第四章 エウロパ

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 それから数日、僕は予備校に通いつつ、『網膜アプリ』のことを調べてみた。

 株式会社ジュピター社が提供する、生体認証アプリ。このアプリはまだベータ版で、広くテスターを求めている。テスターになる見返りとしては、ジュピター社の扱っているアプリのほとんどが無料になるということで、若者を中心にかなり普及しているらしい。とりわけ『FINE』というSNSで使える『スタンプ』が大人気となっており、スタンプ欲しさに網膜アプリのベータ版テスターになる者が急増していた。

 ──網膜をスキャンするアプリに、会社名はジュピター、か……。

 ジュピター社の設立はわずか二年前。本社は中野区で、代表取締役には『ろくせいえいいち』という芸名みたいな名前が記載されている。

 ──偶然だ。

 網膜スキャン自体はそれほど珍しい代物ではない。網膜内の血管のパターンは、人間ごとに固有で、指紋よりも個性が現れるらしい。すでに国家や企業などでは機密を守るために網膜認証システムを導入しているところは数多く、それが電化製品に応用されただけなのだから、驚くには値しない。

 しかし……。

 今いる二〇一七年当時、網膜認証と似て非なるものとして、『こうさい認証』のスマホは確かに存在していた。ただそれも世界初という触れ込みで発売されたばかりであり、人間の『ひとみ』を利用してスマホのロックを外すのはまだまだ一般的とはとても言いがたい。何より、僕がいた二〇二五年の未来において、まだ網膜認証のスマホは存在していない──少なくとも日本では聞いたことがない。

 教室を見渡すと、講師の目を盗んでスマホをいじっている女子高生が目につく。スマホを右目に近づけ、さっと青い光が流れて、例の『網膜アプリ』のロックを解除している。ここ数日、教室でも街中でも、いたるところで同じことをやっている人を見かけた。爆発的に普及している、というネットの情報はどうやら本当らしかった。

 ──何か、変だ……。

 その感覚は、じわりと背筋にうすら寒いものを吹きかける。足元が揺らぐような、崩れるような、生理的に嫌な感覚。

 教室では、スマホを目の前にかざし、『網膜』をスキャンする女子高生たち。誰も彼もが、何の疑いも持たず、得体の知れぬ光で自分のをなぞっている。

 違う。この世界は違う。

 僕の知っている過去とは、わずかだが、しかし確実に──


 ズレている。


         ○


『プラネタリウム?』

 げんそうな声が、インターフォンから聞こえる。

 僕は二枚のチケットを握り締めつつ、必死にアプローチを続ける。

「ほら、去年リニューアルした天文台のやつ。いんせきとか月の砂とかも展示されてて、ほし、こういうの好きだろ?」

『だとしても、どうして私があなたと行かなければならないの?』

「なんだよ、おまえこういうの好きだったろ? ほら、せっかくタダ券あるんだしさ」

『どうせそれ、あの女にもらったものでしょ? だったらなおさらお断りよ』

「あの女って、さんのことか? どうしてそんなに毛嫌いするんだよ。おまえの保護者だろ?」

『前にも言ったわよね。あの女は保護者でもなんでもないって。あんな泥棒猫』

「泥棒猫? 真理亜さんが? どういう意味だ?」

『あ……』

 一瞬、話してしまったことを後悔するような声を出し、それから『なんでもないわ』と会話を打ち切った。

「おいほし、はぐらかすなよ」

『はぐらかしてないし、そもそもあなたには関係ないことよ。あと──』

 その一言で、いつものごとく会話が打ち切られる。

『星乃って呼ばないで』

 プツリ、とインターフォン『木星ジユピター』は口を閉ざす。「あ、もしもし? 星乃? 星乃?」と続けるも、一度沈黙したそれが再び音声を発することはない。

 ──ダメか……。

 の家からもらったチケットを握りつぶし、ポケットにねじ込む。これでいったい何連敗だろうか。数える気も起きない。

 これなら絶対いけると思ったのに……。

 前にこのプラネタリウムに誘ったとき、星乃はとても喜んだ。館内でも大はしゃぎで、だからこれなら絶対うまくいくと思ったのだが、結果は無残なものだった。

 切り札を失い、意気消沈した体を引きずるようにアパートの階段を下りる。カン、ベコ、カン、ベコ、と金属の傷んだ階段が変な音を立てる。


 この間、思いつく限りのことはすべて試してみた。


 たとえば星乃が好きだった博物館、展覧会、講演イベント、レストラン、書籍、漫画、玩具おもちや、通販グッズ……ありとあらゆるものを総動員し、相手の気を引こうとしたがすべて空振り。糸口すら見つからず、最近は顔を見ることもできない。交わす会話時間も日に日に短くなり、いよいよ完全無視される日も近い。

 ──何が足りないんだ?

 それはアプローチを始めてから、ずっと僕を支配する疑問。どうすれば星乃と仲良くなれるのか。言い方を変えれば、十七歳当時の僕が、どうやって星乃と親しくなったのか。

 ──思い出せない。

 すべての記憶が欠落しているというわけではない。星乃の趣味も、こうも、性格も、口癖も、たいていのことは覚えている。だけど肝心の──僕が彼女と出会い、親しく話すようになった契機のごとが、そこだけ切り取られたページのように欠落している。

 何かがおかしい。何かがやはりズレている。何かとても、大事なことを忘れている──

「ウッ……」

 ズキン、とうずくような痛みが、右の眼球に走る。

 まただ。また、『これ』が。


 血の涙。


 視界がブレて、ピントの合わないカメラのように二重にゆがみ、それは赤黒い血で染まったあと、ズキンズキンという痛みとともに僕をいらたせる。

 あれから何度も病院に行った。診察してもらう眼科もハシゴした。しかしどんな検査をしても判を押したように言われるのが「分かりません」の回答だ。

「結膜炎……でもないようですし、どうしてそんなに出血したか分からないんですよ。それらしき患部が見当たらないんですよねえ……」

 特殊な顕微鏡で、いぶかしげに診察する医師の顔を思い出す。どの眼科を受診しても、「何かあったら連絡してください」とおざなりな一言で僕は帰された。実際のところ、血をき取り、顔を洗ったあとのみぎは何事もなかったようにいつも元に戻っていて、痛みも違和感もないし、充血している様子もない。まるできつねにつままれたような現象が、最初の出血以降も繰り返し起きていた。

 僕は目に持病があったこともないし、ぶつけたこともない。

 原因不明の、血の涙。

 思い当たることがあれば、あの文章だった。

【『スペースライト』に伴う副作用……頭痛、めまい、吐き気、幻覚、視覚障害、記憶障害、脳神経の不可逆的な破壊、ショックによる死亡】

 網膜をスキャンする『スペースライター』。その副作用かもしれぬ僕の『血の涙』。

 網膜をスキャンする『アプリ』。その副作用かもしれぬの『フラッシュバック』。

 すべてがつながっているようでいて、その関係は皆目分からない。ぐらついた土台に更なる不安定な土台を重ねるような、なぞと謎の屋上屋。

 ──いったい何が起きているんだ……?


         2


「お兄ちゃーん、こっちこっち!」

 駅に着くと、幼い顔立ちの少女が元気に手を振っていた。

 前にした約束どおり、今日はづきと美術展に行くことになっていた。行き先は『月見野美術大学 星空のアーティスト展』。なんでも『星空』の絵画を集めた美術展らしい。

さんは来ないのか? これ、JAXAも後援団体だろ」

「お母さんは『大ISS展』のほうが忙しいんだって。今日は最終日だからあいさつがあるとか」

「あー、そういうのに引っ張りダコだもんな、あの人」

「というか、デートに母親同伴はないでしょ」

「デートなのか」

「デートです」

 小さい葉月の手を引いて、近所の公園で子守を任されていた僕としては、どうにもそれがピンと来ない。だいたいづきは去年まで小学生だ。

 本当は、こんなことをしている場合ではなかった。ほしのことはもちろん、例の『網膜アプリ』や『血の涙』のことなど、なんとかしなければならないことは山積している。ただ、葉月との約束を破れば後々に尾を引くし、どこか気分転換をしたい気持ちもあった。

 下り電車に乗り、二つ先の駅で降りる。

 駅前から十分ほど歩き、しようしやな門構えのキャンパスに着くと、受付らしき場所には行列ができていた。チケットを出し、まずはいてそうな常設展から見て回る。

「おい、あんまり引っつくな。歩きにくいぞ」

「それが目的で来たんだよ」

「そうなのか……」

 あっけらかんと言い放ち、葉月はエヘヘと笑って僕の腕に思い切り抱き付く。なんだか恥ずかしいが館内は絵に見入っている人が多いので、誰かが見とがめるようなこともない。

 三十分ほどで常設展を見終わり、特別展に差し掛かったときだった。

「あ……」

 とある一枚の絵画の前で、僕は立ち止まった。

 それは何気ない、周囲と比べてやや小さなサイズの絵だった。だが、そこに描かれていたものに僕のくぎけになった。

 宇宙空間を思わせるやみ色の背景に、星座のように浮かぶ四角いフォルム。その姿は一目でISS──国際宇宙ステーションだと分かる。そして、ISSを両手で包み込むように、女性っぽいシルエットが映り込んでいる。その胸に抱かれている小さな星が、どこか生命のきらめきを思わせ、それは暖かいような、切ないような不思議な構図だった。

 タイトルはそのものずばりだった。

『SPACE BABY』

「……お兄ちゃん?」

 声を掛けられて、ようやくハッとする。

 まるで絵画に意識を吸い込まれていたかのように、僕は直立不動でいた。

「あ、いや、なんでもない」

 手を引かれ、僕はその場を離れる。

 ちらりと制作者のプレートを見ると、そこには『イオ』とサインがあった。


「あれ……?」

 展示を見終わり、ミュージアムショップをぶらぶらしていたときだ。

 僕は画集コーナーにたたずむ、一人の少女の姿を見とめた。頭の上に大仰に盛った金髪に、ゆったりした薄手のカーディガン。

「──?」

 声を掛けると、「はい?」と彼女は振り向き、それから僕の顔を見て目を見開いた。

「ヒッ……ヒラノ!?」

 大きな声を出してから、慌てて口をふさぐ。一瞬だけ周囲の客がこちらを見たが、すぐに注目は解ける。

 そこにいたのはもりだった。手にしていた画集を置き直すと、あたふたした感じで髪の毛を触ったり、自分の服装を確かめたりする。とにかく動揺した様子だ。

 ──そんなに驚かせたか?

