「天災首相」こと、安倍晋三首相は11月19日に、在任期間最長2886日 の桂太郎元首相を超えるけれど「大地震、大津波、大雨、水害。山崩れ、大火 など」の災害に襲われた数は、恐らく最多だろう

2019/09/23 ブログ
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「天災首相」とは、安倍晋三首相のことである。「天才」ではない。平沢勝
栄衆院議員が東大法学部の学生だった時、「鈍才」小学生だった安倍晋三首相
の家庭教師を務め、物覚えの悪い安倍晋三首相の頭を定規で何度も叩いた。こ
の恨みからか、平沢勝栄衆院議員は、閣僚に一度も抜擢されていない。敬遠さ
れているのだ。自民党派閥も安倍晋三首相のいる「清和会」(会長:細田博之元
官房長官)ではなく、「志帥会」(会長:二階俊博幹事長)に所属している。「天
災首相」こと、安倍晋三首相は、11月19日に歴代首相在任期間最長288
6日の桂太郎元首相(長州藩士)を超えるけれど、在任通算8年に「大地震、大
津波、大雨、水害。山崩れ、大火など」の災害に襲われた数は、恐らく最多だ
ろう。


 筆者は、毎日新聞政治部記者時代の1984年から1985年ごろ、建設省
記者クラブに所属して、「電線類地中化」(電線=電力線・通信線等および関
連施設を地中に埋設、電線地中化、電柱地中化などとも言う)について、レク
チャーを受けた。あれから34、35年経つのに、全国での達成率は、「わず
か1%」という。これは、怠慢というほかない。とくに「長期政権ボケ」の安
倍晋三政権は、完全に忘れていたというのが、実情だ。
 9月9日には、台風15号に襲われた関東では過去最強クラスの勢力で千葉市
に上陸。関東各地や静岡県で停電や倒木が相次ぎ、千葉県を中心に電柱が倒れ
たために停電したり、断水したりして、大きな被害が発生した。
 その最中、第4次安倍晋三再改造日内閣の組閣中(9月11日=9.11記念
日)で、台風被害をそっちのけにしていて、安倍晋三首相は、長期政権維持に
熱中して、「対策本部」の立ち上げに気が回らず、被害者が続出しているの
に、被災者救援が大幅に遅れた。このため、国民有権者から厳しい批判の声を
浴びせられた。しかも、追い討ちをかけるように台風17号が接近中だ。安倍
晋三首相は23日、国連総会出席のため米ニューヨークに向け出発、現地に2
6日まで滞在し、その後、ベルギーの首都ブリュッセルを訪れ、28日に帰国
する。
 この間、安倍晋三首相は、「観光外交」を堪能するため、不在となる。
【参考引用】
 産経ニュースは20日午後8時47分、「安倍首相、23日から訪米 イラ
ン緊張緩和が焦点」という見出しをつけて、以下のように報じた。
https://www.sankei.com/world/news/190920/wor1909200021-n1.html
 安倍晋三首相は23日、国連総会出席のため米ニューヨークに向け出発す
る。現地に26日まで滞在し、トランプ米大統領やイランのロウハニ大統領と
会談する予定だ。トランプ氏とは先月大枠合意した日米貿易交渉に関し、協定
の署名を目指す。一連の会談では、首相が米イラン両国との友好関係を生か
し、中東で高まる緊張状態の緩和に向けた橋渡しができるかも焦点となる。首
相はその後、ベルギーの首都ブリュッセルを訪れ、28日に帰国する。訪米
中、首相は24日夕(日本時間25日午前)に国連総会で一般討論演説に臨
む。ロウハニ師とは24日午前(同25日未明)、トランプ氏とは25日午後
(同26日未明)に会談する予定だ。ロウハニ師には中東の緊張の高まりに対
する深刻な懸念を伝え、会談結果をトランプ氏に伝える。

