第四章 エウロパ
1
それから数日、僕は予備校に通いつつ、『網膜アプリ』のことを調べてみた。
株式会社ジュピター社が提供する、生体認証アプリ。このアプリはまだベータ版で、広くテスターを求めている。テスターになる見返りとしては、ジュピター社の扱っているアプリのほとんどが無料になるということで、若者を中心にかなり普及しているらしい。とりわけ『FINE』というSNSで使える『スタンプ』が大人気となっており、スタンプ欲しさに網膜アプリのベータ版テスターになる者が急増していた。
──網膜をスキャンするアプリに、会社名はジュピター、か……。
ジュピター社の設立はわずか二年前。本社は中野区で、代表取締役には『
──偶然だ。
網膜スキャン自体はそれほど珍しい代物ではない。網膜内の血管のパターンは、人間ごとに固有で、指紋よりも個性が現れるらしい。すでに国家や企業などでは機密を守るために網膜認証システムを導入しているところは数多く、それが電化製品に応用されただけなのだから、驚くには値しない。
しかし……。
今いる二〇一七年当時、網膜認証と似て非なるものとして、『
教室を見渡すと、講師の目を盗んでスマホをいじっている女子高生が目につく。スマホを右目に近づけ、さっと青い光が流れて、例の『網膜アプリ』のロックを解除している。ここ数日、教室でも街中でも、いたるところで同じことをやっている人を見かけた。爆発的に普及している、というネットの情報はどうやら本当らしかった。
──何か、変だ……。
その感覚は、じわりと背筋にうすら寒いものを吹きかける。足元が揺らぐような、崩れるような、生理的に嫌な感覚。
教室では、スマホを目の前にかざし、『網膜』をスキャンする女子高生たち。誰も彼もが、何の疑いも持たず、得体の知れぬ光で自分の
違う。この世界は違う。
僕の知っている過去とは、わずかだが、しかし確実に──
ズレている。
○
『プラネタリウム?』
僕は二枚のチケットを握り締めつつ、必死にアプローチを続ける。
「ほら、去年リニューアルした天文台のやつ。
『だとしても、どうして私があなたと行かなければならないの?』
「なんだよ、おまえこういうの好きだったろ? ほら、せっかくタダ券あるんだしさ」
『どうせそれ、あの女にもらったものでしょ? だったら
「あの女って、
『前にも言ったわよね。あの女は保護者でもなんでもないって。あんな泥棒猫』
「泥棒猫? 真理亜さんが? どういう意味だ?」
『あ……』
一瞬、話してしまったことを後悔するような声を出し、それから『なんでもないわ』と会話を打ち切った。
「おい
『はぐらかしてないし、そもそもあなたには関係ないことよ。あと──』
その一言で、いつものごとく会話が打ち切られる。
『星乃って呼ばないで』
プツリ、とインターフォン『
──ダメか……。
これなら絶対いけると思ったのに……。
前にこのプラネタリウムに誘ったとき、星乃はとても喜んだ。館内でも大はしゃぎで、だからこれなら絶対うまくいくと思ったのだが、結果は無残なものだった。
切り札を失い、意気消沈した体を引きずるようにアパートの階段を下りる。カン、ベコ、カン、ベコ、と金属の傷んだ階段が変な音を立てる。
この間、思いつく限りのことはすべて試してみた。
たとえば星乃が好きだった博物館、展覧会、講演イベント、レストラン、書籍、漫画、
──何が足りないんだ?
それはアプローチを始めてから、ずっと僕を支配する疑問。どうすれば星乃と仲良くなれるのか。言い方を変えれば、十七歳当時の僕が、どうやって星乃と親しくなったのか。
──思い出せない。
すべての記憶が欠落しているというわけではない。星乃の趣味も、
何かがおかしい。何かがやはりズレている。何かとても、大事なことを忘れている──
「ウッ……」
ズキン、とうずくような痛みが、右の眼球に走る。
まただ。また、『これ』が。
血の涙。
視界がブレて、ピントの合わないカメラのように二重に
あれから何度も病院に行った。診察してもらう眼科もハシゴした。しかしどんな検査をしても判を押したように言われるのが「分かりません」の回答だ。
「結膜炎……でもないようですし、どうしてそんなに出血したか分からないんですよ。それらしき患部が見当たらないんですよねえ……」
特殊な顕微鏡で、いぶかしげに診察する医師の顔を思い出す。どの眼科を受診しても、「何かあったら連絡してください」とおざなりな一言で僕は帰された。実際のところ、血を
僕は目に持病があったこともないし、ぶつけたこともない。
原因不明の、血の涙。
思い当たることがあれば、あの文章だった。
【『スペースライト』に伴う副作用……頭痛、めまい、吐き気、幻覚、視覚障害、記憶障害、脳神経の不可逆的な破壊、ショックによる死亡】
網膜をスキャンする『スペースライター』。その副作用かもしれぬ僕の『血の涙』。
網膜をスキャンする『アプリ』。その副作用かもしれぬ
すべてが
──いったい何が起きているんだ……?
2
「お兄ちゃーん、こっちこっち!」
駅に着くと、幼い顔立ちの少女が元気に手を振っていた。
前にした約束どおり、今日は
「
「お母さんは『大ISS展』のほうが忙しいんだって。今日は最終日だから
「あー、そういうのに引っ張りダコだもんな、あの人」
「というか、デートに母親同伴はないでしょ」
「デートなのか」
「デートです」
小さい葉月の手を引いて、近所の公園で子守を任されていた僕としては、どうにもそれがピンと来ない。だいたい
本当は、こんなことをしている場合ではなかった。
下り電車に乗り、二つ先の駅で降りる。
駅前から十分ほど歩き、
「おい、あんまり引っつくな。歩きにくいぞ」
「それが目的で来たんだよ」
「そうなのか……」
あっけらかんと言い放ち、葉月はエヘヘと笑って僕の腕に思い切り抱き付く。なんだか恥ずかしいが館内は絵に見入っている人が多いので、誰かが見とがめるようなこともない。
三十分ほどで常設展を見終わり、特別展に差し掛かったときだった。
「あ……」
とある一枚の絵画の前で、僕は立ち止まった。
それは何気ない、周囲と比べてやや小さなサイズの絵だった。だが、そこに描かれていたものに僕の
宇宙空間を思わせる
タイトルはそのものずばりだった。
『SPACE BABY』
「……お兄ちゃん?」
声を掛けられて、ようやくハッとする。
まるで絵画に意識を吸い込まれていたかのように、僕は直立不動でいた。
「あ、いや、なんでもない」
手を引かれ、僕はその場を離れる。
ちらりと制作者のプレートを見ると、そこには『イオ』とサインがあった。
「あれ……?」
展示を見終わり、ミュージアムショップをぶらぶらしていたときだ。
僕は画集コーナーにたたずむ、一人の少女の姿を見とめた。頭の上に大仰に盛った金髪に、ゆったりした薄手のカーディガン。
「──
声を掛けると、「はい?」と彼女は振り向き、それから僕の顔を見て目を見開いた。
「ヒッ……ヒラノ!?」
大きな声を出してから、慌てて口を
そこにいたのは
──そんなに驚かせたか?