「ヒラノ、どうしてここに?」

「あー、ちょっと知り合いがチケット持ってて。美術展の」

「ふ、ふぅん、そうなんだ」

「足はもう平気なのか?」

「うん、大丈夫」彼女はぴょんとその場で跳ねてみせる。「お医者さんがもう普通に飛んだり跳ねたりしてもいいって」

「良かったな。今日は?」

「えっとね」

 彼女の顔はまだ赤く、やけに早口で言う。

「ほら、この前話した進路の話。ここの卒業生に業界でもけっこう有名なデザイナーがいて、今回の美術展にもかかわっているの。だからなんか参考になるかなって」

「そうか……」僕は彼女の行動力に関心する。「伊万里はまだ若いのに、すごいな」

「なにそれ偉そう。ヒラノ、あたしと同い年じゃん」

 彼女は軽く僕の腕をつついてみせる。その顔は楽しげで、充実した様子に見える。

 ──どうしてだろうな。

 伊万里には夢がある。だけどその夢は、現時点ではかなり難易度が高いはずだ。ファッションデザイナーなんて花形の職業、あまり詳しくない僕でも競争率が高いのは分かる。それこそ『九十九パーセント』実現できない夢。だけど彼女は、この前夕方の公園で話したときと同じように、迷いのない口調で言う。

「あれから両親にも、もう一度進路の話をしたの。そしたら、ちょっと妙なことになってさ」

「妙なこと?」

「どういう風の吹き回しか知らないけど、とりあえず頭ごなしにダメダメ言われることはなくなったんだ。なんか、私が事故に遭ったの、親の中では進路のことでしかり過ぎたから、って脳内変換されているらしくて」

「あー」

 それは少し理解できた。さしずめ、年頃の娘にまた家出されたら困るということか。

「だから、最近はちょっと態度変わってきてさ。それ関係のパンフレットとか、詳しそうな知人とか、けっこう協力的なの。ママも調べるから、あなたももっとよく情報集めなさいって」

「へえ」

「急に態度が変わってびっくりしちゃった。なんか、ママも若いころアパレル系の店で働いてたことあるらしくて、今度友達に聞いてきてくれるって」

「良かったな」

「ま、パパはまだ反対だから、どうなるかは分からないけどね」

 答えながら、まだこの前の議論が頭の中を回っていた。

 夢を追う人生。夢をあきらめる人生。は前者を選び、僕は後者を推奨する。現実的なのは明らかに僕のはずなのに、伊万里にはそれが通じない。

 懸念はもうひとつあった。

 デザイナーという将来の進路はいい。それは伊万里の夢だし、ぜひかなえてもらいたい。彼女は未来での成功を約束されているのだから。だけど、僕は伊万里を交通事故から助けたことで、りようすけと結婚する未来まで変えてしまった。

 ──本当に、これで良かったのか?

 気づけば、伊万里がじっと僕を見つめていた。視線を感じて「なに?」と尋ねると、彼女は「あ……」と口を開け、つややかなリップを塗った唇をもごもごさせた。

「なんか、ヒラノ、変わったよね」

「変わった?」

「変わったっていうか、あたしが気づかなかっただけかもしれないけど。……ヒラノって、もっとクールで、他人に干渉しない人間かと思った。どんな物事も無難にこなして、熱くなって失敗したりしないタイプ」

「まあ、わりと冷めてるほうかもな」

「でも、この前は違った」彼女の顔が少し熱を帯びる。「あのときのヒラノ、なんか、すごかった。大声で叫んで、命がけでダイブしてきて。いつものヒラノじゃないみたいで、びっくりしちゃった」

「いや、あれはなんか……必死でさ。驚かせて悪かったな」

「ううん、いいの。だってさ──」そこで彼女はさらりと言った。


「あのときのヒラノ、すごくかっこよかった」


「え?」僕は思わず彼女を見る。

 彼女は言い終わったあと、僕と視線を合わせて「ん?」と首をかしげ、それからやっと自分の言葉に気づいたのか、見る見る顔が赤くなった。

「あ、あ、ベつにそういう意味じゃないよ? 勘違いしないでね?」

 そのときだ。


「あ~~~~っ!!!」


 とんきような声が響いた。振り返れば、そこには上品なしゆうの入ったワンピースの少女。

「お、お兄ちゃん、何してるのっ!?」

 づきは周囲の目も気にせず、大声で僕たちに近づいてくる。が「え? え?」と僕と葉月を交互に見る。

「ちょっと目を離したすきに、お兄ちゃんってばこれだからっ」

 葉月は僕の右腕を両手で取り、抱き寄せるようにして引っ付く。それからじろりと視線を伊万里に向けて、「誰? この女」と不機嫌そうに尋ねた。

「クラスメートのもり。さっきばったり会ってさ」

「クラスの? ふぅん……」葉月はいぶかしげに伊万里をじろじろ見たあと、

「私、お兄ちゃんの『許婚いいなずけ』のわく葉月と申します」

 許婚、の部分を強調しながらあいさつした。

「いいなずけ!?」伊万里が目を白黒させる。「ちょっとヒラノ、どういうこと?」

「真に受けるな。こいつが勝手に言ってるだけだ」

「ひどいお兄ちゃん! 約束したのに!」

「小一のときな」

「なんだ……そういうこと」伊万里がホッとした顔になる。

「葉月は近所に住んでて、まあ幼なじみ。昔からよく遊んだり、今日もこうやっておりしてる」

「お守りじゃないもん。デートだもん」

「なるほどね。だから小学生が美大にいるんだ」

「中学生です!」

「あらごめんなさい。あんまりちびっこいから間違えちゃった」

「ちょっとお兄ちゃん、何この性格悪いデカ乳ヤンキー」

「誰がデカ乳ヤンキーよ! ヒラノ、なんなのこの子? 超ムカツクんだけど」

 伊万里は大きな胸をゆさゆさと動かして抗議してくる。一瞬、葉月が自分の胸を押さえて悔しそうな顔をしたのが見えた。

「待て待て、二人とも落ち着けって」

 つかいになりそうな二人の少女の間に、僕は慌てて割って入る。どうしてこんなに険悪なんだ?

「行こっ、お兄ちゃん」

「そうだな。そろそろ腹も減ったし、三人でごはんでも食べよう」

「え?」「え?」

 二人の少女は同時に意外そうな声を上げた。

「……ん?」

 僕は変なことを言っただろうか。

 はニヤッと笑った。づきはクワッとはんにやの顔になった。


         3


「ヒラノ、さっきのお店、おいしかったね」

「まあまあだったかな」

「絵画に興味があるの? 今日も美術展を見に来てたし」

「そうだな、絵画っていうか、星空のほうかな、好きなのは」

「あ、宇宙が好きって前に言ってたもんね」

「そう。星とかロケットの話は基本的に好きなほう」

 二人で肩を並べながら、あいもない会話を続ける。

「そうなんだ、ヒラノ、そういうのが好きなんだ……」伊万里は興味深そうにうなずいている。というか、今日は妙に距離が近い。さっきから肩が何度も触れ合う。

 すると、

「お兄ちゃんはさー、宇宙の話とか大好きだよね、あと、小さいころから私とよく天体観測したよね。二人っきりで」

 僕と伊万里の間に、ボコッと少女が割り込む。

「ちょっと、私とヒラノが話してるんだけど?」

「今日は私とお兄ちゃんのデートなんだけど?」

 二人はにらみ合い、その視線が火花でも立てそうなほどぶつかり合う。

 ──なんなんだ?

 さっきからこんな感じで、葉月が割り込んだり、伊万里が奪い返したり、自動車レースみたいなポジション争いをしている。

 しばらくそんな争いが続いたあと、

「あーあ、せっかくのデートが台無し」葉月がぼやいた。


「こんなことなら、『大ISS展』のほうに行くんだったなあ。あっちは最終日だったし、ヤンキー女に会うこともなかったし……」


 ──え?

 何気ない葉月の言葉に、僕は立ち止まった。

 大ISS展。最終日。それらの言葉が僕の脳裏に──いや、まぶたの裏から、何かの記憶を呼び覚ます。

「ヒラノ!」伊万里が叫ぶ。「み、みぎ!」

「右眼?」

 僕は右眼のあたりを手で触る。ぬるり、とした感触。手のひらに付着した赤い液体。


 血の涙。


 その瞬間、僕のまぶたには『光』が走り抜けた。弾丸のような粒子が僕に接近し、通り過ぎ、急ぎ足の走馬灯のごとく過ぎ去っていく。割れたガラス片に映る世界のように、あるいは水たまりに浮かぶ青空のように、いくつもの思い出の断片が、乱雑なスライドショーとなって再生される。大ISS展──最終日──両親の思い出──決死の遠出──偶然の出会い──宇宙飛行士───ひこりゆういち───あまがわ───

づき……! チケット、持ってるか!?」

「え?」

「ISSのやつ、持ってるか!?」

「あ、うん。一応バッグに入れてあるけど……」

「貸してくれ!」

 僕がガッと両肩をつかむと、葉月は戸惑いながら、「こ、これだけど……お兄ちゃん?」とチケットを差し出す。

「ごめん! 急用思い出した!」

 僕はきびすを返し、一目散に駆け出す。「お兄ちゃん!?」「ちょっとヒラノ!?」という二人の声を振り切って走る。

 ──どうして今まで気づかなかったんだ!