「天災首相」安倍晋三首相が、国民の「リスクマネジメント」に無責任であ
るなら、大企業の経営陣も、無責任極まりなない。東京地裁の永渕健一裁判長
は9月19日、福島第1原子力発電所事故をめぐり、業務上過失致死傷罪で強
制起訴された東京電力旧経営陣、勝俣恒久元会長(79)、武黒一郎元副社長
(73)、武藤栄元副社長(69)の3人に対し無罪(求刑禁錮5年)を言い渡し
た。永渕健一裁判長は、「リスクマネジメント」のあり方について
 根本的に間違った認識の下で判決を下している。歴史的、地理的に見て、
「津波がいつ襲ってくるかも知れない」という蓋然性に備えることと、「具体
的に襲ってくる津波を予見したり、予想したりする」こととの違いを混同して
いる。最高経営者には、「いつ何時、津波に襲われても大丈夫なように安全体
制を万全にしておく義務がある」のだ。個々の津波について、予見可能性を云
々しても、意味がないのだ。永渕健一裁判長は、これを取り違えている。早い
話が、東京電力旧経営陣、勝俣恒久元会長(79)、武黒一郎元副社長(73)、
武藤栄元副社長(69)の3人は、「リスクマネジメント」の意識が、完全に欠
如していた。
 日本経済新聞は9月19日午後11時4分、「東京電力旧経営陣に無罪 東
京地裁の判決要旨」という見出しをつけて、以下のように報じた。
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50014430Z10C19A9CR8000/
福島第1原子力発電所事故を巡る強制起訴事件で東京電力の旧経営陣3被告を無
罪とした19日の東京地裁判決の要旨は次の通り。
【争点】
 主たる争点は被告らに津波襲来の予見可能性があったと認められるか否か
だ。結果の重大性を強調するあまり、あらゆる可能性を考慮して必要な措置を
義務付けられれば、法令上は認められた運転が不可能になる。
【長期評価】
 政府の地震本部は2002年7月、「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長
期評価」を公表した。福島県沖でもマグニチュード8.2前後の地震が起きる可
能性があるとしていた。
 11年3月初旬時点で長期評価は地震発生の可能性の具体的な根拠を示さず、
専門家や内閣府が疑問を示していた。中央防災会議や自治体の防災計画にも取
り込まれなかった。客観的な信頼性、具体性があったと認めるには合理的な疑
いが残る。
【予見可能性】
 原子炉等規制法や審査指針などからすると、原発の自然災害に対する安全性
は「どのようなことがあっても放射性物質が外部に放出されることは絶対にな
い」といった極めて高度なレベルではなく、合理的に予測される災害を想定し
た安全性の確保が求められていた。
 武藤栄元副社長や武黒一郎元副社長は長期評価に基づいて津波の数値解析を
すると15.7メートルになることなどを認識していたが、部下から長期評価の見
解に根拠がないと報告を受けていた。勝俣恒久元会長は10メートルを超える津
波襲来の可能性を示唆する見解があると認識していたが、内容や信頼性は認識
していなかった。
 直ちに工事に着手し、完了まで運転を停止しなければ事故が起こり得ると認
識していなくても不合理とは言えない。結果回避義務を課すにふさわしい予見
可能性があったとは認められない。
 指定弁護士は情報収集義務を尽くしていれば津波の襲来を予見できたと主張
する。しかし情報を収集・補充しても上記内容以上の情報が得られたとは考え
がたい。

戦前の「修身」の教科書に、津波の襲来を村人に知らせるため、自分の畑の
稲わらに火を放ち、警報を発して村人の危機を救った人情庄屋の話が登場す
る。この庄屋は、江戸時代初期創業の「ヤマサ醤油」7代目である浜口儀兵衛
(号・通称、梧陵、文政3年6月15日=1820年7月24日~1885年=明治18年4月21日)
のことである。紀伊国有田郡広村=現・和歌山県有田郡広川町出身の実業家・
社会事業家・政治家であった。「大富豪に学ぶ商売繁盛20の教訓」(板垣英憲
著、共栄書房刊、2010年1月20日)より、以下、紹介しておこう。

海外渡航を幕府に願い出て許されず

 梧陵は天保二(一八三一)年、一二歳で六代曰・保平の養子となった。演口
家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していたので、銚子に赴
いて家業の醤油製造を見習い、その間、銚子で開業していた蘭医・二宅良斎と
交流を持った。また佐久間象山、勝海舟と交わり、広村崇義団を興して海防に
注意した。
 進収の気性に富んだ梧陵は、三〇歳のとき海外への渡航を幕府に願い出た
が、許可されず、嘉永五(一八五二)年、帰郷して青年子弟の育成に当たっ
た。
 梧陵は、人材育成や学間の発展のための労を惜しまない人物だった。西洋に
興味のあった梧陵は、嘉永五(一八五二)年、「稽古場」を開設して、西洋文
明の長を探った。青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学
舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長いぼ史を
誇っている。
 嘉永六(一八五三)年六月、ペリーが浦賀に来航し、幕府に開港を迫ったと
き、梧陵は
 「世界の現状は門戸問放主義である。もし人が遠方より訪れるなら、迎えて
交わるのは普通の礼儀である。しかるに、その容貌も見ず、その来意をも確か
めず、ただこれを拒絶するのは、あたかも人が見慣ねぬ人の影を見て遠吠えす
るようなものである」
 と語ったという。その意見を耳にした老中・小笠原壱岐守と後日会談したと
記録に残っている。

大津波を予期し村民を救う

 安政元(一八五四)年一一月四日、五曰の二回にわたって襲った南海の人地
震に際し、偶然紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き
方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期した。梧陵は村民を避
難させるため、自分の田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に人を役
じて急を知らせ、村民の命を救った。このときの被害が頗る多かったため、全
力を挙げて救済に当り、さらに私財を投人して人防波堤も築造している。
 津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具
の訓達などを行い、離村を防正した。また、将来の津波被害を防止するため、
安政二(一八五五)年から四年間、銀九四貫を費やし、大防波堤の建設を進め
た。全長人六〇メートル、高さ四・五メートル、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)
の木が植えられている。その景観は史跡に指定されており、防波堤は、現在も
残っている。
 明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、身の危険や財産を顧み
ないこの行為に感動し、「仏陀の国の落穂拾い」という短編集のなかで「A
Living God(生ける神)」として梧陵を紹介している。後に小学校教師であっ
た中井常蔵がこれをもとにして、「稲村の火」と題する物語を著し、小学国語
読本に採用された。この物語では、舞台が三陸海岸の村という設定で描かれ、
小学生ばかりでなく、国民の多くに感動を与え続けた。
 このほか梧陵は安政五(一八五八)年、江戸の西洋医学所が火災のため焼け
落ちたとき、七〇〇両を寄付して再建、現在の東京大学医学部の基礎を作って
おり、私欲を顧みない民政功労者として社会福祉事業や政治活動に心血を注
ぎ、近代日本の発展に大きな足跡を残した。