第五章 運命の日 ──二〇一七年八月二十七日十時五分

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 夏休み、最後の日曜日。

 僕は再びこの地に降り立っていた。

 JAXA筑波つくば宇宙センター。それは僕にとって、いろいろな意味で思い出深い場所だ。

 ──ついにここまで来たぞ。

【明日は何の日?】

 あのメールをきっかけに、僕は思い出したことがあった。明日は何の日──その言葉の意味するところは、気づいてみればめいりようだった。

 二〇一七年八月二十七日。この日、JAXA筑波宇宙センターでは『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』というイベントが開催される。このイベントでは、歴代宇宙飛行士たちの活躍が展示や講演によって紹介されることになる。とりわけ、悲劇の宇宙飛行士であるひこりゆういちあまがわはメインスペースで扱われることになり、そこにはこれまで未公開だった二人の動画も放映される。

 ここにほしが現れる。そして十七歳の僕は偶然にも再び彼女と出会い、いっしょに展示を見て回ることになり、それはしくも半日デートのような形となる。僕と星乃の距離が、決定的に近くなるイベント。

 もちろんうまく行く保証はない。今の僕は星乃からすれば毎日しつこく押しかけるクラスメートで、会ったからといって嫌な顔をされることは間違いない。それでもアパートの前ではなく『外の世界』で出会えることの意味は計り知れない。だって僕は、そうやって偶然の出会いを繰り返して、彼女と仲良くなったのだ。

 ラストチャンス──その言葉がいやおうなく胸に迫る。もう、これ以上の機会はないだろう。数日後には夏休みが終わり、二学期が始まる。そうなれば彼女と偶然に出会う機会など皆無といってよい。すべてはこの一日に掛かっているのだ──

 ……というつもりで意気込んで来たものの。

「お兄ちゃん、待ってよー」づきが大はしゃぎで駆けて来る。

「ヒラノー、こっちこっちー!」も手を振って楽しそうだ。

だいク~ン、早く早く~ん!」りようすけはなぜかテンション全開だ。

 ──どうしてこうなった……。

 大げさでもなんでもなく、今日が僕と星乃の運命の日だ。これまでもそうだったように、どういう弾みで『未来』がズレるか分からないのだ。だから当然、誰にも邪魔されないよう一人で来るつもりだったが、気づけば三人がいっしょにいる。

「ハア……」

 母親が講演する葉月はともかく、涼介にまでバレたのは不運だった。今朝ばったり駅で会い、「だいクンどこ行くの~?」と問い詰められ、気づけばこのザマだ。しかもりようすけが知らせてまでセットでついてきた。

 運命には先んじたが、まさか友人に先んじられるとは。

「大地クン、早く行こうよ~」「ヒラノー、はやくー!」

 夏期講習が終わった解放感なのか、楽しげに手を振る二人を見て、僕は悟られぬようにため息をいた。


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「ふーん、これがISSなんだ……」

「正確には日本実験棟の部分だけ。本物にはアメリカとかロシアの棟が連結してて、もっと大きい。サッカー場くらいかな」

「へえ、詳しいね」

 伊万里は感心したようにうなずく。

 今いるのはJAXAの敷地内にあるスペースドーム。常設の展示コーナーがあり、今日のイベント前に時間をつぶす客たちであふれていた。

 ISS日本実験棟『きぼう』。実物大の模型はこの施設の目玉であり、銀色に輝く円柱形のフォルムは近未来SFのような印象を受ける。ほしが夢を託し、そして夢破れた宇宙ステーション。星乃という少女が始まり、そして終わった場所。

 備え付けのに座って、『きぼう』から少しだけ離れた位置に腰を落ちつけ、長い空き缶のような姿を見上げる。

「あれ、づきのやつどこ行った?」「喫茶コーナーで涼介とコーヒー飲んでるよ」「おい、それマジか」「なんでも、『葉月ちゃんは将来絶対美人に育つ』とか豪語してたけど」

「あいつホントにロリコンじゃないだろうな」「さあ、どうだか」

 伊万里は興味なさそうに肩をすくめてから、

「ねえ、ヒラノ」少し声音を押さえて言う。「ひょっとして、ここで誰か待ってるの?」

「え……どうして?」

「だって、さっきから落ち着かない様子だから」

 平静を装っているつもりだったが、やはり隠せていなかったらしい。

「待ち合わせ?」

「いや、そうじゃないけど。なんていうか……」

 迷ったが、なんとなくうそは吐きたくなくて、今言える理由を述べた。

「思い出の場所なんだ、ここ」

「思い出?」

「そう。前に、ある人といっしょに来て……そいつはここが大好きで、大喜びで。だから今日もここにいたら会えるかなって」

 ──ほら、だいくん! あれが『きぼう』よ! お父さんが設計したのよ!

 何度JAXAを訪れても、ほしは必ずここに寄った。大好きだった両親が宇宙で過ごし、自分という命を宿した場所。電車からちらりと見えた我が家を指して、「ほら、見て、あれが私んち!」というのと同じノリで、彼女は『きぼう』のことを喜々として語った。宇宙飛行士展のイベントが始まる前に、もし星乃が立ち寄る場所があるとすれば、それはここだという確信があった。

「もしかして……それって、あまがわ?」

「ああ」

「今日、ここに来たのも、天野河に会うため?」

 僕がうなずくと、は「やっぱり、そうなんだ……」とうつむいた。金色の前髪が彼女の顔を覆い、表情が見えなくなる。

「ちょっとコーヒーでも買ってくるね」

 から立ち上がると、彼女は出口へと歩いていく。一度こちらに振り返ったが、その顔はどこかさびしそうで、でも彼女は笑ってみせた。


 星乃は来なかった。


         3


『間もなく、JAXA職員による、宇宙飛行士の思い出を語る会が始まります。ご参加を希望する方は──』

 会場内にアナウンスが流れ、今日最後の企画を告げる。

 二〇一七年八月二十七日、午後二時五十分。

 星乃は来なかった。ISS日本実験棟『きぼう』の前にも、そして両親の生前の活躍を伝える動画コーナーにも来なかった。他の心当たりを探しても同じで、事前にその旨を伝えていたからも、「まだ見てない。私もかなり探してるんだが……」という返答があった。

 すでにほとんどの企画は終了している。残る講演会は、真理亜が出演するものだ。星乃と真理亜の関係を考えると、これに彼女が参加するのは絶望的と言えた。


 つまり、もう星乃は来ない。


「お兄ちゃん、どうしたの? お母さんの講演行かないの?」

「あ、ああ……」

 づきに手を引かれ、よたよたと歩く。伊万里とりようすけが前を歩き、先に会場に入っていく。

「ちょっと、私がお兄ちゃんの隣に座るの」「なによ、べつに決まってないでしょ」「まあまあ二人とも、今なら俺の隣が空いてるぜ」──みんなのやりとりが、どこか遠くに感じる。

