第三章 始まりの日 ──二〇一七年七月二十五日十四時三十三分
1
『──どちらさまですか?』
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
忘れもしない、忘れられるはずもない。ぶしつけで、ぶあいそうで、いかにも面倒くさそうな、だけどはっきりと聞き覚えのある、その声。
震える手でどうにかポケットを探り、スマホを取り出す。二〇一七年七月二十五日──間違いなく、画面の表示はここが過去の世界であることを示している。八年前の世界。僕が十七歳だったころの世界。そしてあいつがまだ──生きていた世界。
──信じられない。本当に……戻ってきた?
『あの……』
また、声がした。僕はびくりと反応し、「は、はいっ」と変に高い声で答えた。この扉一枚隔てた向こう側に、あいつがいる。存在している。息をしている。僕を見ている。
『……どちらさま、ですか?』
明らかに迷惑そうな声がインターフォンから伝わる。
「ぼっ、僕だよ、僕」
『…………』
「僕だよ、僕」
『…………』
少し間があってから、ハッとする。
──いっけね、何やってんだ!
我に帰り、自分の失態に気づく。ここは八年前の過去の世界──つまり僕と彼女は、まだ知り合ってすらいない。今が初対面だ。この時点での彼女は、不登校のまま姿を見せない
──えっと、どうすれば……。
自分の着ている制服に目を止め、そうだ、と思い出す。高校二年の一学期、終業式の日。僕は
「あ、あの、僕は月見野高校のクラスメートで、
『間に合ってます』
ぶっきらぼうな言葉のあと、プツッとインターフォンの光が消えた。
「……へ?」
──と、とにかく、もう一度。
動揺しながらも、僕は再度インターフォンを押す。しかし、五分待っても、十分待っても、いっこうに返事はない。
──もしかして……。
断線していた脳内回路が、ようやく僕に結論を下す。
無視されてる?
それは、冷静に考えてみれば当然のことだった。
それは分かっている。
だけど僕がショックだったのは、星乃に無視されているという事実そのものだった。
五年間、いっしょにいた。毎日のように会った。恋人ではなかったけれど確かに友達以上の関係で、彼女の夢への道のりをいっしょに歩み、苦楽を共にした。それが振り出しに戻っている。
彼女と出会う前の過去に戻ってきたのだから、それは当然のことだった。だが、どこかで寂しさと、切なさが僕の胸を覆っていく。
──〈スペースライト〉シタ場合、バッテリー不足ノタメニ戻ッテクルコトハデキマセン。ヨロシイデスカ?
もしかして僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか?
一瞬胸に
──た す け て。
違う。そんなはずはない。この壁一枚の向こうに、
──そうだ。僕はそのために来たんだ。
彼女を救うために。その夢と未来を取り戻すために。
「えっと、
最後に、また来ますね、と付け加える。
返事はない。ただ、それでいいと思った。失われた時間をこれから地道に取り戻さなければいけない。ただそれも、あいつのいなかったこの三年の苦しみに比べれば、どうということはない。
僕は床に転がっていた学生
見れば、久々に履いた空色のスニーカーの靴ひもが、片方だけほどけている。その場でしゃがんで靴ひもを結び直していると、高校を卒業するまで使っていたこの靴も、いつしか
──本当に、戻ってきたんだな……。
改めて、『スペースライト』──過去の世界に戻ってきたことに感慨のようなものを抱く。実際に体験した今でもなかなか信じられず、まだ夢を見ているような気分だ。
靴ひもを結び終わると、僕は階段を下りる。鉄さびだらけの階段は、八年前と同じくボロボロのままで、ただ、下から三段目がまだへこんでいないのだけが違った。
今日はこれからどうしよう──そう思っていたとき。
不意打ちのように、カチャリという音がした。それは金属がぶつかり合うような、独特の音──開錠音。
まさかと思って僕は振り向き、そして、
息を飲む。
二階の一番端っこの部屋。そのドアが開いており、そこに身を隠すように立っているのは一人の少女。
「あ……」何か言わなくては、という
気の利いた
星乃が立っている。星乃が生きている。星乃が僕を見ている。
吸い寄せられるように階段を引き返し、再び二階の廊下に戻る。そして足を踏み出すと、少女はびくりとして身を引くような仕草をした。まずい、と思って半歩下がり直す。
もどかしい数メートルの距離を挟んで、僕たちは
「──どうして?」
最初、質問の意味が分からなかった。
少女は冷たい瞳で続ける。
「どうして、これが『
「あ……」
──
自分の失言に気づく。この時代の僕は、まだこのインターフォンのことを知らない。彼女の私的な発明品の名前を知っているはずがない。
「あ、ええと、その」しどろもどろになる。「ま……
「あの女に?」
あの女──その呼称が引っかかる。
「あ、ああ。おまえのこと、紹介されて、そのときに聞いたんだ」
「おまえ?」
「ほ、星乃」
「
「じゃあ……あ、
すごい違和感だった。
彼女はほつれた前髪の奥から、敵意を隠さない
「みんな、あの女の差し金ってわけね」
「え……」
「じゃあ帰って伝えなさい。余計な
彼女は吐き捨てるように言う。
僕は
「えっと、僕は……」とにかく何か言わなくては。彼女との関係をつなぎとめなくては。僕は前のめりの姿勢で、一歩近づく。
するとその瞬間、
パンッ!
乾いた音を立てて、僕の足元で何かが跳ねた。
「うわッ!?」
見れば、星乃は僕のほうにUFO型のぬいぐるみを構え、『照準』をつけている。
「ちょ、待っ……」
何か言う前に、また足元でパンッと音がした。それがBB弾と呼ばれるエアガンの弾であることは確かめなくても分かる。天野河星乃の標準装備だ。
「来たら撃つわよ」
「もう撃ってるだろ!」
僕の返答が気に入らない、というようにまた足元に新たな着弾がある。「うわっち!」と僕は道化師のように飛び跳ねる。
「分かった、帰るから! だから撃つな! 危なイッテ! ちょっ、やめっ、痛いッテ!」
何か言うたびに僕の足にパンパンと弾が当たる。激しく痛い。
「二度と来ないで」
「ちょっ、おまっ、覚えてろよっ!」
前回の『ファーストコンタクト』と同じ
2
銀河荘を追い返された僕は、途方に暮れた。
「うわ、ひでぇ……」
ズボンをめくりあげたらBB弾の
──そうだあいつ、凶暴な
ピリピリと痛む足をさすりながら、さしあたりの手当ても兼ねて、
──仕方ない、いったんウチに帰るか……。
八年前の街並みは、変わったところもあれば、相変わらずの景色もあった。いつも行くコンビニは同じチェーン店だったがアルバイトの店員が別の人だったり、猛犬注意と書かれた近所の家では、死んだはずの大型犬がまだ元気よく
変わったのはそれだけではなかった。自分の下宿に来て、
──あれ?