「ヒラノ、どうしてここに?」
「あー、ちょっと知り合いがチケット持ってて。美術展の」
「ふ、ふぅん、そうなんだ」
「足はもう平気なのか?」
「うん、大丈夫」彼女はぴょんとその場で跳ねてみせる。「お医者さんがもう普通に飛んだり跳ねたりしてもいいって」
「良かったな。今日は?」
「えっとね」
彼女の顔はまだ赤く、やけに早口で言う。
「ほら、この前話した進路の話。ここの卒業生に業界でもけっこう有名なデザイナーがいて、今回の美術展にも
「そうか……」僕は彼女の行動力に関心する。「伊万里はまだ若いのに、すごいな」
「なにそれ偉そう。ヒラノ、あたしと同い年じゃん」
彼女は軽く僕の腕を
──どうしてだろうな。
伊万里には夢がある。だけどその夢は、現時点ではかなり難易度が高いはずだ。ファッションデザイナーなんて花形の職業、あまり詳しくない僕でも競争率が高いのは分かる。それこそ『九十九パーセント』実現できない夢。だけど彼女は、この前夕方の公園で話したときと同じように、迷いのない口調で言う。
「あれから両親にも、もう一度進路の話をしたの。そしたら、ちょっと妙なことになってさ」
「妙なこと?」
「どういう風の吹き回しか知らないけど、とりあえず頭ごなしにダメダメ言われることはなくなったんだ。なんか、私が事故に遭ったの、親の中では進路のことで
「あー」
それは少し理解できた。さしずめ、年頃の娘にまた家出されたら困るということか。
「だから、最近はちょっと態度変わってきてさ。それ関係のパンフレットとか、詳しそうな知人とか、けっこう協力的なの。ママも調べるから、あなたももっとよく情報集めなさいって」
「へえ」
「急に態度が変わってびっくりしちゃった。なんか、ママも若いころアパレル系の店で働いてたことあるらしくて、今度友達に聞いてきてくれるって」
「良かったな」
「ま、パパはまだ反対だから、どうなるかは分からないけどね」
答えながら、まだこの前の議論が頭の中を回っていた。
夢を追う人生。夢を
懸念はもうひとつあった。
デザイナーという将来の進路はいい。それは伊万里の夢だし、ぜひ
──本当に、これで良かったのか?
気づけば、伊万里がじっと僕を見つめていた。視線を感じて「なに?」と尋ねると、彼女は「あ……」と口を開け、
「なんか、ヒラノ、変わったよね」
「変わった?」
「変わったっていうか、あたしが気づかなかっただけかもしれないけど。……ヒラノって、もっとクールで、他人に干渉しない人間かと思った。どんな物事も無難にこなして、熱くなって失敗したりしないタイプ」
「まあ、わりと冷めてるほうかもな」
「でも、この前は違った」彼女の顔が少し熱を帯びる。「あのときのヒラノ、なんか、すごかった。大声で叫んで、命がけでダイブしてきて。いつものヒラノじゃないみたいで、びっくりしちゃった」
「いや、あれはなんか……必死でさ。驚かせて悪かったな」
「ううん、いいの。だってさ──」そこで彼女はさらりと言った。
「あのときのヒラノ、すごくかっこよかった」
「え?」僕は思わず彼女を見る。
彼女は言い終わったあと、僕と視線を合わせて「ん?」と首を
「あ、あ、ベつにそういう意味じゃないよ? 勘違いしないでね?」
そのときだ。
「あ~~~~っ!!!」
「お、お兄ちゃん、何してるのっ!?」
「ちょっと目を離した
葉月は僕の右腕を両手で取り、抱き寄せるようにして引っ付く。それからじろりと視線を伊万里に向けて、「誰? この女」と不機嫌そうに尋ねた。
「クラスメートの
「クラスの? ふぅん……」葉月はいぶかしげに伊万里をじろじろ見たあと、
「私、お兄ちゃんの『
許婚、の部分を強調しながら
「いいなずけ!?」伊万里が目を白黒させる。「ちょっとヒラノ、どういうこと?」
「真に受けるな。こいつが勝手に言ってるだけだ」
「ひどいお兄ちゃん! 約束したのに!」
「小一のときな」
「なんだ……そういうこと」伊万里がホッとした顔になる。
「葉月は近所に住んでて、まあ幼なじみ。昔からよく遊んだり、今日もこうやってお
「お守りじゃないもん。デートだもん」
「なるほどね。だから小学生が美大にいるんだ」
「中学生です!」
「あらごめんなさい。あんまりちびっこいから間違えちゃった」
「ちょっとお兄ちゃん、何この性格悪いデカ乳ヤンキー」
「誰がデカ乳ヤンキーよ! ヒラノ、なんなのこの子? 超ムカツクんだけど」
伊万里は大きな胸をゆさゆさと動かして抗議してくる。一瞬、葉月が自分の胸を押さえて悔しそうな顔をしたのが見えた。
「待て待て、二人とも落ち着けって」
「行こっ、お兄ちゃん」
「そうだな。そろそろ腹も減ったし、三人でごはんでも食べよう」
「え?」「え?」
二人の少女は同時に意外そうな声を上げた。
「……ん?」
僕は変なことを言っただろうか。
3
「ヒラノ、さっきのお店、おいしかったね」
「まあまあだったかな」
「絵画に興味があるの? 今日も美術展を見に来てたし」
「そうだな、絵画っていうか、星空のほうかな、好きなのは」
「あ、宇宙が好きって前に言ってたもんね」
「そう。星とかロケットの話は基本的に好きなほう」
二人で肩を並べながら、
「そうなんだ、ヒラノ、そういうのが好きなんだ……」伊万里は興味深そうにうなずいている。というか、今日は妙に距離が近い。さっきから肩が何度も触れ合う。
すると、
「お兄ちゃんはさー、宇宙の話とか大好きだよね、あと、小さいころから私とよく天体観測したよね。二人っきりで」
僕と伊万里の間に、ボコッと少女が割り込む。
「ちょっと、私とヒラノが話してるんだけど?」
「今日は私とお兄ちゃんのデートなんだけど?」
二人は
──なんなんだ?