 ──なぜ。

 さっきから同じ疑問が、はえのように頭の上を回る。

 ──なぜ来ない。

 往生際悪く、何度も会場を見回す。入り口にも視線を走らせる。

 だけどほしはいない。

「……ヒラノ?」

 が僕の顔を見る。

「悪い、ちょっとトイレ」

 僕は逃げるようにその場を去り、近くのトイレに駆け込む。

 男子トイレの鏡の前で、両手をつく。

「なんだよ、なんでだよ?」それは怒りと失望の混じった自問自答。

 未来を予測したはずなのに。出会いを先読みしたと思ったのに。運命を先取りしたつもりだったのに。

 星乃は来ない。この会場にいない。影すら見えない。それが現実だ。

「ちくしょう……」

 あれほどみんなに協力してもらって。スペースライトという反則技まで使って。未来から過去にやってきたアドバンテージすら生かせずに。

 ──なに、やってんだ……。

 自分のふがいなさと、無力感に打ちひしがれる。

 そのときだ。

 ドンッ、と衝撃を感じた。

 振り返ると、男性がいた。「き、気をつけろ」とやや甲高い声で文句を言い、なおもブツブツとつぶやきながらトイレから出て行く一人の男性。JAXAのロゴ入りの帽子を目深にかぶっていたので、顔は見えなかった。

 僕も、行かないと……足を動かし、廊下に出る。

 ふと、会場入りするが見えた。その、どこか浮かない横顔を見て、彼女もまた星乃と会えていないことを察する。

 ──星乃が来るかもしれません、明日の宇宙飛行士展。

 昨夜、電話したときの僕の言葉に、彼女は「本当かっ!?」とうれしそうに反応した。その期待を裏切る形になってしまったことが、今はただ申し訳なかった。


 会場に戻ると、少女が手を振っていた。

「お兄ちゃん、ここ、ここ!」づきが自分の隣の席を指す。

「ちょっと、何決めてんのよ。ヒラノ、こっち空いてるよ?」が自分の隣を指す。

 通路を挟んで、二人の席は分かれており、少女たちの隣の席はどちらも空いている。僕がトイレに行ってる間に確保しておいてくれたようだ。

 どちらに座ろうか、と迷っていたとき、

「あ、ちょっ、あの!」

 づきが声を上げた。

 見れば、葉月の隣の席に、別の男性が座った。さっきトイレでぶつかった男性らしく、JAXAのロゴ入りの帽子と、夏場にはそぐわない厚手の上着には覚えがある。

「悪いな、葉月」

 僕は伊万里の隣に座る。座席に指定がない以上、帽子の男性をどかすわけにもいかない。

「あー、もう、お兄ちゃんの隣が良かったのに~」

「ねえねえ葉月ちゃん、それじゃりようすけお兄ちゃんと楽しもうよ!」

 葉月の左隣に座っていた涼介が、れしく話しかける。「やましなさんは黙ってて」と早くも葉月にあしらわれている。今日初対面のはずだが、すでにチャラ男ぶりに愛想を尽かされたようだった。

「お子様は引っ込んでろっての」

「え?」

「ふふふ、こっちの話」

 隣には、これ以上ないくらい勝ち誇った顔の伊万里がいた。

 そこでアナウンスが流れ、講演会の始まりが告げられる。しばらく不満を漏らしていた葉月も、さすがに静かになった。

 司会の短いあいさつが終わると、いよいよ本日の講演者が登壇する。

「皆様、本日はJAXA夏休み特別企画『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』にお越し下さいまして誠にありがとうございます。先ほどご紹介にあずかりましたわくと申します。本日は──」

 スーツを着て、敬語でしゃべる真理亜はちょっと新鮮だった。普段の豪快さが今はなりを潜め、こうして見ると本当に美人だ。ビシリとフォーマルを着こなした銀髪美女の姿は、これから宇宙戦艦を指揮するアニメのキャラを思わせる。

 ──やっぱり、顔の傷がないのが大きいよな……。

 八年後の真理亜には、左のほおに大きく傷ができている。まるで時代劇の浪人のような、斜めに走った大きなきずあと。それで魅力が損なわれるような彼女ではなかったし、むしろ生来の豪快さとあいっていっそうの迫力を増した感はあったが、それでも真理亜が傷を気にしていたのは間違いない。

 講演は続いた。

 壇上のスライドや、動画なども駆使して、真理亜はISSの役割や、その中で歴代の宇宙飛行士たちがいかに良い仕事をしたかを滑らかに語った。とりわけ、ひこりゆういちあまがわの話になると、口調は熱を帯び、彼女の情熱が会場の雰囲気も熱くしているような気さえした。一度だけ、『りゆういちと詩緒梨は』と、二人を下の名前で呼んだ場面があったのが、と二人の距離の近さを感じさせた。

 気づけば、あっという間に時間がち、講演の終わりが近づく。

 ──あれ?

 スムーズかつ情熱的に講演を続ける真理亜の顔を見ながら、僕は妙な違和感を抱く。

 真理亜って……。

 その左ほお、小麦色に焼けた張りのある肌。

 ──いつ、顔に傷がついたんだ……?

 それは以前にも感じた疑問だった。スペースライトを果たして、初めて彼女と会ったときのこと。彼女の顔を見て抱いた、一番最初の疑問。

 普通、あんな傷は付かない。顔面に走る、とうしようのようなあと。ぶつけたのでも、殴られたのでもない、何かの刃物で切られなければ付きようのない傷。

 講演が耳に入らなくなった。

 記憶の底を洗うように、僕は真理亜の傷のことを考える。

 だが、それはベールに包まれたようにぼんやりとして、核心に触れようとすると脳内にもやがかかって記憶の森が遠ざかる。

 そのときだ。

「あ……」

 手にしていたパンフに、ぽたりとしずくが落ちた。それは赤い点となって、パンフレットの真理亜の顔に落ちる。斜めにこぼれた赤い液体は、彼女の写真に傷痕のような染みを残す。

 血の涙。

 それが引き金となって、失われていた脳の弾倉から、記憶の弾丸が放たれる。光よりも速い弾丸は僕の体をレーザーのように貫いて、過剰にダウンロードしたデータのように猛烈な分量の記憶を解凍し、意識の表層へと呼び覚ます。あの日──筑波つくば──夏休み──最後の日曜──真理亜──講演──事件──

