この度は、英語発音テキスト「英語耳」の著者である松澤喜好先生を取材しました。松澤先生が英語を学ぶようになったきっかけ、また特に「発音」にフォーカスして教材を作った理由など詳しく語っていただきました
電気通信大学電波通信学科卒業。富士ゼロックス株式会社勤務。エンジニアとして複写機開発を担当、1976年に英検1級取得。イギリス駐在を経て、アメリカ、イギリス、ヨーロッパとの共同開発に従事。在職中は、E-mail、テレビ会議、ミーティングと、ほとんど毎日英語を業務のコミュニケーション手段として使用。東洋大学経営学部の商学英語非常勤講師。英語学習用サイトのオーナー。著書『英語耳』(アスキー刊)は、2004年の英語学習書のヒット作に
松澤喜好先生の半生と英語に興味をもったきっかけ
ーー松澤先生がそもそも英語に関心を持ったきっかけからお願いします。なぜ英語やっているのかというところです。
1)洋楽に没頭した中学生時代
(松澤)英語を習い始めた中学の頃に、同時に「洋楽」に興味を持ったのがきっかけですね。
当時はオープン・リール・テープ・レコーダーというものでした。高かったのですが、親にねだって買ってもらって。
ビートルズの歌詞などを、何度も何度も繰り返して、聞いては覚えを、繰り返していました。
学校の英語の成績も、当初は平均だったのですが、100曲くらい繰り返して聞く中で、どんどん上がってきました。
語彙も増えてきますし、文法もやっていくので、頭で覚えた音が意味を持ち始めたのです。そこから成績が上がり始めて、高校受験に間に合ったという記憶があります。塾の先生が驚いて、「どうしちゃったんだ」と言われました(笑)
中学、高校のときの私は少し生意気でした。学校の先生が教える英語と、自分が歌で聴いて覚えるものは別物だと思っていたのです。ですから、自分なりにたくさん聴いて、音の体系を作っていったというのでしょうか。趣味と遊びでした。オタクで、物好きですよね。高校に入ったとき、聞いてわかるようになりたいと、ものすごく強く思ったのです。いつ、そうなるかと思っていました。
2)電気通信大学を卒業、富士ゼロックスのエンジニアへ
ーー大学(電気通信大学)は語学と関係ない理数系ですよね。その後、富士ゼロックスにエンジニアとして就職されました。
(松澤)電通大にいるとき、海外の国に行きたかった。NHKなどで海外のドラマなどをたくさんやっていたのです。当時は全部吹き替えでしたけれども。アメリカという国に対して、僕らの 団塊の世代はものすごく憧れを持っていました。物が豊かで、大きくて、広くて…。
ですから、海外に行ってみたいというのが強く、船乗りになろうと思った時期がありました。船舶の一級通信士を支援する無線通信(モールス通信)の授業を受けていたので資格を取って船乗りになるという道がありました。英語のモールス通信の訓練があったので、英語に触れる機会がありました。ブラインドタッチ(キーを見ないでキーボードをたたく)の訓練は就職してからとても役に立ちました。当時は、だんだん機械化が進んで、コンテナ船というのができました。
僕が1、2年の頃です。それまでは、港に1週間程停まっていたのですけれども、コンテナ方式だと1泊2日程しか停まっていないのです。30日、海の上ということです。これは違う、考えた方がいいなと思い、海外と関連のありそうな会社で、富士ゼロックスも候補だったのですけれども、そこに入りましたね。そのときに、だんだん機械化が進んで、コンテナ船というのができました。
3)初めての海外出張と、英語体験、英検一級取得まで
(松澤)入社後の2年目で、出張でアメリカとイギリスに、全部で2週間程行きました。新卒で抜擢されて、ラッキーでしたね。向こうで体験した英語は、学校英語と全然違うなと思いました。握手しても、変なのです。”It's nice to meet you.”と言っても、向こうは、”Nice to meet you.”と言います。短く言うんだ、と思いました。それから、”pretty bad”と言われました。prettyとbadがどうして組み合わさるのだろう、とも思いました。2週間程でしたけれども、すごくいろいろな経験ができました。
ーー英検一級を取得されたのはいつごろでしょうか?
(松澤)会社に入って3年目です。出張なり駐在なり、とにかく海外に行きたいと上司にも言っていましたので、何かしら資格もいるじゃないですか。当時、あまりTOEICなどなくて、英検でしたね。英検2級はとっていたんですけれどもね。やはり1級を取得したいなと思うようになりました。
英検の試験では、僕の場合はたくさん洋楽を聴いていたので、聞く方は大丈夫でしたね。
意外に思うかもしれませんが、喋る方もなんとなく、たくさん覚えた英文を喋りました。兎に角、単語を覚え、過去問をたくさんやりました。当時はカセットテープを聞いていました。
筆記が受かってから、1回目の面接は落ちました。2回、3回権利があったのかな。2回か3回か忘れてしまいましたけれども。1回落ちて、現場で傾向と対策を感覚的に掴んで、準備したという感じです。
ーーそれは凄いです。1970年〜1980年当時は、あまり英検を取るひとがいなかったらしいですね。なぜなら、リスニング音源がないため、すごく難しかったということです。イングリッシュ・スピーカーも珍しかったですよね。
4)富士ゼロックスでの英語体験(国内〜駐在先)
ーー日本での仕事では、英語を使う機会がありましたか?