鍵がない。いつも持って出かけるキーホルダーはポケットになく、財布にも定期入れにもそれらしきものはない。
参ったな、どうしよう、とドアノブをガチャガチャやっていると、
「ちょっと!」
急にドアが開き、僕はガンと腕をぶつけた。「いてっ!」とうめきながら後退すると、室内からは見慣れぬ女性が顔を出した。しかもネグリジェ姿だ。
「あんた、ウチに何の用?」
「あ……」
そこで僕は気づく。表札には『
──しまった!
この星雲荘は僕が両親の離婚を機に移り住んだところなので、今はまだ僕の家じゃない。
「あ、すみません、間違えました!」
慌てて退散し、僕はアパートの敷地を飛び出す。完全にうっかりしていた。
どこかでまだ、ここが八年前の世界だということに適応できていない。頭では分かっていても、足は自然といつもの下宿に向いてしまう。
「ええと……あっちか」
道路に出て、僕はもつれる足で実家に向かうのだった。
「懐かしいな……」
白塗りの二階建ての『自宅』を見上げ、当然というべきか、それとも不自然というべきか、微妙な感想が口から漏れる。
高校卒業と同時に、僕の両親は離婚した。
原因は父の浮気発覚で、母はあっさりと離婚届を突き付け、家を出ていった。ちょうど単身赴任中だった父は、そのまま家を売り払い、その売却代金から母への慰謝料と僕の学費や生活費を
そんなふうに空中分解するのが、この
「ただいま」
玄関に入ると「あら大ちゃん、おかえり~」と母が出迎えた。顔を見るのは何年ぶりだろう。若いころは無名ながら舞台女優をしていた時期もあったらしく、白い肌と整った目鼻立ちは、
「セイセキ、どうだった~?」
「え?」
僕は何を言われたかとっさに聞き取れない。セイセキ?
「ほら、通知表よ。今日終業式だったんでしょ~?」
「あ、そうか」
僕は
「これ」
横に長い通知表を、中身も確かめずに母に渡す。
母はペラリと中身を開け、ふんふん、と鼻を鳴らしながら確認する。
「数学が上がって、国語が下がったんだ~。あとは横ばいね~」
のんびりした語尾で、母は僕の成績を確かめる。語尾を伸ばす癖は真理亜と似ているが、向こうが女戦士ならウチの母さんは
「来年は受験生だから大変ね~。夏休みもお勉強がんばるのよ~」
母は納得したのか、僕に通知表を返す。中身を確認すると、五段階評価で3と4が交互にくるような平凡極まりない内容で、そういえば僕はこんな成績だったと思い出す。得意科目も苦手科目もない、のっぺりとした無個性。
「夕ごはんどうする~?」
「なんでもいい」
「昨日の残りでいい~?」
「じゃあそれで」
返事もそこそこに、僕は階段を上がる。
──さて……。
さすがに自分の部屋くらいは覚えている。二階の一番奥を、曲がって左。ドアを開けると、窓際には金属製のベッド。左の奥にデスク。
「うわ、まだ『7』か、古いなー」
ノートパソコンを開いて、出てきたOSの古さに驚く。ITの世界では半年
「あー、そうかー。そういやそうだったなー」
ブックマークした『お気に入り』の項目を見て、当時の自分の趣味や、よく行くサイトなどを思い出した。宇宙関係や天体観測がらみが多いが、海外アーティスト関係のサイトも多い。このころは洋楽をかじっていた。今ではすっかり聞かなくなったけど。
パソコンやスマホのアドレス帳、机の中のへそくり、電子書籍のラインナップ、ネットで
「そうか、夏休みか……」
八年後にはとっくに引退している水着姿のアイドルがにっこり
当時の僕は、夏をどうやって過ごしていただろうか。記憶をたどるが、どうもうまく思い出せない。八年間というのはこんなにも人の記憶を薄れさせるものなのか。
その後もなんとなく部屋を物色したり、ネットニュースから時事ネタを確認して過ごす。新内閣の顔ぶれ紹介とか、原発の廃炉問題とか、連続殺傷事件の公判内容、無人惑星探査機の更新途絶──政治経済から娯楽、文化、サイエンスに至るまで、最新の時事ネタすべてが懐かしい。ちなみに新内閣は閣僚の不祥事で二年もたないし、原発は八年後もまるで収束していないし、連続殺傷事件の容疑者は獄中死、無人惑星探査機は来月にはあっさり見つかる。
初日はそんなふうに、頭の中身を『アップデート』して過ぎていった。ネットサーフィンの途中、
母と二人だけの夕食が終わり、自室に戻ると急速に眠気が襲ってきた。
「ふぁ……」
思えば、『今日』は本当にいろいろあった。
──
冷たい
毛布をかぶり、ベッドの中で彼女のことを思い出す。
少し泣いた。
3
翌朝。
『DO IT! DO IT! OH! F○CK ME♪』
けたたましい着信音で、僕は目を覚ました。なんだよこの趣味の悪い洋楽と思ったが、これは高校時代の僕の趣味だ、と思い直す。
画面を見ると、ひとつの名前が明滅している。
『
──あ。
一瞬、スペースライト前の出来事を思い出す。同窓会の日、僕を羽交い締めにして、最後は
眠気が飛び、やや意を決するように、通話ボタンを押す。
「も……もしもし?」
『おー、
いきなり軽い感じの声が受話器から飛び出してきた。
え……?