「ちょ、ちょっとヒラノ、血、血!」

 がびっくりした様子で、僕の顔にハンカチをあてがう。だけど僕にはその声がほとんど耳に入らない。

 思い出した──やっと思い出せた。

「ヒラノ、だ、大丈夫? 病院行こう。ね? ね?」

 伊万里のなだめるような声に重なり、拍手が響いた。それは講演が終わった合図。

「続きまして、質疑応答の時間に移りたいと思います」司会が次の進行に移る。「講師に何かきたいことのある方は、挙手にて──」

 言い終わる前に、さっと、前列で手が挙がった。そのあまりにも早いタイミングに、司会も面食らったらしく、「では、そちらの方」と指名する。

 マイクを渡そうと、司会が近寄ったときだ。

 すっと、挙手した人物は、何気ない感じで壇上へと登った。フードを目深にかぶった、やや小柄の人物。無言で、淡々と、まるでそれが仕事でもあるかのように、演台にいるへと近づく。

 フードの人物は、右手に何かを握り込んでいるように見えた。きらりと、その手から光が漏れる。

 ──まさか。

 それは直感だった。だが、ほぼ確信に近いおもいでもあった。気づけば僕は跳ねるように飛び出し、席と席の間の通路を走っていた。背後でりようすけの声が聞こえたが、振り返る余裕はなく、走りながらも僕の脳内では高速で再生されるビデオ映像のごとく過去の記憶がフラッシュバックし、真理亜をねらう理由──不倫事件──犯人の供述──不倫を許せなかった──正義を実行したかった──掲示板のみんなも応援してくれた──すべてが情報の洪水となって、事件のぜんぼうが僕の脳内シアターで高速再生される。

 犯人は三十代の男性。掲示板で『エウロパ』を名乗り、犯行予告を繰り返し、逮捕後の留置所で「ネットはできないんですか?」と言い放つ。公判では検事から『女性の顔面に一生消えない傷をつけた』と言われ、「整形手術で消えるんじゃないですか?」と反論する──壇上に上がった人物を見つめながら、僕は犯人への記憶と、それにともなう憎悪のボルテージを上げ、「真理亜ッ!」と叫び、彼女がこちらを向いたときにもう一度、「エウロパだ!」と警告する。さっと彼女の顔色が変わり、壇上に上がった『質問者』を見ると、質問者が今度は走ってくる僕のほうに気づき、フードごしのが僕と合い、一瞬びくりと固まり、僕は走る勢いそのままに壇上へと跳躍し、飛び乗り、それからヘッドスライディングのように相手へと突っ込む。真理亜の目の前で、フードの人物に体当たりをして、組み付いたまま押し倒す。相手の手から、金属製の物体が転がり、フードがめくれる。こいつがエウロパ──


「え……?」


 僕は相手を組み伏せたまま、きようがくで目を見開く。

 めくれたフードから現れたのは、真っ白な肌と、大きなひとみれんな顔立ちの少女。

「どうして……」

 思わず声が漏れる。

 え? あ? なんだ? これは?

「──どいて」

 彼女がつぶやき、僕をにらむ。

「さっさと、どいて」

「あ、ああ……」

 相手の視線に押されるように、僕は体の上からどいてしまう。

 ゆっくりと、不愉快そうな顔で彼女は立ち上がると、まずはさっき落とした金属製の物体を拾い上げる。それは鎖がついていて、何かのペンダントのように見えた。

 騒ぎを聞きつけたJAXAの職員が駆けつける。だが、が「大丈夫さー」と告げる。

ー。ー」

 そして彼女は僕を見て、それからもう一度フードの人物と向かい合った。

「私にきたいことがあるんだろう?」

 真理亜が言うと、その少女──


 あまがわほしは、うなずいた。


「では最初の質問、よろしいですか?」

 平然と、星乃は言った。

「どうぞ」

 真理亜が答える。早くも語尾を伸ばす癖が消えている。

 ──な……。

 僕は二人の間に立ち、何が起きているのか理解できない。観客席のほうも騒然としている。当然だ。司会の女性も「え? え? なに?」と目を白黒させ、完全に自分の役割を見失っている。

 ぼさぼさの長い黒髪が顔にかかり、その下から鋭い眼光がのぞく。僕を見ているときの冷ややかな目つきとは明らかに違う、熱量を持ったまなし。それが敵意なのか、憎悪なのか、それらを超えた感情なのか、僕には分からない。

「資格があると、思いますか?」

 ほしが質問を始める。

「……資格?」

 き返す。

 誰もこの場を止められず、ただ、固唾かたずを飲んで見守っている。舞台の上で美しい二人の女性がたいする様子は、どこか演劇じみていて、現実離れしていた。

「資格です。あなたが、言葉を発する資格」星乃は質問の真意を説明する。「ひこりゆういちと、あまがわ。この二人について、あなたが何かを語る資格です」

「…………」

 真理亜は硬い表情で、黙って聞く。

「まるで親友のように、あるいは信頼のおける同僚のように、あなたが、亡くなった二人について、どうだった、こうだった、あのときは良かった、すごかった、印象に残った、すばらしかった、いろいろあった──そのすべてについて、あなたが親友ヅラして、二人のことを語る資格です」

 親友ヅラ、という言葉に、毒がこもる。

「ありますか?」

 挑戦するように、星乃は問いかける。

 真理亜は唇を一度開き、それから息を吸い、閉じる。言葉を飲み込んだように見えた。

「あなたは救えなかった。宇宙空間で事故に遭った弥彦流一を。あなたは助けられなかった。意識を失った天野河詩緒梨を。それができたのに、指示を出せたのに、安全なところから、危険な状態にある二人に、冷静に、的確な助言ができたのに、それをしなかった。混乱して、慌てて、職務を投げ出した。──違いますか?」

「……そうです」

 真理亜が初めて回答した。

 まるで被告人だった。罪を犯したと疑われ、法と正義に基づいて裁かれる被告人。

「そんなあなたに、親友として、二人の人生を、功績を、思い出を──それらすべてを語る資格、ありますか?」

「……ありま、せん」

「私の両親はCH細胞研究を、あと一歩で成し遂げられるところだった。でもそれはあなたのミスでとんし、二人は志なかばで夢破れた。そのあなたに、私の両親を語る資格、あるんですか?」

「あ、ありま、せ、ん……」

 最初の質問、と題して始まったやりとりだったが、それはもう質問ですらなかった。

 白銀の美女の頭上で、断罪の鐘が鳴る。これから火あぶりにされる罪人のごとく、つるし上げられ、鋭くとがった言葉のやりが、無抵抗な彼女の心に突き刺さる。

 公開処刑。

 ほしの『罪』を問いただし、それに真理亜が『自白』する。断罪の儀式。それが続いた。

「二人は死んだのに、あなたは生きて、笑って、飲んで、食らって、結婚して、子供を産んで、出世して、人生をおうしている。そんなあなたが、私の『両親』のことを語る資格、ありますか?」

