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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

04 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

『菜根譚』『サキャ格言集』。思想入門にオススメの薄い本はサキャ、孫子、君主論、メノン 

今回も短い。参考資料だけ長い。
目次
思想を学ぶ意義
最初の一冊にオススメの思想書
トロッコ問題について
菜根譚メモ
サキャ格言集メモ
参考資料(記事内最長)



思想を学ぶ意義

無自覚な狂信者となり害悪を撒き散らさないために。
宗教に見えにくい宗教を脳に埋め込むミッションに対抗するために。

※Mission
=伝道、布教、宣教、使命、天職(calling)

ニー仏@neetbuddhist
また今日も、
「我こそは汚い現実も直視できる、知性と勇気を具えた観察者!」とアピールしながら、
主張の中身は単に何のエビデンスもない自身の願望を開陳しているだけに過ぎない、
敬虔な「現実教」の信仰者を目にしてしまったタピね。

まあなにしろ、自分の信仰を「普遍的な事実」だと思い込んでおり、
異なった世界の見方をする人間を「間違っている」と攻撃する人間ほど困ったものはないタピよ。
そういう人は一般的には「狂信者」と言われるのだけど、
恐ろしいことに現代の狂信者たちは多く自身を「無宗教」だと思い込んでいるタピね。

9月28日
「我こそは厳しい現実を直視する者!」的な人に対して
「現実にはそんなに酷くないところもあるよ」などと言うのは相手を喜ばせるだけの逆効果で、
「ではさらに厳しい現実も見ましょうよ。あなたの論理に従うなら、ここも凄く酷いですよね」とむしろ背中を押してやるほうが、相手の自壊は早まるタピよ。

強い主張をする人には、しばしばその本人にすら自覚されていない「神」がいるし、
その「神」の姿というのは、その人の主張に抵抗することではなくて、むしろそれに勢いをつけて加速させてやることで顕わになってくるタピね。

岡沢 秋(maat)@Aki_Okazawa
9月28日
言っちゃダメなんだろうけど
「先進国の人間は皆、環境を破壊している罪人!」って騒ぐのって、
人類はみな原罪を背負っている罪人ですって主張してる某世界宗教に似てる気がする。
そのあとに宣教師が「だから環境を大事に教に入信してください、今すぐ」って付け加えるところまでソックリ

あと「環境教を信仰しない者は悪人。弾圧して良し」とか
「布教しないと!」みたいな雰囲気も似てるし、なんかこう、やっぱこれ宗教のテンプレに沿ってると思う。
実に興味深い…。



終末論がプリセットの奴はこれだから厄介だ


>エコファシズムの思想的な背景には、
大幅な人口減の必要性を唱えるネオ・マルサス主義の影響を受けた生物学者のギャレット・ハーディンによる
優生学的な選別思想[1][2]が基盤にあるだけでなく、
ロマン主義や情緒主義(emotionalism)との結びつきも指摘されている



古典の選び方

翻訳が複数あるなら比較サイトを見て
訳者の解釈と原意が混ざってないものを選ぶ。
解釈と原意が全く混ざらない訳は不可能だが
解釈を原意と思われて平気なら翻訳する資格なし。
個人の解釈を超訳とごまかし原著の記述のように偽るなら読む価値無し。
要約+解説と書け。



最初の一冊にオススメの思想書

東洋の薄い本『孫子』。
仏教の薄い本『サキャ格言集』。
次にスッタニパータ。
西洋の薄い本『君主論』。
聖書は創世記、出エジプト、ヨブ記、マルコ伝、黙示録から。

西洋哲学なら前提の古典がない
バラモン輪廻思想の薄い本『メノン』。
最重要な『国家』は長い

メノンの過去記事↓
終末なにしてますか?神学ですか?哲学してもらっていいですか?
手加減なしで書く哲学記事と、プラトン『メノン』メモと翻訳比較
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-162.html

国家の過去記事






欧州貴族陣営の特徴は同性愛容認。
表向きはキリスト教で禁止して、同性愛をタブー=利権化。禁酒法。
“それに、きみは同時に、わたしが美少年にはからきし弱いということに、どうやら気づいたようだね。
そのようなわけで、わたしはきみの気を引くようにして、答えてあげよう。”
プラトン『メノン』






(パイドン
”(三) 哲学者は死を恐れない。
死とは魂と肉体との分離であり、
哲学者は魂そのものになること、すなわち、死ぬことの練習をしている者であるのだから

p.28

プラトンもグノーシスもバラモン教が元ネタだろうからね)


(パイドン)



(パイドン
p.147
”「魂は死を受け入れないのではないか」
「受け入れません」
「それなら、魂は不死なるものだ」”
)



(p.166
多くの大がかりな神殿泥棒や、
多くの不正で非合法な殺人や、
その他これらに類するかぎりの事柄を犯した者たちは、
かれらにふさわしい運命によってタルタロスに投げ込まれ、
そこから決して脱出することがないのである。



(p.204から205 訳者解説
ホメロスの霊魂観
=死ぬとプシューケーはハデス(あの世)へ行くが、
それは生きている間のわれわれ自身にそっくりではあるが、
影のような、煙のような、実在性の希薄な亡霊で、
ものを見分ける力さえない無力な存在。

死とは魂と肉体との分離である、というソクラテスの考えは
直ちにホメロスの霊魂観を連想させるが、案の定、
死ねば魂は煙のように飛散して消滅してしまうではないか、という反論から
霊魂不滅の証明の試みが始まる。
ソクラテスは肉体との分離を生き延びた魂が存在を持続し、
生前よりもより以上の力と知力と自己同一性を保持し続けることを、
示したい(七〇B)。
なんの理解力ももたない煙のような亡霊の持続という
ホメロスの朦朧とした霊魂観に、
ソクラテスは永遠のイデアに同族の理性(七九D)を接ぎ木して、
不滅の霊魂という観念を仕上げようとするのである。

『パイドン』の霊魂観におけるもう一つの問題点は、
ソクラテスは「自己同質性を保つ思惟する力としての霊魂」の不滅を確立しようと
しているのだが、それは、
オルフィズム・ピタゴラス派の魂の輪廻転生という信仰とは両立しにくい、という点である。
ソクラテスは、この派の信仰から、
肉体は魂の墓であり、
肉体的欲望から浄化されることにより魂は救済される、という信仰を受け取ったが、
輪廻転生をまともに受容したのかどうかははっきりしない。
ピタゴラスは幾世代にも亘る輪廻転生の記憶を保持することにより
超人間的な知識の所有者であったと伝えられており(断片一二九)、
また、エンペドクレスも自分が乙女であり
波間に躍る魚であったと語っているが(断片一一七)、
このような信仰は、乙女であった自分と魚であった自分と
現在のエンペドクレスとの間に意識の連続性があることを前提している。

ソクラテスにとっては、真実の自己としての魂は、
真に哲学的となり、あらゆる感覚的惑乱から解放されて、
自分自身へと凝集した精神の自己同一性だけなのである。
それ故に、輪廻転生を含意するかに見える「生と死の相互転換」という
霊魂不滅の第一証明は無言のうちに真剣な議論の圏外に外され、
以後問題として登場することさえない。

(完全にバラモン教の影響)


シーア兄貴@Zfb3PBTklWSvAEB
” 10月13日
アリストテレス先輩
常人感覚を超えてある何らかの技術を発明したものとしての知恵とただの感覚・神秘を使い分けるの巻
よーは感覚でしかないものを知恵としない、神秘は知とみなせない

アリストテレス先輩
最も高度な知は必要も娯楽の為でもない知=学的認識が最も高度な知である
これに準拠すると高度な知を「教養」ともし言い換えられるなら「生活にも、娯楽にも使われない知である学的認識の中に佇める事」を教養と言い換える事が可能かもしれない

10月15日
アリストテレス先輩の言う倫理
五つを兼ね備えたものを倫理という
認識・技術・理性・思慮・知恵
この五つを兼ね備えていないものを倫理とは言わないし、
道徳と称する事も出来ない
即ち、日本で言われている道徳・倫理はただの感覚で最も下等なもの

ギリシャ哲学における哲学者は「所謂、神に最も近いもの」なので哲学者が死を恐れないのは当然
そもそもの「神学」の概念が違う
アリストテレス先輩曰わく
所謂「神」の学問というのは第一の諸原理を知っており、且つ最も形而下から遠いものなのだから、
その知を求める愛知者が神に近いのは当然の事


(お気持ちは道徳・倫理ではない)

科学哲学たん@Vtuberになりたい@kagakutetsugaku
初心者
「哲学始めるにはどれがいい?」

優しい哲学徒
「ニーチェ」

じっくり育成したい哲学徒
「アリストテレス」

沼に引きずり込む哲学徒
「カント」

話しかけてはいけない哲学徒
「ハイデガー」

末期
「ウィトゲンシュタイン」

峨骨@Chimaera925
59分59分前
ソフィーの世界にしとけ

ソフィーの世界bot@Sofies888verden
9月10日
だれもきみのかわりに跳躍してあげるわけにはいなかない。
きみは一人で決断して、一人で跳ばなくてはならないんだ #ソフィーの世界



哲学史は時代背景理解する為の歴史とセット。哲学史から哲学しない哲学者オタクになると一向に哲学が始まらなかったり。哲学するのは良いけど、車輪の再発明はちょっとアレなので最低限の基礎教養くらいは要る。何でも使いよう。単なる知識のコレクターになるか、それを使って遊ぶのか。

料理のレシピ本を丸暗記したり完成写真を眺めるだけじゃ料理人にはなれない。

労基法知らないのに労働者や経営者になったり、
憲法理解していないのに政治家になれる国だから哲学しない哲学者が居てもおかしくはないか。

最低限、宗教の知識も居るな。どんな学問でも単独のカテゴリで完結しているものなんてそうそう無い。
影響し合って繋がっている。
基礎教養疎かにして専門分野だけ学ぶと専門バカになってしまう。

科学哲学たん@Vtuberになりたい@kagakutetsugaku
9月18日
【リベラルアーツ】
西欧の大学制度における、人間の基本的技能を作る自由七科のことだよ。
大きく、
科学的四科(算術・幾何学・天文学・音楽)と
文法的三科(文法・修辞法・弁証法)に分けられるね。
現代では文理複合(横断)領域の基礎的な教育プログラムのことを指すよ。



元ネタを知っておくとキリスト教的な価値観を刷り込まれそうになった時に感知できる事もある。

ニューエイジ、スピリチュアル、自己啓発は宗教色脱色してあるから、
知らないと防ぎにくい。他の宗教に擬態したキリスト教、神智学系統の亜種にしてもね。

峨骨@Chimaera925
2017年12月15日
救世主だの英雄だの絶大な指導者なんぞ何で求めるかねぇ。そんな一人の資質や価値判断で世の中が変わるなんておぞましい事、想像もしたくない。誰かに下駄預けてお任せで導いて欲しいって連中はそうでもないか。
行き先が地獄でも後で文句言うだけさ。

2015年8月2日
毎回毎回、右と左だ正義だ悪だの異教徒だのとワンパターン過ぎるわ。
ワンパターンでいいのは吉本新喜劇と笑点。終末演出して救世主(メシア)が来るキリスト(ギリシャ語でクリストスアラム語でメシア、神に油を注がれ/塗られた者)教とかワンパターン過ぎ。
アジアに自称メシア一杯でカルト一杯だし。

新約聖書~マタイによる福音書~より
@BibleJP_Matt
9月22日
命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない。
にせ預言者を警戒せよ。
彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、
その内側は強欲なおおかみである。
(マタイによる福音書 7章 14~15節)

峨骨@Chimaera925
18時間18時間前
あの連中とかこの連中とか、視界に入れないようにしているのにな。

A&B・ストルガツキー @Strugatsky_b
4月25日
きみは悪から善をつくるべきだ、
それ以外に方法がないのだから。
  ロバート・P・ウォーレン
『ストーカー』

4月25日
謙虚であることは、もちろんそれはそれで結構だが、その価値はいつもかならずしも同じとはかぎらない!
(『友情についての物語』)