『ねえねえ、ISSの実物大モデル再現展示だって! 行ってみる?』

 葉月に誘われたとき、本当は大ISS展のほうに行くはずだった。だけど僕はそれを断り、『星空のアーティスト展』にしてしまった。あれは、ほしが死んだ場所であるISSを忌避して、僕が変更したのだ。

 ──同じだ。

 のときも同じだった。彼女が交通事故に遭うと知っていた僕は、事故現場で彼女がかれるのを防いでしまった。事故を知っていたからこそ、自分の行動を変えてしまった。ISS展に行かないという判断も同じだ。そこが星乃の死んだ場所だと知っていたからこそ、行き先を変更し、本来の判断を変えてしまったのだ。

 過去はズレてしまっている。その原因は僕だ。スペースライトした僕自身が、過去を、未来を、運命を、改変している要因なのだ。

 ──十七歳の僕は、本当は今日、行っていたんだ。ISS展へ。なぜなら、ISSに嫌な思い出はないから。将来星乃がそこで死ぬなんて知らないから。

 そして展示の最終日、偶然に、本当に偶然に、両親の思い出の写真パネルを見に来ていたあいつと、会場でばったり出会う。彼女は両親の写真を見ていて、そして振り返った彼女は僕を見てびっくりして、後ずさったところで写真パネルを割ってしまい、指先にをする。その怪我を手当てしてあげたことが、僕と彼女の距離を大きく縮めた。初めてまともにコミュニケーションを取ったのもあれが最初だった気がする。

 ──あのときだ。

 僕とほしの運命が交錯した、今にして思えば奇跡的な瞬間。

 時計を見る。すでに十七時を回っている。

 大ISS展は十八時で終了だ。ここから展示会場までは電車だと一時間弱、それだと間に合わない。だとすると駅前でタクシーを拾うか、それならギリギリ間に合うかも──

 頼む、間に合ってくれ……!!


 タクシーを飛ばすこと数十分。

 到着した展示会場はすでに暗くなりかけていた。

「すみません、これ……っ!」

 僕は受付の係員にチケットを差し出す。

「あの、最終入場時刻を過ぎておりますので、本日は……」

「お願いします、どうしても大事な用なんです!」

「そう言われましても……」

 しばらく押し問答になり、何事かと警備員が寄ってくる。

 ──まずい、時間がない!

 時刻は十八時まであと五分。

 ここで待てば星乃が出てくる……? いや、きっとそれではダメだ。

 あの場所で──両親の思い出のパネルの前で、星乃はあのとき──

 泣いていた。

 彼女の感情が、揺さぶられていたあの瞬間。あのタイミングだからこそ、彼女のひとみには僕が映ったんだ。たぶん、あの瞬間を逃したら、いつものように冷たい視線であしらわれるだけになる。その確信が胸にあった。取り戻した記憶が僕を突き上げるようにかす。

 今しかない。こんなチャンスは二度とない。

「すみません……っ!!」

 僕は受付のバーを強引に突っ切る。「あっ、お客様……!?」と係員が叫ぶ。「ちょっとキミ、待ちなさい!」と警備員が追ってくる。

 だけどそんなことはかまわない。

 ──星乃……っ!

 僕は走った。

 終了間際、まばらになった会場で、他の客をけて、記憶に従い、順路を無視して最短距離を駆ける。あいつのいる場所へ、あの写真パネルの前へ、時刻は十八時まであと三十秒、二十秒、十秒、五、四、三、二、一──

 そしてたどりつく。

 ずらりと並ぶ写真の中、そこだけ大きな額に飾られた一枚のパネル。


 いた。


 その場所に、一人の人物が立っている。白い服を着て、帽子をかぶった、小柄な少女。

ほし……っ!!」

 叫びながら、僕は駆け寄る。名前を呼ばれた少女がびくりとして、振り向く。

 だが。

「あ……」

 その少女は星乃ではなかった。くるりと肩口でカールした髪に、画家みたいなベレー帽を被った少女。後ろ姿が星乃と似ていたが、正面から見るとはっきり別人だった。

「あ、すみません! 間違えました、人違いです!」

「へえ、奇遇だね」

 相手の少女はにやりと悪戯いたずらっぽく微笑ほほえむ。

「え?」

「ほら、私だよ、私。覚えてない?」

「えっと……」

? 

「そういうもの……?」

「そう」

 彼女はくすりと微笑む。髪の毛をくるくると指先でいじりながら、猫のような口元で笑う姿は、どこか星乃と似ていた。

「ねえ、君さ」ベレー帽の少女はさも親しげに尋ねてくる。「『食いログ』って好き?」

「は? 食いログ?」

 それは飲食店に点数をつける大手レビューサイトの名前だ。

「あれ、便利だよね」少女は僕が口を挟む間もなく続ける。「『食いログ』『グルメレビュー』『ホットペーパー』、みんな大好きレビューサイト。3・5以上なら安心安全、コスパ良し」

 自分の言葉にうなずきながら、僕に口を挟むすきを与えないかのようにしゃべり続ける。

「だけどそれだと、『自分の好きなもの』は食べられないんだよね」

「え?」思わず口を挟む。「食いログ3・5ならハズレはないだろ」

 ──あれ?

 どうして僕は見知らぬ少女に反論しているんだろう。自分でも理解できない。少女には独特のオーラがあり、なぜか絡めとられるように僕は会話に参加してしまっていた。

「考えてもごらんよ、味の好みなんて人それぞれじゃない? 『自分が』一番食べたいものを探そうと思ったら、当たり前だけど『自分で』お店を探さないと分からない。それは『食いログ』のレビューが低い店かもしれない。もしかしたら近所の定食屋さんかもしれない。一周回ってお母さんのおしるかもしれない」

「それは、そうだけど……」

 どうして僕はあいづちを打っているんだろう。なぜか無視できない少女の迫力。見つめられている視線で金縛りにあったような感覚。

「自分で確かめたわけでもないのに、インターネットに載っているレビューや点数、ランキングを見て、知った気になっている。本当は味の好みなんて、自分で実物を食べなきゃ分からないのに、みんなが他人の言うことを信じ切っている」

「でも、それが一番コスパいいだろ。少なくともハズレの店を引かないで済むんだから」

「うんうん、そうだね、そのとおりだよ。食べ物ならいいんだよ、コスパでもなんでも。仮にまずくても『次回』のランチでばんかいすればいいからね。──だけどね」

 少女のひとみが強く光る。

「人生は、違うんだな」

「人生?」

「だってさ、人生はランチと違って『次回』がないんだよ。一回きり。それでおしまい。失敗しても選び直すことはできない。だから他人のレビューやランキングなんてどうでもいいんだ。──だからねだいくん」

 ──え?

 こいつ、なんで僕の名前を?



「…………」

「覚えておくといいよ」

 ──どういう意味だ?

 にわかには発言が飲み込めない。そんな僕を残して、ニッと微笑ほほえんだ少女はスキップをするように去っていく。追いかけようとしたが、なぜか足が床に張り付いたように動かず、ベレー帽が角を曲がるのを見届けるまで僕はマネキンのように硬直していた。

「あっ」

 そして間抜けな僕はやっと我に帰る。

 ──そうだ、ほしは!

 慌てて周囲を見回す。少女との問答に気を取られ、肝心なことから注意が飛んでいた。何をやっているんだ、僕は。

 時計を見る。しかし、不思議なことに十八時ちょうどで、時刻が全然進んでいない。

「あれ?」

 時計が止まっている?

 館内では切ないメロディが流れ続けている。「間もなく閉館です」のアナウンス。

「星乃……」

 僕はがくぜんとする。しくじった。間に合わなかった。二度とないこのチャンスを逃した。あの少女のせい? いや違う、ぎりぎりになるまで忘れていた僕のミスだ。

 そのとき、ポン、と肩に手を置かれた。

「あ……」

 振り向くと、そこには僕のよく知っている銀髪の女性。

「なんだだい、こっちに来てたのかー? づきはどうしたのさー?」

 本日のゲスト出演を終えたわくが、大きなひとみで意外そうに僕を映した。


         4


 銀河荘の建物を前にして、僕は見上げるようにして立ちすくむ。

 あれから一週間が過ぎていた。ほしとの関係はまったく進展しておらず、最近はドアすら開けてもらえない。

 うまくいったことがあるとすれば、皮肉にもそれは模擬試験の結果だった。

 過去の記憶から出題分野を思い出し、ピンポイントでヤマを当て、なんとか格好のつく点数が取れた。八年のブランクがあったことを考えればじようだ。

 ──昔からそうじゃん。試験の点数も、学校の課題も、おまえは最小限のコストで要領よくクリアーしてたろ。定期テストのヤマ当てとか神だったし。

 スペースライト前、高校の同窓会で言われたことを思い出す。

 昔からそうだった。ヤマ当てはうまかった。要領も良かった。何事もそつなくこなした。学校の行事すらそうだ。親や教師に怒られない程度に。クラスで浮かない程度に。

 小さいころ、サッカーが好きだった。だから地域の少年サッカーチームに入って、懸命に練習した。しかし、どんなに朝から晩まで練習しても、やつには決して追いつけず、差は開く一方だった。さらに打ちのめされたのは、そういう上手い奴でさえ、さらに上手い相手チームにはこてんぱんにされて、ボロ負けした。上には上がいることを、小学生のころから嫌というほど思い知らされるのがスポーツだった。だけど僕は要領だけは良かったので、チームのレギュラーでいることはできた。歯を食いしばって、報われない努力を続けるよりも、テキトーに練習して、ほどよく手を抜いて、レギュラーでいれば、一応はチーム内でそこそこの地位を得られた。練習も、試合も、監督の目が届かないところで上手くサボって、目立つところではちょっとだけ頑張っているふりをした。それで「サッカーのうまい奴」として一定の評価は得られたし、馬鹿にされることも、はぶられることもなかった。サッカーチームでは、サッカーの上手い順にヒエラルキーができるので、僕はいつも真ん中より少し上のランキングにいた、と思う。コストパフォーマンスという考え方を、僕はこのときになって学んだ。コストとベネフィットを比較して、最も効率の良い選択をする。結果の出ない努力は無駄。かなわない夢を目指す奴は愚か。それが僕の人生のベースになった。