 彼女は同じことを繰り返しいていた。同じナイフを使って、何度も何度も、真理亜の胸に突き立てていた。

 こんな星乃を見たことがなかった。憎しみの権化、怒りの噴出口と化した唇。

「ありま……せん」

 こんな真理亜を見たことがなかった。自信と豪胆の化身のような彼女が、力のない表情をして、ただただ、糾弾のあらしこうべれ、小さく震える声で、罪を認める姿。

 ──いけない。

 そう思った。星乃の言葉のナイフで、真理亜が血だらけになっている。こんなことをしちゃいけない。させちゃいけない。真理亜のためにも。星乃のためにも。

ひこりゆういちに近づき、たぶらかそうとした泥棒猫のあなたに、その死を悼む資格が、ありますか?」

 言葉を吐くたびに、星乃の顔がゆがむ。

「──ありま……せ、ん……」

 言葉を吐くたびに、真理亜の顔が歪む。

 不倫報道の一件については、反論したって良いはずだった。しかし真理亜はそれをしない。ただただ言われるがまま、言葉の雨に打たれるがままになっている。それがどういう気持ちなのか僕には分からない。罰を受け入れるつもりなのか、自分には反論する資格がないと思っているのか。一方の星乃も、相手を糾弾しながらも決して勝ち誇った様子はなく、むしろ言葉を発するたびに自ら傷ついたような苦しげな顔をしている。

 った側が、返り血を浴び、もろつるぎが、二人を血で染め上げる。勝者のいない、勝負ですらない、心のきずあとに、互いが剣を突き入れ、えぐるような。


「最後の、質問です」


 断罪の剣を握った少女が、容赦なく告げる。

 すでに真理亜は限界に見えた。すべてを使い果たしたように、その顔には血の気がなく、演壇に両手をつき、その銀髪はだらりと顔を覆い、青白くなった唇は、まともに息をしているのかすら分からない。

 そして最後のやいばが振り下ろされる。


「どうして、私を引き取ったんですか?」


 が顔を上げる。え、という形で、唇が動く。

わく真理亜。なぜ、あなたは、私を引き取ったのですか?」

「なぜ、……って」

 意外な質問だったのか、あるいは致命的な質問だったのか。真理亜ののどから、答えとも質問ともつかぬ言葉がこぼれる。

「それ、は」

「愛もないのに」

 ほしは一度うつむき、唇をみ、告げる。

「愛しても、いないのに」

 愛という言葉を、繰り返す。

「なぜ、私を引き取ったの?」

 敬語が消え、生の彼女の言葉となる。

 真理亜が顔を上げた。あ、と喉を鳴らし、それから一度、肺の奥に息を吸い込むような動作をして、おそらくは今できる精一杯の声で、叫んだ。


「愛していたから」


 心臓の血を搾り出すような、あるいは己の命をすべて吐き出すような、その愛の言葉。

 すべてを込めた愛の言葉を、

うそだ」否定した。

 差し出した心臓を握りつぶされたように、真理亜が小さくうめいた。

「嘘だ。嘘だ。嘘だ」心臓を踏み潰すように続けた。

 死ぬと思った。これを続けたら、真理亜が死ぬと思った。

「嘘じゃ……ない、よ」真理亜は答える。

 星乃は首を振る。長い前髪が揺れる。

「嘘だ。あなたはただ、ざんしたかっただけ。自分の罪をするために、ただ、善人ぶりたいから、自分の罪悪感を薄めたいからそうしただけ。それは愛じゃない。ただのエゴ」

 残酷だった。育ての『親』が、愛していると言い、それを『子』が否定する。

 愛を語る上で、子供というポジションはきようだ。どんなに親が絶対的な決定権を握っていようとも、愛があったか、愛されていたか、という一点において、子供の裁定は絶対だ。神の裁きにも似た、逃げ場のない残酷さ。

「なんで何も言わないの? どうして黙っているの? 本当は私のこと、生意気なクソガキとしか思っていないんでしょ? だったらこの場で殴り飛ばしたらいいじゃない」

「ちが、う……」

「私のこと憎いでしょう? 目障りでしょう? だって、私さえいなければ──」

 そのとき、ほしの言葉が止まった。

 理由は単純だ。


 なぜなら彼女の前に僕が立っていたから。


「な……」

 星乃が目を丸くする。

 まばたきを繰り返し、僕を見て、信じられないという顔をする。おそらくついさっきまで、僕がここにいることなど忘れていただろう。だから今、文字通り視界に入ってきた僕に戸惑っているのだ。

 ここに立った理由は簡単だった。このまま、言葉のやいばでのり合いが続けば、が死んでしまうから。体ではなく、心が死んでしまうから。

 そして星乃も──

「駄目だよ、星乃」言葉はすんなり出た。「そんなこと言っちゃ、駄目だ」

「どいて」

「真理亜さんはそんな人じゃない」

「どきなさい。あなたは関係ないでしょう?」

 僕のことなど眼中にないように、星乃は腕を振り払い、どくように命じる。

 でも僕はどかない。

「真理亜さんは、愛してるんだ。おまえを」

 芝居がかったこの舞台で、芝居がかった台詞せりふを言うことになったが、それでもためらいはなかった。

「どきなさい」

 会話はすれ違う。

「本当は分かっているだろう、おまえも」

「どきなさい。でないと──」

 パン、と乾いた音がした。

 ──うっ。

 僕の胸に、何かが当たる。強いバネではじかれたような、独特の鋭い痛み。

 星乃はその手に、小さなぬいぐるみを持っていた。以前にもアパートで見た、不審者撃退用の改造エアガン。それを内蔵したUFO型のぬいぐるみだ。

「どかないよ」

 僕が言うと、また、乾いた音がした。痛みが走ったが、そんなことは大したことではない。なぜなら、さっきが浴びた言葉のナイフは、こんなもんじゃないからだ。

「どきなさい」「どかない」

 さっき組み伏せたときには、彼女の一喝で思わずどいてしまった。

 でも今は違う。僕にはここにいる訳がある。どかない理由がある。その確信がある。

「どいて」パン、と音がして、僕の胸にエアガンのBB弾が命中し、それは跳ね返って壇上に転がる。「どきなさいって言ってるでしょ!」

 パン、パン、と連射される。痛い。けど怖くはない。

 むしろ逆だった。

「なんで……」撃ちながら、少女は後退する。「あなた、何なの? 毎日、毎日、家に来て。追い払っても、またやってきて。何なの?」

「クラスメートだよ」「ふざけないで」

 命中、そして跳ね返る。足元に弾が転がる。

 ほしは撃ちながら後退する。まるで、どうにもならない敵からの撤退戦のように、じりじりと下がり続ける。構えているUFOのぬいぐるみが、プラスチックの弾をパン、パンと吐き出す姿は、やはりどこか幼い。