トロッコ問題について

トロッコ問題は功利主義やカントの道徳論などをまともに学んでいない者に
扱える代物ではない。
倫理・道徳の必須要素を聞いてみて
返答に理性・思慮・知恵がなく、
お気持ちがあるなら論外。
倫理・道徳がコロコロ変わるお気持ちに左右されると考えている者に
理性・思慮・知恵はない。
倫理・道徳がお気持ちで決まると言う者に倫理・道徳(理性・思慮・知恵が必須)は教えられない。





二択を迫って罪悪感植え付けただけで、
周りに助けを求める事の大切さを知ってもらおうとするやり方が根本的にズレている。
それが目的ならばトロッコ問題使って脅しをかけなくても出来たはずだ。手段が目的になっている。

義務論に基づこうが功利主義に基づこうが、
正解は出ないし正解は無い。
一種のパラドックスだからな。
こいつを投げかけて、答えが無いものを考えろと投げっ放しにする時点で、
このカウンセラーはトロッコ問題の使い方が解ってない。

カントの義務論とベンサムの功利主義を比較する思考実験としては使える。
少なくとも子供を脅しつける道具じゃない。




悪意のある問いかけに、まともに答えてやる義務なんざ無い。

罪の意識植え付けて宗教勧誘?
原罪なんて都合のいい道具発明した奴も居たな。
素直に受け止めたり罪悪感を感たりする必要なんざ無い。
ハナからカタにハメに来ている奴相手なら尚更だ。
言葉で揺さぶって隙を作り他人を支配しようとするクズはごまんと居る。

2016年4月25日
助けたければ助けたい方を助けりゃいいし、
助けたくなければ選ばなくていい。
どちらを選んでも恨まれる。全ての人から感謝なんてありえない。
エヴァでシンジくんが「たまたま」世界を救える状況に居合わせて
「逃げちゃダメだ」と世界を救う義務や責任を追うけど、
逃げたければ逃げれば良かったのだ。

2017年2月14日
逃げちゃダメだと言われたときは、
逃げるか、
逃げられないなら逃げなくてはいけない危険を物理的に排除・抹殺しなくてはいけない。
その選択肢をハナから捨てると、
逃げるという選択肢が消える。
愛だの協調だのと自分に言い訳して自分を騙す間に、
その思想にどっぷり漬かったゾンビにされてしまう。
2016年6月2日

エヴァなんかモロにあっち系。
シンジ君を家族がキリスト教系のカルト教の信者で、カルト教に入信させられた被害者として見るとタチの悪い自己啓発セミナーアニメに見える。ネガティブなシンジ君を見てポジティブになればいいのに、と思ったら思う壺。正解は「逃げちゃダメだ」の逆。逃げなきゃダメだ

🦀
🦀
🦀ثنا عشر
‏ @Zfb3PBTklWSvAEB
10月5日
トロッコ問題の答えは簡単で全員死ぬこと
全員死ねば全てが解決する

よーはアベシとその不愉快な汚物が全員死んで
それに対して熱狂だけするアホな両クソヨク全員死んで
その分肢機をいじって誘導する奴も死んで
その事故で株価いじって儲ける連中も死んで
Twitterで冷笑かましたり、アホなことを叫ぶ連中も死ねばいい
即ち、トロッコ問題に関わる全部が死ねば良い




菜根譚メモ

『菜根譚』(中村 璋八,石川 力山)
pp.186-187
前集146 大悟覚醒の時

一燈蛍然、万籟無声。
此吾人初入宴寂時也。
暁夢初醒、群動未起。
此吾人初出混沌処也。
乗此而一念廻光、炯然返照、
始知、耳目口鼻皆桎梏、而情欲嗜好悉機械矣。

一燈蛍然(いっとうけいぜん)として、万籟(ばんらい)声無し。
此れ吾人(ごじん)初めて宴寂(えんじゃく)に入(い)るの時なり。
暁夢(ぎょうむ)初めて醒め、群動(ぐんどう)未(いま)だ起こらず。
此れ吾人初めて混沌より出ずるの処(ところ)なり。
此れに乗じて一念廻光し、炯然(けいぜん)として返照(へんしょう)せば、
始めて知る、耳目口鼻(じもくこうび)は皆桎梏(しつこく)にして、
情欲嗜好(じょうよくしこう)は悉(ことごと)く機械なることを。

蛍然
蛍の光のようにかすかなともしび。

万籟
籟は三孔の笛。
ここでは音、ひびき。

宴寂
宴=安。
宴坐寂静のこと。
坐禅して心身を寂静にし、
真理を観察すること。

混沌
天地開闢の初めにおける陰陽未分の、
物事の区別が判然としないさま。

一念廻光~炯然返照
禅では廻光返照(えこう へんしょう)と熟字して、
自分の智慧の光をめぐらして自己自身を反省し、
真実の自己を見いだすこと。

炯然=はっきりと、あきらかに。

耳目口鼻
眼耳鼻舌身の五官がその対象に向けて起こす五欲の感情のこと

桎=足枷。
梏=手枷。
桎梏は四肢を拘束する刑具で、束縛となるものの意。

機械
機も械も巧妙なからくりの意。
心をおとし入れる巧妙な構造をもったしかけ、からくり。

訳文
夜も更けて一灯の光もかすかになり、すべての物音も途絶える。
これこそ私が心身を静かにして真理を観察する時である。
暁の夢から醒めたばかりで、万物の活動もまだ起こらない。
これこそ私が区別のない状態から出てきて真実を見極める時である。
 このようなことをして、知恵の光をめぐらし、はっきりと自分自身を反省したなら、
耳目口鼻の感覚というものは、みな本来の心を束縛する手かせ足かせであり、
煩悩や物欲は、すべて本来の心をあやつり誤らせるからくりであることがわかる。


前集164

勤者敏於徳義。
而世人借勤、以済其貧。
倹者淡於貨利。
而世人仮倹、以飾其吝。
君子持身之符、反為小人営私之具矣。
惜哉。

勤(きん)は徳義(とくぎ)に敏(つと)む。
而るに世人(せじん)は勤を借りて、
以て其の貧を済(すく)う。
倹(けん)は貨利(かり)に淡し。
而るに世人は倹を仮(か)りて、
以て其の吝(りん)を飾る。
君子、身を持(じ)するの符は、
反(かえ)りて小人(しょうじん)の私(わたくし)を営むの具(ぐ)と為れり。
惜(お)しいかな。


つとめること、熱心にはげむこと。

敏(つと)む
敏活、敏捷のことで、
すばやくつとめはげむこと。

淡し
厚く求めることをしない、
無欲恬淡とした心。


護符、お守り。
勤・倹の徳は、
君子が身を持するためのお守りのようなものであること。


勤勉ということは、道徳の実践にはげむことである。
それなのに世の人々は、勤勉に名を借りて、
貧乏を救うことだけに心を用いている。
また、倹約ということは、財貨に恬淡としていることである。
それなのに世の人々は、倹約に名を借りて、
自分のけちを飾り弁解する口実に使っている。
 君子が身を保っていくためのこの勤・倹という守り札は、
今やかえって小人が私利私欲をはかるための道具となっている。
惜しいことである。

(勤勉は金稼ぎをごまかすための言葉ではない。
真の勤勉とは道徳を実践することだ。
倹約は自分がけちなのをごまかすための言葉ではない。
真の倹約とはお金に執着しないことだ。

菜根譚は労働教≒拝金教を否定していることが明白)

恩宜自淡而濃。
先濃後淡者、人忘其恵。
威宜自厳而寛。
先寛後厳者、人怨其酷。

恩は宜しく淡(たん)自(よ)りして濃(のう)なるべし。
濃を先にし淡を後にせば、人は其の恵(めぐみ)を忘(わす)る。
威(い)は宜しく厳(げん)自(よ)りして寛(かん)なるべし。
寛を先にし厳を後にせば、人は其の酷(こく)を怨(うら)む。


あっさりしていること、
それと知られないようにすること。


こまやかなこと、手あつくゆきとどくこと。


人に恩恵を施すには、
初めはあっさりとしてから、
後に手あつくすべきである。
先に手あつくして後であっさりとすると、
人はその恩恵を忘れてしまうものである。
 人に威厳を示すには、
初めはきびしくしてから、
後にゆるやかにすべきである。
先にゆるやかにして後できびしくすると、
人はそのきびしさを恨むようになるものである。


(マキャベリ『君主論』の
「加害行為は、一気にやってしまうこと。
それほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の憾みを買わずにすむ。
逆に、恩恵は、より味わってもらうように、小出しにやらなくてはならない」
とかぶる。

受けた恩恵は忘れられやすく、
受けた害悪は忘れられないのが人なのを上手く伝えている)





サキャ格言集メモ

『サキャ格言集』
(今枝由郎訳、2002年、岩波書店、ページ数 210p)
珠玉の格言詩457句。
サキャ格言集に骨さんっぽさを感じるのは彼の愛読書だから。

フクロウやカラスは扱いが悪い。
新ヤソや神道カルトが好む象徴の扱いが悪いチベット仏教。

引用メモするときりがないので参考文献で引用されてないものをメモする。
もしかしたら参考文献で引用されているものもメモするかも。


冒頭
インドの言葉で~(省略)
(善説宝蔵論)
チベットの言葉で、『貴い格言の蔵』という論書

聖なる文殊師利法王子に敬い帰命したてまつります。
(文殊菩薩、満州、チベット)


279
古くからの友を捨てて
新しい人を信用してはならない。
フクロウの王はカラスの大臣を
信用したので全滅したと言われている。

注釈 279
昔、スパルナというフクロウの王と
ラーストラパーラというカラスの王がいて、
互いに憎みあっていた。
スパルナにはスヴァルナクシャという大臣がいて、
ラーストラパーラにはバラーハカという大臣がいた。
ある日バラーハカはすべてのカラスに言った。
「状況は難しい。
戦争しても分がないので、
相手をだますしかない。
私の羽根をむしり、翼を折り、逃げよ。」
カラスは言われたようにし、
彼を頂の巣に残して飛び去った。
しばらくしてフクロウがカラスに戦争を仕掛けにやって来たが、
見つけたのは哀れな大臣一人だった。
「どうしたんだ」と彼らは尋ねた。
「論争の末、見放されたんです」とバラーハカは嘆いた。
これを聞いたフクロウの王は
「彼の言うのは事実だろうから、
我々のところに連れて行こう」と言った。
しかし大臣のスヴァルナクシャは異議を唱えた。
「彼は賢明です。
ここに残しておいて面倒を見た方がいいでしょう」。
しかし王は聞き入れず、フクロウは傷ついたカラスを自分らのところに運んだ。
疑い深いスヴァルナクシャはどこかに消え失せた。
フクロウの王はバラーハカに言った。
「あなたには技術がある。
これより快適な巣をつくれないか」。
「もちろんできます」とバラーハカは答えた。
そこで枯れ枝を一杯使った巣を作った。
王の巣が真ん中で、その周りに他の者の巣があった。
バラーハカは日中は餌を探しに外に出て、
夜は巣の警備をした。
ある日、他のカラスを探しに行った。
「明日十二時にみんな薪を運んでフクロウの巣に来るように」。
戻ってくると、いつものようにしていた。
翌日十二時フクロウは目が見えないので
眠っている時に、カラスがやって来た。
巣という巣は全部燃え、フクロウは灰になった。

(佞臣排除の知恵。
スヴァルナクシャは自ら離れたか暗殺されたかだろう)


281
理由あって怒るのは
少し分かれば鎮められる。
原因なしに怒るのは
誰が鎮められようか。

(怒り狂うゴブリン)


p.192
”441
瞑想すれば聴き学ぶ必要はない、と
愚かで度量の小さい人は言う。
聴き学ばずに瞑想だけに
励んだところで畜生の修行である。”

(座学なしでひたすら瞑想は畜生の所業=野狐禅。




「比丘や諸々の賢者たちよ。
金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、
私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、
尊敬のゆえに受け入れてはならない」。
これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。
お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの
中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。
チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、
盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社”

実践至上主義=とにかく体験しろ!の否定。

論理重視、誰が言ったかではなく何を言ったかで判断せよ。
スピが崇めるチベットの思想がスピ否定!