さっきからこんな感じで、葉月が割り込んだり、伊万里が奪い返したり、自動車レースみたいなポジション争いをしている。
しばらくそんな争いが続いたあと、
「あーあ、せっかくのデートが台無し」葉月がぼやいた。
「こんなことなら、『大ISS展』のほうに行くんだったなあ。あっちは最終日だったし、ヤンキー女に会うこともなかったし……」
──え?
何気ない葉月の言葉に、僕は立ち止まった。
大ISS展。最終日。それらの言葉が僕の脳裏に──いや、
「ヒラノ!」伊万里が叫ぶ。「み、
「右眼?」
僕は右眼のあたりを手で触る。ぬるり、とした感触。手のひらに付着した赤い液体。
血の涙。
その瞬間、僕の
「
「え?」
「ISSのやつ、持ってるか!?」
「あ、うん。一応バッグに入れてあるけど……」
「貸してくれ!」
僕がガッと両肩を
「ごめん! 急用思い出した!」
僕は
──どうして今まで気づかなかったんだ!
『ねえねえ、ISSの実物大モデル再現展示だって! 行ってみる?』
葉月に誘われたとき、本当は大ISS展のほうに行くはずだった。だけど僕はそれを断り、『星空のアーティスト展』にしてしまった。あれは、
──同じだ。
過去はズレてしまっている。その原因は僕だ。スペースライトした僕自身が、過去を、未来を、運命を、改変している要因なのだ。
──十七歳の僕は、本当は今日、行っていたんだ。ISS展へ。なぜなら、ISSに嫌な思い出はないから。将来星乃がそこで死ぬなんて知らないから。
そして展示の最終日、偶然に、本当に偶然に、両親の思い出の写真パネルを見に来ていたあいつと、会場でばったり出会う。彼女は両親の写真を見ていて、そして振り返った彼女は僕を見てびっくりして、後ずさったところで写真パネルを割ってしまい、指先に
──あのときだ。
僕と
時計を見る。すでに十七時を回っている。
大ISS展は十八時で終了だ。ここから展示会場までは電車だと一時間弱、それだと間に合わない。だとすると駅前でタクシーを拾うか、それならギリギリ間に合うかも──
頼む、間に合ってくれ……!!
タクシーを飛ばすこと数十分。
到着した展示会場はすでに暗くなりかけていた。
「すみません、これ……っ!」
僕は受付の係員にチケットを差し出す。
「あの、最終入場時刻を過ぎておりますので、本日は……」
「お願いします、どうしても大事な用なんです!」
「そう言われましても……」
しばらく押し問答になり、何事かと警備員が寄ってくる。
──まずい、時間がない!
時刻は十八時まであと五分。
ここで待てば星乃が出てくる……? いや、きっとそれではダメだ。
あの場所で──両親の思い出のパネルの前で、星乃はあのとき──
泣いていた。
彼女の感情が、揺さぶられていたあの瞬間。あのタイミングだからこそ、彼女の
今しかない。こんなチャンスは二度とない。
「すみません……っ!!」
僕は受付のバーを強引に突っ切る。「あっ、お客様……!?」と係員が叫ぶ。「ちょっとキミ、待ちなさい!」と警備員が追ってくる。
だけどそんなことはかまわない。
──星乃……っ!
僕は走った。
終了間際、まばらになった会場で、他の客を
そしてたどりつく。
ずらりと並ぶ写真の中、そこだけ大きな額に飾られた一枚のパネル。
いた。
その場所に、一人の人物が立っている。白い服を着て、帽子を
「
叫びながら、僕は駆け寄る。名前を呼ばれた少女がびくりとして、振り向く。
だが。
「あ……」
その少女は星乃ではなかった。くるりと肩口でカールした髪に、画家みたいなベレー帽を被った少女。後ろ姿が星乃と似ていたが、正面から見るとはっきり別人だった。
「あ、すみません! 間違えました、人違いです!」
「へえ、奇遇だね」
相手の少女はにやりと
「え?」
「ほら、私だよ、私。覚えてない?」
「えっと……」
「なんだ、忘れちゃったの? まあ仕方ないか、そういうものだものね」
「そういうもの……?」
「そう」
彼女はくすりと微笑む。髪の毛をくるくると指先でいじりながら、猫のような口元で笑う姿は、どこか星乃と似ていた。
「ねえ、君さ」ベレー帽の少女はさも親しげに尋ねてくる。「『食いログ』って好き?」
「は? 食いログ?」
それは飲食店に点数をつける大手レビューサイトの名前だ。
「あれ、便利だよね」少女は僕が口を挟む間もなく続ける。「『食いログ』『グルメレビュー』『ホットペーパー』、みんな大好きレビューサイト。3・5以上なら安心安全、コスパ良し」
自分の言葉にうなずきながら、僕に口を挟む
「だけどそれだと、『自分の好きなもの』は食べられないんだよね」
「え?」思わず口を挟む。「食いログ3・5ならハズレはないだろ」
──あれ?
どうして僕は見知らぬ少女に反論しているんだろう。自分でも理解できない。少女には独特のオーラがあり、なぜか絡めとられるように僕は会話に参加してしまっていた。
「考えてもごらんよ、味の好みなんて人それぞれじゃない? 『自分が』一番食べたいものを探そうと思ったら、当たり前だけど『自分で』お店を探さないと分からない。それは『食いログ』のレビューが低い店かもしれない。もしかしたら近所の定食屋さんかもしれない。一周回ってお母さんのお
「それは、そうだけど……」
どうして僕は
「自分で確かめたわけでもないのに、インターネットに載っているレビューや点数、ランキングを見て、知った気になっている。本当は味の好みなんて、自分で実物を食べなきゃ分からないのに、みんなが他人の言うことを信じ切っている」
「でも、それが一番コスパいいだろ。少なくともハズレの店を引かないで済むんだから」
「うんうん、そうだね、そのとおりだよ。食べ物ならいいんだよ、コスパでもなんでも。仮にまずくても『次回』のランチで
少女の
「人生は、違うんだな」
「人生?」
「だってさ、人生はランチと違って『次回』がないんだよ。一回きり。それでおしまい。失敗しても選び直すことはできない。だから他人のレビューやランキングなんてどうでもいいんだ。──だからね
──え?
