動をしているかのごとく主張する。
(いわゆる
おあしす運動……おれじゃない、あいつがやった、しらない、すんだこと)
身勝手な被害者意識が激しく、
とりわけKFP関係に対する正当な理由のない他罰性が非常に強い。
アニメ『けものフレンズ2』がたつき監督のアニメ『けものフレンズ』への冒涜であり、
それを破壊する悪意があるなどという徹頭徹尾完全な妄想を当然の事実だと言い張る。
さらに、自分は『けものフレンズ2』によって心身に失調をきたしたなどといい、
単なる個人の体調や精神の不具合の原因がその作品にあるなどという
常識ではありえないとしか言えない主張をするのみならず、
その責任を作品の制(製)作者がとるよう激しく強要する。
ニコニコ動画で配信されたアニメ『けものフレンズ2』のアンケートに
「『5 良くなかった』を押そう!」などと
工作を平然と扇動する。
同人誌イベントでたつき信者に対して行動を起こした人のサークルスペースを
盗撮する。
『けものフレンズ』コンセプトアートの展覧会である『けものフレンズわーるど』に
「たつきをかえせ」という峠三吉の原爆詩集のパロディの文書を
来場者の寄せ書きボードに貼り付けるなど、
『けものフレンズ』関係イベントに
押しかける。
自分たちの妄想的主張のためにKFP参加企業はもとより、
KFPや『けものフレンズ』に関わった企業、
警察や公正取引委員会などの政府機関に
「お問い合わせ」と言う名の迷惑な通報を扇動する。
しかし、『けものフレンズ2』とその制(製)作者に関する通報(通称「お問い合わせ」)は
平気で集団的に行ない、かつそれを扇動するにもかかわらず、
たつき監督(irodori)と福原プロデューサー(ヤオヨロズ)の両名に
対してだけは
どれだけ確実な客観的根拠とそれに基づいた合理的な推測による二人に対する疑惑を
指摘されても絶対にお問い合わせを行なわない。
なおかつ、他人がそれを行なうことを激しく非難する。この点がたつき信者が「たつき」の「信者」と呼ばれる一つの理由でもあり、
また彼の言動の
不誠実さ、首尾一貫性のなさのあらわれでもある。
アニメ『けものフレンズ2』とその制(製)作者とキャスト、KFPを擁護する者に
対して誹謗中傷・名誉毀損を平然と行なう。
そのことを指摘・注意されると自己の勝手な所論をふりかざして
正当化し、ときには注意者を激しく非難する。
とりわけ、
コンセプトデザイナーの
吉崎観音氏、
テレビ東京のプロデューサー
細谷伸之氏、
監督の
木村隆一氏、
トマソンのプロデューサー
沼田心之介氏
が標的とされている。
なおたつ信は
「クリエイターへの蔑視を是正してその権利を守る」
ことを旗印としているが、
他ならぬたつ信自身がクリエイター蔑視の言動を繰り返している。上のリンクにTwitter アカウントへのリンクを貼っておいたので、
この人たちのツイッターのリプライ欄に集まった暴言を実際に見てほしい。
『2』第9話イエイヌ回での木村監督への暴言リプライの例さらに、吉崎氏や細谷氏らが『けものフレンズ』
以外の作品に関わったときにも
その作品をからめて攻撃してくる者がいる。
例:
ポケモン映画の公開に合わせたイラスト寄贈の公式ツイート『けものフレンズ』を揶揄するために不謹慎な発言を平然と行なう。
例:京都アニメーションの放火事件
注:テレビ東京は2019年の株主総会でたつき監督のツイートした脚本料未払いの件を否定したため、
たつき信者から目の敵にされている。
『けものフレンズ2』制(製)作者に対する
誹謗中傷・名誉毀損を公然となした者(呪詛)が
『けものフレンズ2』を侮辱する目的で制作した
『けものフレンズR』とオリジナルキャラクタ『ともえ』を、
それらの事情を知っていながら
「『けものフレンズ2』を回避して『けものフレンズ』の二次創作を行なうことのできる作品」
などという脱法的弁解を弄してそれを使用する。