“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、
「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。
瞑想の中で、
「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚

が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、
いくら実践しても望ましい成果を期待できません。
そうした突然の神秘体験に執着せず、
あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識

対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、
「その瞑想に十分習熟したとき、
いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。
もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した

密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。
「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社”

ちゃんと魔境で狂人にならないように瞑想の注意点を明記
しているからあなたが瞑想するときに守りましょう。
①視覚ではなく意識。次第に直感的に
②向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く(意識で制御)
自分の意思とは関係なくが向こうから突然出現する神秘体験は妄執による幻覚。ほとんど信頼できない。

あたかも向こうから現れたの如く瞑想するのはダメ。
”あたかも向こうから現れたの如く”瞑想するスピ記事があったぞ。狐憑きになってもしらんぞ。
突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で方針を立てて瞑想。
意識的に認識せよ。
神秘体験=妄想と、正しい瞑想の成果を区別する基準は再現性。

いつでも意のままに同じ内容を再現できる=自分で制御できるなら正しい瞑想の成果といえる。
「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能になる。


p.193
”444
智恵によって深く観察し
過ちの原因を捨てるのが瞑想である。
身体の汚れを洗うように
瞑想しても永いことすると元通りになる。”

(瞑想=過ちの原因を捨てる)


解説
サキャ・パンディタ(サキャの大学者)は称号。
パンディタはサンスクリット語で博士、大学者。
本名はクンガ・ゲルツェン。
十三世紀前半のモンゴル勢力の台頭。
チベットを守るためにモンゴル人のもとに派遣された
代表者がサキャ・パンディタ。
1244年、彼は63歳でモンゴルに旅立った。
1251年に亡くなるまで、ずっとモンゴルの宮廷にいて、
モンゴル支配下のチベットをできるだけ保護することに努めた。

冒頭に正式の書名が記してあるが、一般には
『サキャ・レクシェー(サキャ・パンディタの格言集)』と呼び習わされている。
冒頭に「インドの言葉で」とありあたかもインドの言葉(サンスクリット)からの翻訳のような
体裁をとっているが、実際にはチベット語で著述されたものである。
こうした形式はチベットではよくあることで、
一種の権威づけであり、当時のチベットの状況を反映している。
チベットは11世紀から仏教の再興に取りかかった。



参考資料(記事内最長)

Master Neeton@MNeeton
2月22日
そもそもデカルト『方法序説』は完全無欠の実用書です。
ビジネス書です。自己啓発本です。あれを哲学書ということこそ、むしろ間違ってます。
なぜなら、ラテン語が学術的な公用語の時代に、フランス語で書かれているんですから。

それに対してスピノザの『知性改善論』は、あれは哲学書です。
ラテン語で書かれています。
学者や知識人に対して、頭よくする方法とか書いてるわけですから、わりとインテリにケンカ売ってる本なんです。

Master Neeton@MNeeton
私たちは翻訳や解説本を読むしかないですが、それらは加工食品。

誰に向けて書いた?
当時の常識と何が違う?

こんな問が、異質なもの(生食)を発見して、自分の学びにつながると思います。
田川建三氏の『宗教とは何か(上)』の聖書翻訳論がこの辺非常におもしろく語られてます。





実例を踏まえた行動心理学も軽くカリキュラムに組み込んでおくと、広告やプロパガンダにひっかかりにくくなるな。

経済の導入だと資本論1巻あたりが無難か(ハードル高いか?)、
資本論は共産主義の聖典でもないからな。
読んでみると、金とは何か、
商品の価値とは何か、
労働とは何か、
利潤とは何か、
資本とは何か、
資本主義とは何かが書いてある。この1巻目が結構なハードルなんだけどね(笑)


古典より新しいものが重視されがちだけど、古典を知ればその応用でカタが付くこともあるし、差分の知識をアップデートすれば済む事も多々ある。新説なんて言った所で古典の焼き直しだったりするしな。古典知らないで珍説吹き込まれてペテンにかかる危険性も減る。


立場の弱い労働者を保護して、力の強い企業を縛るための労基法を知らないで働くってのは、身を守る武器もサバイバルキットもサバイバル知識も持たされずサバンナのど真ん中放り出されるようなもんだぞ。


消費者契約法もあると便利だ。
2:44 - 2018年3月1日

2件のいいね
島袋小路
子子子子子猫子猫はいますDさんはえらいねぇこですよろしくおねがいします@黒住も金光も天理も世界連邦側

1件の返信 1件のリツイート 2 いいね
子子子子子猫子猫はいますDさんはえらいねぇこですよろしくおねがいします@黒住も金光も天理も世界連邦側

峨骨
‏ @Chimaera925
2018年3月1日
日本社会で生きる上で、消費者として契約結ばず生活する事なんて不可能だからな。
でたらめばかり書いてある法的根拠の無い契約書なんてざらだ。
賃貸の契約書なんて、添削したら赤入れまくって再提出(こんなもん無効だ)と言いたくなるレベルのものもよくある。

そういや、公民の授業でも憲法の掘り下げがちっとも足らんかったな。主権とは、憲法とは何かって部分。憲法は主権者、国民による国家権力に対する命令って部分はきっちりやっておかないと。国家権力が主権を持っているような誤解を招く。国民の義務(笑)は掘り下げる癖にな。主従逆転だ。

峨骨さんがリツイート
マルアフ・ハ・マーヴェット@pendulum318
38分38分前
そもそも学校で経済学の授業がない。
かと言って自分から勉強しようとする者も少ない。
本屋に言っても反知性主義の権化のような
「これ一冊で分かる!」(薄い)系(池上彰とかの御用学者)の本が一番目立つところに置いてある罠。

「同じ自分の身を守ることができないというのでも、
身体を使ってそれができないのは恥ずべきことであるのに、
言論を用いてできないのは恥ずべきでないとしたら、これはおかしなことである」

アリストテレスの言葉だが、武力一辺倒の人間(恥を嫌う)にも言論の勉強をやる気にさせるいい言葉だ。

マルアフ・ハ・マーヴェット@pendulum318
1時間1時間前
学校の教師を思い出してたが
勉強させるインセンティブを与えるのが下手。
将来のためとか言われてもねぇ。
例えば、韓非子の漢文の訳をさせるにしても、
「これには帝王になるための秘技がつまっている…」という導入なら多感な青年は興味をそそられるのではないか。

マルアフ・ハ・マーヴェット @pendulum318
51分51分前
日本人、需要と供給の概念も分かってなさそう。
分かっていても労働のことになると二重思考がかかるのか。どんな状況でも働けば働くほど豊かになる思ってる。
労働教では労働に疑いを抱くことはタブーなのだ。

マルアフ・ハ・マーヴェット @pendulum318
1時間1時間前
貧困ビジネスマンも広告塔になって要らざる問題を騒ぎ立てる。
自分たちの仕事が永久になくならないようにしようという涙ぐましい努力だ。
連中、メサイアコンプレックスにでもかかっているんじゃないかと俺は疑っているんだが。

マルアフ・ハ・マーヴェット
@pendulum318
4分4分前
詭弁論理学とか小学生に教師を言葉でやり込める、やり込められない秘技だ!と言って釣れば嬉々として勉強しそうな感がある。

マルアフ・ハ・マーヴェット@pendulum318
24分24分前
高校の漢文の授業で史記やら韓非子をやった記憶があるが、
訳するのに教師も生徒も一生懸命でまるで古典のエッセンスを獲得できていなかったなぁ。

マルアフ・ハ・マーヴェット@pendulum318
30分30分前
学校で習ったプログラミング技術とか大人になるころにはゴミになってそうだな。

峨骨@Chimaera925
2016年3月1日
敵は害をなすから征服すると言うのなら
自分の怒りこそ征服せよ。
怒りは無始の昔以来
自分に対して無限の害をなしている。

もし敵を退治したいのなら
殺してもどうして全部をなくせようか。
自分の怒り一つを征服すれば
すべての敵を一挙に殺したのと同じだ。

サキャ

2011年12月10日
返信先: @Kohakunotamagoさん
@Kohakunotamago 「たえず不服を言う者は少し与えて追い払う。
蛇に噛まれた傷は切り取らないと命を落とす」とサキャは言っている。
与えぬ事が与える事にもなる場合もある。
何も物質だけではないぞ。
善意の乞食には憐れみをくれてやれば良い。



あ、俺は賢者でもなんでもない弱っちい凡人だからな。
2017年11月25日

業がそうであるなら
賢者は愚者の中でさまよう。
風に飛ばされた芳香の茉莉花の花は
ゴミの中で踏みつけられる。

サキャ・パンディタ

2016年6月18日
卑怯者は敵を退治することを口にし
遠くに目にすれば叫ぶ。
しかし対面すると手を合わせて命乞いし
家に帰ると自慢する。

臆病者は話し合いには勇敢で
納税の時には財産を数える。
行かねばならない時には病気になり
戦場では遠くから叫び命令する。

サキャ・パンディタ
Watanabe
@nabe1975
今日マックで女子高生が「聖地エルサレムヤバいよね」って話してたんだけど、
近くにいたウルバヌス2世が「乳と蜜の流れる国は、神があなた方に与えたもうた土地である」と演説を始めて、それを聞いた人達が店内で一斉に「主の御心のままに!主の御心のままに!」と叫び出した。

峨骨 @Chimaera925
今日マックで女子高生がうんたらってやつ、あれは一種の権威付け、お約束ではなかろうか。
俺の愛読しているサキャ・パンディタ記したサキャ・レクシェーは
サンスクリット語から翻訳されたような体裁取っているけど、
実際はチベット語で書かれていた。
本場のインド仏教仕込みの格言だと権威付けたのだ。

インドっぽく書かれた格言集で、
インドの故事や説話が登場し、チベットにはない動植物がよく出てくる。
しかし、チベットで書かれた。

女子高生でなく地味なオッサンでは権威付けにならんしウケないのだろう。
非実在少女ですと付けなくとも、それなく解るのだから生暖かく見守れば良いではないか。

性愛の奥義について書かれたカーマスートラは童貞の坊さんが書いたとされているけど名著だ。
誰が言ったか誰が書いたかよりも、
何を言ったか何を書いたかの方が大事だ。
18:24 - 2018年3月10日



土地は持って逃げる事ができない。
知識はどれだけ持っていても手ぶらで逃げられるけどな。
本なんて本当に必要な本を何度も熟読すりゃいいだけで、
大層な本棚なんて必要ない。最新の知識も取り入れてアップデートしていくのが好ましいけれども、
基本的な古典を頭に突っ込んでおけば対応できる。

ペンと手帳も必須か。ひたすら着想を書き留めて、
それを読み返し、不純物を取り除き精錬する。
自分自身を飲み干して作り変えていく。
メモ書きの他に日誌みたいな体裁で記録しておくと良い。
時事もさらっと記しておくと良いな。
電子データなんざ十数年後に残っているかも怪しいものだ。

ツイッターは検索機能が付いた便利なメモ帳だけど、
ここにはそれほど重要な情報は書きとめていない。
いつかは消え去るし、紙とインクほど長持ちはしないだろう。
20年前くらいに作ったHPなんて今は残っていないし、
ましてやデータなんて何処にも存在しない。
紙の資料は出てくるのにな。

当時の自分で作った楽曲のメモや資料を整理していたら
90年代後期に配信していたWebラジオの原稿が出てきて驚いたものだ。
印刷された物はそれくらいは残る。電子データのままでは、
それほど長くは残らない。データは永遠でも電子機器の寿命や賞味期限はそこまで長くない。
すぐに古くなる。

峨骨@Chimaera925
俺が繰り返し読んだのは
サキャ・レクシェーと
菜根譚、
孫子、
韓非子、
君主論くらいか。あとはほどほどに。
紙の本は表紙を見ただけで中身を思い出せて、それによって記憶が深まるけれども、電子書籍はそうはいかない。
20:34 - 2017年4月24日



ペーパーバックは読み込むと簡単にバラバラになってしまうけど、日本の本は結構丈夫だ。

そりゃ乱読も必要だ。一日一冊くらい読んでいた時期もあるけど、それは大量の情報を咀嚼して飲み干す訓練になっている。美食家になるには大食漢でなければやっていけないように、ある程度幅広く情報に目を通しておく必要はあるだろう。けど、その中で繰り返し目を通す価値がある書籍はそれほど多くない