こいつ、なんで僕の名前を?
「君の人生にレビューできるのは君だけなんだ」
「…………」
「覚えておくといいよ」
──どういう意味だ?
にわかには発言が飲み込めない。そんな僕を残して、ニッと
「あっ」
そして間抜けな僕はやっと我に帰る。
──そうだ、
慌てて周囲を見回す。少女との問答に気を取られ、肝心なことから注意が飛んでいた。何をやっているんだ、僕は。
時計を見る。しかし、不思議なことに十八時ちょうどで、時刻が全然進んでいない。
「あれ?」
時計が止まっている?
館内では切ないメロディが流れ続けている。「間もなく閉館です」のアナウンス。
「星乃……」
僕は
そのとき、ポン、と肩に手を置かれた。
「あ……」
振り向くと、そこには僕のよく知っている銀髪の女性。
「なんだ
本日のゲスト出演を終えた
4
銀河荘の建物を前にして、僕は見上げるようにして立ちすくむ。
あれから一週間が過ぎていた。
うまくいったことがあるとすれば、皮肉にもそれは模擬試験の結果だった。
過去の記憶から出題分野を思い出し、ピンポイントでヤマを当て、なんとか格好のつく点数が取れた。八年のブランクがあったことを考えれば
──昔からそうじゃん。試験の点数も、学校の課題も、おまえは最小限のコストで要領よくクリアーしてたろ。定期テストのヤマ当てとか神だったし。
スペースライト前、高校の同窓会で言われたことを思い出す。
昔からそうだった。ヤマ当てはうまかった。要領も良かった。何事もそつなくこなした。学校の行事すらそうだ。親や教師に怒られない程度に。クラスで浮かない程度に。
小さいころ、サッカーが好きだった。だから地域の少年サッカーチームに入って、懸命に練習した。しかし、どんなに朝から晩まで練習しても、
幸い、僕は勉強もできるほうだった。要領だけは良かったので、国語も算数も理科も社会も、授業を受けるだけで人並みの点数は取れた。しかしどんなに頑張っても、クラスで一番できる
そんなふうに、僕はコスパを重視して生きてきた。でもそれは僕のせいじゃなく、緩やかに沈みゆく現代日本に生まれた以上は当然の選択だ。がむしゃらに頑張れば出世できて、年収が増える時代はとっくの昔に終わった。バブルも高度成長も過去の遺物で、景気回復もトリクルダウンも
でも、違った。
僕はまだ、星乃とまともに会話すらできていない。友達にすらなれていない。いつも門前払いを食らい、すっかり嫌われてしまった。思いつくあらゆる手段を講じてみて、もう策がない。完全に手詰まりだ。
──おかしい。僕は間違ったことをしていないのに。
作戦は
夏休みはもうすぐ終わる。そうしたら二学期が始まり、時間はますますなくなる。最大の問題は、それから先の展望がないことだ。この世界で──二〇一七年という過去世界で、僕が持っている最大のアドバンテージは『記憶』だ。未来に起きることを知っているという『予測』と言い換えてもいい。とにかく、これからはそれが一切通じない。なぜなら、夏休みが終わったあとの僕の『記憶』は、すべて星乃と親しくなり、アパートに出入りするような仲になったあとのものだ。今のように、顔すらまともに合わせられない状態での未来なんか知らない。
すべてが狂ってしまった。今ここにいるのは、ちょっと若返っただけの、知識も経験もない、ただの無職の二十五歳だ。高校生らしい若さも感性も失い、『予測』という唯一の武器すら失った存在。無職で、無一文で、バイト先すら全滅した、ゴミを
いったい僕は、何を間違ったんだ? なんでうまくいかないんだ? なんで一周目も二周目もうまくいかないんだ?
僕は人間関係で失敗したことはない。誰とでもほどよい距離で付き合い、ほどよく仲良くなった。集団で浮いたことはなく、かといって目を付けられたこともない。空気を読み、衝突を避け、常に一定の距離で関係を築く。気の合う相手と友達になり、そりの合わぬ相手とは無理に付き合わない。ときには融通し合ったり、助け合ったりするが、決して相手の事情には立ち入らない。それが一番コスパの良い人間関係だ。だから、誰かと決定的に対立したことがない。今の
だからこそ、どうしていいか分からない。僕は人間関係を『修復』したことがない。悪化する前に離れて来たから、こじれた相手と仲直りをしたことがない。そういう経験を積んだことがない。テストも就活も人間関係も、僕は無理そうなことに挑んだことがないのだ。
どうしよう。本当にどうしよう。星乃は気難しい。冗談抜きで、世界一の人間不信のような少女を相手に、僕にはなすすべがない。おしまいだ。このまま夏休みが終わったら、そこから先は僕の知らない未来。
もう駄目だ、
本当に、絶望的に、おしまいだ──
「あ、いたいた! ヒラノー!」「
思考に割り込むように、大きな声が聞こえた。見れば、道の向こうから二人の男女が走ってくる。
「りょ、
「いやー、やっぱこっちかー」涼介は息を切らせながら、僕の前で止まる。「駅前のゲーセン、二階席まで探して損したわ」
「ほら、あたしの言ったとおりでしょバカ涼介」
「バカっていうな、バカ」
「二人とも、どうして……」
僕は友人の顔を交互に見つめる。
「二人で手分けして探したんだよ、大地クンを。な?」
「だってヒラノ、なんだか最近ずっと思いつめたような顔してるんだもん。講義だって上の空だしさ。だから、気になって……」
「そうそう。何か悩みがあったら相談乗るよ。たまには俺らにも頼ってよ。ってか──」
涼介は伊万里と目を合わせ、それから二人の意志を代表するように告げた。
「
「……え?」
「ほら、大地クン、いっつも俺らを助けてくれるじゃん。俺が授業寝ててもノート見せてくれるし、試験のヤマ当ても神だし」
「そんなこと、別に大したことじゃ……」
「いやいや、大地クンはすげえって。俺、今回の夏期講習も、大地クンいなかったら絶対続いてないし」
「実際サボッてるじゃん」伊万里が突っ込む。
「半分は出てるだろ。つーか、俺のことはいいの!」
涼介は話を戻すように叫ぶ。
