第五章 運命の日 ──二〇一七年八月二十七日十時五分
1
夏休み、最後の日曜日。
僕は再びこの地に降り立っていた。
JAXA
──ついにここまで来たぞ。
【明日は何の日?】
あのメールをきっかけに、僕は思い出したことがあった。明日は何の日──その言葉の意味するところは、気づいてみれば
二〇一七年八月二十七日。この日、JAXA筑波宇宙センターでは『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』というイベントが開催される。このイベントでは、歴代宇宙飛行士たちの活躍が展示や講演によって紹介されることになる。とりわけ、悲劇の宇宙飛行士である
ここに
もちろんうまく行く保証はない。今の僕は星乃からすれば毎日しつこく押しかけるクラスメートで、会ったからといって嫌な顔をされることは間違いない。それでもアパートの前ではなく『外の世界』で出会えることの意味は計り知れない。だって僕は、そうやって偶然の出会いを繰り返して、彼女と仲良くなったのだ。
ラストチャンス──その言葉が
……というつもりで意気込んで来たものの。
「お兄ちゃん、待ってよー」
「ヒラノー、こっちこっちー!」
「
──どうしてこうなった……。
大げさでもなんでもなく、今日が僕と星乃の運命の日だ。これまでもそうだったように、どういう弾みで『未来』がズレるか分からないのだ。だから当然、誰にも邪魔されないよう一人で来るつもりだったが、気づけば三人がいっしょにいる。
「ハア……」
母親が講演する葉月はともかく、涼介にまでバレたのは不運だった。今朝ばったり駅で会い、「
運命には先んじたが、まさか友人に先んじられるとは。
「大地クン、早く行こうよ~」「ヒラノー、はやくー!」
夏期講習が終わった解放感なのか、楽しげに手を振る二人を見て、僕は悟られぬようにため息を
2
「ふーん、これがISSなんだ……」
「正確には日本実験棟の部分だけ。本物にはアメリカとかロシアの棟が連結してて、もっと大きい。サッカー場くらいかな」
「へえ、詳しいね」
伊万里は感心したようにうなずく。
今いるのはJAXAの敷地内にあるスペースドーム。常設の展示コーナーがあり、今日のイベント前に時間を
ISS日本実験棟『きぼう』。実物大の模型はこの施設の目玉であり、銀色に輝く円柱形のフォルムは近未来SFのような印象を受ける。
備え付けの
「あれ、
「あいつホントにロリコンじゃないだろうな」「さあ、どうだか」
伊万里は興味なさそうに肩をすくめてから、
「ねえ、ヒラノ」少し声音を押さえて言う。「ひょっとして、ここで誰か待ってるの?」
「え……どうして?」
「だって、さっきから落ち着かない様子だから」
平静を装っているつもりだったが、やはり隠せていなかったらしい。
「待ち合わせ?」
「いや、そうじゃないけど。なんていうか……」
迷ったが、なんとなく
「思い出の場所なんだ、ここ」
「思い出?」
「そう。前に、ある人といっしょに来て……そいつはここが大好きで、大喜びで。だから今日もここにいたら会えるかなって」
──ほら、
何度JAXAを訪れても、
「もしかして……それって、
「ああ」
「今日、ここに来たのも、天野河に会うため?」
僕がうなずくと、
「ちょっとコーヒーでも買ってくるね」
星乃は来なかった。
3
『間もなく、JAXA職員による、宇宙飛行士の思い出を語る会が始まります。ご参加を希望する方は──』
会場内にアナウンスが流れ、今日最後の企画を告げる。
二〇一七年八月二十七日、午後二時五十分。
星乃は来なかった。ISS日本実験棟『きぼう』の前にも、そして両親の生前の活躍を伝える動画コーナーにも来なかった。他の心当たりを探しても同じで、事前にその旨を伝えていた