 幸い、僕は勉強もできるほうだった。要領だけは良かったので、国語も算数も理科も社会も、授業を受けるだけで人並みの点数は取れた。しかしどんなに頑張っても、クラスで一番できるやつにはかなわず、成績もどこかで頭打ちになった。クラスで十番に入るのは簡単だったが、上から三番は無理だった。進学塾に通い、中学受験を考えている連中とは見えない壁を感じた。だから僕は手を抜いた。それでも簡単に平均点はキープできた。ヤマ当ては昔から得意だったので、定期テストはいつも実力以上に点数が取れた。結果、「ひらは頭いい」という定評を得られた。

 そんなふうに、僕はコスパを重視して生きてきた。でもそれは僕のせいじゃなく、緩やかに沈みゆく現代日本に生まれた以上は当然の選択だ。がむしゃらに頑張れば出世できて、年収が増える時代はとっくの昔に終わった。バブルも高度成長も過去の遺物で、景気回復もトリクルダウンもうそっぱち。小学生の夢には『会社員』『公務員』が上位に食い込む時代。それが僕らの生きる二十一世紀のリアルだ。将来の夢? 何それ食えんの? そんな時代では、夢を見ず、クールに、リスクを回避し、きちんと将来のコスパを計算できる奴が生き残る。だから僕はそうしてきた。小学校も中学校も高校も大学も、最低限の努力で、最もコスパの良い結果を残してきた。そうやって人生を『クリアー』してきた。スペースライトして、過去に戻ってきたときは『勝った』と思った。二周目の人生は、一周目よりもさらにコスパが良くなる。定期テストも、受験も、就活も、すべてが楽勝だ。何より僕はあまがわほしという少女を知り尽くしている。趣味も、こうも、嫌いな食べものも、好きなテレビも、全部だ。だからすぐに仲良くなれるし、あとは大流星群さえ回避すれば万事解決──そんなふうに思っていた。


 でも、違った。


 僕はまだ、星乃とまともに会話すらできていない。友達にすらなれていない。いつも門前払いを食らい、すっかり嫌われてしまった。思いつくあらゆる手段を講じてみて、もう策がない。完全に手詰まりだ。

 ──おかしい。僕は間違ったことをしていないのに。

 作戦はかんぺきだったはずだ。僕は星乃のことを誰よりも知っていて、傾向と対策は万全だった。最も合理的に、コスパの良い方法で仲良くなれるはずだった。それがここまで裏目に出るなんて思いも寄らなかった。

 夏休みはもうすぐ終わる。そうしたら二学期が始まり、時間はますますなくなる。最大の問題は、それから先の展望がないことだ。この世界で──二〇一七年という過去世界で、僕が持っている最大のアドバンテージは『記憶』だ。未来に起きることを知っているという『予測』と言い換えてもいい。とにかく、これからはそれが一切通じない。なぜなら、夏休みが終わったあとの僕の『記憶』は、すべて星乃と親しくなり、アパートに出入りするような仲になったあとのものだ。今のように、顔すらまともに合わせられない状態での未来なんか知らない。

 すべてが狂ってしまった。今ここにいるのは、ちょっと若返っただけの、知識も経験もない、ただの無職の二十五歳だ。高校生らしい若さも感性も失い、『予測』という唯一の武器すら失った存在。無職で、無一文で、バイト先すら全滅した、ゴミをあさるダメ人間。

 いったい僕は、何を間違ったんだ? なんでうまくいかないんだ? なんで一周目も二周目もうまくいかないんだ?

 僕は人間関係で失敗したことはない。誰とでもほどよい距離で付き合い、ほどよく仲良くなった。集団で浮いたことはなく、かといって目を付けられたこともない。空気を読み、衝突を避け、常に一定の距離で関係を築く。気の合う相手と友達になり、そりの合わぬ相手とは無理に付き合わない。ときには融通し合ったり、助け合ったりするが、決して相手の事情には立ち入らない。それが一番コスパの良い人間関係だ。だから、誰かと決定的に対立したことがない。今のほしと僕のように、ここまで関係がこじれたことはない。いつだってそうなる前に身を引いて、関係が悪化しないように努めて来た。相性の合わない相手に努力してもコスパが悪いし、無駄だからだ。

 だからこそ、どうしていいか分からない。僕は人間関係を『修復』したことがない。悪化する前に離れて来たから、こじれた相手と仲直りをしたことがない。そういう経験を積んだことがない。テストも就活も人間関係も、僕は無理そうなことに挑んだことがないのだ。

 どうしよう。本当にどうしよう。星乃は気難しい。冗談抜きで、世界一の人間不信のような少女を相手に、僕にはなすすべがない。おしまいだ。このまま夏休みが終わったら、そこから先は僕の知らない未来。

 もう駄目だ、

 本当に、絶望的に、おしまいだ──


「あ、いたいた! ヒラノー!」「だいク~ン!」


 思考に割り込むように、大きな声が聞こえた。見れば、道の向こうから二人の男女が走ってくる。

「りょ、りようすけ? ?」

「いやー、やっぱこっちかー」涼介は息を切らせながら、僕の前で止まる。「駅前のゲーセン、二階席まで探して損したわ」

「ほら、あたしの言ったとおりでしょバカ涼介」

「バカっていうな、バカ」

「二人とも、どうして……」

 僕は友人の顔を交互に見つめる。

「二人で手分けして探したんだよ、大地クンを。な?」

 りようすけが目配せすると、も「うん」とうなずく。

「だってヒラノ、なんだか最近ずっと思いつめたような顔してるんだもん。講義だって上の空だしさ。だから、気になって……」

「そうそう。何か悩みがあったら相談乗るよ。たまには俺らにも頼ってよ。ってか──」

 涼介は伊万里と目を合わせ、それから二人の意志を代表するように告げた。


だいクンに、恩返しをしたいんだ」


「……え?」

「ほら、大地クン、いっつも俺らを助けてくれるじゃん。俺が授業寝ててもノート見せてくれるし、試験のヤマ当ても神だし」

「そんなこと、別に大したことじゃ……」

「いやいや、大地クンはすげえって。俺、今回の夏期講習も、大地クンいなかったら絶対続いてないし」

「実際サボッてるじゃん」伊万里が突っ込む。

「半分は出てるだろ。つーか、俺のことはいいの!」

 涼介は話を戻すように叫ぶ。

「とにかく、俺は大地クンの助けになりたいんだよ」

「あたしもそう。相談に乗ってもらったし、それどころか命まで助けてもらったし」

「いやそれは……」

 僕は感謝されるようなことは何もしていない。

「俺、力になりたいんだよ。大地クンの」

「あたしも同じ。ヒラノに何かしてあげたい」

「あ……う、うん……」

 うまく言葉にならず、ただ二人を見つめる。

 ──そうだ。

 今さらになって、気づく。

 ──僕はなんて愚かなんだろう。

 スペースライトをする前もそうだった。あの同窓会で、最後まで残ってくれたのはこの二人だった。誘ってくれたのは伊万里で、体を張って止めてくれたのは涼介だった。

 友達だった。未来の世界でも、そして過去の世界でも、僕たちは確かに友達だった。コスパばかり気にして、人間関係すら割り切ろうとする僕に、この二人は損得抜きで付き合ってくれる。そんな大事なことに八年もってようやく気づく。

「それに大地クンの悩み、もう知ってるし」

「え?」

あまがわのことだろ? ここにいる時点でバレバレだっつの」

「あ……」

 隠すまでもなく、そのとおりだ。

「バレバレか」

「そうだよだいクン。夏休みの間、ずーっとあまがわのことで悩んでるんだろ? 昔何があったか知らないけどさ、なんてーか、要するに『仲直り』したいんだろ? だったら力になるよ。なにせ俺は女の子のことはプロフェッショナルだし」

「どうだか」

「なんだよモリマン。水差すな」

「モリマンいうな」りようすけの足をゲシッとる。「でも涼介の言うとおりだよ。力になるからさ」

 それから彼女はぼそりと、「……宇宙人のことってのが、ちょっと気に入らないけど」とつぶやいた。

「え?」

「いや、なんでもないよ?」

 伊万里はそっぽを向く。

 ──いいのだろうか。

 スペースライト後の、この世界で。二人の運命を巻き込んで。

 すぐに答えられなかった。だから僕は二人に背を向け、顔をぬぐった。涙を見られたくなかった。

 でも、やっぱりそれは、バレバレだったと思う。


         5


「──というわけで!」

 翌日の予備校。講義が終わった直後に、りようすけが立ち上がった。

「今日は作戦会議をやるぞ」

「何の会議だって?」

 僕はテキストを片付けながら尋ねる。

「何って、決まってるだろ。スペース美少女・ほしちゃん攻略会議さっ」

 涼介のスマホには、にっこり笑った星乃(十歳)の顔が映っている。

「ちょっとそこのロリコン」がゴスッと教科書で涼介の脳天を穿うがった。

「イッテ! 誰がロリコンやねん」

「あんた昨日のヒラノの話ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたよ」

「じゃあ攻略会議って名称はおかしいでしょ。仲直りをするって話なんだから」

「それを攻略という」

「あんたのはただのナンパ大作戦でしょうが」

「なんだとう」

 二人は机を挟んでいがみあう。僕は「まあまあ」と間に入る。

「続きはスタカでやろうよ。おごるからさ」

「おっし、行くぞ野郎ども!」「しきるなバカ涼介!」先頭を切る涼介に、伊万里がりを入れようと空振りし、その後に僕が続く。

 昨日はあのあと、僕の『事情』をかいつまんで話した。といっても、スペースライトのことや星乃が死んだ未来のことなどは伏せて、僕と星乃の関係を要点だけ話すことになった。僕と星乃は、過去に知り合いだったこと。だけど星乃はそのことを覚えていないこと。僕も星乃にそれを知らせるわけにはいかないこと。そして僕は、彼女とまた話ができるようになりたいこと。