『あれ? どったの大地クン? まだ寝ぼけてる? 徹夜でエロ動画見ちゃった?』
──そうだった。
やっと記憶が
『いやー、大地センセーはさすが。超リスペクト。初日から飛ばしてらっしゃる』
「初日?」
『おやおや、お忘れですか~。今日から講習でございます』
「えっ?」カレンダーを見る。そんなことは書いていない。いや、よく見ると本棚の中に無造作に突っ込んであるのは、予備校の名前が書かれた冊子。
──そうか、今日から夏期講習か!
『じゃあね
バカっぽい感じでそう言うと、
「夏期講習、か……」
僕はこの世界に、
──でも。
そこまで考えてみて、別の疑問が首をもたげる。
星乃を救う。それは決定事項であり、すべての大前提だ。そのためなら僕はなんだってする。例の『大流星群』を引き起こしたテロリストがいるのなら、そいつの居場所を突き止めて警察に突き出すくらいは当然だ。しかし現状では、僕はテロリストの居場所も知らないし、だいたいテロ自体がまだ発生してもいない。八年後の未来で全世界の国家権力が躍起になって探し回っている正体不明のテロリストを、僕みたいな民間人が容易に探し出せるとは思えないし、テロに遭わぬように星乃のフライトを止めるにしても、彼女はまだ宇宙飛行士ですらない。
「そうか……」
考えてみれば、今すぐ僕にできることは何もない。せいぜい星乃のところに通って、彼女と仲良くなることくらいだが、それも昨日追い返されたばかりだ。人間嫌いの星乃の性格からいって、無理に押しかければ関係が悪化するのは目に見えている。何か『作戦』が必要だろう。それに、スペースライトしてから僕はまだ『ブランク』を取り戻せていない。八年間の時差ボケともいうべき状態を何とかしておく必要もある。このまま勉強もせず学校も通わずに過ごすとなると、かえって親や教師との関係が面倒になるのは明らかで、高校生の経済力からいって親元から離れるのも現実的でない。星乃を救うための有効な作戦を思いつくまで、しばらくは『普通の高校生活』をトレースするのが無難だろう──僕はひとまず当面の方針を固める。
スマホの画面には、『夏期講習』を示すリマインダーの文字が浮かぶ。
「とりあえず顔を出すか……」
「おー、重役出勤ごくろうさん!」
講義室に入ると、一人の少年が手を挙げる。山科涼介。安っぽく染めた茶髪を肩まで伸ばし、胸にはシルバーのネックレス。見た目はホスト風で、根性は軟弱。押しの弱いチャラ男、という評価がクラスで定まっていたのを思い出す。
「うっかりしてたよ」
「昨日話してたのに、なんでもう忘れてるんだよ」
「悪い悪い」
僕にとっては八年前だ。覚えているはずがない。
電車で二駅乗り、到着したときにはすでに一時間近い遅刻で、休憩時間の講義室は出入りする受講生でごった返している。
「おっはー、ヒラノー」
──えっと……誰だっけ?
「ねえ今日はどうしたの? ヒラノが寝坊とか珍しい」
「そ、そうか?」
とりあえず話を合わせる。
「そうだよ。何事も最低限、そつなくこなすのがヒラノじゃん。目立った活躍もないけど絶対失敗しない、みたいな?」
──あ!
やっと思い出す。
「
「え? あ、うん。なに急に?」
少女は少し驚いた様子で
そうだ、盛田伊万里──僕は複雑な気分で彼女の若い顔を見つめる。
大人になってからこそ落ち着いたものの、高校のころはこんな容姿だった。クラスで一番不良っぽくて、チャラ男の
──そうか、こんなんだったっけ……。
時を超えて『再会』した友人たちの姿に、僕は違和感を覚えずにはいられない。医師として立派になった涼介と、大人の女性として落ち着いた伊万里の姿が、今の若くて遊び盛りの二人とどうしても重ならない。
ちなみに、伊万里は不自由な足のハンデをものともせず、将来は業界でも有名なデザイナーになる。その後、長らくつきあっていた涼介と結婚し、それから──
──あんたなんか呼ぶんじゃなかった!
同窓会で僕をひっぱたく。
「お、どうしちゃったの
「モリマンいうな」
ていっ、と盛田伊万里が涼介に
──あれ、伊万里の足……。
同窓会で、
記憶をたどっているうちに、チャイムが鳴った。
「あー、終わった終わったー」
涼介が大げさな伸びをする。
合計三コマの講義で、初日の講習は終わった。
正直、授業の内容は上の空だった。数学の公式などはすっかり抜けているし、今から気合いを入れて覚えようという気にもならない。頭の中では昨日会った
「さて、これからがお楽しみタイムだな」涼介が斜め後ろを振り向き、上半身を乗り出すようにアプローチを図る。「
「えー」
「疲れたし、早く家に帰って休みたいんだけど」「つれないこと言うなよ。夏は始まったばかりだぜ」「じゃあ帰るわね」「ああん、伊万里ちゃん待ってよー」
チャラ男らしく、涼介が女の子の
一分後、涼介が苦笑いをしながら帰ってくる。
「ちっきしょー。あの女、尻軽のくせしてガード固いわ」
その尻軽と結婚することになるのはおまえだ、と内心で突っ込む。
「いいよなー、俺も
「おい、僕がイケメンなわけないだろ」
「あーあー、これだから大地クンは」
涼介は大げさな手振りを交え、分かってないなあ、というポーズをする。
「女子の間ではわりと高評価なのよ、大地クン」
「マジで?」
「ツラはまあまあだけど、あの若くして人生に達観した態度がムカつくって」
「全然評価されてないだろ」
「大事なのはツラだよ、ツラ」
そういう涼介のほうがよほどかっこいい、と思ったが、今は議論しても仕方ない。僕からすると彼は、どちらかというと髪を染めずに男らしい短髪にしたほうが似合うのだ。ただ、本人はそれとは真逆のセンスで走っているのが何ともチグハグだ。
「あー、それにしてもモリマン腹立つわー」フラれた腹いせに、涼介は彼女の悪口を並べ立てる。「あーいう
「そうだな、悪い男に引っかかるかもなー」
将来の旦那を見ながら、僕は内心でツッコミを入れた。
4
その日の夕方。
僕はさっそく銀河荘へと赴いた。
今日一日考えてみて、たどりついた結論は以下だった。
彼女と親しくならなければならない──これは最低限にして最優先事項だ。星乃に助言をするにせよ、何か相談に乗るにせよ、とにかく基本的な人間関係ができているのが大前提だ。それなくしては何一つ話が進まないだろう。見ず知らずの人間からアドバイスを受けても半信半疑になるのは間違いないし、何より星乃の性分からして、赤の他人の意見など絶対に聞き入れない。
しかし。
『…………』
インターフォンを押して、待つこと五分。応答なし。
引きこもりの星乃が、居留守を使っているのは分かっている。それゆえ応答がないということは無視されているのとイコールだ。
──ダメか……。
焦ることはない、と自分に言い聞かせる。
僕は星乃のことをよく知っている。彼女の趣味、
「また、来るから」
そう思い、二階の廊下を引き返していたとき。
ガチャリと音がした。
ドクンと心臓が跳ねる。思わず直立不動になり、そして振り向く。
──星乃……!