(松澤)当時、ノウハウが全部アメリカから来たのです。僕が担当していたゼログラフィという技術は、静電気の画像にインクの粉をかけて現像したものを紙に転写します。その全ての情報や特許をアメリカが持っていました。設計図面から技術的な資料まで全部が英語ですから、エンジニアもほとんど全員が英語を読む必要がありました。
22歳で会社に入ってから、毎日英文を読んでいました。とても良かったのは、会社で辞書を引いても怒られないことです。朝から晩まで引いていました。技術資料や特許資料を読んで、それを抄録するのですが、いくら読んでいても、辞書を引いていても怒られないのです。いまでいうと、それで給料をもらえているというのは、夢のような世界でしたね。他の方は、そう思っていなかったかもしれないですけれども、僕はそう思っていました
また、20代は、難しいものをゆっくり読むということをやっていたのですけれども、それだと国際会議などに全然ついていけません。30近くで多読を始めました。
イギリスへ駐在に行く前後です。29歳で駐在に行き、2年間過ごし、31歳で帰ってきました。ちょうど脂が乗っている頃ですね。1979年に行きました。
5)駐在先での英語体験
駐在先では、全て英語で仕事しました。英語漬けになったのは、駐在に行ってからですね。
2年間で新しい技術を一通り覚えて、帰国するという無謀なミッションでした。
英語の会話で苦労したのは、電話です。
イギリス人のチームで仕事をしていたのですが、オフィスに私しか居ない場合、電話がかかってくる。でも私のバックグラウンドなど知らないわけです。取り次ぎの場合は必死に、伝えたい相手の名前だけでも聞いてメモしましたね。名前だけ聞けばとりあえずなんとかなるから。
英語漬けの日々は、私を鍛えました。
例えば発音なのですが、イギリスに住んで2年目ぐらいから、発音がブリティッシュ・イングリッシュになってきました。いまはアメリカンですけれども。上司が2週間、3週間休みをとるときに、一緒に、妻とこどもでフランスやいろいろな国にドライブしたのです。ミルクを持っていったので、まだこどもが1、2歳になる前でしょうか。「マイ・フェア・レディ」の世界ではないですけれども、発音、要するにブリティッシュの発音をして、しっかり言うと、お金持ちそうに見えたのでしょうね。アジア人がしっかり発音して喋るのですから、結構何でもやってくれました。違う意味で、発音は重要だな、と思いました。
アジアでも多少あると思います。香港へいったときに、ホテルではやはり教養イングリッシュの発音でした。いまもイギリスでも階級的なものが多少あります。アメリカでも当時ありました。6大学やそういうところの人と、一般の人は少し違っていました。ですから、きれいな、教養のある、いまはどういうのが教養ある発音がわからないですけれども、ある程度それができると、特に活躍している人、世界で活躍している人は有利だと思います。友だちを作ったり、いろいろなビジネスをできるからです
6)駐在後の仕事(英語漬けの80年代)
(松澤)駐在から帰ってきたのが1981年なのですが、しばらくはその大きな機械のメンテナンスをしていました。国内でもソフトウェアを使った複写機の開発が始まったのです。
当時はワイヤード・ロジックスというボードを何枚も使って、大変で変更も効かない、開発にも時間もかかる、ということで、ソフトウェアで、マイクロコンピューターを使い始めてました。組み込み型というもの走りです。それが1981年代に始まったとき、たまたま、僕が大型機械のすべてを吸収してソースコードを持っていましたから、それを理由に小型機のソフトウェア開発エンジニアとして選ばれました。
ソフトウェア・エンジニアがひとりで、ハードウェア・エンジニアがひとりです。小さな複写機の全てのコントロールの仕事を2人で始めました。それが動き始めて売れ始めました。車もそうですけれども、どんどん、世界に輸出している時代でした。小型の複写機はアメリカも持っていませんでしたから、米国のゼロックスが日本から買い始めたのです。
日本からアメリカに輸出が始まると、彼らも、アメリカ向けにこうしてくれ、といういう要求仕様があって、それを作らなくてはいけないので、いろいろな会議が始まりました。まずは飛行機で飛んでいきました。それが80年代です。90年代に入るとテレビ会議が始まり、2000年に入るとテレビ会議がもっと増えましたけれども。アメリカとそういう仕事のやり取りを始めましたから、一つのプロジェクトでは年に平均6?7回は彼らが来て、会議をしました。日本からは年に3回か4回行って、会議をしました。出張はだいたい2週間ぐらいです。その間に英語の資料をいろいろ用意しました。メールのやり取りは毎日ですから、結構、ほぼ毎日英語漬けでした。
7)90年代後半に「英語耳」を書くキッカケが・・
(松澤)90年代に入ってから、後半なんですけれども、いろいろな会社がベンチャー・ビジネスを育てようということで「流暢」という喋る翻訳機を作ったんです。これは音声合成で、音声圧縮しているのです。それから、音声認識を使った英語練習機みたいなものも作っていたので、その頃に英語の学習法というのをまとめ始めました。
90年代が終わる頃に自分でホームページを立ち上げて、英語の学習法と、特に発音の方法をサイトに出しました。そのときにもう一人、宇田さんという方がいました。発音に関してバンバン書いているのは、私と宇田さんぐらいでした。ですから、アクセス数がみるみる増えて、結構、アクセス数の多いサイトになりました。
ーーここから「英語耳」を書くキッカケに繋がるわけですね
(松澤)そうです
2)第二弾:『英語耳』を書いたキッカケと『発音学習』の未来
この記事では、松澤先生がヒット書籍「英語耳」を書いたキッカケと、発音教育の未来について語ってもらいました。「もしドラ」の編集者である加藤貞顕氏との出会い、「英語耳」というユニークなネーミングの理由など、包み隠さず語ってもらいました。⇒英語耳を書いた理由と、発音学習の未来