 それはモザイクをさらにぼかしたような、めいりようで、ふわふわした説明だった。だけど二人は熱心に聴いてくれ、細部の伏せた部分は許してくれた。その上で、改めて『協力』を申し出てくれた。

「俺、星乃ちゃんのこともっと調べてみるよ。かわいい女の子のことは任せてちょ」

「あたしも調べてみる。友達にあまがわと同じ中学の子がいるし、ちょっと当たってみる。何か知ってるかも」

 そして、昨日の今日で、涼介はさっそく作戦会議を提案してきた、というわけだ。

 ──ありがとう、二人とも。

 何か具体的な成果を期待したわけではなかった。ほしのことが簡単に進展するとは思えない。

 ただ、気持ちがうれしかった。

 この世界、この時代に来てから、ずっと独りぼっちのような気がしていた。誰にもスペースライトのことは話せない。だから一人だけ異世界に迷い込んだような気分で、しかも星乃との関係がうまくいかなくて、どんよりと落ち込んでいた僕の気分を、りようすけが救ってくれた。

 僕は一人じゃなかった。


「えー、俺の情報網によると、あの美少女ちゃんには隠された秘密があるわけで、それはつまり、彼女のおいたちに起因していてですね」

「前置きはいいから、早く説明しなさいよ」

「ちぇっ、気分が壊れるなあ。……じゃあまず基本情報から」

 手にしたスマホをこちらに見せ、シュッと画面をスライドさせる。

 幼いころの星乃のスナップショットが、ずらりとアルバムのように表示される。どれも五~十歳くらいの星乃の幼女時代で、なんだか伊万里が嫌そうな顔をした。

「えー、星乃ちゃんはISSという、国際宇宙ステーションでエッチした両親から生まれました。父はひこりゆういち、母はあまがわ。どちらもJAXA所属の宇宙飛行士で、のちに二人は地球に帰還して結婚。そして母親から星乃ちゃんが生まれる、と。いわゆるデキ婚ですね。エロいですね」

「涼介、余計な注釈はいらんから」「エロいのはあんたでしょ」

「いや、ちょっ……二人とも冷たくね?」

 涼介は不服そうにしたが、またスマホを操作して説明を始めた。

「コホン、星乃ちゃんはごぞんのとおり、『スペースベイビー』として大人気になります。世界中のニュースでその愛らしい笑顔が報道され、世界で一番有名な赤ちゃんになりました。どれほど可愛かわいかったかというと、こんな感じであります」

 そこで涼介は、またいんろうのごとくスマホをずいっと差し出し、画面をタップした。ユーチューブの赤いロゴがちらりと見え、それから画面では一本の『動画』の再生が始まった。

 ──あ……これ……。

 画面の中には、一人の男性が登場した。背が高く、日焼けしたハンサムな男性。彼が笑顔で両手を広げると、そこに「お父さん!」と叫んだ幼い女の子が飛び込んできて、たくましい両腕でがっちり抱え上げられる。すぐ隣では黒髪の若い女性がにこにこと微笑ほほえみ、父親に抱きついて満面の笑みを浮かべる娘の様子を見守っている。それが星乃とその両親であることは、何も注釈がなくてもすぐに分かった。父親に顔をこすり付ける星乃はこれ以上ないくらいの満面の笑顔で、お父さん大好き、という音声が聞き取れる。抱きついた拍子にほつれた黒髪を、かたわらにいる母親によって優しげにで付けられると、幼いほしはまた気持ちよさそうに目を細めるのだった。あまりにも屈託のない笑顔は、星乃が両親にいかに愛され、幸せだったかを文句のつけようがないほど物語っていた。この幸せな時間がもうすぐ終わることを、画面の中の少女はまだ知らない。

「しかーし」

 りようすけはわざとらしい口調で続ける。なんだか講談師みたいに見えてきたが、本人もそのつもりなのかもしれない。

「花の命は短く、アイドルの寿命もまた短い。一時のブームが去ると、星乃ちゃんの人気はだんだんと下火になります。下火になった最大の理由は、世間のバッシングでした。ひこりゆういちの、不倫発覚です」

「不倫? 星乃の父親が?」

 思わず聞きとがめる。

「アレ、だいクン知らなかった? って、俺も昨日調べて知ったけど」涼介は軽い感じで言う。「当時の週刊娯楽のスクープらしいぜ」

「それ、ガセで有名な雑誌じゃん。裏は取ったの?」

 が指摘すると、涼介は「俺にくなよ、ウィキペディア先生に訊いてくれよ」と言い訳をした。

「まあ真偽はともかく、弥彦流一が記者会見を開くくらい、火種は大きくなりました。しかし必死の釈明もむなしく、ネットは炎上、そもそもデキ婚だった星乃ちゃんの出生までたたかれる始末。JAXAには抗議の電話殺到。そして悲劇のアイドル星乃ちゃんには、さらなる不幸が襲います」

 物語仕立てのようにしながら、涼介の話は続いた。いつかの同窓会で聞いていたら不愉快に思ったかもしれないが、今の僕は不思議と腹が立たなかった。相手が涼介だからだろうか。

 そして彼は告げた。


「ISSでの死亡事故です」


 今から七年前。星乃が十歳のとき。

 ISS搭乗中の星乃の両親に、悲劇が襲った。

 最初は何気ない不具合だった。船外実験プラットフォームにおいて、とある機器が故障し、それをスペアパーツと交換してくるというそれ自体は珍しくもないミッションだった。船外作業には、当時最もISSに詳しく、経験豊富とされた弥彦流一、および実験施設の責任者でもあるあまがわのコンビが当たった。しかし、予定していたスペアパーツの交換がもうすぐ終わろうかというとき、原因不明の衝撃が走る。原因は後になって、デブリの衝突と判明する。NORAD北アメリカ航空宇宙防衛司令部のレーダー監視網をくぐり、わずか数ミリ単位、しかし『秒速』8キロという弾丸の十倍速いスピードで飛び込んできたデブリだった。

 このデブリの衝突により、あまがわの着ていた宇宙服が損傷。酸欠により彼女はその場で意識不明となる。ひこりゆういちは気絶した妻を抱え、必死に船内への帰還を目指す。しかし、このとき弥彦流一自身もデブリで致命的な重傷を負っていた。超人的ともいえる奮闘の末、弥彦は妻の詩緒梨をISSに送り届ける。だが、弥彦自身はそこで力尽き、そのまま帰らぬ人となった。その後、詩緒梨は意識不明のまま地球に帰還。病院での治療のもなく、数ヶ月後に息を引き取る。

 このときを境に、ほしは天涯孤独となる。

 後の事故調査報告書で、この悲劇はまさしく天文学的な低確率でのデブリの衝突が原因であり、避けようのない不幸な事故と結論づけられた。ただ、当時のISS日本実験棟『きぼう』の管制官は責任を取って辞任している。

「あ……」

「どうしたのだいクン?」

「悪い、今のとこ、ちょっと戻して」

 僕はスマホを指して言う。「えっと、どこまで?」「一個前、管制官が辞任、ってところ」というやりとりのあと、画面はもう一度、問題の箇所を表示する。

 このとき、事故の責任を感じて管制官を辞任した人物。その名前に僕はくぎけになった。

 確かにこう書かれていた。


 わく


         6


 引責辞任だけなら知っていた。

 それは真理亜のプロフィールを少し調べれば出てくる事実で、彼女が星乃を引き取るきっかけになったとも言われている。

 問題はその先だった。

「おーっす大地! よく来たなー」

 よく晴れた青空の下で、惑井真理亜が手を挙げる。

 健康的に日に焼けた小麦色の肌、寝癖ともヘアスタイルともつかぬ、ざっくりとした銀色のショートヘア。笑うと白い歯がまぶしく光る。化粧っ気がないのに文句なしの美人だ。

 りようすけの話を聞いた二日後。

「お仕事中にすみません」

「なんだ、殊勝なことを言い出して。今日はガキんちょどもの相手だったから、ちょうど抜ける口実ができたよ」

 建物入り口には『JAXA夏休みキッズ教室 ~本物のロケットを飛ばそう〈第二回〉』という看板があり、子供たちの騒ぐ声が聞こえる。敷地内には親子連れが目立ち、いつもとは違うにぎやかさで満ちている。昔、このキッズ教室でロケットを飛ばしたほしと偶然出会ったことを懐かしく思い出すが、それはすでに過ぎたことだった。

 JAXA筑波つくば宇宙センター。以前、から呼ばれたときにはここで星乃からの『遺言』を受け取った。しかしそれは八年後の未来の話で、『この世界』の僕が筑波に来たのはたぶんまだ数えるほどだ。

「そういえば、もうすぐですね。特別講演」

 彼女の背後の壁にはポスターが何枚もられており、『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』というタイトルが見える。出演者にはわく真理亜の名もあり、演題は『希望のISS 宇宙飛行士たちの思い出』。

「あー、これなー」真理亜は頭をく。「あたしは何度も断ったんだけど、上がどうしてもって言うからさー。やめた管制官に何をしゃべれっていうんだろうね」

「でも、真理亜さんは美人だし、JAXAの顔だから」

「ハハハ、あたしがかい? 誰だそんなこと言ったやつはー」

 カカカ、と豪快に笑うその顔も、悔しいがやっぱり美人だ。自覚がないところが彼女の魅力なのかもしれないが。

 ──やめた管制官に何をしゃべれっていうんだろうね。

 その言葉に乗って、話題を振れば良かった。

 だけど、いざ本人を目の前にすると、切り出すのがためらわれた。

 先日、りようすけが示したスマホの画面には続きがあった。ISSの事故で引責辞任した管制官・惑井真理亜──その下にはこんな注釈があった。

『一部週刊誌の報道では、ひこりゆういちの不倫相手とされる』『本人およびJAXAは否定』『ただ、週刊誌には二人きりでホテルから出てくる写真が掲載されている』

 ──あの女は保護者でもなんでもないって。あんな泥棒猫。

 この報道が真実なら、前に聞いた星乃の言葉にひとつの解釈がつく。

 無論、それが明らかになったところで、僕と星乃との関係に直接影響するわけではない。だが僕は、スペースライト前ですら知らなかったこの事実に、何かもっと大きな秘密が隠されているような気がした。

 でも……。

 おおまたで歩く、まっすぐな背中を見ながら、僕は考える。

 この、竹を割ったような性格の女性が、不倫?