ドアから出て来たのは僕のよく知る一人の少女。ぼさぼさの長い黒髪は腰まで伸び、肌はやはり病的なまでに白く、今日はジャージのズボンを
「──どうして?」
「え?」
彼女は前髪の奥で、すっと目を細める。冷たい視線が僕に刺さる。
「どうして、また来たの?」
「ま、また来るって、言ったろ」
「二度と来ないでって言ったよね」
彼女は畳みかけるように言い返してくる。不愉快なんだけど、という感情が、言葉にせずとも声の調子で伝わる。
「また、あの女の命令?」彼女はこの前と同じ人間を挙げる。
「
「決まってるわ」
「あの人、おまえの親代わりだろ」
「ふざけないで。あんなのを親だなんて認めないわ」
「なんでだよ。真理亜さん、いい人だろ。ちょっと変わってるけど」
「……いい人?」
気配が変わる。
「地球人にいい人なんて存在しないわ。誰一人ね」
「そんなわけないだろ」
「そんなわけある」
「そういう
「地球人は愚かだから。頭、悪いから。だから嫌いなの」
「星乃、聞いてくれ。僕は──」「星乃って呼ばないで!」
5
銀河荘から歩いて一分。目と鼻の先に、その家はある。
『
チャイムの音がしてから、だいぶ間があった。僕はいろいろなことを思い出し、わずかに緊張しながら待った。
「おう、
ドアが開くと、寝癖だらけの銀髪をガリガリと
──あ……。
惑井真理亜の左
──ふざけるな、何がタイムマシンだ!? 八年前に戻る? あの子を生き返らせる!?
ふと、八年後の世界で──僕にとってはまだつい最近の
「ん、どしたー? ぼうっとしてー?」
「いえ……」
──そういえば、真理亜っていつ顔に傷を負ったんだろう?
思い出そうとしてみるが、すぐには記憶を引っ張りだせない。
「ちょっと時間、取れますか?」
「おう、いいぞー」彼女はあっさり承諾し、それから家の中に向かって叫んだ。「
「はーい」
二階の階段から、とてとてと少女が降りてくる。ふわりとした黒髪に大きめの赤いリボンをつけ、白地に桃色のラインが入ったトレーナーを着ている。
「お兄ちゃん!」
ぴょん、と飛び跳ねるように階段を下りて、少女は僕のほうに駆け寄ってくる。すぐに僕の右腕を引っ張ると、「やった、今日は何して遊ぶ?」と甘えた声を出してくる。
──そうか、八年前だと、まだこんなか……。
幼さと無邪気さがいっぱいの少女は、大胆な感じで僕にくっついて腕を引っ張ってくる。
「お兄ちゃん、今日はゆっくりしていける?」
「いや、少しだけ」
「ええー。夏休みなんだしもっと遊ぼうよ。ねえねえ、お兄ちゃん」
このころは呼び名が「先輩」ではなく「お兄ちゃん」だったなと懐かしく思い出す。葉月とは小さいころから家族ぐるみのつきあいで、ずっと
──私、昔からずっと先輩を見てきました。
スペースライト前の、別れ際の言葉が脳裏をよぎる。
葉月はいつから僕に好意を抱いたのだろうか? 元から兄妹のように親しかったせいもあり、どこで彼女が僕を異性として意識し始めたのか、いまだに分からないでいた。
そして五分後。
「お母さん、紅茶に砂糖入れ過ぎ」
「いいじゃん別に。このくらい問題ないさー」
「お兄ちゃんはどうするー?」
「じゃあ、一杯だけ」
丁寧に
「──それでさ、
「
「いや、それが……」
──二度と来ないで。
僕は肩をすくめ、「全然、相手にされませんでした」と正直に打ち明ける。
「そっか……」真理亜は小さくため息を
「いえ、特には」
──あの女の差し金ってわけね。
また、星乃の言葉がよぎる。
真理亜との関係は、そんなに悪かったのだろうか。僕が知る限り、確かに微妙な空気はあったが、『あの女』呼ばわりまではされていなかった気がする。それとも八年前のことで僕の記憶が
「あの子、ちょっと前にいろいろあって、警戒心が強いんだー」
「……でしょうね」
それはよく知っている。
「とっつきづらい子だとは思うけど、友達になってやってほしいんだー」
そう言って、彼女は星型のピアスを愛おしそうに撫でる。それは小さいころの星乃からプレゼントされたという手作りの品で、真理亜がずっと大切にしている宝物だ。
──でも、星乃とはうまくいってないんだよな……。どうしてだろ。
「すまないね、面倒なことを頼んでー」
「まあ、やるだけやってみますよ。どうせ暇ですし、他ならぬ真理亜さんの頼みですし」
「恩に着るよ!」
バン、と彼女は僕の背中を
「わっ、お兄ちゃん大丈夫!?」
葉月が慌てて紙ナプキンを持ってくる。
僕の
──え?