何冊読んだって、そいつを栄養にして自分で組み立てることが出来ないならば何の意味も無い。ただ知っているだけの知識と血肉となった知恵は別物。着想を自身の手で書きとめて、それを読み返し精錬していく工程は知識を知恵にする手助けとなるだろう。俺自身、大したことはないけれどコレをやらなかったら今よりも酷い状態になっていただろう。

情報をインプットするよりも、書き出すこと、話すこと、アウトプットすることを俺は重視している。
その仮定で途中式が体得できれば、
その途中式を応用して幅広く仮説が立てられる。
あとは、その仮説に基づいて情報を集めるなり検証するなりすれば、自分なりの指針が簡単に立てられる。

そりゃ、偏っているし間違ってもいるだろうさ。だけど、何も判断できない事の方がまずい。それでは大多数の意見に流されてしまう。熟考の末に大多数の意見を採用するのはまだ良い。どうして良いのか考えられないから、なんとなく大多数の意見に同調する、これはまずい。

自分の最終的な利益や生存戦略を考えた上で大多数の意見や常識に乗っかるのはまだ理解できる。最終的な利益や生存が脅かされるようなものにわざわざ乗っかって同調していくというのは、遠回りな自殺と大して変わらない。俺が生き延びられなくても誰かが生き延びるのならば、俺は安心できるのだけれども

【読書ノート】『サキャ格言集』 今枝由郎訳 岩波文庫
http://blog.livedoor.jp/plaisir874/archives/2601586.html
”ご存じアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』によれば、格言とは、「民間で行われている陳腐な言い慣わし、ないし諺(ことわざ)」とあり、彼は古い格言を鋸(のこぎり)とみなし、これに新しく目立てをした例をいくつか掲げています。
例えば、「一銭の節約は、一銭の浪費」…など。

ついでに、金言を引いてみると、こうなります。
「歯の弱い者でも噛めるようにと、骨が抜き取ってある人生の知恵」
なるほど。格言も金言も、繰り返し使用されると、「骨抜き」になってしまうようですね。

400320901Xそれでも私が何故、ここで『サキャ格言集』をご紹介する気になったのかというと、この書物には近代の「毒」とはまったく無縁の世界を感じてしまうからなのです。 

まず、表紙に掲げる言葉を要約すると、こうなります。
「著者サキャ・パンデイタは、13世紀チベットの大学者。晩年は、強大なモンゴル帝国との折衝にあたった練達の政治家であり、その卓越した学識と政治家としての体験が生んだ辛口の格言457句は現在も人々に愛誦されている」

──────────────────────────────────────────────
1章 賢者についての考察
  2 人に功徳があるのかないのかを
  見極める智恵を持った者が賢者である。
    埃(ほこり)と混じった砂鉄を
    磁石は吸い付けることができる。

24 賢者は学ぶ時には苦労する。
安逸にいてどうして賢者になれようか。
小さな安楽に執着するものは
大きな安楽が得られない。

2章 貴人についての考察
 53 人は偉大な人の欠点を探すが
劣った人の欠点は探さない。
宝石の傷は探しても
    燃え木の傷を探す人などいない。

3章 愚者についての考察
 59 悪人は富んでも
行いが悪くなる。
滝の水をひっくり返しても
水は落ちるばかりだ。

 73 心にねたみを持つ愚者は
害を及ぼす前に態度に表す。
愚かな犬は敵を見て
噛みつく前に吠える。

 75 愚者の前では賢者より
猿回しのほうが喜ばれる。
猿回しは食べ物とお金を受け取るが
賢者は手ぶらで去って行く。

 86 愚鈍な者の愛の言葉
すぐれてはいるけれど聡敏ではない馬
戦場に落ちた刀
これらは誰の味方になるか分からない。

 95 卑怯者は敵を退治することを口にし
遠くに目をすれば叫ぶ。
しかし対面すると手を合わせて命乞いし
家に帰ると自慢する。

4章 賢愚混交についての考察

110 立派な人は穏やかさで自他を守るが
劣った人はかたくなさで自他を苦しめる。
果実をつけた木は自他を守り
乾いた木は自他を焼く。

132 立派な人はしばし貧しくても
上弦の月のように上向く。
劣った人は一旦貧しくなると
灯火のように消え失せる。

5章 悪行についての考察
145 ずるい人が耳あたりよく話すのは
自分のためであって敬意からではない。
フクロウが気持ちよく鳴くのは
悪い兆しをもたらすためで喜びからではない。

171 カラスがものを隠すこと
厚顔な人に尽くすこと
悪い畑に種を蒔くこと
望み多くして実り少なし。

6章 本性についての考察
194 偏(かたよ)った智恵では
すべてをこなすことは難しい。
いくら目がよく見えても
音を聞くことはできない。

225 貪欲な人は財があれば喜び
傲慢な人は褒められれば満足する。
愚者は同類を喜び
賢者は真実の言葉で満足する。

242 本のなかの知識と
成就していない真言(しんごん)と
忘れっぽい人の学問
必要な時に騙される。

252 最高の富は布施
最高の幸せは心の安らぎ
    最高の飾りは学問
最高の友は騙さない人。

7章 不相応についての考察
266 功徳のある人を世間は敬い
功徳は努力のたまものである。
努力して功徳を達成せずに
他人に傲慢にして何になろう。

274 いい家系と身体と若さがあっても
功徳がなければ美しくない。
孔雀の羽はきれいだけれど
偉人の飾りには相応しくない。

281 理由あって怒るのは
少し分かれば鎮められる。
原因なしに怒るのは
誰が鎮められようか。

296 嘘で相手を騙したと
思うなら自分を騙したことだ。
一度でも嘘をつけば
真実を言っても疑われる。

299 完成できないことは
いい行いでも始めるべきではない。
腹の中で消化できない食べ物は
美味しくても誰が食べるか。

8章 行為についての考察
327 慈しみ過ぎるのは味方に対してもいけない
あまりにも害することは敵に対してもいけない。
味方に対する期待は争いのもとで
報復は誰でも容易にする。

334 他人が見下げる
    財産や食べ物が何になろうか。
犬や豚が汚物を食べるのを
どの賢者が羨もうか。

353 場所と時を得たなら
よく注意して数回語る。
格言であっても多すぎると
売れ残りのように誰も欲しがらない。

387 財産が増え過ぎると
衰えるのはもう間近だ。
水が満ちあふれた池は
空になるか決壊する。

9章 教法についての考察
401 少しで足ることを知る者
その人の財産はなくならない。
足ることを知らずに求める者には
苦しみの雨がいつも降る。

416 長い間幸せを享受すると
別れの苦しみはことさら大きい。
人は否応なく死ぬもので
永遠であれと願う人は圧倒される。
──────────────────────────────────────────────
「語り得るもの」と「語り得ぬもの」
「幸福は物事の味にあって、物事そのものにあるのではない。」(ラ・ロシュフコー)
例えば、このラ・ロシュフコーの箴言ともまったく異質の世界がこの『サキャ格言集』にはあるのですが、この違いとはいったい何なのでしょう?

ここで私が思い出すのは、ウィトゲンシュタインのあの有名な言葉です。
「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」

そこで、私は思うのですが、ラ・ロシュフコーの箴言は、決して「語り得ぬもの」ではない。それ自体、文学としても充分、味わい尽くすことができる。しかし、サキャの格言は、これは本来「語り得ぬもの」ではないか、と。そして、サキャはそのことをも知っていた。だからこそ、彼はこう云うのです。

353 場所と時を得たなら
よく注意して数回語る。
格言であっても多すぎると
売れ残りのように誰も欲しがらない。

もう一度、ウィトゲンシュタインの言葉を引けば、例によって、謎のように、彼はこう云っています。
「独我論が意味することは全く正しいのであるが、ただそれは語られ得ないのである。それは自らを示すのである。」

それでは、いったい何において自らを示すのかといえば、それは、言うまでもなく、自らの行為において以外ありえないのではないでしょうか。”

『サキャ格言集』サキャ・パンディタ
http://okanejuku.blog92.fc2.com/blog-entry-1716.html
”・これから起こることを、起こる前に観察する時、賢者と愚者の違いが分かる。起こってから観察するのは愚者である

・ずっと先を見つめ、規律正しく辛抱強く、努力家にして意志堅固なもの、彼は召し使いであっても指導者になる

・与えたものは取り戻さず、劣った者の悪口を受け止め、小さな恩も忘れない。それは偉大な人のしるしである

・偉大な人が苦労して作ったものを、悪人は一瞬にして壊してしまう。農夫が年月をかけて作った作物を、雹(ひょう)は一瞬にしてだめにする

・心にねたみを持つ愚者は、害を及ぼす前に態度を表す。愚かな犬は敵を見て、噛み付く前に吠える

・智恵のない者が大勢集まっても、大きな仕事はできない。小枝をたくさん集めたところで、家の梁(はり)を支えるのは難しい

・智恵のない者は少しの勝利で満足し、負けたとなると味方を恨む。話し合いに集まれば喧嘩をし、密談は漏らしてしまう

・彼は味方、彼は敵と、智恵の劣った人は区別する。智恵の大きな人は誰をも慈しむ。誰が役立つかは分からないから

・賢者は貧しくても、格言で人を喜ばせる。愚者は金持ちになっても、喧嘩で自他を焼きつくす

・劣った人が金持ちになると傲慢になり、立派な人が金持ちになると穏やかになる。狐は満腹になると傲慢に吠え、ライオンは満腹になると安らかに眠る

・悪人はまず言葉で騙し、安心させてから欺く。漁夫が餌で騙し、魚を殺すのを見よ

・本当にせよ嘘にせよ、言うべきでないことを、人の前で言う人。賢者は彼に気をつける

・怠慢で努力をしない人は、力があってもだめになる。象は力があるけれど、小さな象使いの奴隷である

・慈しみが過ぎると、憎しみのもとになる。世間の争い事の多くは、親密さから生じる

・人生は長寿を願いつつ、老いを恐れる。老いを恐れつつ長寿を望むのは、愚者の邪見である

・敵に害を与えたいなら、自分が功徳を積むことだ。敵は嫉妬で心を焦がし、自分は福徳が増える

・賢者が財産をためようとすれば、少し施すことが財産を守ることになる。井戸の水を増やそうと思えば、助言は汲み上げることである

・正直な賢者は敬って師事せよ。ずるい賢者は注意せよ。正直な愚者は慈しめ。ずるい愚者はすぐに捨てよ

・貧しくても苦しまず、富んでも喜び驕るな。業の結果が出るのには長くかかるから、諸々の苦楽はまだ先に出て来る

・敵は害をなすから征服すると言うのなら、自分の怒りこそ征服せよ。怒りは無始の昔以来、自分に対して無限の害をなしている

・愚者は学ぶことを恥ずかしがり、賢者は学ばないことを恥ずかしがる。だから賢者は年老いても、来世のために学問する

・良馬は走れば分かる。金銀は溶かせば分かる。象は戦場に出れば分かる。賢者は格言を書けば分かる


サキャ格言集
https://kaimei.ch/read/external/sakya
”著者であるサキャ・パンディタは 13C チベットの人。博学な学者であり、モンゴル帝国とはチベット代表として外交交渉に当たったとされる人物。本書は、その著者による格言集で、解説にもあるように文学形式としてはインドのものを踏襲しつつ、原文は 7 音階から成る 4 つの句がひとつのまとまりとなる形式として記述されている。また、その中でも前半の 2 句で理を述べ、後半の 2 句でたとえを説くというものが多い。

チベットでは、今日でも「『サキャ・レクシェー』に通暁している人」とは教養人の代名詞であり、そもそものサキャ・パンディタという名前自身が「サキャの大学者」という称号(本名はクルガ・ゲルツェン)であるというところからも、かの地における本書の影響力は相当なもののようである。確かにチベット文学というと実際問題としてもほとんどが仏教関係らしいし、私もそういう書名しか耳にしたことがなかったから(例えば『チベット死者の書』など)、こういう本が手軽に読めるのはありがたいことである。