すでにほとんどの企画は終了している。残る講演会は、真理亜が出演するものだ。星乃と真理亜の関係を考えると、これに彼女が参加するのは絶望的と言えた。
つまり、もう星乃は来ない。
「お兄ちゃん、どうしたの? お母さんの講演行かないの?」
「あ、ああ……」
「ちょっと、私がお兄ちゃんの隣に座るの」「なによ、べつに決まってないでしょ」「まあまあ二人とも、今なら俺の隣が空いてるぜ」──みんなのやりとりが、どこか遠くに感じる。
──なぜ。
さっきから同じ疑問が、
──なぜ来ない。
往生際悪く、何度も会場を見回す。入り口にも視線を走らせる。
だけど
「……ヒラノ?」
「悪い、ちょっとトイレ」
僕は逃げるようにその場を去り、近くのトイレに駆け込む。
男子トイレの鏡の前で、両手をつく。
「なんだよ、なんでだよ?」それは怒りと失望の混じった自問自答。
未来を予測したはずなのに。出会いを先読みしたと思ったのに。運命を先取りしたつもりだったのに。
星乃は来ない。この会場にいない。影すら見えない。それが現実だ。
「ちくしょう……」
あれほどみんなに協力してもらって。スペースライトという反則技まで使って。未来から過去にやってきたアドバンテージすら生かせずに。
──なに、やってんだ……。
自分のふがいなさと、無力感に打ちひしがれる。
そのときだ。
ドンッ、と衝撃を感じた。
振り返ると、男性がいた。「き、気をつけろ」とやや甲高い声で文句を言い、なおもブツブツとつぶやきながらトイレから出て行く一人の男性。JAXAのロゴ入りの帽子を目深に
僕も、行かないと……足を動かし、廊下に出る。
ふと、会場入りする
──星乃が来るかもしれません、明日の宇宙飛行士展。
昨夜、電話したときの僕の言葉に、彼女は「本当かっ!?」と
会場に戻ると、少女が手を振っていた。
「お兄ちゃん、ここ、ここ!」
「ちょっと、何決めてんのよ。ヒラノ、こっち空いてるよ?」
通路を挟んで、二人の席は分かれており、少女たちの隣の席はどちらも空いている。僕がトイレに行ってる間に確保しておいてくれたようだ。
どちらに座ろうか、と迷っていたとき、
「あ、ちょっ、あの!」
見れば、葉月の隣の席に、別の男性が座った。さっきトイレでぶつかった男性らしく、JAXAのロゴ入りの帽子と、夏場にはそぐわない厚手の上着には覚えがある。
「悪いな、葉月」
僕は伊万里の隣に座る。座席に指定がない以上、帽子の男性をどかすわけにもいかない。
「あー、もう、お兄ちゃんの隣が良かったのに~」
「ねえねえ葉月ちゃん、それじゃ
葉月の左隣に座っていた涼介が、
「お子様は引っ込んでろっての」
「え?」
「ふふふ、こっちの話」
隣には、これ以上ないくらい勝ち誇った顔の伊万里がいた。
そこでアナウンスが流れ、講演会の始まりが告げられる。しばらく不満を漏らしていた葉月も、さすがに静かになった。
司会の短い
「皆様、本日はJAXA夏休み特別企画『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』にお越し下さいまして誠にありがとうございます。先ほどご紹介にあずかりました
スーツを着て、敬語でしゃべる真理亜はちょっと新鮮だった。普段の豪快さが今はなりを潜め、こうして見ると本当に美人だ。ビシリとフォーマルを着こなした銀髪美女の姿は、これから宇宙戦艦を指揮するアニメのキャラを思わせる。
──やっぱり、顔の傷がないのが大きいよな……。
八年後の真理亜には、左の
講演は続いた。
壇上のスライドや、動画なども駆使して、真理亜はISSの役割や、その中で歴代の宇宙飛行士たちがいかに良い仕事をしたかを滑らかに語った。とりわけ、
気づけば、あっという間に時間が
──あれ?
スムーズかつ情熱的に講演を続ける真理亜の顔を見ながら、僕は妙な違和感を抱く。
真理亜って……。
その左
──いつ、顔に傷がついたんだ……?