僕はその言葉を聞きとがめる。
「お、お婿さん……?」
「約束したよね、お兄ちゃん?」
「いつ?」
「小一のとき!」
まるで記憶にない。
「結婚できるのは十六歳だから、あと四年もあるのかー。待ち遠しいなあ」
彼女はまるで冗談めかした様子もなく、うっとりとつぶやく。なんだか遠い空の向こうを見る目だ。
僕が困って隣を見ると、母親はアメリカンな仕草で両肩をすくめ、
「ま、あとは若い衆でー」
面倒ごとはごめんとばかりに部屋から出ていった。
「おにーちゃーん」
母親が消えて二人きりになると、
「ねーえ、今度どこか遊びに行こうよ。チケット、たくさんあるしー」
彼女はそう言うと、「じゃじゃーん」と効果音をつけて四角い缶を取り出した。元は
かぱりと開けると、中にはチケットやパンフレットのようなものがたくさん入っていた。『JAXA夏休みキッズ教室 ~本物のロケットを飛ばそう』『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』『月見野美術大学 星空のアーティスト展』『劇場版HAGETAKA ──はるかなる帰還』『プラネタリウム〈
「お母さんが、どれでも好きなの行っていいって」
「そうか、
昔から、真理亜はよく宇宙関連イベントのパンフやチケットを家に持って帰ってくる。『JAXAの美人職員』としてタレント性があり、イベント出演の依頼も多いらしい。
「あ、これ、真理亜さん出るやつじゃん」
僕は一枚のパンフレットを手に取る。『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』と題したイベントには、真理亜の写真付きで講演会の案内が記載されている。改めて見ると写真映りは抜群で、ハリウッドの女優と言われても違和感がない。
「もう~、お母さんの出るイベントはいいの……あ、お兄ちゃん、これなんかどう?」
彼女は一枚のチラシを取り上げる。
──あ……。
大ISS展 ─星空に浮かぶステーション─
宇宙を背景に浮かぶ、巨大な四枚の太陽パネル。その四角いフォルムと青白い姿は忘れるはずもない。
ISS──国際宇宙ステーション。
ISS。それはあいつの墓標だ。
「ねえねえ、ISSの実物大モデル再現展示だって! 行ってみる?」
「いや、悪いけど」僕は静かに首を振る。「他のところにしよう。な?」
結局この日、僕は葉月に押し切られて、『月見野美術大学 星空のアーティスト展』に行くことを約束させられた。
6
「聞いたぜ
予備校に着くなり、
「大地クンってば
「なぜそれを」
「へへへ、クラスの
涼介はニヤニヤしながら自慢げに言う。その胸元ではあまり似合っていないシルバーのネックレスが今日も輝いている。
「そうかー、女に興味を示さなかった大地クンにも、ついに春が来たか」
「べつにそういうんじゃないよ」
「それにしても、どうして
「おまえ会ったことないだろ」
「またまたー。有名人でしょ、あの美少女ちゃん」
涼介はスマホの画面をスクロールして、どこから探してきたのか少女の写真を出してくる。まだ十歳くらいと
「おまえ、こんなのどこで見つけたんだ」
「いやー、ネットにたっくさん転がってるよー。十歳でこの
イテテ、と彼が足を押さえて振り返ると、そこには不機嫌そうに
「邪魔よロリコン」
「何すんだモリマン!」
「モリマンいうな!」
哀れなチャラ男はまた
「今度言ったらタマ
「なんかあったのかな、伊万里」
「決まってるじゃん。女が機嫌悪いときはアレよ、アレ。女の子の日」
「そうなのか?」
「ホント言うと、最近ママンと
「ママンね……」
伊万里は不機嫌さを隠さずに机をカリカリと爪で削るようにして、
──そういや高校のころはわりと荒れてたよな。涼介蹴っ飛ばすのにも容赦なかったし。
八年後の
講義が始まっても、彼女はずっと机をカリカリしており、終了のチャイムが鳴った途端に講義室を出ていった。
「女の機嫌が悪いときは、クールダウンが一番よん」
涼介が知ったふうなことを言いながら、スマホをタップして水着のグラビアアイドルの動画を
その日の夕方。
予備校が終わり、涼介といっしょに帰り道を歩いているときだった。
「ヘヘヘ、
「いいもの?」
「これこれ」
涼介はお宝でも取り出すように、ズボンのポケットから『それ』を取り出した。ピンク色の下地に、星のようにキラキラしたデコレーションが散りばめられた、ド派手なモバイル機器。裏返すと、そこには少女二人が映っている小さなプリントシール。
「おい、これって伊万里のか?」
「正解!」
「なんでおまえが持ってるんだよ?」
「いやー、後ろの机から変な音がするなって思ったら、これが入っててさ。この中に
「バレたら伊万里に半殺しだぞ」
「大丈夫だって。
そう言うと、
「さっきから何やってんだ?」
「何って、例のアプリだよ。ロックさえ外せれば……やっぱダメかあー」
彼は残念そうにうなだれる。よく分からないが、スマホのロック解除に失敗したようだ。
「悪いことは言わんから、バレる前に戻しておけ」
「いやいや、今から伊万里ちゃんちに行こうぜ。スマホ返すって口実があれば部屋に上げてもらえるかも」
「そうか、頑張れよ」
「大地クン、ツレないこと言わないで! そりゃ大地クンは例の美少女ちゃんがいるからいいけど、俺にはまだ青春のたぎる炎を慰めてくれる子がいないの!」
そのときだ。一昔古い流行歌のメロディで──この時代では最新の曲だが──涼介のほうから音が聞こえた。
「おっ!」涼介は自分のスマホを取り出し、
「やった!
「朝陽って、
「そうそう、クラスで二番目に巨乳の朝陽ちゃん」
「一番は誰なんだ」
「それはこいつ!」そう言うと、涼介は僕の手にポンと何かを握らせた。
「じゃあ、俺は朝陽ちゃんと青春を
「おい、まさか僕に届けさせる気か!?」
「クラスで一番の巨乳は大地クンに譲るから~!!」
そう叫びながら早くも涼介は改札を抜けて、ホームへの階段を下りていく。「ちょっ、待っ」と言いかけたときには、電車の発車する音が聞こえた。
右手に残されたのはド派手なピンクのスマホ。
「マジかよ……」
7
「あ、やっぱさっきのとこ右だったか?」
三十分後、伊万里の家を探して軽く迷子になっている僕がいた。
──わざわざ来ることもなかったかな……。
忘れ物だけなら、明日予備校で返せば良かった。だが、
そのときだ。
「あれ……?