漫画家やアニメーターなどの
クリエイター職の者や
表現規制に反対する政治活動をしている者の中にもこれらの言動をなしたり
与したりする者がいる。
結論として、たつき信者とは、
『けものフレンズ』を視聴したごく一部の者たちの間で広まった集団ヒステリーが拡散して、これに面白半分で便乗しているものも含めて、
きわめて迷惑な言動(ときには犯罪行為)を繰り返し行なう者である。
たつき信者への対処法ですが、基本的に『けものフレンズ』に関しては
デマ・ガセしか言わないので
全く信用に値しないと無視する、
要求は全てはっきりと拒絶する、
一切の議論をしない、(参考
『
不当クレーム・悪質クレーマー対応 - 多治見ききょう法律事務所』
『
有事の対応 | 暴力団対策について | 公益財団法人 暴力団追放運動推進都民センター』)
でいいのですが、
もし相手をするときは、彼の言動の全てを一文ごとに分解して
それらを一つ一つ逐一、
1. それは客観的事実であるか。
それとも他者の主張の引用であるか。
さもなくば、発言者の主観的認識にすぎないか。
2. もしそれが客観的事実ならば、それが真正の事実であるか。
信用のおける文書・発言の記録によって証明され、
真実であると信じるに足りるものであるか。
3. もしそれが他者の主張の引用ならば、それは真正の引用であるか。
具体的に何(誰)を出典としたものであるか。
発言者の恣意的な切り抜き(文脈の無視・文意の曲解)や捏造が加えられていないか。
4. もしそれが発言者の主観的認識ならば、それは真実の事実や真正の引用
もしくは他の正当な理由によって裏付けされたものであるか。
これらを吟味しなければなりません。
はっきりいって、これを忠実に行なうのは、個人が許容できるコストを
超えてますので、やはり無視するのがいいでしょう。
要するにカルト宗教や疑似科学への反論方法に比例したものです。
ちなみに、過去記事の『FAQ』は、
このたつき信者への反論のために書かれたものです。
ただ彼の主張の量があまりにも莫大で到底筆者一人の能力ではまかなえないので
ほとんど書きさしになってしまいましたが……。
最後に。
今回の事案は、
表現の自由、とりわけ批評の自由というものについて
従来の私見を再考させられるほどの衝撃でした。
というのも、
エログロなどの表現規制に反対する政治・言論活動を行なっている言論者が
上記のような虚言を弄したり、それに賛同・擁護するような言動を見たからです。
何らかの団体・集団
──政治団体はもちろん、文芸の集団に至るまで──
が集団内の健全な紀律の粛正のために、
前記の自由を掣肘してでも敢えて禁止の命令を出すというのが不可避であること。
そして、それを自治体・国家全体に拡張して法規制で取締るべきという命題を
いかに考えるべきか。
これは自由とは何かについての、
古代ギリシア哲学の大学者田中美知太郎の言を常々想起させられるものであり、
その言をもって締めとしましょう。
「わたしの演題は、自由に価するものは何か、という題になっております。
わたしはこの題を選ぶときに、昔のギリシア人が言って、一般にもよく知られている
『諸君は諸君の持っている自由に価するような人間になれ』
という言葉をふと思い出したのです。
つまり、その言葉の意味は、わたしたちが現に持っている自由、
あるいはこれからわたしたちが持ちたいと思う自由、
そういう自由は単にそれだけを切り離して考えるべきものではなくして、
その自由を欲し、自由を持とうとするわたしたち自身をいっしょに考えなければならない。
いったいそれにわたしたち自身が価するかどうか。
またその自由に価するのは、いかなるわたしたち自身であるかという反省が、
いつもわたしたちの自由を求める努力に結びついていなければならないということです。」
(田中美知太郎『自由に価するものは何か』)