 きっと僕の姿は、何度撃っても死なないゾンビみたいに、彼女のひとみには映っているんだろう──星乃、今、本当に僕のことを怖がってるんだろうな──そんなことを考えると、少しだけ余裕が出た。

 星乃はおくびようだ。人見知りで、くちで、コミュニケーションが何より苦手。そんな彼女が今まで強そうに見えたのは、相手が真理亜だから。

 星乃を愛し、守り、慈しんできた彼女が相手だから。

 それが乱暴な『甘え』だってことを、僕は知っている。たとえるなら、赤ん坊が母親の体をたたく行為。そういう不器用な意思疎通の手段だと、僕は知っている。

 なぜなら僕は見てきたから。未来で、彼女と過ごした五年間で、見てきたから。

 僕には自信がない。結果の分からないことや、絶対失敗するようなことにチャレンジする勇気はないし、みたいに、実現困難な夢に挑戦する根性もない。

 だけど、僕が知っていることなら、できる。

 星乃は、真理亜のことを憎んではいない。ただほんの少し、行き違いとわだかまりがあって、素直になれないだけなのだ。心に負った傷が深すぎて、それが彼女のを曇らせているだけなのだ。

「おまえはもう、気づいているはずだ」

「来ないで!」

「気づいているんだ、本当は、おまえは」

「違う!」

 彼女は叫ぶ。

「来ないでって言ってるでしょ……っ!!」

 僕が進むと、ほしが『銃』を撃つ。パン、パンと乾いた音がして、僕の胸に痛みが走る。プラスチックの銃弾が床に落ちて、それがやつきようのように音を立てる。

「ダメだよ、星乃。それじゃダメだ。ちゃんと言葉にするんだ。銃弾でもなくて、非難でもなくて……心の内にある『おもい』を、言葉にするんだ」

 語りかけながら、僕は思い出していた。それは僕と星乃が過ごした『一周目』のごと。彼女の夢をかなえるために、僕はとことんつき合った。まずは引きこもりを克服するために、彼女に一生懸命、人間を信頼することを説いた。「地球人は誰も信用できない」という少女に、丁寧に、飽きず、あきらめず、愚直に誰かを信用することの大切さを教えた。近所の弁当屋のおばちゃんに、弁当を注文すること、お金を払うこと、オマケをしてもらったらお礼を言うこと──そういう一つ一つを、こうやって僕は熱心に諭した。

「星乃、おまえなら分かるはずだ」

 僕は一歩、また前に出る。

「だからこっちに来ないで──」

 また銃を構える星乃だったが、今度は弾が飛んでこなかった。カチ、カチと乾いた音がして、空回りする音が弾切れを知らせる。

 彼女まであと少しというところで、僕は立ち止まる。後退した星乃は、客席から見えるギリギリの位置に追いつめられている。その手から、ぽとりとぬいぐるみが落ちる。

「なんで……」星乃は唇を震わせ、驚きとおびえを宿したひとみで言う。「なんで、そんなこと、言えるの……」

 さっきまでの攻撃的な態度は消え、代わりに今は『僕』というイレギュラーな存在にただただ戸惑う少女の姿があった。

 今ならきっと、僕の言葉が届く。そう思った。アパートの分厚い壁ごしではなく、直接言葉が届く距離。今しかない。今、この瞬間しか。

「星乃、聞いてくれ。僕は──」

 僕は彼女の目をまっすぐ見つめ、万感の思いで語りかけようとした。

 そのとき。


だいクン……ッ!!」


 りようすけの叫び声が聞こえた。続いて「危ないっ!」という声。

 ──え!?

 振り向いた瞬間、僕はきようがくで目を見開く。

 そこには男が立っていた。JAXAのロゴ入りの帽子、夏場にそぐわぬ厚手の服、どこか挙動不審な目つき。

 見覚えがある。トイレでぶつかり、そのあとづきの隣に座った男だ。

 いつの間に!?

 男は明らかに様子が変だった。何かブツブツとつぶやきながら、僕のほうを血走った目で凝視している。そして懐に手を入れて、取り出しものは──大振りのナイフ。

 ──こいつか!

 一瞬で事態を理解する。このナイフ男が、ほおに傷をつける犯人。


 エウロパだ。


 僕はほしを守るように、犯人と彼女の間に立つ。演台にいる真理亜はやや離れた位置。

 ナイフを見た観客たちが騒然とする。悲鳴が上がり、出口から退出する者や、騒ぎを聞きつけて駆けつけてくる職員たち。

「ウアアアッ!!」

 男がナイフを振り回し、突っ込んでくる。

 やばい、と思ったが、逃げるわけにはいかない。相手のねらいはおそらく星乃だ。真理亜からとっさに標的を変更したのはその血走った目つきから考えずとも分かる。

 まずは男の初撃をかわそうとした瞬間。

 ──な!?

 とっさに動かした右足が、何かを踏んづけた。靴底がジャリッと音を立て、僕はバランスを崩して転倒する。

 しまった……!

 背中から床に倒れ、半端な受け身を取った手に何かがぶつかる。カラフルな数ミリ大の球体──BB弾。さっき星乃が乱射したものだ。

 男がナイフを構え直す。僕はとっさに立ち上がれない。男は僕には目もくれず星乃をターゲットに、一直線に突っ込んでいく。手を伸ばす。男の足をつかもうとする。しかし届かない。星乃は目を見開き、硬直している。その顔は恐怖で真っ青だ。

 殺される。星乃が殺される。やめろ、やめてくれ、と心の中で連呼しながらやっと立ち上がったときには、もう犯人は星乃の目前だった。

 間に合わない。死ぬ、星乃が、死んでしまう──

 その瞬間。僕の脇を、疾風のごとく何かが駆け抜けた。それは一瞬で間合いを詰め、犯人と星乃の間に割って入る。

「ウァ……ッ!」

 鮮血が飛び散る。犯人のナイフが皮膚を切り裂き、客席の悲鳴がさらに大きくなる。

 られたのは、背の高い銀髪の女性。星乃をかばうように抱き付き、その身を盾にして凶刃を受けた。

「真理亜さん……ッ!」

 彼女の肩から血が噴き上がり、舞台を血に染める。一番近くにいた犯人が顔面に返り血を浴び、一瞬ひるむ。

 ──今だっ……!!