実際、なかなかの金言が並んでいるし、箴言から見るお国柄というのもおもしろいのではないかと思う。

# なお、引用するにあたり各項は項数ではなく通番より採った
抄録
2

人に功徳があるのかないのかを
見極める知恵を持った者が賢者である。
埃と混じった砂鉄を
磁石は吸い付けることができる。

13

賢者はいかに窮しても
愚者の道は歩まない。
ツバメはいかに喉が渇こうとも
地面に落ちた水は飲まない。

20

善と悪とは誰にでも分かる。
混ざった時に区別できるのが賢者である。
牛の乳を搾るのは誰にでもできるが
ガチョウは水から乳を分ける。

24

賢者は学ぶ時に苦労する。
安逸にいてどうして賢者になれようか。
小さな安楽に執着するものは
大きな安楽が得られない。

36

貴人はたとえ不幸に見舞われようとも
行いはことのほか高潔である。
火はいくら下に向けても
炎は上に燃え上がる。



アマゾンレビュー
サキャの格言はすばらしい。訳文に問題があるのが残念。
2009年5月22日
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RKYILUAN6BPNL/ref=cm_cr_arp_d_viewpnt?ie=UTF8&ASIN=400320901X#RKYILUAN6BPNL”サキャ・パンディタの格言はすばらしい。ぜひ多くの人に知ってほしい。しかし、翻訳に納得のいかないところが少なからずある。その一部をあげておく。
第7詩
今枝訳:明日死のうとも学問する。/今生で賢者になれなくても/学問を来世に託して/受け取るようなものである。
試訳:学問は、来年死ぬとしても、しなければならない、たとえ今生において賢者であることはかなわなくても。〔それはちょうど、今生において〕託しておいた財産を、次の生において、みずからが受け取るようなものである。
第18詩
今枝訳:この世とあの世の幸せを/実現するのが智恵である。/チャンドラ王子の智恵により/スダーサ王はこの世とあの世で守られた。
コメント:有名な「斑足」の故事。今枝訳が「故事未詳」とする理由は未詳。
第22詩
今枝訳:頭のいい人はいわれなくても/表情から相手の心が分かる。/野性リンゴは食べなくても/色から味が分かる。
試訳:智慧があるならば、たとえ〔相手が〕語らなくても、その態度から〔どんなことを〕考えているかは分かるものだ。ネパールのザクロは、たとえ食べなくても、その色合いから、どんな味かは知れるものだ。
コメント:後半を「ネパール人は、たとえザクロを口にしなくても、その色合いからどんな味か知っている」とする写本あり。
第31詩
今枝訳:貴人の功徳はたえず/賢者に賞賛される。/マレーの白檀の香りは/風で十方に広がる。
試訳:勝れた功徳はたえず賢者(勝れた人)が賞賛する。マラヤ〔山地〕の栴檀の香りは風が十方に広げていく〔ように〕。
コメント:原文ma la yaを「マレー」とする理由は未詳。マラヤは香木である栴檀の産地として有名な南インドの山地名。
第49詩
今枝訳:偉大な人は敵を慈しむので/敵はその支配下に入る。/マハーサンマタ王は誰をも守ったので/誰もが彼を王位に就けた。
コメント:マハーサンマタ王は人類最初の王とされる有名な人物。今枝訳が「故事未詳」とする理由は未詳。
第59詩
今枝訳:悪人は富んでも/行いが悪くなる。/滝の水をひっくり返しても/水は下に落ちるばかりだ。
試訳:悪人はたとえ富を得たとしても、おこないはますます悪くなる。滝の水はどんなに押し返しても、下に流れようとばかりするものだ。
第128偈
今枝訳:立派な人を仲違いさせるのは難しく、調和させるのはたやすい/劣った人はその逆だ。/木から木炭にするのはたやすいが/木炭から木にするのは難しい
試訳:正しい人を仲違いさせるのは難しく、調和させるのは易しい。劣った人は仲違いさせやすいが、調和させるのは難しい。木と木炭の切断と結合の〔難易の〕違いを見なさい。〔木は切りにくいが接合しやすい。木炭は切りやすいが接合しにくい。〕
コメント:今枝訳はわかりやすいが、チベット原文をまったく無視。

「故事未詳」があまりにも多すぎる。そのほとんどは有名な故事で、諸注釈では指摘されているのに。故事の説明がなければ格言の意味は十分に味得できない。サキャ格言の価値を一般に知らしめた功績は高いが、サキャの真意が日本の読者に十分に伝わらなくて、とても残念、無念。”

[書留][仏教][サキャ]賢者について~~今枝由郎訳『サキャ格言集』岩波文庫
https://katawareboshi01.g.hatena.ne.jp/mori-tahyoue/20090320/1237551070

Ⅰ章 賢者についての考察

1

 功徳の蔵を持った賢者は

 貴い格言を集める。

 大海は川の蔵であり

 川はすべてそこに流れる。
今枝由郎訳『サキャ格言集』岩波文庫

 賢者を気取るつもりはありませんけれども、志は高く、貴い格言を集めていきたいものです。「述而不作。」あるいは「賢者もすなる格言集めといふもの、愚者もしてみむとてするなり」。まあ賢者が集めた格言をぽつぽつ読むのが関の山なんですけどね。

2

 人に功徳があるのかないのかを

 見きわめる知恵を持った者が賢者である。

 埃と混じった砂鉄を

 磁石は吸い付けることができる。
今枝由郎訳『サキャ格言集』岩波文庫

 うーん、この格言には困りました。

 むしろ私は禅の徒でして、常に「無功徳」の立場です。すみませんです。
中国禅宗史話―真字「正法眼蔵」に学ぶ

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作者: 石井修道
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その二 無功徳――武帝と達磨――

 梁の武帝(四六四―五四九)と達磨の則は、『景徳伝燈録』巻三にも存するが、ここでは、それより古い『祖堂集』巻二によって、訓読で紹介しよう。

爾(そ)の時、武帝問う、「如何なるか是れ聖諦第一義」。

師曰く「廓然無聖」。

帝曰く、「朕に対する者は誰(た)そ」。

師曰く、「識らず」。

又た問う、「朕、九五(てんしのくらい)に登りてよりこのかた、人を度し、寺を造り、経を写し、像を造る。何の功徳か有る」。

師曰く「功徳無し」。

帝曰く、「何以(なにゆえ)に功徳無きや」。

師曰く、「此れは是れ人天の小果、有漏の因なり。影の形に随うが如く、善因有りと雖も、是れ実相に非ず」。

武帝問う、「如何なるか是れ実の功徳」。

師曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是(かく)の如き功徳は、世を以て求むることあらず」。

武帝、達摩の言う所を了(さと)らずして、容(かたち)を変えて言わず。

達摩、其の年の十月十九日、自ら機の契わざるを知りて、すなわち潜(ひそ)かに江の北を過ぎ、魏邦に入る。

志公、特(わざ)わざ帝所に至り、問うて曰く、「我れ聞く、西天の僧の至れり、と。今、何(いずれ)の所に有りや」。

梁の武帝云く、「昨日、送りて江を過ぎて魏に向かう」。

志公云く、「陛下は之に見(まみ)えて見えず、之に逢いて逢わず」。

梁の武帝問うて曰く、「此れは是れ何人ぞ」。

志公対(こた)えて曰く、「此れは是れ仏の心印を伝える観音大士なり」。

武帝乃(すなわ)ち之を恨んで曰く、「之に見えて見えず、之に逢いて逢わず」。

即ち中使趙光文を発して、彼(かしこ)に往きて之を取らしむ。

志公曰く、「但だ趙光文一人のみにあらず、闔国(こうこく)にて取るも亦た廻(かえ)らず」。(Ⅰ―七二~七三)

石井修道『中国禅宗史話』禅文化研究所

 求めれば失うのが功徳ということですから、功徳のありなしを人智にて知ろうとするのは「有漏の因」、迷いのもとになるということでしょうね。

 ちなみにこの話自体は荷沢神会(六八四―七五八)の創作らしいです(上掲書)。

3

賢者は格言を理解するが

愚者はそのかぎりではない。

太陽の光が現れると

フクロウは盲目となる。
今枝由郎訳『サキャ格言集』岩波文庫

 うう、格言が理解できないのは愚かの故なんですね。精進します。

4

智恵のあるものは過失を

取り除けるが、愚者にはできない。

ガルダ鳥*1は毒蛇を殺せるが

カラスにはできない
今枝由郎訳『サキャ格言集』岩波文庫

 「上知と下愚とは移らず」ではありませんが、賢者は正しく愚者は誤るというのは原因と結果が逆転していると思います。人は賢者になることができるというのが仏教だと思うのですが、そのための道筋は後で示されるのでしょうか。

*1:4 ガルダ鳥 ヒンドゥー教で、鳥類の王と見なされる伝説上の巨鳥。漢訳仏典では「迦楼羅」と音写される。


今枝由郎訳『サキャ格言集』岩波文庫
https://ameblo.jp/sarvastivadavaibhasika/entry-11245733684.html
"『サキャ格言集(サキャ・レクシェー)』は、サキャ・パンディタ・クンガ・ゲンツェン(略名サパン 1182年-1251年)が著した辛口の格言集です。

サキャ・パンディタとは、チベット仏教サキャ派の総帥で、自派の教えばかりでなく、論理学や文法学、はたまた医学や占星術にいたるまでの学問に精通した学僧です。また迫り来るモンゴルの脅威に立ち向かい、彼らとの折衝に尽力した政治家という一面もあります。そのかいあって甥のパクパ(1235-1280)はフビライ・ハーンの帝師として活躍し、またパクパ文字を作り上げました。

この格言集の中には、モンゴルと虚々実々のかけひきをおこない、チベットがモンゴルに荒廃させられるのを救った熟練した政治家ならではの卓見もあります。

いくつかを紹介します。


賢者はいかに窮しても
 愚者の道は歩まない。
ツバメはいかに喉が渇こうとも
 地面に落ちた水は飲まない。 p.12


真っ正直な愚者は
 自分をだめにし他人を傷つける。
森のまっすぐな木は根元から伐られ
 まっすぐな矢は人を殺す。


絶えず人のことを思わない者は
 畜生と同じである。
飲み食いだけなら畜生でも
 出来ないことがあろうか。p.36


人を観察せずに
 信用したり任せてはならない。
不用心から問題が生じ
 忠告は敵を作る。p.80


弱者が怒って何になろう。
 強者はどうして怒る必要があろうか。
だから事をなすのに
 怒ることは無意味に自分を焼くことだ。p.104"


サキャ格言集(再読)
https://uchikoyoga.hatenablog.com/entry/20171021/p1
"

慈しみが過ぎると

憎しみのもとになる。

世間の争いごとの多くは

親密さから生じる。

(222節)



慈しみ過ぎるのは味方に対してもいけない

あまりにも害することは敵に対してもいけない。

味方に対する期待は争いのもとで

報復は誰でも容易にする。

(327節)



讃えられても喜ばず

非難されても不快にならず

自らの功徳をよく保つこと

それが貴人の特徴である。

(54節)



達人でも聖人でもなく、貴人。





サキャ格言集は「口は災いの元」であることを説いている節が多く、こんな節もあります。




相手の痛いところを突く言葉は

敵に対しても言ってはならない。

やまびこのように

瞬く間にはねかえって来る。

(335節)


"

峨骨さんがリツイート
使い方わからん
‏ @Show_BujuBanton
57分57分前
悪夢の民主党はいいねんけど、
悪夢から交代してから今まで何してきたんやって思わない神経を疑うね。

今までボケーッとしてた奴を応援し続けてる奴の方が悪夢やけどな。

峨骨
‏ @Chimaera925
51分51分前
具体的な成果が無いから過去の遺物を叩くしか出来ない。
成果があれば高らかにそれを誇示出来だだろうに。
それが仕事なのか個人的な信仰なのか知らんが、
担ぎあげる神輿があれでは誇りをもってやれないだろうな。
なんとも哀れで惨めだ。




誇りじゃ腹は膨れないと言うが、
腹さえ膨れれば人間が人間らしく要られる訳じゃない。
食い物だけあっても、人らしく生きられる訳じゃないんだ。
腹を満たしてくれる者に飼われるのが人生の全てだと言うなら話は別だけど。