「とにかく、俺は大地クンの助けになりたいんだよ」
「あたしもそう。相談に乗ってもらったし、それどころか命まで助けてもらったし」
「いやそれは……」
僕は感謝されるようなことは何もしていない。
「俺、力になりたいんだよ。大地クンの」
「あたしも同じ。ヒラノに何かしてあげたい」
「あ……う、うん……」
うまく言葉にならず、ただ二人を見つめる。
──そうだ。
今さらになって、気づく。
──僕はなんて愚かなんだろう。
スペースライトをする前もそうだった。あの同窓会で、最後まで残ってくれたのはこの二人だった。誘ってくれたのは伊万里で、体を張って止めてくれたのは涼介だった。
友達だった。未来の世界でも、そして過去の世界でも、僕たちは確かに友達だった。コスパばかり気にして、人間関係すら割り切ろうとする僕に、この二人は損得抜きで付き合ってくれる。そんな大事なことに八年も
「それに大地クンの悩み、もう知ってるし」
「え?」
「
「あ……」
隠すまでもなく、そのとおりだ。
「バレバレか」
「そうだよ
「どうだか」
「なんだよモリマン。水差すな」
「モリマンいうな」
それから彼女はぼそりと、「……宇宙人のことってのが、ちょっと気に入らないけど」とつぶやいた。
「え?」
「いや、なんでもないよ?」
伊万里はそっぽを向く。
──いいのだろうか。
スペースライト後の、この世界で。二人の運命を巻き込んで。
すぐに答えられなかった。だから僕は二人に背を向け、顔を
でも、やっぱりそれは、バレバレだったと思う。
5
「──というわけで!」
翌日の予備校。講義が終わった直後に、
「今日は作戦会議をやるぞ」
「何の会議だって?」
僕はテキストを片付けながら尋ねる。
「何って、決まってるだろ。スペース美少女・
涼介のスマホには、にっこり笑った星乃(十歳)の顔が映っている。
「ちょっとそこのロリコン」
「イッテ! 誰がロリコンやねん」
「あんた昨日のヒラノの話ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ」
「じゃあ攻略会議って名称はおかしいでしょ。仲直りをするって話なんだから」
「それを攻略という」
「あんたのはただのナンパ大作戦でしょうが」
「なんだとう」
二人は机を挟んでいがみあう。僕は「まあまあ」と間に入る。
「続きはスタカでやろうよ。おごるからさ」
「おっし、行くぞ野郎ども!」「しきるなバカ涼介!」先頭を切る涼介に、伊万里が
昨日はあのあと、僕の『事情』をかいつまんで話した。といっても、スペースライトのことや星乃が死んだ未来のことなどは伏せて、僕と星乃の関係を要点だけ話すことになった。僕と星乃は、過去に知り合いだったこと。だけど星乃はそのことを覚えていないこと。僕も星乃にそれを知らせるわけにはいかないこと。そして僕は、彼女とまた話ができるようになりたいこと。
それはモザイクをさらにぼかしたような、
「俺、星乃ちゃんのこともっと調べてみるよ。かわいい女の子のことは任せてちょ」
「あたしも調べてみる。友達に
そして、昨日の今日で、涼介はさっそく作戦会議を提案してきた、というわけだ。
──ありがとう、二人とも。
何か具体的な成果を期待したわけではなかった。
ただ、気持ちが
この世界、この時代に来てから、ずっと独りぼっちのような気がしていた。誰にもスペースライトのことは話せない。だから一人だけ異世界に迷い込んだような気分で、しかも星乃との関係がうまくいかなくて、どんよりと落ち込んでいた僕の気分を、
僕は一人じゃなかった。
「えー、俺の情報網によると、あの美少女ちゃんには隠された秘密があるわけで、それはつまり、彼女のおいたちに起因していてですね」
「前置きはいいから、早く説明しなさいよ」
「ちぇっ、気分が壊れるなあ。……じゃあまず基本情報から」
手にしたスマホをこちらに見せ、シュッと画面をスライドさせる。
幼いころの星乃のスナップショットが、ずらりとアルバムのように表示される。どれも五~十歳くらいの星乃の幼女時代で、なんだか伊万里が嫌そうな顔をした。
「えー、星乃ちゃんはISSという、国際宇宙ステーションでエッチした両親から生まれました。父は
「涼介、余計な注釈はいらんから」「エロいのはあんたでしょ」
「いや、ちょっ……二人とも冷たくね?」
涼介は不服そうにしたが、またスマホを操作して説明を始めた。
「コホン、星乃ちゃんはご
そこで涼介は、また
──あ……これ……。
画面の中には、一人の男性が登場した。背が高く、日焼けしたハンサムな男性。彼が笑顔で両手を広げると、そこに「お父さん!」と叫んだ幼い女の子が飛び込んできて、たくましい両腕でがっちり抱え上げられる。すぐ隣では黒髪の若い女性がにこにこと
「しかーし」
「花の命は短く、アイドルの寿命もまた短い。一時のブームが去ると、星乃ちゃんの人気はだんだんと下火になります。下火になった最大の理由は、世間のバッシングでした。
「不倫? 星乃の父親が?」
思わず聞きとがめる。
「アレ、
「それ、ガセで有名な雑誌じゃん。裏は取ったの?」
「まあ真偽はともかく、弥彦流一が記者会見を開くくらい、火種は大きくなりました。しかし必死の釈明も
物語仕立てのようにしながら、涼介の話は続いた。いつかの同窓会で聞いていたら不愉快に思ったかもしれないが、今の僕は不思議と腹が立たなかった。相手が涼介だからだろうか。
そして彼は告げた。
「ISSでの死亡事故です」
今から七年前。星乃が十歳のとき。
ISS搭乗中の星乃の両親に、悲劇が襲った。
最初は何気ない不具合だった。船外実験プラットフォームにおいて、とある機器が故障し、それをスペアパーツと交換してくるというそれ自体は珍しくもないミッションだった。船外作業には、当時最もISSに詳しく、経験豊富とされた弥彦流一、および実験施設の責任者でもある
このデブリの衝突により、
このときを境に、