それは以前にも感じた疑問だった。スペースライトを果たして、初めて彼女と会ったときのこと。彼女の顔を見て抱いた、一番最初の疑問。
普通、あんな傷は付かない。顔面に走る、
講演が耳に入らなくなった。
記憶の底を洗うように、僕は真理亜の傷のことを考える。
だが、それはベールに包まれたようにぼんやりとして、核心に触れようとすると脳内に
そのときだ。
「あ……」
手にしていたパンフに、ぽたりと
血の涙。
それが引き金となって、失われていた脳の弾倉から、記憶の弾丸が放たれる。光よりも速い弾丸は僕の体をレーザーのように貫いて、過剰にダウンロードしたデータのように猛烈な分量の記憶を解凍し、意識の表層へと呼び覚ます。あの日──
「ちょ、ちょっとヒラノ、血、血!」
思い出した──やっと思い出せた。
「ヒラノ、だ、大丈夫? 病院行こう。ね? ね?」
伊万里のなだめるような声に重なり、拍手が響いた。それは講演が終わった合図。
「続きまして、質疑応答の時間に移りたいと思います」司会が次の進行に移る。「講師に何か
言い終わる前に、さっと、前列で手が挙がった。そのあまりにも早いタイミングに、司会も面食らったらしく、「では、そちらの方」と指名する。
マイクを渡そうと、司会が近寄ったときだ。
すっと、挙手した人物は、何気ない感じで壇上へと登った。フードを目深に
フードの人物は、右手に何かを握り込んでいるように見えた。きらりと、その手から光が漏れる。
──まさか。
それは直感だった。だが、ほぼ確信に近い
犯人は三十代の男性。掲示板で『エウロパ』を名乗り、犯行予告を繰り返し、逮捕後の留置所で「ネットはできないんですか?」と言い放つ。公判では検事から『女性の顔面に一生消えない傷をつけた』と言われ、「整形手術で消えるんじゃないですか?」と反論する──壇上に上がった人物を見つめながら、僕は犯人への記憶と、それにともなう憎悪のボルテージを上げ、「真理亜ッ!」と叫び、彼女がこちらを向いたときにもう一度、「エウロパだ!」と警告する。さっと彼女の顔色が変わり、壇上に上がった『質問者』を見ると、質問者が今度は走ってくる僕のほうに気づき、フードごしの
「え……?」
僕は相手を組み伏せたまま、
めくれたフードから現れたのは、真っ白な肌と、大きな
「どうして……」
思わず声が漏れる。
え? あ? なんだ? これは?
「──どいて」
彼女がつぶやき、僕を
「さっさと、どいて」
「あ、ああ……」
相手の視線に押されるように、僕は体の上からどいてしまう。
ゆっくりと、不愉快そうな顔で彼女は立ち上がると、まずはさっき落とした金属製の物体を拾い上げる。それは鎖がついていて、何かのペンダントのように見えた。
騒ぎを聞きつけたJAXAの職員が駆けつける。だが、
「あたしの知り合いなんだー。二人ともねー」
そして彼女は僕を見て、それからもう一度フードの人物と向かい合った。
「私に
真理亜が言うと、その少女──
「では最初の質問、よろしいですか?」
平然と、星乃は言った。
「どうぞ」
真理亜が答える。早くも語尾を伸ばす癖が消えている。
──な……。
僕は二人の間に立ち、何が起きているのか理解できない。観客席のほうも騒然としている。当然だ。司会の女性も「え? え? なに?」と目を白黒させ、完全に自分の役割を見失っている。
ぼさぼさの長い黒髪が顔にかかり、その下から鋭い眼光が
「資格があると、思いますか?」
「……資格?」
誰もこの場を止められず、ただ、
「資格です。あなたが、言葉を発する資格」星乃は質問の真意を説明する。「
「…………」
真理亜は硬い表情で、黙って聞く。
「まるで親友のように、あるいは信頼のおける同僚のように、あなたが、亡くなった二人について、どうだった、こうだった、あのときは良かった、すごかった、印象に残った、すばらしかった、いろいろあった──そのすべてについて、あなたが親友ヅラして、二人のことを語る資格です」
親友ヅラ、という言葉に、毒がこもる。
「ありますか?」
挑戦するように、星乃は問いかける。
真理亜は唇を一度開き、それから息を吸い、閉じる。言葉を飲み込んだように見えた。
「あなたは救えなかった。宇宙空間で事故に遭った弥彦流一を。あなたは助けられなかった。意識を失った天野河詩緒梨を。それができたのに、指示を出せたのに、安全なところから、危険な状態にある二人に、冷静に、的確な助言ができたのに、それをしなかった。混乱して、慌てて、職務を投げ出した。──違いますか?」
「……そうです」
真理亜が初めて回答した。