戯言遣い@juvenil_talk
「本棚はその人の人となりを表す」なら、
図書館を自分の本棚扱いしてる私の場合、相当カオスな人物とされるだろう。

戯言遣い@juvenil_talk
なにそれすごい

クロウ@crow5874
返信先: @juvenil_talkさん
すごくないですか?こんなヘビーユーザー見たことないですよ。
この人のおかげで読書家の基準がこれになりました。
17:03 - 2019年10月10日

クロウ@crow5874
10月8日
最近はいちいちトピックスに流されるから、
いちいちトピックスに流されないで半年ROMれじゃないけど、この一年は自分だけは黙って古典読んでよーってつくづく思う。

戯言遣い@juvenil_talk
10月8日
返信先: @crow5874さん
あとこれ誰にでも言ってるんですけどできればアマゾンじゃなくて本屋で買ってほしいです…でなきゃ楽天…

有閑無是
‏ @AlkanMuze
2011年11月4日
『裸形のチベット』(正木晃著)の2章まで読んだ。チベットが世界史に登場するのは、7世紀の前半である。
この時期、ソンツェン・ガンポ王がチベット初の統一国家を樹立した。
その王国は、中国の史書に吐蕃と表記された。当初の吐蕃は、何よりも軍事が優先された軍事国家だった。

2011年11月6日
『裸形のチベット』(正木晃著)を山荘で読了。王権を確立し国家を安泰に導くため吐蕃は仏教を導入したが、
それは王権の失墜と国家の崩壊に繋がった。現代に至るまで、チベットは仏教を巧妙に利用して危機の時代を乗り越え、仏教に過剰に依存することで時代に取り残されるパターンを、幾度も繰り返す。



(まぁでも直接的な引き金引いたのイギリスさんだよねこれ…
相変わらずのイギリスさん…ほんと余計な火だねしか作らない国だわ…)

2019年09月11日
チベット初の統一王国から中国占領まで。「裸形のチベット」
https://55096962.at.webry.info/201909/article_9.html
”チベット仏教の思想についての本とかいっぱい見かけるけど歴史がないなー…と思いながら探していて見つけた、独立国家としてのチベットの歴史の本。最初の統一王国から、ダライ・ラマ14世がインドに亡命する1959年までの通史となっている。

裸形のチベット―チベットの宗教・政治・外交の歴史 (サンガ新書)
裸形のチベット―チベットの宗教・政治・外交の歴史 (サンガ新書)

世間では、北京オリンピックを契機として2008年ごろ、チベットを解放しよう、「フリーチベット」という運動が盛り上がっていた。しかしあのときフリーチベットを唱えた人のうちいったい何人が、チベットの歴史まで辿っていただろうか。中国の「チベットは昔からウチの一部だった」という主張がどこから来ているのか、確かめただろうか。
知らないで感情だけで言ってもどうにもならんぞ。とは、この本の冒頭に書かれていることである。

自分も何となくしか知らなかった部分が多かったのだが、今回、改めて最初から歴史を追いかけてみて情報を整理することが出来た。

まずチベットは、自国で強力な軍備をもつことをせず、
その時々の中国なりモンゴルなりの為政者に仏教(密教)の教えを授けることで庇護してもらう、
バチカン市国的な生き方をしていたということ。
チベットは政教一体で運営されており、僧侶たちのトップ=政治のトップでもあったこと。しかし転生者をトップに据えるシステム上、幼くして見いだされる転生者の教育に時間がかかることから、
結果として転生者を教育する担当が実権を握りがちだったこと。

仏教の教えを授ける側と授かる側の仏教国、という関係は、ヨーロッパでいう教皇と皇帝の関係に近い。これは中世であれば容易に想像がつく。しかし教皇が国を持ち、自国の独立を訴えるというのは、現代では考えにくい。中国はもちろん、周囲の国々が急速に近代国家へと変貌していく流れに、山奥に籠って宗教の世界に浸っていたチベットは乗り遅れたのだ。中国が「庇護」していたチベットは、そのまま中国が「宗主権を持つ」地域ということにされてしまった。

(…このへんの流れは、インドを支配していたイギリスが、ロシアを牽制するために武力行使したり余計なことしたのが直接の引き金になっているので、「またお前か」という感じ。)

1949年、チベットを「解放」するという名目で中国軍が入り、イギリスが無関心を貫く中、1951年には押し切られる形で和平条約を結ばされる。しかしこの条約もすぐに守られなくなる。1958年から始まった反乱に対する徹底した粛清の末、1959年にダライ・ラマ14世が亡命。
そして今に至る。

読んでいくと、中国が「昔からチベットはうちの一部だった」と主張するのには無理があるものの、チベット側も中国の各時代の王朝のスネかじりみたいなことをずっとやってきているし、さらに近代化するのが遅れたり、国際感覚が足りなかったりで、色々ポカミスをやらかしている部分もある。

中国軍のチベット占領が国際法的に見てグレーゾーンというかほぼアウトなのは間違いないのだが、経緯を見てみると、チベット側が一方的に被害者というわけでもないんだな、ということが分かる。そして改めて、「イギリスは絶対信用しちゃいけない、余計なことしてイザってときは逃げるぞ」ということを胸に刻んだ…。”

https://bookmeter.com/books/75627
"夢の人
「蹄の跡を水で満たすのはたやすい。
小さな蔵を財宝で満たすのはやさしい。
小さな畑に種を蒔くのはやさしい。
馬鹿はちょっとの知識で満足する。」
耳が痛い。読んでいて少しつらくなる。 しかし、良薬苦し、いい薬になる格言集でした。

ymdtko
サキャは、800年くらい前のチベットの高僧。
/財産を貯めて使わないのは、自分を焼く薪をためることだ/

ずるい人が耳あたりよく話すのは、自分のためであって敬意からではない。
フクロウが気持ちよく鳴くのは、悪い兆しをもたらすためであって喜びではない/

言葉が多いのは禍いのもとで、無口は禍いを絶つ。
オウムは話すから籠に入れられ、カラスは黙っているので楽しくいられる/

長い間の敵とは、仲よくなっても親密になってはいけない。
よく沸いた水も、火に出会えば火を消してしまうから。 "

峨骨@Chimaera925
自信満々で声がでかくて肩書きある奴はそれだけで人を黙らせられるんだよなァ。

峨骨さんがリツイート
MTGフレイバーbot@MTG_FTbot
翻弄する魔道士はあまりにも大きな声で詠唱するので、
誰もそこに呪文を差しはさむことができないんだ。
《翻弄する魔道士/Meddling Mage(PLS)》



ソクラテス「あなたの技術は何の技術ですか?」
ゴルギアス「弁論術だよ」
「弁論術は何に関する技術ですか?」
「言論に関する技術だ」
「医術や体育術も言論に関係がありますが」
「弁論術は言論を通して働き目的達成するのだ」

ソクラテス
「数論や幾何学も言論を通してなされます。
弁論術は言論を通して何に関してなされる技術なのですか?」

ゴルギアス「最重要で最善のものに関してだ」
「しかし医者もそう言うのでは?」
「真の意味で最善のもの、自由をもたらし他人を支配できるようにするもの、説得を作り出すのだ」

ソクラテス「しかし他の技術も説得を作り出すのでは? いったいどんな事柄についての説得なのですか?」
ゴルギアス「法廷や集会における説得、正や不正についての説得だ」

ソクラテス
「虚偽と真実がある《信念》と、
必ず真実である《知識》とは別のものです。
説得には《信念》だけの説得と、《知識》を伴う説得があるでしょう。弁論術はどちらなのですか?」
ゴルギアス「信念だけの説得だ」
「では正と不正について理解させるものではない?」
「そうだ」

ソクラテス「専門家を差し置いて、弁論家が意見を通すとすれば、人間業を越えた不思議ですね」

ゴルギアス「それが弁論術の説得力の強さだ。
だが、それを学んで不正をやる者がいても、教えた者が悪いのではないよ」

ソクラテス
「どうも話が一貫していないようですね。無知な人相手なら、弁論術は説得力がある。
では、弁論家は正と不正について無知だが、見せかけだけができればいいのでしょうか?
それとも本当に知識がいるのですか?」

ゴルギアス「学ぶ者が無知であれば、知識を教えることもできるさ」

ソクラテス
「では、学ぶ者は予め知っているか、弁論家から学んで知るかのどちらかですね。
いずれにしても正しいことを知っており、正しい人になるはずだ。
しかし、学んだ者が不正を行う可能性があるとあなたはおっしゃった。矛盾ではありませんか?」
ゴルギアス「……」










峨骨
‏ @Chimaera925
4月24日
ニーチェなぁ。被れた者は聖アンデレ十字を反キリストや悪魔崇拝のシンボルと勘違いしたみたいに反キリスト者と言うけれど、敬虔なキリスト教徒でないとあの批判はできない。
超人思想もゾロアスターの開祖を演じてキリストになろうとした試みに見えるし、神は死んだと言いながら神を探し求めた。

パウロ教、キリスト教は嫌っていたけど、キリスト「信仰」自体は憎んでいなかったのではないか。
ある種のキリスト教異端というか、求道のように俺からは見える。どうでもいいなら執着せんよ。それが宗教色を抜いた新キリスト教に利用されているのだから皮肉なものだ。

峨骨
‏ @Chimaera925
過激でキャッチーな部分だけ拾ってしまうと一般的なイメージになるんだろうなァ。一部が引用されても、著作を通して読んだ奴はあまり居ないだろうし。あの超訳にしても。

超人になりたかった者が超人思想を作った。
試みの矢として後に続く者が生まれる事を願ってね。しかし、出てきたのは一部をつまみ食いしただけの劣化コピーのクソカルトや政治利用する者では浮かばれんわな。

新しい会話
峨骨
‏ @Chimaera925
4月25日
補足しておくとニーチェの言説はショーペンハウアーの影響が大きい。
元々の基質に適合した結果ああなったというのか。モロに言説が被る所が多々ある。
西洋的世界観に対峙する為に東洋思想を持ってくるあたりもな。超人ってのも、ショーペンハウアーの唱えた理想的な人間像が根底にある。

孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならない。
なぜなら、孤独でいるときにのみ人間は自由なのだから。
ショーペンハウアー


人間の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり、社交を愛するからではなく、孤独が恐ろしいからである。
ショーペンハウアー

パウロ教の作った西洋世界観や思想を失望したり嫌悪したりすると、どいつもこいつも東方に答えを見出そうとする。まるで自分探しみたいに。日本人が日本のソレに失望したり嫌悪して西洋カブレするみたいにな。

未知の場所に答えがあると思い、人々は遠くに答えを探し求める。
天竺くんだりまで経典を取りに行った三蔵法師みたいに。実際にはそこに辿り着く長い道程で学んだ事が重要だったのだけれども。
人は旅路の果に手にしたものや有り難い経典みたいなものこそが答えだと思ってしまう。

西洋人は未知の東方には素晴らしい何かがあるのだと思い込み、日本人は未知の西洋には素晴らしい何かがあるのだと思い込む。
現地人にはありふれたものだったとしてもね。ラフカディオ・ハーンもそうだったか。彼の場合は長居し過ぎて近代化する日本に失望したけど。

だからね、日油同祖論なんてイエズス会謹製の罠にホイホイ引っかかってしまうのだ。この国や日本人に嫌気がさして居るものはね。神秘に満ちた彼方の地からやって来た特別な民だ、なんてさ。そうして抱き合わせの信仰や思想に染まる。




距離や海のフィルターを介して、良いものばかりが入って来るから仕方ないと言えば仕方ない。遥々彼方や海の向こうから価値の無い物運んで交易する奴なんていないしな。
年に何度も会えない始めて出来た恋人の良い所しか見えない初心な少年のように、そりゃ夢中になるだろうし、姿が美化されるだろうよ。

何せ、良い所や綺麗な所しか見えないからな。まぁ、距離のフィルターを介すと現地人には有り触れたものでも宝のように見えるものだし、距離
だけでなく時間でもそれは言えるな。だから古代に答えを見出そうとする奴があれほど居る訳で。