後の事故調査報告書で、この悲劇はまさしく天文学的な低確率でのデブリの衝突が原因であり、避けようのない不幸な事故と結論づけられた。ただ、当時のISS日本実験棟『きぼう』の管制官は責任を取って辞任している。
「あ……」
「どうしたの
「悪い、今のとこ、ちょっと戻して」
僕はスマホを指して言う。「えっと、どこまで?」「一個前、管制官が辞任、ってところ」というやりとりのあと、画面はもう一度、問題の箇所を表示する。
このとき、事故の責任を感じて管制官を辞任した人物。その名前に僕は
確かにこう書かれていた。
6
引責辞任だけなら知っていた。
それは真理亜のプロフィールを少し調べれば出てくる事実で、彼女が星乃を引き取るきっかけになったとも言われている。
問題はその先だった。
「おーっす大地! よく来たなー」
よく晴れた青空の下で、惑井真理亜が手を挙げる。
健康的に日に焼けた小麦色の肌、寝癖ともヘアスタイルともつかぬ、ざっくりとした銀色のショートヘア。笑うと白い歯がまぶしく光る。化粧っ気がないのに文句なしの美人だ。
「お仕事中にすみません」
「なんだ、殊勝なことを言い出して。今日はガキんちょどもの相手だったから、ちょうど抜ける口実ができたよ」
建物入り口には『JAXA夏休みキッズ教室 ~本物のロケットを飛ばそう〈第二回〉』という看板があり、子供たちの騒ぐ声が聞こえる。敷地内には親子連れが目立ち、いつもとは違うにぎやかさで満ちている。昔、このキッズ教室でロケットを飛ばした
JAXA
「そういえば、もうすぐですね。特別講演」
彼女の背後の壁にはポスターが何枚も
「あー、これなー」真理亜は頭を
「でも、真理亜さんは美人だし、JAXAの顔だから」
「ハハハ、あたしがかい? 誰だそんなこと言ったやつはー」
カカカ、と豪快に笑うその顔も、悔しいがやっぱり美人だ。自覚がないところが彼女の魅力なのかもしれないが。
──やめた管制官に何をしゃべれっていうんだろうね。
その言葉に乗って、話題を振れば良かった。
だけど、いざ本人を目の前にすると、切り出すのがためらわれた。
先日、
『一部週刊誌の報道では、
──あの女は保護者でもなんでもないって。あんな泥棒猫。
この報道が真実なら、前に聞いた星乃の言葉にひとつの解釈がつく。
無論、それが明らかになったところで、僕と星乃との関係に直接影響するわけではない。だが僕は、スペースライト前ですら知らなかったこの事実に、何かもっと大きな秘密が隠されているような気がした。
でも……。
この、竹を割ったような性格の女性が、不倫?
「──
ドキリ、として立ち止まる。真理亜は振り返り、くいっと
「星乃ちゃんの父親のことだろー」
「いえ……、あ、はい」
矛盾した回答になったのは、相手に図星を突かれたせいだ。そして、言われてみると、自分の
「すみません、えっと、その……」
「不倫してたよ」
「へぁっ!?」
ヘンな声が出た。
「やっぱりその件かー」
彼女はあっけらかんと言い、それから僕をまっすぐ見つめた。
「
「え? あ、ああ、見ました」
宇宙飛行士、弥彦流一。
「いい男だったろ?」
「え、ええ、まあ」
「性格のほうも、現代のサムライ、って感じでね。曲がったことが大嫌いだった。──あたしの
そのとき、彼女は遠くを見るような目をした。少女みたいな、無防備な顔。彼女のこんな表情は初めて見る。
「だけどフラれたー」
「え?」
「あいつは人でも殺したみたいな顔で、ごめん、すまん、申し訳ない、を連呼してさ。で、自分には好きな人がいる、愛してるんだ、どうしても
「え、え? じゃあ、不倫って話は──」
混乱する。不倫した──好きだった──でもフラれた。針が左右に振れて、真偽が判断できない。
「ハハハ、本気にした? さっきのは冗談さー」
「
「ごめんごめん。だって、
彼女は僕の肩をバンバン
「あたしが告白したのは、そもそも
「そうだったんですか……」
「それにね、
そう言って、彼女は振り向きざまに回し
「ご、ごめんなさい」
「まあ、悪いと思ったんならあの子と仲良くしてやってよ。あたしはそれだけが望み」
そして彼女は、ぽつりと、空にこぼすように言った。
「
「真理亜さん……」
ふと、僕は思い出す。『大流星群』の直後、星乃が死んだと知らされたとき。真理亜は星乃のアパートの部屋の前で泣き崩れていた。ドアにすがりつき、号泣していた彼女の姿は、
今ならはっきりと分かる。
この人は愛していたんだ。実の娘でなくても、実の親のように、星乃を愛していた。僕が彼女に会うずっと前から、彼女を守り、
「真理亜さんは、今の話、星乃にしたことはあるんですか?」
「いんやー」
彼女は首を振る。僕が何か言いかけると、彼女は軽く手を挙げて、制するように言った。
「いいんだ、大地。言いたいことは分かる。……でもね、あたしが星乃ちゃんから憎まれるのは、仕方ないことなんだ」
「え?」
「あたしはね、星乃ちゃんの両親を救えなかった。当時、管制官としてもっと的確な指示を出していれば、二人は助かったかもしれない。あのとき、あたしは想定外のデブリの衝突で混乱して、せいぜいマニュアル対応しかできなかった……」
「でも、ISSのデブリ衝突確率って、十年単位で考えても〇・一パーセント以下なんでしょう? それって想定外でも仕方ないんじゃ」
「それはレーダーで捕捉している十センチ以上のデブリの話さ。宇宙には捕捉できないデブリが無数に漂ってるんだ。デブリがぶつかって『想定外』なんて、管制官失格もいいところさ」
事故原因がやむを得ないものだったことは、JAXAの公式文書でも、事故調査委員会の報告でも明らかにされている。それでも彼女がこうして
「
「でもそれは」
「いいのさ。彼女にはそうする資格がある」
そう言うと、真理亜はうつむいた。言葉とは裏腹に、星乃との距離に傷ついているのはむしろ彼女のほうに思えた。
「真理亜さん」
「ん?」
「もうひとつだけ、いいですか?」
彼女がうなずくと、僕は今日最後の質問をした。
「『エウロパ事件』って、知ってますか?」
※
──エウロパ事件って言うらしいぜ?