まるで被告人だった。罪を犯したと疑われ、法と正義に基づいて裁かれる被告人。
「そんなあなたに、親友として、二人の人生を、功績を、思い出を──それらすべてを語る資格、ありますか?」
「……ありま、せん」
「私の両親はCH細胞研究を、あと一歩で成し遂げられるところだった。でもそれはあなたのミスで
「あ、ありま、せ、ん……」
最初の質問、と題して始まったやりとりだったが、それはもう質問ですらなかった。
白銀の美女の頭上で、断罪の鐘が鳴る。これから火あぶりにされる罪人のごとく、つるし上げられ、鋭くとがった言葉の
公開処刑。
「二人は死んだのに、あなたは生きて、笑って、飲んで、食らって、結婚して、子供を産んで、出世して、人生を
彼女は同じことを繰り返し
こんな星乃を見たことがなかった。憎しみの権化、怒りの噴出口と化した唇。
「ありま……せん」
こんな真理亜を見たことがなかった。自信と豪胆の化身のような彼女が、力のない表情をして、ただただ、糾弾の
──いけない。
そう思った。星乃の言葉のナイフで、真理亜が血だらけになっている。こんなことをしちゃいけない。させちゃいけない。真理亜のためにも。星乃のためにも。
「
言葉を吐くたびに、星乃の顔が
「──ありま……せ、ん……」
言葉を吐くたびに、真理亜の顔が歪む。
不倫報道の一件については、反論したって良いはずだった。しかし真理亜はそれをしない。ただただ言われるがまま、言葉の雨に打たれるがままになっている。それがどういう気持ちなのか僕には分からない。罰を受け入れるつもりなのか、自分には反論する資格がないと思っているのか。一方の星乃も、相手を糾弾しながらも決して勝ち誇った様子はなく、むしろ言葉を発するたびに自ら傷ついたような苦しげな顔をしている。
「最後の、質問です」
断罪の剣を握った少女が、容赦なく告げる。
すでに真理亜は限界に見えた。すべてを使い果たしたように、その顔には血の気がなく、演壇に両手をつき、その銀髪はだらりと顔を覆い、青白くなった唇は、まともに息をしているのかすら分からない。
そして最後の
「どうして、私を引き取ったんですか?」
「
「なぜ、……って」
意外な質問だったのか、あるいは致命的な質問だったのか。真理亜の
「それ、は」
「愛もないのに」
「愛しても、いないのに」
愛という言葉を、繰り返す。
「なぜ、私を引き取ったの?」
敬語が消え、生の彼女の言葉となる。
真理亜が顔を上げた。あ、と喉を鳴らし、それから一度、肺の奥に息を吸い込むような動作をして、おそらくは今できる精一杯の声で、叫んだ。
「愛していたから」
心臓の血を搾り出すような、あるいは己の命をすべて吐き出すような、その愛の言葉。
すべてを込めた愛の言葉を、
「
差し出した心臓を握り
「嘘だ。嘘だ。嘘だ」心臓を踏み潰すように続けた。
死ぬと思った。これを続けたら、真理亜が死ぬと思った。
「嘘じゃ……ない、よ」真理亜は答える。
星乃は首を振る。長い前髪が揺れる。
「嘘だ。あなたはただ、
残酷だった。育ての『親』が、愛していると言い、それを『子』が否定する。
愛を語る上で、子供というポジションは
「なんで何も言わないの? どうして黙っているの? 本当は私のこと、生意気なクソガキとしか思っていないんでしょ? だったらこの場で殴り飛ばしたらいいじゃない」
「ちが、う……」
「私のこと憎いでしょう? 目障りでしょう? だって、私さえいなければ──」
そのとき、
理由は単純だ。
なぜなら彼女の前に僕が立っていたから。
「な……」
星乃が目を丸くする。
ここに立った理由は簡単だった。このまま、言葉の
そして星乃も──
「駄目だよ、星乃」言葉はすんなり出た。「そんなこと言っちゃ、駄目だ」
「どいて」
「真理亜さんはそんな人じゃない」
「どきなさい。あなたは関係ないでしょう?」
僕のことなど眼中にないように、星乃は腕を振り払い、どくように命じる。
でも僕はどかない。
「真理亜さんは、愛してるんだ。おまえを」
芝居がかったこの舞台で、芝居がかった
「どきなさい」
会話はすれ違う。
「本当は分かっているだろう、おまえも」
「どきなさい。でないと──」
パン、と乾いた音がした。
──うっ。
僕の胸に、何かが当たる。強いバネで
星乃はその手に、小さなぬいぐるみを持っていた。以前にもアパートで見た、不審者撃退用の改造エアガン。それを内蔵したUFO型のぬいぐるみだ。
「どかないよ」
僕が言うと、また、乾いた音がした。痛みが走ったが、そんなことは大したことではない。なぜなら、さっき