科学が距離や時間を縮めると、無いものねだりや自分探しをする人々は今度は遺伝子や宇宙の彼方なんて所に、あるかどうかも解らない素晴らしいものを探し求める。あるいは、人の脳の中に。電子データの海の中に。








最初から存在しないと思っている者に神の死を絶望する事は出来ない。

ニーチェの著作はキャッチーなフレーズが多くてサブカルでは屡々ネタになるけど
読み込んだ奴はあまり見かけないんだよなァ……

大抵は買ってもそのまま本棚に飾られて古本屋行きという。

異教徒からすれば生きていようが死んでいようが大して変わらんしナ。


戎棋夷説@pascal_api
2016年10月10日
プラトン「パイドン」29「魂が清浄な状態で肉体を離れるばあいを考えてみよう。(略)これこそ、真に哲学することであり、真の意味で平然と死ぬことを練習することにほかならない」。モンテーニュはこれを読んでいたのか。

彫刻
@olphee
2016年1月12日
そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、
それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。それとも、これは死の練習ではないかね」
「まったくその通りです」「パイドン」-プラトン


目黒盛智恵
‏ @yasuda010830
2012年3月4日
「哲学者は死を恐れない。死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、すなわち、死ぬことの練習をしている者であるのだから」パイドン 魂の不死について プラトン著 岩田靖夫訳

魂と肉体とのズレをどこまで減らせるものかしら。澄んだ心でいられるようになりたいものです。


‏ @gotshu
2010年10月15日
…——というのも、このことを魂はいつも練習してきたのだから——まさにこれこそ、正しく哲学してきたということにほかならず、また本当に、心やすらかに死ぬことを練習してきたということにほかならない。」
プラトン『パイドン』, 80E-81A




うなじ
@unajiperopero
『マタイ』の「汝らは地の塩である」の後、
「もし塩がしょっぱくなくなったら、何によって塩味をつけられるのか」っていう意味の面白い言い回しが続くんだよな
「汝ら」が誰を指すかは、マタイの書き方がいい加減なので、山上の説教の最初のところでは弟子たちだったはずが、説教の最後にはいつの間にか群衆だったことになってたりする

うなじ@unajiperopero
『マタイ』と『ルカ』は『マルコ』のゆるパク #聖書豆知識

『マタイ』と『ルカ』は、『マルコ』の他にいわゆるQ資料という仮説上のテキストをゆるパクしたんじゃないかと言われていて、昔はグノーシス的外典福音書の『トマス福音書』がこのQ資料なんじゃないかと言われていたけど、結局違うことがわかったらしい

うなじ@unajiperopero
宗教文書だから、できるだけ勝手に弄らないようにしてるみたいだけど、
犀角経の犀は、中国人があまりにイメージできなかったのか、麒麟にされてたりするだよな まあ、角が一本の動物ではあるから、ニュアンスは伝わる


ラピッド@境界線上の運命人
@rapiddo13
24時間24時間前
神学部の教授から貰った答えとしては
「まず聖書は神からの真実ですが受け取るのが人間なので質が落ちますし記述はバラバラになるし
神学はいつまで経ってもまとまりません」 #ぶっちゃけ過ぎる


我乱堂
‏ @SagamiNoriaki
23時間23時間前
友人の中世哲学の研究しているクリスチャンと昔話した時
「聖書の解釈?とか昔と変わってません?」とか聞いたが、丁寧に「それは時代がたって研究が進み、聖書への理解も進んだからです」とか答えられたっけな…あと「霊感を受けて書かれたものですが、書いたのは人間なので不完全なのです」あ、はい。

昔の話なんで記憶も曖昧であるし、
相手方の真意を汲み取れているかの自信は今ひとつないが、「聖書は神の霊感を受けて書かれている」「しかし書いたのは人間なので完全なものではない」「だから研究して真理を求めている」…くらいのこと言われてた、気がする。あと「カトリックには聖伝が…」忘れた!


うなじ
‏ @unajiperopero
逐語霊感説って、公会議で正当認定されたりはしてないんだっけ? まあ、いずれにせよ聖霊を受けて書かれたとされてるのは、無謬性を主張するための理論だよな

マルコとかヨハネあたりは、ギリシア語母語話者じゃないので、ギリシア語ネイティブと思われるマタイとかルカに比べると露骨に文章が下手らしいんだが、聖霊さんはせっかくだから、語学力もアップさせてあげた方が親切だったのに

ていうか、聖書の記載を文字通りに受け取るのは無理があるよなっていうのは古代人も思っていたので、
アレゴリーによる解釈ってかなり流行ってるんだよな 有名なところだと、
アウグスティヌスがアレゴリックな聖書解釈を受け入れることで、マニ教からキリスト教に回心している

聖書ではないんだが、
面白いのは、ソクラテスがいた頃のアテネでもギリシア神話の「合理的」な解釈が流行っていたらしくて、
プラトンの対話編に出てくるソクラテスは、そういうアレゴリックな解釈に批判的なんだよな

哲学者の代名詞みたいな人が、
今でいうファンダメンタリストみたいなこと言ってるのは、イメージと違ってて面白い

彼女を近くの岩からつき落したのである。彼女はこのようにして死んだのであるが、
このことから、彼女がボレアスにさらわれて行ったという伝説が生れたのである」とでも言えばよいわけだ。」



「ソクラテス いやたしかに、もしぼくが賢い人たちがしているように、
そんな伝説は信じないと言えば、当節の風潮に合うことになるだろうね。
そして学のあるところをみせながら、
「彼女オレイテュイアがパルマケイアといっしょに遊んでいるとき、ボレアスという名の風が吹いて、
12:54 - 2019年10月17日

彼女を近くの岩からつき落したのである。彼女はこのようにして死んだのであるが、
このことから、彼女がボレアスにさらわれて行ったという伝説が生れたのである」とでも言えばよいわけだ。
(中略)しかし、パイドロス、ぼくの考えを言うと、
こういった説明の仕方は、たしかに面白いにはちがいないだろう

けれど、ただよほど才智にたけて労をいとわぬ人でなければやれないことだし、
それにこんなことをする人は、あまり仕合せでもないと思うよ。
なぜかというと、ほかでもないが、
その人はつぎにヒポケンタウロスの姿を納得の行く形に修正しなければならないことになる

(中略)もし誰かがこれらの怪物たちのことをそのまま信じないで、
その一つ一つをもっともらしい理屈に合うように、こじつけようとしてみたまえ!
 さぞかしその人は、なにか強引な智慧をふりしぼらなければならないために、
 たくさんの暇を必要とすることだろう。」

『パイドロス』の最初の方だった 
この直後に、神話の解釈なんかより「われみずからを知る」方が重要だと言うんだが、
もっと後でソクラテス(プラトン)自身がイデア論に基づく救済神話みたいなのを長々と語り始めるのがなんともいえない

🦀
🦀
🦀
‏ @Zfb3PBTklWSvAEB
聖書を霊感الهامで書けるなら、それは霊感じゃなくて啓示وحیになるんだけど日本語舐めてるんかな
それに聖書やクルアーン何て「ただの人が集まって、作られた代物」でしかないのでアレはただの合意の産物
だからといって、聖書やクルアーンがないわけではないというのが聖智学の領域

DICTATOR
‏ @SPQR_RomeFan
23時間23時間前
新約、福音書と使徒行伝はエンタメ性あるけど、手紙文書はね #パウロの手紙とかパウロのあれこれと絡めるとわりとエンタメ性あるのだがあれこれを知る必要があるので文脈的にはちょっと高度





一年単位で執筆年代が特定できるの、新約旧約合わせてもパウロの真筆書簡くらいのもんだからな

パウロの書簡集、どう考えてもパウロの個人的な私信としか思えないお手紙も混じってて、
私信なので当然、部外者の我々には何言ってるかよくわからないのだが、
それも聖書に入っちゃってるあたり、
偉大なるパウロ大先生が書いてれば何でも有難いみたいな適当なノリが絶対あっただろ


パウロのよくわからんお手紙、よくわからんから、
優しいパウロ様が奴隷を解放してあげるように諭してる手紙ってことになってる


あいつ、別の手紙では、奴隷はずっと奴隷のままでいろって言ってるような奴なんだが

DICTATOR
‏ @SPQR_RomeFan
20 時間20 時間前
パウロ、めんどくさい人に粘着されて可哀想という気持ちと、
こいつめんどくさい奴だなという気持ちが同時に襲ってくる

うなじ
‏ @unajiperopero
神の前での徹底した謙虚な姿勢と、
人間が相手になった途端に傲慢で鼻持ちならない奴になるアンバランスさがパウロの魅力(?)ですね

DICTATOR
‏ @SPQR_RomeFan
20 時間20 時間
正直ペトロも大変だったろうなという思い

うなじ
‏ @unajiperopero
福音書ではイエスに怒られてばっかりで、
行伝の時期になると今度はすぐにヤコブにエルサレム教会の実権を奪われるので、
結構苦労人だったのかもしれないですね

DICTATOR
‏ @SPQR_RomeFan
エルサレム教会からの客人を歓待してたらパウロにキレられる回

うなじ
‏ @unajiperopero
20 時間20
ぺトロの優柔不断ぶりとヤコブの政治能力の高さが光るエピソードなんで、
ああ、こりゃ実権も奪われるなって感じですわ

アンティオキア事件、ヘブライストとパウロ派の折衷案ですよ、みたいな顔して、
ちゃっかり律法に基づいた決定に使徒会議の結論を持っていく主の兄弟ヤコブの敏腕ぶりがすごい
 ぺトロみたいな無教養のボンクラじゃ、そりゃ教会の権力も奪われる

DICTATOR
‏ @SPQR_RomeFan
20 時間20
まあ、あんまりガチガチの人じゃなかったから、
死後に地中海周りの各教会が象徴として掲げるのに便利だったのかな、という思いがあります 
#ペトロさんならええやろというノリ

うなじ
‏ @unajiperopero
20 時間20
ルカがパウロ派であるにもかかわらず、ぺトロに好意的だったのが大きいんじゃないかなと
 福音書と違って、聖典化されたあの時代の資料って行伝一つしかないので、
 かなりプラスイメージに貢献してると思いますね

DICTATOR
‏ @SPQR_RomeFan
アナトリア~ギリシャの教会、わりとみんなペトロとの関係を強調してる
(本当かどうか知らんがペトロが一通り回ったことになってる)辺り、
あの辺で比較的評判が良かったのはあるんじゃないかと思います。
クレメンス第一の手紙でも、ペトロとパウロに同時に言及してたりしますし。


うなじ
‏ @unajiperopero
返信先: @SPQR_RomeFanさん
自分が伝道したはずの教会とすら関係こじれまくってるパウロとの人柄の違いですねー
15:05 - 2019年10月17日


占星術小説作家@酒井日香@nichika_sakai
9月30日
お坊さんや神父さんに占星術講座したいよねぇ(笑)。
お坊さんや神父さんが上手に上手ーーーに占いを使ってくれて、
最終的にイエス様や仏陀に導いてくれれば、それが本当のカウンセリング。
これ以上ない悩みの解決。宗教家にこそ占いのなんたるかを伝えたいと思うんです
。いつかお坊さんとコラボしよ。

人間の悩みの正体は「現世のはかなさ」にある。
この現世、現象界しか自分はいない、と思い、
死後や来世を心から信じられない不幸がすべての悩みの根本。
こんな、目に見える範囲だけで片付けられるのだったらむしろ苦労しない。
ずっと続くから「困った」。
困ったけど「焦らなくていい」。わかる??

(空思想はこの人の思想を根本から否定するのだがいいの?)









天部であり神部でないことが重要!