ISSでの船外作業中の『事故』により、宇宙飛行士の
問題は、天野河詩緒梨の入院中に起きた。
何者かがインターネット上に、詩緒梨の『殺害予告』を書き込んだ。
『天野河詩緒梨はそもそも崇高な宇宙飛行士の任務中に、管制室の
こうした内容を、犯人は繰り返しインターネットの掲示板に書き込んだ。さらに犯人は、ネットに書き込むだけには
──なんでもネットでは『エウロパ神』とか言われて、ずいぶん有名人らしいぜ。ほとんどは悪ふざけだと思うけど、中にはガチの『信者』みたいな
正義を実行──それはエウロパの使ったネットスラングで、『殺せ』と同義だ。
※
「『エウロパ事件』って、知ってますか?」
僕が尋ねた瞬間だった。
あれ、と思った。
エウロパ事件そのものは未遂に終わっている。ひどい事件だが、両親の事故死の話よりも真理亜の顔がつらそうなのが気に掛かった。
「……知ってるよ」彼女は今日一番、低い声で答える。「誰に聞いた?」
「えっと、ネットとかで」
「そうか」
彼女はもう一度「そうか、ネットか」と続けた。
──なんだ?
様子がおかしい。
「ネットには、なんて書いてあった? 事件のこと」
「それは……」
僕は
「大したことない事件だ、と思ったろう?」
「え?」
「違うか? ネットではありふれた事件。炎上騒ぎ、犯行予告、実行、失敗。頭のおかしいネットユーザーの、よくある暴発。……そんなところか?」
なんと答えてよいか分からなかったが、僕はうなずいた。実際、彼女の指摘は僕の抱いた印象のとおりだった。
「事件そのものは、未遂に終わった。犯人のバカ者は逮捕され、法の裁きを受けた。……でもね」
そこで彼女の目が、
殺意、という言葉が浮かんだ。
「一度放った言葉は、消えないんだ。リアルでも、ネットでもね」
「どういう、意味ですか?」
「犯人は、ネット上に書き込んだんだ。
インターネットでは『炎上』と呼ばれる、批判コメントの過熱現象が起きることがある。僕も過去の匿名掲示板や、まとめサイトと呼ばれるコメントの要約ページを確認したが、ひどいものばかりだった。意識不明の人間への中傷、すでに死んだ人間への
「それ、『誰が』読んだと思う?」
誰が──どういう意味だ?
「弥彦はすでに宇宙で死んでいる。詩緒梨も意識不明だ。じゃあ、これを誰が読む?」
だが、答えはおのずと出た。
「まさか」「そうさ」
真理亜は視線を宙に固定したまま、答えを述べる。銀色の前髪が顔を隠し、今は表情がよく見えない。唇だけが、検察官が容疑を読み上げるように淡々と動く。
「
言葉が出ない。
「みんなが便乗して、面白半分に投げた石つぶては、ぜんぶあの子に当たった。死ね、殺せ、正義だ、天罰だ。書き込まれた悪意は全部、十歳の女の子にぶつけられた」
「星乃が、掲示板を読んでいたと?」
「読みたかったわけでも、誰かが教えたわけでもない。でもね、そういうのは伝わってしまうんだ。とりわけあの子は頭が良くて勘が鋭い。ふとした拍子に耳にして、何かのきっかけで目にして、そうして
ふと、心には一つのイメージが浮かんだ。
空から雨のように降り注ぐ無数の矢。それを全身で浴び続ける十歳の少女。
その体は真っ赤に染まっていく。
「……もう、こんなの見ることもないと思っていたけど」
そこで
「これは?」
「
彼女に促され、僕は三角形の矢印をタップする。前に星乃から
動画が再生されると、そこには一人の男性が映った。テレビでよく見かける芸能レポーターで、神妙な顔でマイクを握っている。スマホの音量を上げると、「現場の様子は静まり返っております」といったフレーズが聞こえ、それから黄色いテープの
「これって」
「事件直後のやつ」
真理亜は短く補足して、視線をそらす。映像を見たくないようだった。
早口でしゃべるレポーターの言葉から、だんだんと事情が分かってくる。正面に映っている白い建物は病院であり、ちらりと映った玄関口には取材班らしきカメラマンやレポーターが大挙している。『エウロパ事件』の直後に、マスコミが現場取材に詰めかけたときの映像だろう。
やがて、取材陣が色めき立つシーンがあった。事故現場らしき病室の窓際に、一人の人物が現れる。それは背の低い少女で、手にした雑巾のようなもので、おもむろに窓掃除を始めた。
よく見ると、窓には何か文字が書かれていた。スプレーでした落書きのようなその文字は、カメラマンによってズームされ、『
星乃は手を伸ばし、雑巾でその文字を
窓から退場する一瞬、
星乃は
「星乃ちゃんはこの日を境に笑わなくなった」
「病院で、眠ったきりの母親を前に、あの子は何ヶ月もずっと病院に通い続けた。母親に話しかけ続けた。お母さん、お母さんってね。でも母親は答えなかった。そのまま逝った。無念だったろうね。
気づけば、真理亜の体は震えていた。僕はただ、何も言えず、その場に立っている。
──そうだったのか……。
今の話は初耳だった。だが、僕はそのことを知って、驚きよりもどこか納得していた。星乃は両親のことが大好きで、両親の思い出は良く話してくれた。でも、両親の事故のことは話したがらなかったし、自宅に引きこもるようになったきっかけも明かさなかった。星乃の知られざる人生のピースが、真理亜のもたらした情報でわずかに埋まったような気がした。
夏休み企画に来ている子供たちの声が、楽しげに敷地内に響く。
どこかで手製のロケットが飛んだ。
それは空高く舞い上がり、やがて地球の意志により、地面に墜落した。
7
「友達から聞いたんだけどさ」
それから一週間ほどして、
いつもの予備校が終わり、いつもの喫茶店でのことだ。
「お、モリマンもやっと持ってきたか」
「うっさいわね。私はあんたと違って、ネットでちょちょいと調べるだけじゃないの。ちゃんと関係者に取材してきたんだから。あとモリマンいうな」
「でさ、宇宙人……
「ああ、何か分かった?」
「同じ中学の子の話だと、天野河ってろくに学校来なかったから、ほとんど話をした人がいないんだよね」
「なんだ、じゃあ話はおしまいじゃん」
「あんたは黙ってなさいよ」
テーブル下で、ガンと音がする。涼介がグアッと悲鳴を上げる。
店内を流れるBGMが、聞きなれた邦楽から洋楽に切り替わる。DJがラジオで曲紹介を始める。