「どきなさい」「どかない」
さっき組み伏せたときには、彼女の一喝で思わずどいてしまった。
でも今は違う。僕にはここにいる訳がある。どかない理由がある。その確信がある。
「どいて」パン、と音がして、僕の胸にエアガンのBB弾が命中し、それは跳ね返って壇上に転がる。「どきなさいって言ってるでしょ!」
パン、パン、と連射される。痛い。けど怖くはない。
むしろ逆だった。
「なんで……」撃ちながら、少女は後退する。「あなた、何なの? 毎日、毎日、家に来て。追い払っても、またやってきて。何なの?」
「クラスメートだよ」「ふざけないで」
命中、そして跳ね返る。足元に弾が転がる。
きっと僕の姿は、何度撃っても死なないゾンビみたいに、彼女の
星乃は
星乃を愛し、守り、慈しんできた彼女が相手だから。
それが乱暴な『甘え』だってことを、僕は知っている。たとえるなら、赤ん坊が母親の体を
なぜなら僕は見てきたから。未来で、彼女と過ごした五年間で、見てきたから。
僕には自信がない。結果の分からないことや、絶対失敗するようなことにチャレンジする勇気はないし、
だけど、僕が知っていることなら、できる。
星乃は、真理亜のことを憎んではいない。ただほんの少し、行き違いとわだかまりがあって、素直になれないだけなのだ。心に負った傷が深すぎて、それが彼女の
「おまえはもう、気づいているはずだ」
「来ないで!」
「気づいているんだ、本当は、おまえは」
「違う!」
彼女は叫ぶ。
「来ないでって言ってるでしょ……っ!!」
僕が進むと、
「ダメだよ、星乃。それじゃダメだ。ちゃんと言葉にするんだ。銃弾でもなくて、非難でもなくて……心の内にある『
語りかけながら、僕は思い出していた。それは僕と星乃が過ごした『一周目』の
「星乃、おまえなら分かるはずだ」
僕は一歩、また前に出る。
「だからこっちに来ないで──」
また銃を構える星乃だったが、今度は弾が飛んでこなかった。カチ、カチと乾いた音がして、空回りする音が弾切れを知らせる。
彼女まであと少しというところで、僕は立ち止まる。後退した星乃は、客席から見えるギリギリの位置に追いつめられている。その手から、ぽとりとぬいぐるみが落ちる。
「なんで……」星乃は唇を震わせ、驚きと
さっきまでの攻撃的な態度は消え、代わりに今は『僕』というイレギュラーな存在にただただ戸惑う少女の姿があった。
今ならきっと、僕の言葉が届く。そう思った。アパートの分厚い壁ごしではなく、直接言葉が届く距離。今しかない。今、この瞬間しか。
「星乃、聞いてくれ。僕は──」
僕は彼女の目をまっすぐ見つめ、万感の思いで語りかけようとした。
そのとき。
「
──え!?
振り向いた瞬間、僕は
そこには男が立っていた。JAXAのロゴ入りの帽子、夏場にそぐわぬ厚手の服、どこか挙動不審な目つき。
見覚えがある。トイレでぶつかり、そのあと
いつの間に!?
男は明らかに様子が変だった。何かブツブツとつぶやきながら、僕のほうを血走った目で凝視している。そして懐に手を入れて、取り出しものは──大振りのナイフ。
──こいつか!
一瞬で事態を理解する。このナイフ男が、
エウロパだ。
僕は
ナイフを見た観客たちが騒然とする。悲鳴が上がり、出口から退出する者や、騒ぎを聞きつけて駆けつけてくる職員たち。
「ウアアアッ!!」
男がナイフを振り回し、突っ込んでくる。
やばい、と思ったが、逃げるわけにはいかない。相手の
まずは男の初撃をかわそうとした瞬間。
──な!?
とっさに動かした右足が、何かを踏んづけた。靴底がジャリッと音を立て、僕はバランスを崩して転倒する。
しまった……!
背中から床に倒れ、半端な受け身を取った手に何かがぶつかる。カラフルな数ミリ大の球体──BB弾。さっき星乃が乱射したものだ。
男がナイフを構え直す。僕はとっさに立ち上がれない。男は僕には目もくれず星乃をターゲットに、一直線に突っ込んでいく。手を伸ばす。男の足を
殺される。星乃が殺される。やめろ、やめてくれ、と心の中で連呼しながらやっと立ち上がったときには、もう犯人は星乃の目前だった。
間に合わない。死ぬ、星乃が、死んでしまう──
その瞬間。僕の脇を、疾風のごとく何かが駆け抜けた。それは一瞬で間合いを詰め、犯人と星乃の間に割って入る。
「ウァ……ッ!」
鮮血が飛び散る。犯人のナイフが皮膚を切り裂き、客席の悲鳴がさらに大きくなる。
「真理亜さん……ッ!」
彼女の肩から血が噴き上がり、舞台を血に染める。一番近くにいた犯人が顔面に返り血を浴び、一瞬ひるむ。
──今だっ……!!