龍熊子貊(テクパン・リブート)@なろう更新停止@TechPan_Reboot
返信先: @Tuina_chan_PJさん

間違ってるだけなら未だしも、正しい知識を持った人物が修正すると直ぐに『一次資料を示せ!無ければ削除だ!』『口伝は一次資料の内に入らない!』と言うのがWikipediaの悪いところですよね。あれで良く寄付を寄越せなんて言えたモンですよ

追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)の宮中の年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式[1]。

ちなみにこれがウィキペディアの「追儺」の項目の1行目。どこが間違っとるか、みんな妖怪卸河岸の日までに予習(予測)しといてな?!w
#妖怪卸河岸 #追儺式


【ついなちゃん】プロジェクト公式(CV:門脇舞以)さんが龍熊子貊(テクパン・リブート)@なろう更新停止をリツイートしました

ウィキペの連中くらいやったらいくらでも黙らせられる一次資料、提出したるけどなw(だってあの人たち、ネットに転がっとる二次資料しか見てないから、ほんまもんの漢籍やら古典やら絵巻物を知らないんだもん……、見てたらすぐ指摘できる間違いばっかりやで!w)
その辺は講義でこってりやったるな!

【ついなちゃん】プロジェクト公式(CV:門脇舞以)さんが追加
龍熊子貊(テクパン・リブート)@なろう更新停止
@TechPan_Reboot
返信先: @Tuina_chan_PJさん
間違ってるだけなら未だしも、正しい知識を持った人物が修正すると直ぐに
『一次資料を示せ!無ければ削除だ!』
『口伝は一次資料の内に入らない!』と言うのがWikipediaの悪いところですよね。
あれで良く寄付を寄越せなんて言えたモンですよ

パイドン
魂の不死について
https://www.iwanami.co.jp/book/b246653.html
”死は魂の消滅ではなく,
人間の内にある神的な霊魂の肉体の牢獄からの解放である――「魂の不死」についてのプラトン中期の対話篇.

岩田 靖夫 訳

刊行日 1998/02/16

体裁 文庫 ・ 並製 ・ カバー ・ 222頁

人間のうちにあってわれわれを支配し,イデアを把握する力を持つ魂は,
永遠不滅のイデアの世界と同族のものである.
死は魂の消滅ではなく,人間のうちにある神的な霊魂の肉体の牢獄からの解放である-ソクラテスの最期のときという設定で行われた「魂の不死」についての対話.『国家』へと続くプラトン中期の代表作.


プラトン翻訳おすすめ文庫版は?ゴルギアスからティマイオスまで
https://kotoyumin.com/platonhonyakuosusume-2046

人倫
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%80%AB-82749

儒教では,君臣,父子,夫婦,長幼,朋友の間の道徳的秩序としての人間の倫理を意味する。そこから一般に,人の踏み行うべき道という意味でも使われる。「倫」は,人として守るべき秩序,道理を意味する。
また,ヘーゲルの Sittlichkeitの訳語としても用いられる。
そこでは,良心の命令に従う主観的な道徳である Moralität (個人的道徳性) と対比されるところの,
家族,市民社会,国家において実現される客観的な倫理を意味する。


① 〔孟子 滕文公上〕 人と人との間の道徳的秩序。親子・君臣・夫婦・長幼・朋友の間で道徳的にとるべき道。
② 〘哲〙 〔ドイツ Sittlichkeit〕 ヘーゲルの用語。理性的意志が客観化された形態で、家族・市民社会・国家として現れる。偶有的諸個人の実体性・普遍的本質であり、主観的な道徳性に対立する。
③ 人。人々。人間。 「慈悲の心なからんは、-にあらず/徒然 128」


道徳
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E5%BE%B3-103962

① ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。
② 小・中学校において、道徳教育を行う教育課程。1958年(昭和33)に設置。
③ 〔もっぱら道と徳とを説くことから〕 老子の学。

道徳
どうとく
moral
道徳は「道」と「徳」からなるが、この場合の「道」とは世の中で人が従うべき道のことであり、「徳」とはそれを体得した状態のことである。すでに中国の古典にあることばで、たとえば『易経』のなかに、「(聖人は)道徳に和順して義を理(おさ)め、理を窮(きわ)め性を尽くして以(もっ)て命に至る」という表現がある。ここでは、道徳は天の道でもあって、人間の従うべき理法と自然の理法とが一体であることが示されている。
 ところで、道徳にあたる英語moral(日本でも道徳のかわりにモラルという表現がよく用いられる)は「習俗」を原義とするラテン語のmoresに由来する。この側面に注目すれば、道徳とは時代的、地域的に限定された特定の社会において成立している慣習的な掟(おきて)の総体とみることができる。したがって、いわゆる礼儀(エチケット)や作法(マナー)も、道徳の一部である。小・中学校に「道徳」の教科があるのも、一つにはこうした礼儀作法への躾(しつけ)が重視されているからであろう。
 17世紀のイギリスの哲学者ロックによると、行為の道徳的善悪は、行為が法に従っているか否かによって決まるが、その法には「神の法」と「市民法」と「世論の法」(「風習の法」)の別がある。神の法に従わない者は来世で罰せられ、市民法に従わない者は法的処罰を、世論の法に従わない者は世間から非難されるという制裁を受ける。ロックはここで広義の道徳について語っているが、普通、道徳とよばれているのは三番目の世論の法であり、二番目の法律としての法から区別される。もっとも法学者のなかには、法(法律)は人間が従うべき「最小限の道徳」であるという見方もあり、この場合には法も道徳のうちに含まれることになる。
 こうした慣習としての道徳は、ロックが世論の法とよぶように、世間の常識に支えられており、なぜそれに従わなければならないかといった反省を必要としない場合が多い。そこでアメリカの哲学者デューイは、慣習道徳と反省道徳とを区別した。反省道徳は道徳的善悪についての反省のうえにたった自律的な道徳で、場合によっては通用している慣習道徳を否定することもある。「道徳」と「倫理」はおおむね同じ意味で用いられるが、区別するとすれば、後者の反省道徳を倫理とよぶのが適切であろう。倫理学は、単に慣習道徳を記述するのではなく、反省道徳の立場にたって道徳の原理を探究する学問である。[宇都宮芳明]”


山脇直司
‏ @naoshiy
2011年12月8日

現代でも多くの示唆とインスピレーションを与える公共哲学の古典は、アリストテレス『二コマコス倫理学』『政治学』ルソー『社会契約論』スミス『道徳感情論』『国富論』カント『永遠平和論』ヘーゲル『法の哲学』などですが、私が知らない臨床哲学の古典は何か教えて下さい。@yuzutacca
0件の返信 12件のリツイート 21 いいね
山脇直司
‏ @naoshiy
2010年8月29日

アリストテレスの実践学に始まり、ロックやヒュームらの道徳哲学、カントの倫理学、ヘーゲルの法哲学と引き継がれる伝統は、20世紀以降の大学の学部構成にそぐわず雲散霧消していた。ロールズ、テイラー、サンデル、セン、ヌッスバムらの公共哲学は、その失われた伝統を復権させたと言ってよい。


倫理教科Bot
‏ @bzliker10315
人倫

道徳と法を止揚したもの

個人の自覚なく愛情によって結ばれている=家族
自己の欲望のための契約による欲望の体系=市民社会
家族と市民社会を止揚して自由を実現=国家

ヘーゲル

人間の本質を精神とした

正⇔反の2つが止揚(アウフヘーベン)することで合となる=弁証法
道徳と法を止揚=人倫を提唱
「精神現象学」「法の哲学」

ヘーゲル論理

すべての存在原理=精神
絶対的存在者=絶対精神
歴史の中に展開=世界精神

精神が主観的に現れる=道徳
精神が客観的に現れる=法
道徳と法の止揚=人倫

#ヘーゲル


ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年9月3日
日本語の「倫理」と「道徳」の区別は難しくて、
誰か(例えばヘーゲル)の哲学においてこうだ、ということは言えるけど、一般に両者の意味内容と差異を明確にしろと言われると、専門の学者の間でも統一見解をつくるのは難しいんじゃないか知らん。





ヘーゲルの『精神現象学』を全訳した金子はヘーゲルの弁証法はキリスト教の三位一体が元ネタだと明言し、
同じく全訳した長谷川はヘーゲルは三位一体に熾烈な関心があると断言。
弁証法思想のヘーゲリアンはキリスト教の三位一体の影響下。
bo軍の「ユダヤ思想=ユダヤ思想ではなくキリスト教系思想」
の法則。
本当にユダヤ思想であるタルムードを叩くときは中身を捏造。
ユダヤ思想である旧約は叩かない。
どうみてもクリスチャン!

西洋哲学は
ゴッド(絶対的実体)をどう言い換えているか。
ゴッドと(絶対的実体)と人間の関係と地位
がわかれば理解が楽







知に働けば角が立つ、情に棹させば流される

草枕の冒頭は、この世は住みにくいってなお話から始まって、
「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い」と続いていく。
確かに芸術じゃ腹は膨れねぇが、人の心を満たしてくれる。
どうしようもねぇ世の中でも、そいつを笑いに変えてくれることもある。
どうも殺伐して厭だねェ
21:51 - 2019年10月18日

夏目漱石 草枕 - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html
” 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……”


(支配層は自分の支配体制が覆される制度を創らないのは歴史の鉄則)



峨骨
@Chimaera925
2016年4月27日
何か巧妙な籤が作られなければならないだろう。
そうすれば、それぞれの組合せが成立するときに、先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね 『国家』プラトン
不正選挙が話題だけど、まるで公正な選挙が存在するかのようだ。
この時点で罠にかかっている。


2016年6月26日
不正選挙があるから正しい選挙が存在する。
これはペテン師の弁証法。一方を不正とする事で一方を正であると見せかけて、
正しい選挙さえすれば良くなると誘導する。
権力を分割統治する手段の一つに組み込めるのならば肯定。
仲間内とはいえ立場の違いや利害の対立がある。互いに潰しあって貰うのが良い

3月17日
不正選挙などと言うと、
まるで公正な選挙が存在するかのように聞こえてくるから不思議。
候補の選出の段階で介入できない公正さ。







細木プーラン@loop8br
2017年5月27日
仏教はキリスト教の教義およびのちの西洋文化に影響を与えた!って、
むしろマケドニア帝国によるマガダ国の首都征圧などをきっかけにインドはギリシア化されてたし
当時部派仏教の最大勢力・説一切有部なんかは
アリストテレスやデモクリトスの論理に影響受けてる可能性が論じられてるのですがそれは……

Akira Okamoto@aki555sr4h
2012年3月1日
アダム・スミスの思想のルーツはソクラテスに影響されたストア派に求められる。
マルクス・ニーチェに共通しているのは
ソクラテスとほぼ同時期のデモクリトスやソクラテス以前の哲学者に注目していたこと。
キリスト教・イスラム教がプラトン・アリストテレスの延長だからそれらを相対化できたのも納得。




ゴルギアースの面白さはそんなソークラテースの大量のトラップに
弁論家の大家であるゴルギアースがずぼずぼはまっていくというコントみたいなところにあることが
最近僕にもよく分かってきたのだけれど、
ここらへんのソークラテース像はまだ世界的にもほとんど認知されていないらしい






https://twitter.com/NamaKnee/status/995310039157039105




ところが教科書は分量の制限のためか、この疑問の答えである地理的理由が省略されることも多くて暗記科目化を促進してしまってます。参考書だとマンガで書かれた『まんが攻略BON!』学研プラスですら
「マメマメ知識」の欄でこうした地理的理由に触れられています。

「地理は暗記でなく推理の科目である」という面を前面に押し出した本では、
高校生向きですが『権田地理B講義の実況中継』が、講義形式の語りの文体で読みやすいです。
地理分野の新書では、最近出た『世界がわかる地理学入門』が面白いです。


峨骨@Chimaera925
錬金術が影響を及ぼしたのは化学や思想だけではない。
詐術もまた大きな成果だ。
金が欲しい。
卑金属から金を生み出したい。そんな即物的な願いから始まったそれは、
いかにして無価値なものを価値あるものに見せる、
あるいは価値あるものを生み出したと錯覚させる。そのような詐術を生み出した。

古典的な錬金術の詐欺師は賢者の石の存在を唱えて、
プラトンやアリストテレスを用いて自らを権威付けた。
錬金術の歴史は化学や思想の歴史の一部であり、また詐術の高度化の歴史でもある。




(ニコマコス倫理学
p.143 第九巻
”恋愛は友愛(フィリア)の超過ともいうべき意味を有するのであるが、
このことは一人を相手としてこそ可能なのであろう。
緊密な友愛もまたかくのごとく、
少数者を相手とするほかはない。”
)


お読みくださり感謝!
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