名前を呼ばれて、ハッと顔を上げる。
振り返ると、そこには二人の少女がいた。
一人は
──えっと、誰だっけ?
「こんなところで何をしているの?」
「ああ、その……伊万里の家、探してて」
「そうなんだ。遊びに行くの?」
「いや、忘れ物を届けようと思って。あいつ予備校にスマホ忘れてったから」
会話をしながら、必死に脳内データベースを検索する。この二人、確かに覚えがある。ええと、確か……。
そうだ!
「ユニバース……?」
「その名前、やめてって言ったよね?
「あ、ああ、ごめん。宇野……さん」
やっと記憶が
「えーと、
「あ、そうだったっけ?」
「だよね、
──そうだ、こっちは『ブラックホール』だ。
ユニバースの話しかけた少女は、大きな黒いリボンを腰まで垂らし、喪服のような黒い服装。その名も
そういや黒井って、将来どうなるんだっけ?
いつものとおり、同級生の将来をコスパで測ろうとするが、卒業後の黒井の進路はいまいち思い出せない。ユニバースと同じ進学先だったか?
「…………」
「そっか、一本向こうの通りな。サンキュ、助かったよユニバース」
「
「悪い悪い。じゃあな」
道順が分かった僕は、手を振って彼女たちと別れる。宇野宙海は手を振るが、黒井冥子のほうはあくまで無言のままだ。
すれ違いざまだった。
「──つけて」
ぼそり、と黒井冥子から、声が聞こえたような気がした。しかしそれは小さすぎてうまく聞き取れない。
気をつけて───そう聞こえた。
聞き返そうと思ったときには、もう二人は角を曲がり、見えなくなったあとだった。
8
「
教えてもらったとおり道を進み、ようやく目的の家に到着する。広々とした敷地を囲む高い壁、白壁の
──それにしても。
すれ違いざまに、黒井冥子に言われた言葉を思い出す。「気をつけて」。聞き違いでなければ確かにそう言っていた。それがどういう意味なのか、僕にはよく分からない。
「っていうか、ブラックホールがまともにしゃべったの、初めて聞いたな……」
そんなことを考えつつ、僕は伊万里の家の前に立つ。大理石か
そのときだ。
「──るっさいっ!」
叫び声が耳をつんざき、僕は指を止める。伊万里の声──のように聞こえた。柵ごしに敷地内を見ると、玄関のドアがわずかに開いており、そこから声が聞こえた。
「なんであたしの将来、ママに決められなくちゃいけないのよ! もう子供じゃないのよ!」「あなたはまだ子供でしょう! なのに三日も家に帰らないでどういうつもり!?」「夏休みだし、あたしがどこにいたって勝手じゃん!」「あなたが心配だから言ってるのよ!」「あーもうっ、それが余計なお世話だって言ってんの!」「親に向かってその口の利き方はなに!? パパが帰ってきたらうんと
玄関から少し離れた僕のところまで聞こえるほど、口論は激しい
「もう知らないっ!」
バーンと玄関が開いて、金髪の少女が飛び出してくる。
「
声を掛けようとしたが、彼女は僕には目もくれず走り去っていった。その後を母親らしき人物が出てきたが、僕を見て不審げな顔をすると、これ見よがしに扉を固く閉めて家に戻っていった。
「あー」
手にしたスマホに視線を落とし、僕は厄介なことに巻き込まれたな、と自らの不運を嘆いた。
すぐ近くの公園で、彼女は見つかった。
ブランコに座り、キィ、キィと
「ヒ、ヒラノ……ッ!?」
僕に気づくと、彼女はびっくりした声を上げた。それから慌てて顔を背け、ごしごしと目元を
「これ」
僕はポケットから、彼女のスマホを取り出す。ピンク色の機体が、
「あ……」彼女は目を丸くする。「ありがとう。わざわざ届けてくれたんだ」
──三日も家に帰らないでどういうつもり!?
玄関先で聞いてしまった、伊万里の母親の言葉がよぎる。
この間、伊万里は予備校に顔を出している。だからまさか家出中だとは思わなかった。
「親と喧嘩したのか?」
「いつものことだよ」
伊万里は顔を上げず、自分の影を追うように体をゆらす。ブランコは傷んだように軋む。
「なんか、進路のことでグチャグチャ言われて、それでカッとなって言い返したら口喧嘩になってさ……それでプチ家出。そんだけ」
「進路のことって?」
「あなたもう高二なんだから、ちゃんと将来のこと考えなさい──って毎日やかましくてさ。一学期の成績がサイアクだったから仕方ないんだけど、夏期講習とかも勝手に申し込んじゃうし、行かないと小遣いゼロってパパも言うし。そんな感じで両親とも最近ギャーギャーうるさくて」
「そうか……大変だな」
口では同情したふうなことを言いながら、内心では「参ったな」と思っていた。正直他人の家庭の事情に首を突っ込むのは面倒この上ない。
「あーあ、これからどうしよ。
スマホを手でいじりながら、彼女はブランコを揺らす。走ったことで今は少し乱れた頭の影が、僕の足元を行ったり来たりする。
もう帰ろう、とも思ったが、なぜかすぐ立ち去る気が起きなかった。
しばらく沈黙が流れる。キー、コン、キー、コンというブランコの寂しげな音が、どこか彼女の心情を表しているような気がした。
「ヒラノはさ」
彼女はぽつりとつぶやく。
「卒業したら、どうするの?」
──
以前、
「な、なんだよ急に」
妙にどもりながら僕は答える。
「ほら、なりたい職業とか、やってみたいこととか……」
「そういうのはないな。なんとなく大学行って、どっかに就職するだろう、くらいにしか」
実際にはバイトを転々として無職だが。
「
「え?」彼女は目を丸くする。「ヒラノに話したこと、あったっけ?」
──しまった。
「ああ、いや」
とっさに
「前にちらっと、おまえが話してたじゃん。デザインとか好きだって」
「そうだっけ?」
彼女は首をひねるが、さして気にする様子もなく「それでさ……」と話を続けた。僕はほっとする。
「そう、あたしデザイナーになりたいんだ。……いわゆるファッションデザイナー」
彼女は一度だけ視線を上げ、それからまたうつむく。