「天野河と話してた子はいなかったけど、
ネットの話、と聞いて僕は思い出す。
それは先日の
「学校裏サイト、ってあるじゃん。その学校のことで、匿名でカキコミできる掲示板」
「ああ、そんなのあるね」
学校に限ったことではないが、ネット上には学校や企業、団体などに関する様々な匿名掲示板がある。学校裏サイトなら、その中学校なり高校なりの
「そこにさ、天野河の話、けっこう書いてあったらしいんだよね」
とっさに悪い予感がする。
「どんなこと、書かれてた?」
「んー、別に大した話じゃないよ。ほら、あの子有名人だから、両親が宇宙飛行士の話とか、ウィキペディアのコピペとか。あと、ネットに転がってる昔の写真とか」
「へえ、俺と同じだな」
「ちょっとロリコンは黙ってて」
机の下でガンと音がして、涼介がギャッとうめく。本日二度目。
「すでに掲示板はなくなってるし、悪口とか、いじめっぽいことはそんなに書かれていなかったみたい。……でもね」
そこで伊万里が声を潜める。
「犯行予告、あったんだって」
ドキリとする。
「犯行、予告?」
「ほら、前に涼介が言ってたじゃん。天野河の母親のことで、犯行予告した事件あったって。エル、エウ……」
「エプロン事件」「エウロパ事件だ」涼介の間違いを、即座に訂正する。
「そう、そのエウロパ」
「なんだって?」
思わず手が動き、カフェラテにぶつかる。揺れた液面がちゃぷんと跳ねる。
「といっても、本人かどうかは知らないけどね。とにかくエウロパってハンドルネームで、
近日中に正義を実行します
文面はそれだけだったという。ただ、読む人が読めば、『エウロパ』が『正義を実行する』というこの二つで、殺害予告であることは一目
「カキコミは一回だけか?」
「ううん、何度かあったって。でも全部同じ文面。最初はみんな面白がったり、怖がっていたりしていたけど、ワンパターンでつまらないからすぐに飽きちゃったらしいわ。で、そのうち掲示板も学校にバレたらしく、閉鎖されておしまい」
「そんなことが……」
エウロパ事件にそんな後日談があったとは初耳だった。
「
「さあ……そこまでは」伊万里は首を
知っていたかもしれない。いや、知っていただろう。直感的にそんな気がした。
星乃は勘がいい。ネットでの情報収集にも
エウロパの犯行予告。それが母親の死後、自分の中学にまで追いかけてきた。
星乃はどんな気持ちだっただろう。
もちろん、この『エウロパ』が、本物──逮捕された
──みんなが便乗して、面白半分に投げた石つぶては、ぜんぶあの子に当たった。死ね、殺せ、正義だ、天罰だ。書き込まれた悪意は全部、十歳の女の子にぶつけられた。
書き込んだほうは冗談だったかもしれない。でも、星乃はどう受け止めたのか。十代の少女が、それでどんな心の傷を負ったか。
──あ。
ふと、あることに気づく。
「なあ、ウチの高校って、どうなんだ? こういう裏サイト、あるのか」
「……それ、なんだけど」
その反応で分かった。
「あるのか」
「うん」
「もしかして……」
「うん、そう」
彼女は低い声で告げる。
「……私も、気になって調べたら、それっぽいの出てきて。それでさ」
あとは聞かずとも分かった。
「あ、あったよ、
『月高 交流掲示板』
そこには例のハンドルネームで、確かにこう書かれていた。
『正義を実行します』
8
自然と足が向いていた。
喫茶店で二人と別れ、歩くこと十数分。
顔を上げれば、そこはいつものアパート。銀河荘。
雑草が伸びきった、無駄に広い前庭。やや奥に引っ込んだような、八戸しか入れない小さな二階建てのアパート。
涼介は言った。
──そんなクソサイト、削除しちゃえばいいじゃん。
それに伊万里が返した。
──無理よ。どうせすぐに別のサイトが出来て、同じことになるから。
そう、無理なんだ。少なくとも根本的解決にはならない。
でも、無駄だった。
──
第二、第三のエウロパが。
──これさ、ホントに生徒なんかな。
──ネットのカキコミってさ、
実は正義感の強い涼介らしい発言をして、彼はテーブルの
それを受けた
──じゃあさ。たとえば書いたのが、あたしらのもっと上の世代としてさ。三十歳とか、場合によったら四十歳や五十歳の人が、あたしらみたいな高校生を相手にしてるわけ? たとえば五十歳のオッサンが、十五歳とか十六歳の子供相手に殺害予告とかしちゃってんの? マジ、キモくない?
そう、普通に考えれば異常だった。
大の大人が、自分の子供くらいの
──でも。
ネットではときに、異常が日常となる。リアルで異常なことでも、それが
まるで宇宙に漂う無数のデブリみたいに、書き込まれたコメントはネット空間を漂い、そう、
銀河荘を見上げながら、少しだけ分かったことがある。
──地球人は嫌い。
いつか星乃の言った言葉。その意味が今なら分かる。
──地球人は愚かだから。頭、悪いから。
インターネット掲示板の中傷も、父親の不倫を報じた週刊誌の誤報も、さんざん持てはやしてから突き落とした世間も、マスコミも、何もかも──
全部、地球人だ。
鉄さびだらけの階段を上り、
インターフォンを押す。
『……帰って』久しぶりに、声を聞けた気がする。
「あのさ、
「地球人、嫌いか?」
『……は?』
『愚問ね』
○
その日の帰り道。
ポケットが震えた。スマホを取り出すと、そこには一件の着信。
「え……?」
文面を確認した僕は、思わず立ち止まる。
【明日は何の日?】
メールにはそれだけ書かれていた。タイトルも何もなく、本文にその一言だけ。
送信者欄を見ると、そこにはデタラメに並んだような英数字の列。いかにも迷惑メールといった感じで、すぐに削除しようとして、はたと考える。
明日は何の日──何かが引っかかる。明日は日曜日。八月最後の。それ以外に何だというんだ? すでに夏期講習も終わり、これといった用事も約束事もない。
「明日……」
スマホを
「あ……」
ずきりと、
これは……!
次の瞬間、脳内に光が走った。それはこれまでもたびたび体験した『光の矢』。
僕の記憶を呼び覚ます光。
ぽたり、ぽたり、と血を路面に落としながら、僕はつぶやいた。
「思い出した……」