「──きたいことがあるんだろ」


 ドキリ、として立ち止まる。真理亜は振り返り、くいっとまゆを片方だけ挙げた。

「星乃ちゃんの父親のことだろー」

「いえ……、あ、はい」

 矛盾した回答になったのは、相手に図星を突かれたせいだ。そして、言われてみると、自分のこうとしていたことが、いかにも興味本位の、ゲスな内容だったことに気づく。

「すみません、えっと、その……」

「不倫してたよ」

「へぁっ!?」

 ヘンな声が出た。

「やっぱりその件かー」

 彼女はあっけらかんと言い、それから僕をまっすぐ見つめた。

ひこりゆういち。写真は見たことあるかい?」

「え? あ、ああ、見ました」

 宇宙飛行士、弥彦流一。ほしの父親。力強い意志を感じさせる太いまゆに、きりりと結ばれた口元、若手アスリートのような引き締まった体つき。ちょっと昔の二枚目俳優のような雰囲気。貧しい家庭から苦学して大学を卒業し、航空宇宙工学や応用化学を修めたあと、JAXAの宇宙飛行士に合格。天才的な頭脳と独創的な企画力を武器に、ISSの『きぼう』を設計し、そのクルーとしても活躍した。絵に描いたようなサクセスストーリーと、絵に描いたような二枚目。天才医学者・あまがわのCH細胞研究は、弥彦流一の技術的なバックアップなしには成り立たなかっただろうと言われている。

「いい男だったろ?」

「え、ええ、まあ」

「性格のほうも、現代のサムライ、って感じでね。曲がったことが大嫌いだった。──あたしのあこがれだった」

 そのとき、彼女は遠くを見るような目をした。少女みたいな、無防備な顔。彼女のこんな表情は初めて見る。

「だけどフラれたー」

「え?」

「あいつは人でも殺したみたいな顔で、ごめん、すまん、申し訳ない、を連呼してさ。で、自分には好きな人がいる、愛してるんだ、どうしてもあきらめきれないんだ、って今度は熱弁を振るってね。頑固でクソ真面目で融通の利かないアホウだったけど、そんなところにホレたんだろうねぇ」

「え、え? じゃあ、不倫って話は──」

 混乱する。不倫した──好きだった──でもフラれた。針が左右に振れて、真偽が判断できない。

「ハハハ、本気にした? さっきのは冗談さー」

さん」

「ごめんごめん。だって、だいが深刻ぶった顔しているからさ。これはいっちょからかってやらないとなって」

 彼女は僕の肩をバンバンたたく。その力が強くて僕はゲホッ、とむせる。

「あたしが告白したのは、そもそもりゆういちが独身だったころの話。で、不倫騒動が持ち上がったのは、たまたまホテルの前であたしと流一が会って、写真を撮られちゃっただけ」

「そうだったんですか……」

「それにね、とは親友だったんだ。親友の旦那に手を出すほどあたしは落ちぶれちゃいない。だい、これがあんたじゃなかったらぶっ飛ばしてるところだよ」

 そう言って、彼女は振り向きざまに回しりを見せた。高く上がった足が空を切り裂くように横切り、スカートがめくれて太ももがあらわになる。僕の前髪がふわりと浮いた。が幼少から空手をたしなんでいたことを思い出す。

「ご、ごめんなさい」

「まあ、悪いと思ったんならあの子と仲良くしてやってよ。あたしはそれだけが望み」

 そして彼女は、ぽつりと、空にこぼすように言った。

ほしちゃんはさ、大切な忘れ形見なんだ。……あたしの大好きだった二人の」

「真理亜さん……」

 ふと、僕は思い出す。『大流星群』の直後、星乃が死んだと知らされたとき。真理亜は星乃のアパートの部屋の前で泣き崩れていた。ドアにすがりつき、号泣していた彼女の姿は、かなしみの深さを物語って余りある。

 今ならはっきりと分かる。

 この人は愛していたんだ。実の娘でなくても、実の親のように、星乃を愛していた。僕が彼女に会うずっと前から、彼女を守り、し、支えてきた。世間から、マスコミから、貧困から、バッシングから。保護者という肩書はただ親権があるというだけじゃない。

「真理亜さんは、今の話、星乃にしたことはあるんですか?」

「いんやー」

 彼女は首を振る。僕が何か言いかけると、彼女は軽く手を挙げて、制するように言った。

「いいんだ、大地。言いたいことは分かる。……でもね、あたしが星乃ちゃんから憎まれるのは、仕方ないことなんだ」

「え?」

「あたしはね、星乃ちゃんの両親を救えなかった。当時、管制官としてもっと的確な指示を出していれば、二人は助かったかもしれない。あのとき、あたしは想定外のデブリの衝突で混乱して、せいぜいマニュアル対応しかできなかった……」

「でも、ISSのデブリ衝突確率って、十年単位で考えても〇・一パーセント以下なんでしょう? それって想定外でも仕方ないんじゃ」

「それはレーダーで捕捉している十センチ以上のデブリの話さ。宇宙には捕捉できないデブリが無数に漂ってるんだ。デブリがぶつかって『想定外』なんて、管制官失格もいいところさ」

 は厳しい口調で、自らを罰するように言う。気づけば語尾を伸ばす癖もやんでいる。

 事故原因がやむを得ないものだったことは、JAXAの公式文書でも、事故調査委員会の報告でも明らかにされている。それでも彼女がこうしてつらそうな表情を見せるのは、親しい同僚を目の前で亡くしたことによるのだろう。さらに言えば、彼女が泊まりがけのきつい仕事を選んでいるのも、そうした自責の念に駆られてのことかもしれない。

ほしちゃん、恨んでるだろうね、あたしを」

「でもそれは」

「いいのさ。彼女にはそうする資格がある」

 そう言うと、真理亜はうつむいた。言葉とは裏腹に、星乃との距離に傷ついているのはむしろ彼女のほうに思えた。

「真理亜さん」

「ん?」

「もうひとつだけ、いいですか?」

 彼女がうなずくと、僕は今日最後の質問をした。


「『エウロパ事件』って、知ってますか?」


         ※


 ──エウロパ事件って言うらしいぜ?

 りようすけがその話をしたのは、一昨日おとといのことだった。

 ISSでの船外作業中の『事故』により、宇宙飛行士のひこりゆういちが死亡、その妻であるあまがわは意識不明のまま地球に帰還、そして入院。数ヶ月後に息を引き取る。

 問題は、天野河詩緒梨の入院中に起きた。

 何者かがインターネット上に、詩緒梨の『殺害予告』を書き込んだ。

『天野河詩緒梨はそもそも崇高な宇宙飛行士の任務中に、管制室のを盗んでISS内の個室ボックスを悪用し、男を誘惑して性行為をするだけでは飽き足りず、妊娠までした不届きな女であり、そのような者にこれ以上税金で延命措置をする必要性はじんもない。だからこの俺が天野河詩緒梨の生命維持装置を破壊し、ここに正義を実行する』

 こうした内容を、犯人は繰り返しインターネットの掲示板に書き込んだ。さらに犯人は、ネットに書き込むだけにはとどまらず、その予告を実行に移した。夜間、天野河詩緒梨の入院している病院に忍び込み、彼女の眠る病室に侵入を試みる。このとき犯人は病室の窓にスプレーで落書きをするという不可解な行動を取り、警備員に発見されて犯行そのものは未遂に終わる。逮捕された犯人は、小太りでスキンヘッドの中年男性だった。本名・まさ。高校を卒業後に地元の会社に就職、しかし人間関係のトラブルにより退社、再就職もうまくいかずに自宅に引きこもって数年後の凶行だった。

 正樹は警察に逮捕され、公判では殺人未遂罪および住居侵入罪で有罪判決を下される。世間に与えた影響の大きさもあり実刑判決が下り、懲役刑となる。数年後、刑期を終えて釈放、それから行方知れず。以上の事件は、井田正樹が犯行予告をした際のハンドルネームにちなんで『エウロパ事件』と呼ばれる。

 ──なんでもネットでは『エウロパ神』とか言われて、ずいぶん有名人らしいぜ。ほとんどは悪ふざけだと思うけど、中にはガチの『信者』みたいなやつもいて、関連スレはちょっとヤバい雰囲気だった。気に入らない芸能人とか政治家とか、すぐに『正義を実行せよ!』って書き込まれて。

 正義を実行──それはエウロパの使ったネットスラングで、『殺せ』と同義だ。


         ※


「『エウロパ事件』って、知ってますか?」

 僕が尋ねた瞬間だった。

 は悲痛そうに顔をゆがめ、押し黙った。何かの核心を突いてしまった、というのが一目で分かる。けんに寄ったしわと、こわった顔つき。

 あれ、と思った。

 エウロパ事件そのものは未遂に終わっている。ひどい事件だが、両親の事故死の話よりも真理亜の顔がつらそうなのが気に掛かった。

「……知ってるよ」彼女は今日一番、低い声で答える。「誰に聞いた?」

「えっと、ネットとかで」

「そうか」

 彼女はもう一度「そうか、ネットか」と続けた。

 ──なんだ?