「ウオオオオッ!」

 雄たけびを上げて、僕は犯人に体当たりをする。腹部にショルダータックルのようにぶつかると、犯人は倒れ、その拍子にナイフが音を立てて落ちる。

「この野郎……ッ!」

 頭に血が上っていた。JAXAのロゴ入りの帽子が脱げ、見知らぬ中年男の顔が見えると、僕はそこにこぶしを振り下ろした。ゴッ、と鈍い音がして、犯人の顔が横にはじける。背後ではほしが「、真理亜……ッ!!」と叫んでいるのが聞こえる。僕はその声を聞きながら、馬乗りの姿勢のままさらに拳を振り下ろす。

 だが。

 次の拳が届く前に、乾いた音が響き、何かが僕の前にバッと散った。

「あ……」

 ビィンッ、と楽器の絃を弾いたような音がして、視界がゆがみ、僕は犯人の上から倒れる。

 う、あっ……!

 呼吸ができない。視界が揺れる。悪酔いよりひどいめいてい感、姿勢を保てない脱力感。何より顔の右側が噴火したような熱感。

「ハ、はっ、ハハははハハ──ッ!?」

 変な叫び声を上げながら、犯人が上半身を持ち上げ、僕に向かって何かを突き付けているのが見えた。倒れた僕にはそれが横向きのいびつな写真に見える。

 その手に光る、にびいろの金属は『銃』に見えた。

 な……ッ!?

「ぼ、ぼ、ぼぼくは実行したぞ……ッ!」

 裏返った声で犯人は叫ぶ。

「せ、せぇせぇっ、正義を、じじじっ、実行、したぞ……!!」

 馬鹿、な……。

 甘く見ていた。ナイフはともかく、まさか拳銃まで所持しているとは。

 違う。

 八年前の記憶と違う。あのときはナイフだけだった。それが今は拳銃。何がズレた。どこで間違った。未来が──

 狂っている。

「それじゃ、し、し、し、仕上げだ……ッ!!」

 そして犯人は──

 銃を星乃に向けた。

 星乃が目を見開く。その体には真理亜が覆いかぶさっている。彼女の肩から流れた血がスーツを真っ赤に染め、それでもなおほしの盾となって全身で彼女を守ろうとしている。

 苦い記憶がよみがえる。無数の流星、墜落するISS、消えていく星乃、銀河荘の庭でに殴られた自分──。今、こうして床にいつくばっている自分が、そのときの情けない自分に重なる。

 ──た す け て。

 今だ。

 今、ここで、星乃を助けられなきゃ、僕は何しに来たんだ……!?

 ふんのような感情が、僕を突き動かす。誰に対する怒りなのか、犯人か、それとも自分か、あるいは両方か、右の顔面からぼたぼたと血を垂らしながら、僕は体を起こし、立ち上がる。銃で撃たれた右耳のあたりが、そこだけ空気が重くなったようにビーンビーンと羽音のような残響を繰り返し、自らの血で赤く染まった視界の中で、犯人がこちらに振り向く。まさか立ち上がるとは思わなかったのだろう、僕を見て驚きの顔をしている。

 僕が歩き出すと、犯人が恐れたように少しだけ後ずさった。拳銃を構えたまま、銃口の向きを星乃から僕へとスライドさせる。

 ──そうだ、それでいい。

 自分の垂らした血を引きずるようにして進み、僕は再び、犯人の前に立つ。すぐ後ろには星乃、そして彼女を抱きしめる真理亜。

「ど、どけよ、どけ」

 犯人がどもりながら、僕に銃口を向ける。それから銃口を左右に動かし、どけ、どけ、とジェスチャーで示す。

「どけったら!」

「どかねぇよ」声は血の味がした。

「え……?」

 犯人がうろたえたように顔をひきつらせる。目がきょろきょろと動き、まばたきが多くなる。

「こ、こ、殺すぞ? 死ぬぞ?」

「やってみろ」

 自分でも何を言っているのか分からない。冷静じゃない。銃を所持した犯人の前に立ち、あまつさえ挑発的な言葉を返すなんて、どう考えたって。

 犯人が撃鉄に手を掛ける。これはBB弾じゃない。

 実弾だ。

「ここでどいたら、僕が『この世界』にいる意味がなくなるんだ。だから──」

 口元から垂れる血といっしょに言葉を吐く。

「どかない」

「お、おま、何言って……」

 不思議と怖くはなかった。

 ここでどいたら星乃が死ぬ。真理亜が撃たれる。だからどかない。こんな僕にも、ほんの少しだけ取り柄みたいなものがあるとすれば、結果が確定した未来についての、奇妙なくらいの自信かもしれない。

 失敗すると分かっていることは怖いけれど。

 成功を保証されない未来にはチャレンジできないけど。

 でも──


 銃声が響いた。


 パァンッ、と派手な音がして、舞台の照明がさくれつする。割れたガラスの破片がすぐ横で落ちる。おどしのつもりかもしれないが、今の僕には無意味だ。

「この……ッ!」

 犯人が拳銃を両手で構える。片手撃ちではねらいが定まらないと思ったのだろう。

 銃口がまっすぐに僕に向く。素人の拳銃なんて、そうは当たるもんじゃないさ──自分を鼓舞するために、にわかの知識を持ち出す。

 また、銃声がした。

 今度は顔面の脇に風が走った。背後で悲鳴がして、何かに銃弾が跳ね返る音がする。振り向くとほしが口をパクパクさせておびえている。にらむようなの視線と目が合った。二人に当たっていなくてあんする。

 しかし、狙いは確実に近かった。僕のほおぎりぎり。次は間違いなくヤバい。

 犯人が一歩、僕に近づいた。今度こそ命中させるという意志が行動で示される。対する僕は、顔から流れる血液が思いのほか多く、止まる気配がない。視界が一瞬ぼやけ、気を抜くと意識を持っていかれそうになる。銃で撃たれるってこういうことか。致命傷でなくても、とてもじゃないがもう素早い動きはできそうにない。ここで立っているのが精いっぱいだ。

 撃鉄が引かれる。

 あ……。

 みぎから、何かが垂れる。元々赤い視界に、さらに別の赤が混ざる。

 感覚で分かる。

 ──『分岐』だ。

 僕の知っている『一周目』と、いま僕のいる『二周目』。そのズレが生じるときに、この『血の涙』が流れる。の事故のときも、星乃と会えなかった大ISS展も、真理亜の襲われる事件も、そして今も。