「ウオオオオッ!」
雄たけびを上げて、僕は犯人に体当たりをする。腹部にショルダータックルのようにぶつかると、犯人は倒れ、その拍子にナイフが音を立てて落ちる。
「この野郎……ッ!」
頭に血が上っていた。JAXAのロゴ入りの帽子が脱げ、見知らぬ中年男の顔が見えると、僕はそこに
だが。
次の拳が届く前に、乾いた音が響き、何かが僕の前にバッと散った。
「あ……」
ビィンッ、と楽器の絃を弾いたような音がして、視界が
う、あっ……!
呼吸ができない。視界が揺れる。悪酔いよりひどい
「ハ、はっ、ハハははハハ──ッ!?」
変な叫び声を上げながら、犯人が上半身を持ち上げ、僕に向かって何かを突き付けているのが見えた。倒れた僕にはそれが横向きのいびつな写真に見える。
その手に光る、
な……ッ!?
「ぼ、ぼ、ぼぼくは実行したぞ……ッ!」
裏返った声で犯人は叫ぶ。
「せ、せぇせぇっ、正義を、じじじっ、実行、したぞ……!!」
馬鹿、な……。
甘く見ていた。ナイフはともかく、まさか拳銃まで所持しているとは。
違う。
八年前の記憶と違う。あのときはナイフだけだった。それが今は拳銃。何がズレた。どこで間違った。未来が──
狂っている。
「それじゃ、し、し、し、仕上げだ……ッ!!」
そして犯人は──
銃を星乃に向けた。
星乃が目を見開く。その体には真理亜が覆いかぶさっている。彼女の肩から流れた血がスーツを真っ赤に染め、それでもなお
苦い記憶が
──た す け て。
今だ。
今、ここで、星乃を助けられなきゃ、僕は何しに来たんだ……!?
僕が歩き出すと、犯人が恐れたように少しだけ後ずさった。拳銃を構えたまま、銃口の向きを星乃から僕へとスライドさせる。
──そうだ、それでいい。
自分の垂らした血を引きずるようにして進み、僕は再び、犯人の前に立つ。すぐ後ろには星乃、そして彼女を抱きしめる真理亜。
「ど、どけよ、どけ」
犯人がどもりながら、僕に銃口を向ける。それから銃口を左右に動かし、どけ、どけ、とジェスチャーで示す。
「どけったら!」
「どかねぇよ」声は血の味がした。
「え……?」
犯人がうろたえたように顔をひきつらせる。目がきょろきょろと動き、
「こ、こ、殺すぞ? 死ぬぞ?」
「やってみろ」
自分でも何を言っているのか分からない。冷静じゃない。銃を所持した犯人の前に立ち、あまつさえ挑発的な言葉を返すなんて、どう考えたって。
犯人が撃鉄に手を掛ける。これはBB弾じゃない。
実弾だ。
「ここでどいたら、僕が『この世界』にいる意味がなくなるんだ。だから──」
口元から垂れる血といっしょに言葉を吐く。
「どかない」
「お、おま、何言って……」
不思議と怖くはなかった。
ここでどいたら星乃が死ぬ。真理亜が撃たれる。だからどかない。こんな僕にも、ほんの少しだけ取り柄みたいなものがあるとすれば、結果が確定した未来についての、奇妙なくらいの自信かもしれない。
失敗すると分かっていることは怖いけれど。
成功を保証されない未来にはチャレンジできないけど。
でも──
銃声が響いた。
パァンッ、と派手な音がして、舞台の照明が
「この……ッ!」
犯人が拳銃を両手で構える。片手撃ちでは
銃口がまっすぐに僕に向く。素人の拳銃なんて、そうは当たるもんじゃないさ──自分を鼓舞するために、にわかの知識を持ち出す。
また、銃声がした。
今度は顔面の脇に風が走った。背後で悲鳴がして、何かに銃弾が跳ね返る音がする。振り向くと
しかし、狙いは確実に近かった。僕の
犯人が一歩、僕に近づいた。今度こそ命中させるという意志が行動で示される。対する僕は、顔から流れる血液が思いのほか多く、止まる気配がない。視界が一瞬ぼやけ、気を抜くと意識を持っていかれそうになる。銃で撃たれるってこういうことか。致命傷でなくても、とてもじゃないがもう素早い動きはできそうにない。ここで立っているのが精いっぱいだ。
撃鉄が引かれる。
あ……。
感覚で分かる。
──『分岐』だ。
僕の知っている『一周目』と、いま僕のいる『二周目』。そのズレが生じるときに、この『血の涙』が流れる。