 様子がおかしい。

「ネットには、なんて書いてあった? 事件のこと」

「それは……」

 僕はりようすけから聞いた情報や、自分で調べた話を要約し、ざっくりと説明する。エウロパと名乗る男が、ほしの母親の殺害予告をしたこと。実際に犯行に及んだが、未遂に終わったこと。

「大したことない事件だ、と思ったろう?」

「え?」

「違うか? ネットではありふれた事件。炎上騒ぎ、犯行予告、実行、失敗。頭のおかしいネットユーザーの、よくある暴発。……そんなところか?」

 なんと答えてよいか分からなかったが、僕はうなずいた。実際、彼女の指摘は僕の抱いた印象のとおりだった。

「事件そのものは、未遂に終わった。犯人のバカ者は逮捕され、法の裁きを受けた。……でもね」

 そこで彼女の目が、もうきんのごとく鋭く光った。何かめ込んだものを、無理やり眼力で押さえつけるような表情。

 殺意、という言葉が浮かんだ。

「一度放った言葉は、消えないんだ。リアルでも、ネットでもね」

「どういう、意味ですか?」

「犯人は、ネット上に書き込んだんだ。あまがわは生きている価値がない、税金泥棒だ、犯罪者の延命装置を切れ、と繰り返し。犯人だけじゃない。お祭り騒ぎに便乗して、多くの者たちが書き込んだ。彼らは週刊誌の無根拠な記事を信じて、意識不明の詩緒梨も、すでに死んでいるひこりゆういちも、とにかくたたきまくった。ぞうごんあらしさ」

 インターネットでは『炎上』と呼ばれる、批判コメントの過熱現象が起きることがある。僕も過去の匿名掲示板や、まとめサイトと呼ばれるコメントの要約ページを確認したが、ひどいものばかりだった。意識不明の人間への中傷、すでに死んだ人間へのぼう

「それ、『誰が』読んだと思う?」

 誰が──どういう意味だ?

「弥彦はすでに宇宙で死んでいる。詩緒梨も意識不明だ。じゃあ、これを誰が読む?」

 の発言の意味が、最初分からなくて、僕は答えられなかった。

 だが、答えはおのずと出た。

「まさか」「そうさ」

 真理亜は視線を宙に固定したまま、答えを述べる。銀色の前髪が顔を隠し、今は表情がよく見えない。唇だけが、検察官が容疑を読み上げるように淡々と動く。

ほしちゃんだよ」

 言葉が出ない。

「みんなが便乗して、面白半分に投げた石つぶては、ぜんぶあの子に当たった。死ね、殺せ、正義だ、天罰だ。書き込まれた悪意は全部、十歳の女の子にぶつけられた」

「星乃が、掲示板を読んでいたと?」

「読みたかったわけでも、誰かが教えたわけでもない。でもね、そういうのは伝わってしまうんだ。とりわけあの子は頭が良くて勘が鋭い。ふとした拍子に耳にして、何かのきっかけで目にして、そうしてっていくと、そこには悪意の権化みたいな言葉の洪水があふれている。一度目にしたら、もう逃げられないだろうよ。次の日からパソコンを閉じたって、記憶は消せない。今、どこかで、誰かが、自分たち家族をふくろだたきにしている。亡くなった父を、目覚めない母を叩いている。そんなとき、あの子の純粋で、柔らかい心がどうなると思う? 父親に死なれ、意識の戻らぬ母を病室で眺め、たった一人で何千何万の悪意の矢を浴びせられた子供が、いったいどうなる?」

 ふと、心には一つのイメージが浮かんだ。

 空から雨のように降り注ぐ無数の矢。それを全身で浴び続ける十歳の少女。

 その体は真っ赤に染まっていく。

「……もう、こんなの見ることもないと思っていたけど」

 そこでは、ポケットからスマホを取り出した。指先で画面を操作し、僕に手渡す。

「これは?」

ほしちゃんの動画。昔のニュース映像を、誰かが勝手にアップロードしたやつさ。……見てみな」

 彼女に促され、僕は三角形の矢印をタップする。前に星乃からなぞの『通信』が届いたときも、こんなふうに真理亜のスマホで動画を見た気がする。あのときは三年前の星乃が、黒いシルエットで雑音混じりに映っていた。

 動画が再生されると、そこには一人の男性が映った。テレビでよく見かける芸能レポーターで、神妙な顔でマイクを握っている。スマホの音量を上げると、「現場の様子は静まり返っております」といったフレーズが聞こえ、それから黄色いテープのられたどこかの建物が映し出された。画面の右上には『入院中の宇宙飛行士、何者かに襲撃される』という文字が見える。

「これって」

「事件直後のやつ」

 真理亜は短く補足して、視線をそらす。映像を見たくないようだった。

 早口でしゃべるレポーターの言葉から、だんだんと事情が分かってくる。正面に映っている白い建物は病院であり、ちらりと映った玄関口には取材班らしきカメラマンやレポーターが大挙している。『エウロパ事件』の直後に、マスコミが現場取材に詰めかけたときの映像だろう。

 やがて、取材陣が色めき立つシーンがあった。事故現場らしき病室の窓際に、一人の人物が現れる。それは背の低い少女で、手にした雑巾のようなもので、おもむろに窓掃除を始めた。

 よく見ると、窓には何か文字が書かれていた。スプレーでした落書きのようなその文字は、カメラマンによってズームされ、『てんちゆう』と読めた。エウロパ事件の犯人が、病室の窓に残したメッセージが『天誅』だったという報道を僕は思い出した。

 星乃は手を伸ばし、雑巾でその文字をき取ろうとした。しかしスプレーで大書した文字はなかなかき取ることができず、彼女がその幼くきやしやな手で懸命に消そうとしている様子が痛々しかった。その様子を、何台ものカメラが映しており、ひっきりなしにフラッシュがかれた。それにもかまわず星乃は無言で、淡々と、天誅の二文字を消していた。途中で、看護師さんが慌てた様子で出て来て、雑巾を持った星乃を抱き留め、病室へと戻そうとした。またフラッシュが猛烈に焚かれた。

 窓から退場する一瞬、ほしがこちらに振り向いた瞬間があった。そこで僕はハッとした。

 星乃はにらんでいた。ひとみに涙を浮かべ、顔をこわらせ、歯を食いしばるようにして、十歳の幼い少女は、まるで世界のすべてを憎むように、こちらに敵意のまなしを向けていた。その顔すらも、フラッシュのじきにされ、報道陣は傷ついたな魂をお茶の間に垂れ流していた。母親をバッシングされ、あまつさえ襲撃までされ、てんちゆうなどというふざけた落書きで侮辱された少女の必死の形相に、カメラはまるで見世物のごとく明滅する光を浴びせ続けた。数十人の大人が、たった一人の傷ついた少女を取り囲んでいるのに、そこに言葉はなく、遠慮も気遣いもコミュニケーションもなく、ただ視聴率の取れそうな被写体として少女の悲痛な顔を撮り続けた。それはきっと、茶の間でテレビを見ている全員との間でも同じだった。

「星乃ちゃんはこの日を境に笑わなくなった」

 が視線を伏せたまま、話を再開した。その横顔は悲痛そうにほおが強張り、どこか画面の中の星乃と重なった。

「病院で、眠ったきりの母親を前に、あの子は何ヶ月もずっと病院に通い続けた。母親に話しかけ続けた。お母さん、お母さんってね。でも母親は答えなかった。そのまま逝った。無念だったろうね。も、りゆういちも。両親の遺影が並んだ仏壇の前で、泣きもせず、わめきもせず、ただひとりぼっちでじっと座っていたあの子の背中が忘れられないよ……」

 気づけば、真理亜の体は震えていた。僕はただ、何も言えず、その場に立っている。

 ──そうだったのか……。

 今の話は初耳だった。だが、僕はそのことを知って、驚きよりもどこか納得していた。星乃は両親のことが大好きで、両親の思い出は良く話してくれた。でも、両親の事故のことは話したがらなかったし、自宅に引きこもるようになったきっかけも明かさなかった。星乃の知られざる人生のピースが、真理亜のもたらした情報でわずかに埋まったような気がした。

 夏休み企画に来ている子供たちの声が、楽しげに敷地内に響く。

 どこかで手製のロケットが飛んだ。

 それは空高く舞い上がり、やがて地球の意志により、地面に墜落した。


         7


「友達から聞いたんだけどさ」

 それから一週間ほどして、が『調査結果』を持ってきた。

 いつもの予備校が終わり、いつもの喫茶店でのことだ。

「お、モリマンもやっと持ってきたか」

「うっさいわね。私はあんたと違って、ネットでちょちょいと調べるだけじゃないの。ちゃんと関係者に取材してきたんだから。あとモリマンいうな」

 りようすけあいさつ代わりのチョップをすると、僕に向き直る。

「でさ、宇宙人……あまがわのことだけど」

「ああ、何か分かった?」

「同じ中学の子の話だと、天野河ってろくに学校来なかったから、ほとんど話をした人がいないんだよね」

「なんだ、じゃあ話はおしまいじゃん」

「あんたは黙ってなさいよ」

 テーブル下で、ガンと音がする。涼介がグアッと悲鳴を上げる。

 店内を流れるBGMが、聞きなれた邦楽から洋楽に切り替わる。DJがラジオで曲紹介を始める。

「天野河と話してた子はいなかったけど、うわさを知っている子はけっこういたわ。特に、ネットの話とかで」

 ネットの話、と聞いて僕は思い出す。

 それは先日のの話。いわゆるエウロパ事件と、それに端を発する炎上騒動。

「学校裏サイト、ってあるじゃん。その学校のことで、匿名でカキコミできる掲示板」

「ああ、そんなのあるね」

 学校に限ったことではないが、ネット上には学校や企業、団体などに関する様々な匿名掲示板がある。学校裏サイトなら、その中学校なり高校なりのうわさばなしや情報を、生徒や関係者が匿名で書き込めるサイトのことだ。