「子供のころからの夢でさ。誰でもなれるってわけじゃないし、才能ないとダメなのは知ってるけど……でも、あたし、それ以外にやりたいこととかなくて」
「いいんじゃないか、デザイナー」
「だけど親が真面目に取り合ってくれないんだよ。さっきも、そんな浮ついたこと言ってないで、現実的に考えなさい、だってさ」
「そうか。まあ、難易度高そうだしな。デザイナーって」
「うん。調べたけど、志望者がすごく多くて、成功するのは一握り」
そう言って、
内心、そんなに悩むことないのに、と思った。伊万里は将来、業界でも有名なファッションデザイナーになる。才能があることは間違いない。
「自分でも、夢みたいなこと言ってるのは分かってる。親の言うとおり大学行って、普通に就職したほうがいいってことも」
「まあな。夢なんて九十九パーセント実現しないし、そのとき就職先がないって後悔しても遅いからな」
「そう、だよね……」
彼女は
「ヒラノは?」
「え?」
「ヒラノは、夢とかないの?」
「夢……」
──
また、
「ないよ、そんなの」
「一つも?」
「悪いのか?」
「あ、ううん、責めてるんじゃなくて。ヒラノだってさ、小さいころは何か夢、あったでしょ? 良かったら教えて」
彼女は顔を上げ、じっと、すがるように僕を見る。潤んだように揺れる
その視線に押されたのか、僕は口を滑らせた。
「まあ、宇宙関係の職に就きたいと、思っていた時期はあったけど」
「宇宙関係?」
「ウチの近所に、JAXAの職員が住んでてさ。その人に昔から宇宙の話とか、ロケットの話とかをいろいろ聞いて育ったんだ。で、小学校の卒業アルバムに書いたのが『宇宙飛行士』」
「そうなんだ」
「笑っちゃうよな。あのころは、友達がパイロットで、僕が宇宙飛行士で、内閣総理大臣って書いたヤツもいた。みんなガキだったなあ」
「目指さないの?」
「へ?」
「だって、夢なんでしょ、宇宙飛行士」
「ガキみたいなこと言ってんなよ。高校生にもなって」
思わず言葉が乱暴になる。宇宙飛行士を目指せなんて、軽々しく言ってほしくなかった。それがなぜかは分からない。
「でもさ。難しいのは分かるけど、
「おいおい」僕は
「どうして無理って決めつけるの?」
「無理なもんは無理だろ。だいたい、宇宙飛行士目指して、なれなかったらどうすんだよ? 必死に努力したのになんにも『
「違うよヒラノ」
「でも、なれなかったら将来困るだろ」
「そりゃそうだけど……。でも人生って、一度きりだし、最初から諦めちゃったらつまらないじゃん」
「おいおい」
思わずツッコミを入れる。
やっぱり子供だな、と思った。ファッションデザイナーみたいな
「ちょっと待ってろ」
僕は
①夢を
「おまえの場合、①と②しか比べてないからそうなるんだ。でも、実際には③に行くのが大多数だからな? さんざん努力して、頑張って、挙句にほぼ全員が人生最下層になるわけだ。コスパ悪すぎだろ」
「うーん」
「でもさ、夢を
「そうか? 夢なんて若いころ
「それは、確かにヤバいけど」
「だろ?」
僕は同意を促すが、伊万里はさらに首をひねる。金髪が
「なんていうか、ヒラノ、この図、違う気がする」
「は?」
「だって、これ、『結果』しか書いてないじゃん?」
「結果?」
「あのね、私はこうだと思うの」
そこで伊万里は、「ペン貸して」と手を伸ばした。僕が手渡すと、ノートの余白に何かをさらさらと書き足した。
①夢を追う人生>②夢を諦める人生
「こうじゃない? たとえ結果的に駄目でも、①の人生には価値があると思うの」
「待て待て」
僕はペンを奪い返すように伊万里から取り上げ、不等号を『<』に書き換える。
「この①の人生、すげえ悲惨だぞ? さんざん努力して、頑張って、最後はまともな就職先もないんだぞ?」
「でも、最初から夢を諦めるほうが
「それ、就活の新卒キップを捨ててまでやることか?」
「人によってはそうじゃない?」
「九十九パーセント、無理なのに?」
「だけど諦めたら試合終了じゃん?」
伊万里はいかにもあっけらかんと言う。その口調に迷いがないだけ、なんだか僕は
「人生って長いからな。そうやって若いときの勢いでレールを踏み外して、中年になって後悔する
「でも、若いときの夢を諦めて、あとで後悔してる人もけっこういるんじゃない?」
「そうかもな。でも同じ後悔なら将来安定してるほうがマシだろ」
「そうかなあ」伊万里は
「若いころはそれでもいいけど、定年後はどうすんだよ。貯金や年金が少ないと老後悲惨だぞ?」
「確かにお金は大事だけど、問題はそれで何をするかじゃない? 夢を
「馬鹿だな、夢なんて
「うーん……九十九パーセント、九十九パーセントかあ」
「あのさ、ヒラノ。確かに、ヒラノの言うとおりだと思う。スポーツ選手でも、漫画家でも、たいていの夢って九十九パーセント、場合によっては九十九・九九パーセントくらい、叶わないよね。でもさ、『逆』よりいいかな、って思うの」
「逆?」
「私にとってはね、夢を諦めたら、それは『百パーセント』後悔する人生なの。大人になって、就職して、そこそこ収入があって、そこそこ趣味を楽しんで、それで幸せな家庭を作って、それで歳を取って、幸せな老後を送って──そこまで考えても、死ぬ間際、病院のベッドの上で、やっぱりこう思う気がするの。なんで、あたし、あのとき夢を諦めちゃったんだろう、あたしのバカ──ってね」
「…………」
一瞬、言葉に詰まる。それは、伊万里の
「だからね、こうなるんだ」
伊万里はノートに『確率』を書き加える。
①夢を追う人生(99%後悔)>②夢を諦める人生(100%後悔)
「これ、ほとんど後悔しかなくね?」
「アハハ、そうだね」伊万里はあまりにも明るく笑う。「まあでも、今のあたしにはこれが真実なんだよね。夢が破れてオバさんになったときに、あたし自身がどう思うかってのは分からないけど」
「後悔するぞ」