直感で分かった。
僕は次の銃弾で死ぬ。
一瞬、いろいろな光景が頭をよぎった。それはまるでスペースライトをしたときと同じような、自分の半生を一挙に、凝縮して振り返る、走馬灯のような光景。生まれてから、保育園に通い、小学生になり、サッカーをして、でも
それが今、終わる。
──
そうだ、と思った。流星群に飲み込まれる間際、
──大地くん、なんというか、いつもクールで、斜に構えてるでしょ。だからそういうところが、将来きっと悪いほうに働くんじゃないかって思って。
そのとおりだよ、星乃。心の中で思う。
おまえの言うとおり、僕は失敗した。人生の
──あ……。
ふと、振り向く。星乃は
──助けたい。
出血がひどく、
僕の体が蜂の巣になってもかまわない。
心臓が止まったっていい。
そう、星乃は。
星乃だけは。
──助けてみせる。この命と引き換えに。
そして運命の時は訪れた。
犯人の指が、引き金に掛かる。その瞬間がいやにスローモーションに見えて、最後に
次の瞬間。
ゴンッ。
犯人の頭に、いきなり『何か』がぶつかった。その勢いで拳銃の照準がぶれ、発射された銃弾は床で跳ね、跳弾がアサッテの方向に飛び、どこかの備品に命中して火花が散り、それらの光景がコマ送りの動画のように見える視界の中で、犯人に当たった『何か』が、その脳天でバウンドして、それが弧を描いて僕の前に落ちてきて、ガチャン、とクラッシュ音を立てる。
──へ?
スマホ。
ド派手なピンクの、キラキラしたラメ入りのスマホ。一目で分かる、
「コノヤロー!」
いきなり犯人に飛びついた者がいた。長く伸ばした茶色の髪に、胸元にはシルバーのネックレス。「
やがて、涼介が腹部に
──まずい!
犯人が銃を拾い上げる。その銃口がまた、
「
次の瞬間。
「なっ!?」
犯人が目を見開く。その前には人影が現れた。
相手の拳銃に
回し蹴り。
犯人は拳銃を構えた腕を押しつぶされるようにして蹴りを食らい、そのまま押し出されて壇の外へとぶっ飛んだ。客席の
豪快な蹴りを放った人物──
「ウチの子に何すんだっ!!」
警備員が殺到し、犯人に群がる。拳銃はそばにいた職員が拾い上げて確保する。犯人はなおも暴れたが、やがて取り押さえられ、おとなしくなる。
じっと、僕はその様子を見つめる。犯人はもう動かない。完全に沈黙している。事件は終わったのだ、という確信を得ると、なんだか急に周囲の音が戻ってきた。遠くでサイレンが聞こえた。「お母さんっ!」と
そして僕は、ゆっくりと立ち上がり、壇上を歩き出した。
──
そこには一人の少女が、
「大丈夫か?」
「あ……」
小さな唇が、空気を漏らすような声で何か言いかけるが、それは発音には至らない。
「
こくり、とうなずく。言葉を忘れた美しい人形のように。
星乃は僕をじっと見上げ、それから一度息を吸い、「……ち」とつぶやいた。
「ん?」
「血、出てる……」
「ああ。こんなもの」
ぐいっと
安心したせいか、急に痛みが襲ってきたが、でもそんなことはどうでもよかった。
星乃が生きてる。
それだけでもう何もいらない。
「立てるか?」
手を伸ばす。しかしその右手は真っ赤で、「あ、ごめん……」と僕は手を引っ込めようとする。
だが。
すっと、星乃は手を伸ばし、僕の手を握った。冷えきった白い手が、僕の手のひらに置かれる。握ると、壊れてしまいそうなくらい柔らかい。
「ごめんな……」血の混じった唇から漏れ出る言葉は、どうしてか謝罪で。「さっきは、さんざん、おまえに、エラソーに、お説教したけどさ──」
今の僕はきっと笑っているのだろう。
「ダメなのは、僕のほうだったんだよ」
「…………」
少女は大きな
「じゃあな」
「あ、待って! あの、えっと……その、ありが……」
「礼を言うのは、僕にじゃないだろ」
「え?」
「ほら」
視線で示すと、そこには彼女の保護者──読んで字のごとく、たった今その命を保護し、暴漢から守り切った銀髪の女性が立っている。そのすぐ後ろには
「……ま、
「久しぶりだね、星乃ちゃんにそう呼ばれるの」