「そこにさ、天野河の話、けっこう書いてあったらしいんだよね」

 とっさに悪い予感がする。

「どんなこと、書かれてた?」

「んー、別に大した話じゃないよ。ほら、あの子有名人だから、両親が宇宙飛行士の話とか、ウィキペディアのコピペとか。あと、ネットに転がってる昔の写真とか」

「へえ、俺と同じだな」

「ちょっとロリコンは黙ってて」

 机の下でガンと音がして、涼介がギャッとうめく。本日二度目。

「すでに掲示板はなくなってるし、悪口とか、いじめっぽいことはそんなに書かれていなかったみたい。……でもね」

 そこで伊万里が声を潜める。

「犯行予告、あったんだって」

 ドキリとする。

「犯行、予告?」

「ほら、前に涼介が言ってたじゃん。天野河の母親のことで、犯行予告した事件あったって。エル、エウ……」

「エプロン事件」「エウロパ事件だ」涼介の間違いを、即座に訂正する。

「そう、そのエウロパ」が思い出した、というように手を打つ。「そいつが、あの子の中学の掲示板にも現れたんだって」

「なんだって?」

 思わず手が動き、カフェラテにぶつかる。揺れた液面がちゃぷんと跳ねる。

「といっても、本人かどうかは知らないけどね。とにかくエウロパってハンドルネームで、あまがわを意識するような犯行予告を書き込んでたらしいの」


 近日中に正義を実行します


 文面はそれだけだったという。ただ、読む人が読めば、『エウロパ』が『正義を実行する』というこの二つで、殺害予告であることは一目りようぜんだ。

「カキコミは一回だけか?」

「ううん、何度かあったって。でも全部同じ文面。最初はみんな面白がったり、怖がっていたりしていたけど、ワンパターンでつまらないからすぐに飽きちゃったらしいわ。で、そのうち掲示板も学校にバレたらしく、閉鎖されておしまい」

「そんなことが……」

 エウロパ事件にそんな後日談があったとは初耳だった。

ほしは、このことを知っていたのか?」

「さあ……そこまでは」伊万里は首をかしげる。

 知っていたかもしれない。いや、知っていただろう。直感的にそんな気がした。

 星乃は勘がいい。ネットでの情報収集にもけている。引きこもり特有のネット依存で、そういうことにはアンテナが高い。とりわけ自分の中学校のことで、多少なりともネットで話題になったことなら知っている可能性が高い。

 エウロパの犯行予告。それが母親の死後、自分の中学にまで追いかけてきた。

 星乃はどんな気持ちだっただろう。

 もちろん、この『エウロパ』が、本物──逮捕されたまさであるとは限らない。むしろ誰かが勝手に名乗っていると考えるのが自然だ。そうだとしても、いや、だからこそ一層その悪質さは際立つ。当時の星乃は中学生だ。しかも両親の死からそれほどっていない。そんな時期に、かつての犯人の名で自分への殺害予告があったらどう思うだろうか。

 ──みんなが便乗して、面白半分に投げた石つぶては、ぜんぶあの子に当たった。死ね、殺せ、正義だ、天罰だ。書き込まれた悪意は全部、十歳の女の子にぶつけられた。

 の言葉を思い出す。

 書き込んだほうは冗談だったかもしれない。でも、星乃はどう受け止めたのか。十代の少女が、それでどんな心の傷を負ったか。

 ──あ。

 ふと、あることに気づく。

「なあ、ウチの高校って、どうなんだ? こういう裏サイト、あるのか」

「……それ、なんだけど」

 が言いにくそうに口ごもる。スマホを握る手が、小さく握られる。

 その反応で分かった。

「あるのか」

「うん」

「もしかして……」

「うん、そう」

 彼女は低い声で告げる。

「……私も、気になって調べたら、それっぽいの出てきて。それでさ」

 あとは聞かずとも分かった。

「あ、あったよ、だいクン」

 りようすけがスマホの画面をこちらにかざした。

『月高 交流掲示板』

 そこには例のハンドルネームで、確かにこう書かれていた。


『正義を実行します』


         8


 自然と足が向いていた。

 喫茶店で二人と別れ、歩くこと十数分。

 顔を上げれば、そこはいつものアパート。銀河荘。

 雑草が伸びきった、無駄に広い前庭。やや奥に引っ込んだような、八戸しか入れない小さな二階建てのアパート。

 涼介は言った。

 ──そんなクソサイト、削除しちゃえばいいじゃん。

 それに伊万里が返した。

 ──無理よ。どうせすぐに別のサイトが出来て、同じことになるから。

 そう、無理なんだ。少なくとも根本的解決にはならない。

 も言っていた。何度も申請した、と。弁護士にも、警察にも、相談窓口にも、専門業者にも相談した。コメントの削除を申請し、掲示板の閉鎖を申し立て、あらゆる法的手段も駆使した。

 でも、無駄だった。

 ──いてくるんだ。ネットの連中は、何回でも、何十回でも。仮に逮捕者が出たって、それじゃ終わらない。特定のリーダーがいるわけでも、何かの組織があるわけでもないからね。どんなにたたいてもいてくる。

 第二、第三のエウロパが。

 ──これさ、ホントに生徒なんかな。

 りようすけはこんな意見を言っていた。

 ──ネットのカキコミってさ、ふたを開けたら全然別の世代だったりするじゃん。カキコミでバトルしてたら、相手が小学生だったり、あるいはすんげえオッサンだったりさ。だってさ、『初代』のエウロパも、最初は学生のふりして書き込んでたろ。で、捕まってみたら三十すぎたオッサン。ウチの掲示板に書き込んでるやつも、生徒のふりしたオッサンだったりしねぇのかな。でねぇと気分悪いよ。同じクラスのやつが、こんなん書いてたら。

 実は正義感の強い涼介らしい発言をして、彼はテーブルのを軽くばした。

 それを受けたはこう返した。

 ──じゃあさ。たとえば書いたのが、あたしらのもっと上の世代としてさ。三十歳とか、場合によったら四十歳や五十歳の人が、あたしらみたいな高校生を相手にしてるわけ? たとえば五十歳のオッサンが、十五歳とか十六歳の子供相手に殺害予告とかしちゃってんの? マジ、キモくない?

 そう、普通に考えれば異常だった。

 大の大人が、自分の子供くらいのとしの相手に、匿名で悪口を書き込み、挙句に殺害予告。

 ──でも。

 ネットではときに、異常が日常となる。リアルで異常なことでも、それがあふれているのがネット空間だ。いくらでもコメントという名の石を投げられる。ぶつけた相手がどんな傷を負うのかを知ることもなく、投げて、ぶつけて、すっきりして、ブラウザを閉じて、誰からもとがめられない。

 まるで宇宙に漂う無数のデブリみたいに、書き込まれたコメントはネット空間を漂い、そう、ほしの両親がデブリの衝突で死んだように、誰かにぶつかっても、デブリを捨てた本人が責任を問われることはない。

 銀河荘を見上げながら、少しだけ分かったことがある。

 ──地球人は嫌い。

 いつか星乃の言った言葉。その意味が今なら分かる。

 ──地球人は愚かだから。頭、悪いから。

 インターネット掲示板の中傷も、父親の不倫を報じた週刊誌の誤報も、さんざん持てはやしてから突き落とした世間も、マスコミも、何もかも──

 全部、地球人だ。


 鉄さびだらけの階段を上り、ゆうの差す廊下を歩き、いつもの部屋の前に立つ。

 インターフォンを押す。

『……帰って』久しぶりに、声を聞けた気がする。

「あのさ、ほし

 くまでもないことだと分かっていたが、それでも今日は訊いてしまった。

「地球人、嫌いか?」

『……は?』

 あきれたような声のあと、やっぱり答えはこうだった。

『愚問ね』


         ○


 その日の帰り道。

 ポケットが震えた。スマホを取り出すと、そこには一件の着信。

「え……?」

 文面を確認した僕は、思わず立ち止まる。


【明日は何の日?】


 メールにはそれだけ書かれていた。タイトルも何もなく、本文にその一言だけ。

 送信者欄を見ると、そこにはデタラメに並んだような英数字の列。いかにも迷惑メールといった感じで、すぐに削除しようとして、はたと考える。

 明日は何の日──何かが引っかかる。明日は日曜日。八月最後の。それ以外に何だというんだ? すでに夏期講習も終わり、これといった用事も約束事もない。

「明日……」

 スマホをい、また歩き出す。なんだか落ち着かない気分で帰り道を歩いていると、

「あ……」

 ずきりと、みぎが痛んだ。とっさに手で押さえると、そこには赤色の液体がぬらぬらと手のくぼみにまっている。

 これは……!

 次の瞬間、脳内に光が走った。それはこれまでもたびたび体験した『光の矢』。まぶたの裏に無数の光が現れ、それは突き刺すように僕を通り過ぎる。スペースライトのときも、そしてスペースライト後にも何度か味わった不可思議な現象。

 僕の記憶を呼び覚ます光。

 ぽたり、ぽたり、と血を路面に落としながら、僕はつぶやいた。


……」

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