 直感で分かった。


 僕は次の銃弾で死ぬ。


 一瞬、いろいろな光景が頭をよぎった。それはまるでスペースライトをしたときと同じような、自分の半生を一挙に、凝縮して振り返る、走馬灯のような光景。生まれてから、保育園に通い、小学生になり、サッカーをして、でもやつには勝てなくて、手抜きを覚えて。それから中学も、高校も、大学も、就活も、すべて省エネで、コスパ良く乗り切って。だけどそんな生き方は、何も積まず、何も身につかず、何も達成感がない、退屈極まりない人生ゲーム。

 それが今、終わる。

 ──だいくんのこと、心配なの。

 そうだ、と思った。流星群に飲み込まれる間際、ほしが僕に伝えた言葉。

 ──大地くん、なんというか、いつもクールで、斜に構えてるでしょ。だからそういうところが、将来きっと悪いほうに働くんじゃないかって思って。

 そのとおりだよ、星乃。心の中で思う。

 おまえの言うとおり、僕は失敗した。人生のらくしやとなった。ゴミを食って生きる無職のダメ人間。スペースライトなんて反則技を使っても、結局ダメなものはダメだった。

 ──あ……。

 ほおに感じる、何か熱い感触。泣いているのか、僕は。いったい何に? ふがいない己の人生に? それとも星乃との二度目の別れに?

 ふと、振り向く。星乃はおびえた目で僕を見ている。目が合うと、大きなひとみまばたきをして、それは僕のよく知っている、おくびようで、地球人が嫌いで、生きることに不器用な、小さな小さな少女だった。

 ──助けたい。

 出血がひどく、もうろうとする意識の中で、それでも僕はこの少女だけは守りたいと思った。

 僕の体が蜂の巣になってもかまわない。

 心臓が止まったっていい。

 そう、星乃は。

 星乃だけは。

 ──助けてみせる。この命と引き換えに。

 そして運命の時は訪れた。

 犯人の指が、引き金に掛かる。その瞬間がいやにスローモーションに見えて、最後にはなたれる運命の弾丸を前に、僕は最後の力で、床をり、犯人に向かって、弾丸に向かって、一直線に走り、ああ、星乃、待ってろ、絶対に、おまえを、助けるから──

 次の瞬間。


 ゴンッ。


 犯人の頭に、いきなり『何か』がぶつかった。その勢いで拳銃の照準がぶれ、発射された銃弾は床で跳ね、跳弾がアサッテの方向に飛び、どこかの備品に命中して火花が散り、それらの光景がコマ送りの動画のように見える視界の中で、犯人に当たった『何か』が、その脳天でバウンドして、それが弧を描いて僕の前に落ちてきて、ガチャン、とクラッシュ音を立てる。

 ──へ?


 スマホ。


 ド派手なピンクの、キラキラしたラメ入りのスマホ。一目で分かる、もりのスマホ。「うぐっ」と犯人は頭を押さえ、それから足元の拳銃を拾おうとする。だがそのとき、


「コノヤロー!」


 いきなり犯人に飛びついた者がいた。長く伸ばした茶色の髪に、胸元にはシルバーのネックレス。「りようすけ……ッ!!」思わず叫んだときには、すでに二人は床に転がり、もつれ合っていた。涼介が犯人を押さえ込もうとするが、向こうも必死に抵抗する。二人は上下を何度も逆にしながらもつれ合い、けもののように戦う。僕も加勢をするべく、必死に足を前に出すが、度重なる出血で思うように体が動かない。

 やがて、涼介が腹部にりを食らい、ウッとうめいた。犯人はさらに涼介を蹴り、壇上から転げ落とすと、床に落ちていた拳銃に手を伸ばす。

 ──まずい!

 犯人が銃を拾い上げる。その銃口がまた、ほしに向けられる。

あまがわ星乃──」

 ゆがんだ唇で、犯人はその名を呼ぶ。

 次の瞬間。

「なっ!?」

 犯人が目を見開く。その前には人影が現れた。

 相手の拳銃におくすることもなく、その人は大きく足を振り上げ、白い太ももをあらわにしながら一挙に振り抜いた。それは強烈な──


 回し蹴り。


 犯人は拳銃を構えた腕を押しつぶされるようにして蹴りを食らい、そのまま押し出されて壇の外へとぶっ飛んだ。客席のにガッシャンと派手な音を立てて突っ込む。

 豪快な蹴りを放った人物──わくは、真っ赤に染まったスーツから流れる血もそのままに、

「ウチの子に何すんだっ!!」

 えた。

 警備員が殺到し、犯人に群がる。拳銃はそばにいた職員が拾い上げて確保する。犯人はなおも暴れたが、やがて取り押さえられ、おとなしくなる。

 じっと、僕はその様子を見つめる。犯人はもう動かない。完全に沈黙している。事件は終わったのだ、という確信を得ると、なんだか急に周囲の音が戻ってきた。遠くでサイレンが聞こえた。「お母さんっ!」とづきが叫び、母親に駆け寄るのが横目に見えた。

 そして僕は、ゆっくりと立ち上がり、壇上を歩き出した。

 ──ほし

 そこには一人の少女が、ぼうぜんとした表情で座り込んでいる。心ここにあらずといった顔は、そうはくで、まばたきすら忘れたように固まっている。

「大丈夫か?」

「あ……」

 小さな唇が、空気を漏らすような声で何か言いかけるが、それは発音には至らない。

、してないか?」

 こくり、とうなずく。言葉を忘れた美しい人形のように。

 星乃は僕をじっと見上げ、それから一度息を吸い、「……ち」とつぶやいた。

「ん?」

「血、出てる……」

「ああ。こんなもの」

 ぐいっとそでぐちで自分の顔をぬぐう。想像以上に服が真っ赤に染まる。

 安心したせいか、急に痛みが襲ってきたが、でもそんなことはどうでもよかった。

 星乃が生きてる。

 それだけでもう何もいらない。

「立てるか?」

 手を伸ばす。しかしその右手は真っ赤で、「あ、ごめん……」と僕は手を引っ込めようとする。

 だが。

 すっと、星乃は手を伸ばし、僕の手を握った。冷えきった白い手が、僕の手のひらに置かれる。握ると、壊れてしまいそうなくらい柔らかい。

「ごめんな……」血の混じった唇から漏れ出る言葉は、どうしてか謝罪で。「さっきは、さんざん、おまえに、エラソーに、お説教したけどさ──」

 今の僕はきっと笑っているのだろう。


「ダメなのは、僕のほうだったんだよ」


「…………」

 少女は大きなひとみをさらに見開き、僕を見上げる。その瞳が宇宙から見る星のように輝いていたけど、何を考えているのかは分からなかったし、ただ、見る見るあふれる涙が、どうしてか僕を安心させた。