真理亜がニヤッと口角を上げる。
「真理亜、う、腕!」
「平気さー」
「だけど!」
「大丈夫、大丈夫さー」
星乃を安心させるように笑うと、彼女はその大きな手で、ぽんっと星乃の頭を
「あんたが無事ならそれでいいのさ」
「う……」頭を撫でられた星乃が、下を向き、小さくうめいた。
それから、床にぽつ、ぽつ、と
「うああああ、ごめんなさい、真理亜、ごめんなさい……っ」
真理亜の胸に飛び込んだ星乃は、幼い子供のように泣き始めた。
泣きじゃくる少女を、銀髪の女性は血だらけの腕で抱きしめると、「いいんだ」と頭を撫でた。
「あんたは悪くない」
「真理亜、真理亜……っ」
星乃は何度も彼女の名前を呼び、それから「ごめんなさい」を繰り返す。
──もう大丈夫だな。
僕は二人の『親子』を見届けると、出番を終えた役者のように、ゆっくりと壇上を歩き、階段へと向かう。
その先には二人の友人が待っていて、
「ヒラノ、血、血!」「
同じような
僕は顔の血を
「ありがとう、
「なんだよ、そんなの当然だろ」
グッ、と親指を立てる涼介。
「
「新調したスマホがパァだけどね」彼女は肩をすくめる。「まあでも、『歩きスマホ』じゃなくて、こーいう『投げスマホ』ならアリでしょ?」
画面の割れたピンクのスマホを掲げて、彼女はウインクした。
振り返ると、
──良かったな、星乃。
胸が熱い。それは今までに感じたことのない
僕の知っている『一周目』とは全然違うし、だいぶ、というか無茶苦茶コスパが悪いけれど──
それでも僕は、この『二周目の人生』に、確かな満足を覚えていた。
【recollection】
「方程式が違うんだよ」
病院のベッドで眠りながら、久しぶりに、昔の夢を見ていた。
それは懐かしい彼女の部屋。銀河荘二〇一号室。
このときの星乃は大学の講師みたいに白衣を着て、指示棒でピシリとホワイトボードを
「大地くんのいう『コスパ』は、数学的にはこういうことなの」
コスパ=P÷C
彼女はボードに、カツカツと書いてみせる。
「Pがパフォーマンス、Cがコスト」
「それは分かるよ」
「
「当然だろ。で、夢が叶わなかったらパフォーマンスはゼロ、つまりP=0だからコスパ最悪。そうだろ?」
まあそうだね、と
「何がダメなんだよ」
「式が違う」
「式?」
「この式はランチとか旅館とか洋服とか、そういう買い物なら当てはまるんだ。安い値段でそこそこの品質のものを選ぶ。確かにコスパいいよね。でも」
彼女は言い切る。
「そこが落とし穴」
星乃は『C』の部分をぐりぐりと円で囲む。
「この式の怖いところはね、『P÷C』を最大化しようと思ったら、Cを無限に小さくすれば良いところなんだ。つまり、どんどん
「そのときはパフォーマンスを大きくすればいいだろ」
「そうはならないよ。世の中のありとあらゆる物事は、どこかの段階で『壁』がある。勉強も芸術もスポーツも、ある一定レベルまでは誰でも上達するけど、必ずどこかで大変な『難所』が来る。ダイエットの停滞期みたいにね。だからそこから先が大変なんだ。そのとき、人は『P』の追求をやめ、『C』を小さくすることでコスパを高めようとする。なかなか結果の出ない努力を続けるのは、誰しも困難だからね」
「まあ、そりゃあ……」
「だから、人生で選ぶのは『P÷C』じゃなくて──」
彼女はカッカッと、またボードに『式』を追加する。
A×C=P
「選ぶならこっちだね」
そこで星乃は、カッ、とボードに指示棒を打ち付けた。よく見れば、棒の先には惑星のマークが付いていて、目玉っぽい紋様から木星に見えた。
「なんだそれ」
「夢の方程式。Aがアビリティ、すなわち才能。
「で? どうしてそれがコスパより良いわけ?」
「簡単だよ」
「夢を
エッヘン、と少女は胸を張る。そしてまた、僕に問うのだった。
「
僕はヘッと笑って、こう答える。
「コスパの良いほう」
「ぶー」
少女のほっぺが太陽みたいに膨らみ、木星付きの指示棒が僕に飛んでくる。体に命中して、「イッテ! 投げるなバカ」と言うと、彼女はお決まりの文句を言うのだった。
「大地くんには夢が足りない」