「じゃあな」

 きびすを返すと、

「あ、待って! あの、えっと……その、ありが……」

「礼を言うのは、僕にじゃないだろ」

「え?」

「ほら」

 視線で示すと、そこには彼女の保護者──読んで字のごとく、たった今その命を保護し、暴漢から守り切った銀髪の女性が立っている。そのすぐ後ろにはづきが泣きながらしがみついている。

「……ま、ほしが震える声で名前を呼ぶ。

「久しぶりだね、星乃ちゃんにそう呼ばれるの」

 真理亜がニヤッと口角を上げる。おおをして、その腕は血で染まっているのに、今はどこかうれしそうだった。

「真理亜、う、腕!」

「平気さー」

「だけど!」

「大丈夫、大丈夫さー」

 星乃を安心させるように笑うと、彼女はその大きな手で、ぽんっと星乃の頭をでた。

「あんたが無事ならそれでいいのさ」

「う……」頭を撫でられた星乃が、下を向き、小さくうめいた。

 それから、床にぽつ、ぽつ、としずくが落ちた。

「うああああ、ごめんなさい、真理亜、ごめんなさい……っ」

 真理亜の胸に飛び込んだ星乃は、幼い子供のように泣き始めた。

 泣きじゃくる少女を、銀髪の女性は血だらけの腕で抱きしめると、「いいんだ」と頭を撫でた。

「あんたは悪くない」

「真理亜、真理亜……っ」

 星乃は何度も彼女の名前を呼び、それから「ごめんなさい」を繰り返す。

 ──もう大丈夫だな。

 僕は二人の『親子』を見届けると、出番を終えた役者のように、ゆっくりと壇上を歩き、階段へと向かう。

 その先には二人の友人が待っていて、

「ヒラノ、血、血!」「だいクン、病院、病院!」

 同じような台詞せりふで出迎えてくれた。

 僕は顔の血をぬぐい、笑顔を作る。「大丈夫、ちょっと皮が切れただけ」「マジかよ」「本当? 顔真っ赤だよ」と二人は半信半疑で僕を見つめる。

「ありがとう、りようすけ。加勢してくれて」

「なんだよ、そんなの当然だろ」

 グッ、と親指を立てる涼介。

もありがとう。ナイスピッチだった」

「新調したスマホがパァだけどね」彼女は肩をすくめる。「まあでも、『歩きスマホ』じゃなくて、こーいう『投げスマホ』ならアリでしょ?」

 画面の割れたピンクのスマホを掲げて、彼女はウインクした。

 振り返ると、ほしの泣きじゃくる様子と、それをあやすようなの姿が見える。

 ──良かったな、星乃。

 胸が熱い。それは今までに感じたことのないたかぶり。

 僕の知っている『一周目』とは全然違うし、だいぶ、というか無茶苦茶コスパが悪いけれど──


 それでも僕は、この『二周目の人生』に、確かな満足を覚えていた。




         【recollection】


「方程式が違うんだよ」

 病院のベッドで眠りながら、久しぶりに、昔の夢を見ていた。

 それは懐かしい彼女の部屋。銀河荘二〇一号室。

 このときの星乃は大学の講師みたいに白衣を着て、指示棒でピシリとホワイトボードをたたいた。偉そうなのに、見た目は子供で、まるで先生のものをする学芸会。

「大地くんのいう『コスパ』は、数学的にはこういうことなの」


 コスパ=P÷C


 彼女はボードに、カツカツと書いてみせる。

「Pがパフォーマンス、Cがコスト」

「それは分かるよ」

だいくんは、夢がかなう確率は1%くらいだから、コスパが悪いっていう」

「当然だろ。で、夢が叶わなかったらパフォーマンスはゼロ、つまりP=0だからコスパ最悪。そうだろ?」

 まあそうだね、とほしは前置きして、それから「でもね、ダメなんだよ、それじゃ」と首を振った。その首の振り方がいかにも人を小馬鹿にした感じで、僕はムッとする。

「何がダメなんだよ」

「式が違う」

「式?」

「この式はランチとか旅館とか洋服とか、そういう買い物なら当てはまるんだ。安い値段でそこそこの品質のものを選ぶ。確かにコスパいいよね。でも」

 彼女は言い切る。

「そこが落とし穴」

 星乃は『C』の部分をぐりぐりと円で囲む。

「この式の怖いところはね、『P÷C』を最大化しようと思ったら、Cを無限に小さくすれば良いところなんだ。つまり、どんどん努力を小さくしていけば、コスパはどんどん大きくなる。『なるべく少ない努力で』っていうのがコスパって考え方の肝だから」

「そのときはパフォーマンスを大きくすればいいだろ」

「そうはならないよ。世の中のありとあらゆる物事は、どこかの段階で『壁』がある。勉強も芸術もスポーツも、ある一定レベルまでは誰でも上達するけど、必ずどこかで大変な『難所』が来る。ダイエットの停滞期みたいにね。だからそこから先が大変なんだ。そのとき、人は『P』の追求をやめ、『C』を小さくすることでコスパを高めようとする。なかなか結果の出ない努力を続けるのは、誰しも困難だからね」

「まあ、そりゃあ……」

「だから、人生で選ぶのは『P÷C』じゃなくて──」

 彼女はカッカッと、またボードに『式』を追加する。


 A×C=P


「選ぶならこっちだね」

 そこで星乃は、カッ、とボードに指示棒を打ち付けた。よく見れば、棒の先には惑星のマークが付いていて、目玉っぽい紋様から木星に見えた。

「なんだそれ」

「夢の方程式。Aがアビリティ、すなわち才能。才能努力を掛け算、つまり『才能×努力』で、夢の実現可能性が決まるって方程式」

「で? どうしてそれがコスパより良いわけ?」

「簡単だよ」

 ほしは『C』をぐりぐりとペンで囲む。

「夢をかなえようと努力するとき、が大きいほど、人は努力を大きくするんだ。さっきの『コスパ=P÷C』が努力を最小化させる動機が働いてしまうのに対し、こっちの『A×C=P』はPが大きいほど──つまり夢が大きいほど、Cも大きくしなくちゃいけなくなるから、努力を最大化させる方向に働く。これが人生の正しい方程式だよ」

 エッヘン、と少女は胸を張る。そしてまた、僕に問うのだった。

だいくんは、どっちを選ぶ?」

 僕はヘッと笑って、こう答える。

「コスパの良いほう」

「ぶー」

 少女のほっぺが太陽みたいに膨らみ、木星付きの指示棒が僕に飛んでくる。体に命中して、「イッテ! 投げるなバカ」と言うと、彼女はお決まりの文句を言うのだった。


「大地くんには夢が足りない」

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