「それでもいいんだよ」
「一パーセントより低いかも」
「うん、低いかもね。実際には〇・一とか、〇・〇一くらいかも」
「だったら進路として現実的じゃないだろ」
「うーん、でもさ……」
首をひねりながらも、その口調はなお確信に満ちている。
「現実にファッションデザイナーをやってる人たちが存在するってことは、この地球上で誰かしらは必ず夢を
このとき少女の金髪は、王冠のごとく
「すべての夢は、誰かにとっての現実なんだよ」
まっすぐな彼女の
正論なのは僕の方だ。そういう
少しだけ時間が
「ごめん、なんか一方的に話して」
「いや、いいさ。おまえの言うことも一理あるし」
そうは言いつつも、僕は内心自分の考えが間違っているとはまったく思っていなかった。伊万里はたまたま才能があったし、たまたま夢を追い続ける強い決断力と覚悟があった。それだけ彼女が『特別』な人間だったというだけで、僕を含む圧倒的多数の凡人には夢を実現する運も才能もない。彼女は選ばれた『一パーセント』の側の人間なのだ。
「話、聞いてもらえて、ちょっと楽になった。エラソーなこと言ってるけど、本当は不安だったの。でも、話しててやっぱり分かった。あたし、やっぱり夢を追うよ」
「あ、ああ……それがいい。伊万里は才能あるから」
「そ、そうかな。だったらいいけど」
「あるさ」
僕が断言すると、彼女はちょっと顔を赤らめ、「……ありがと」とつぶやく。
そう、伊万里には才能がある。将来は有名なデザイナーになる──『だから』彼女は正しい。
「ごめん、時間取らせて」
「いや、いいさ」
「あ、今日のことだけど、絶対バカ
「分かってる」
「じゃあ、そろそろ行くね。暗くなる前に今日の寝床を探さないと」
彼女はスカートを軽く
「家には帰らないのか?」
「冗談。誰があんなクソババアの家に。また友達の家に泊めてもらうから」
「明日は来るのか?」
「行くと思う。一応、模試だし、受けなかったらまた
「そうか、じゃあまた明日な」
返事をしながら、そういや明日が模試だったかと思い出す。正直、自分の受験はどうでもよかったので忘れがちになる。
公園の出口で、
「夢、か……」
夢を追う。それは一見カッコイイ。だけどその先に待つのは九十九パーセント、あるいはそれ以上の確率で待つ破滅だ。死なないまでも、まともな就職先もない道。みじめな老後。コスパ最悪の人生。
そのときだ。
ふいに、前触れなく、
「つっ……」
ズキリと痛み、思わず
やがて、ぬるりとした感触を手のひらに感じて、僕は下を向く。地面にボタボタと落ちる液体は、鉄
血の涙。
な、なんだ、これ……!?
次の瞬間。
「あ……っ」何かがよぎった。
この感覚……!
忘れるはずもない。『スペースライト』の時に、自分の一生を振り返ったあの体験に酷似している。
そして僕は思い出す。『一応、模試だし、受けなかったらまた喧嘩になるし』模試の前日。『冗談。誰があんなクソババアの家に』母親と喧嘩した当日。『また友達の家に泊めてもらうから』友人宅に泊めてもらうことになっていた日──
「あああっ……!」
一人で叫び声を上げ、僕は駆け出す。
──そうだ!
角を曲がり、路地を走り、抜けたところで駅へと向かう。通行人にぶつかりそうになり、
──どうして忘れていたんだ……っ!
高校二年。夏期講習。模擬試験。その前日。
あの日も、
僕は走った。全力疾走なんていつ以来か分からない。スマホはさっきからずっとコールしまくっている。しかし通話中のアナウンスが流れるだけで一向につながらない。
「くっ……」
間に合ってくれ……!
角を曲がり、大通りに出る。駅までの道のりはあと少し。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
息が切れる。帰宅部の軟弱な自分を
──いたっ!
頭の上に盛った金髪がトレードマークの、すらりと背の高い少女。
「
大声で叫ぶ。だが彼女は気づかない。耳にスマホを当て、通話をしながら『現場』へと近づいていく。交差点の向こうからワゴンの軽自動車が出てくる。それは道を逆走しており、運転しているのは八十代の高齢男性で、周囲からは自動車の運転を止められていて、そんな中で起きた不幸な事故で──かつて見たニュース報道が僕の脳裏を高速で駆け抜ける。
「いまりぃ────ッ!」
叫びながら駆け、彼女が横断歩道に踏み出し、ワゴンのクラクションが空気を切り裂き、彼女が顔を上げ、ヘッドライトを前にして硬直し、スマホを取り落とし、間に合え、間に合わない、間に合ってくれ──
「うああああっ!!」
ヘッドスライディングのように、僕は彼女に向かって思い切りダイブする。ワゴンが接近し、その風圧を感じながらも、ぎりぎり手が届き、ブレーキ音が耳をつんざき、僕の体が彼女と重なって──
──あっ!
そのとき、僕の脳裏には何か稲妻のようなものが走った。
「きゃあっ!」
黄色い悲鳴と同時に、僕は彼女を後ろに引き倒すようにしながら路面へと突っ込んでいた。タイヤが僕たちのすぐ脇を抜け、急ブレーキのあとに停車。あたりが大騒ぎになる。
「伊万里っ……!」
僕は叫ぶ。すると彼女は「う、あ、ぅ……」と動転しながら僕を見る。
「
「あ、う、うん……」
彼女はまだ興奮冷めやらぬ様子で、目をパチパチさせて、「だ、だいじょうぶ……」と答える。わずかに足を擦りむいている他には目立った外傷がないようで、ひとまずほっとする。
「ヒラノ、足……!」
「ああ、こんなの大したことない」
僕はすりむいた
彼女が足を失うことに比べれば。
「ほら、つかまれ」
「あ、うん……」
彼女はまだ少し赤い顔で、僕の手を
落としたスマホが、ピンクの破片を
9
「
病院の廊下で待っていると、中年の女性が病室に飛び込んできた。
「ちょっ、ママ! 大げさだって! 足を擦りむいただけだって!」
伊万里は戸惑った様子で、ベッド上で母親に抱きしめられていた。あれだけの
──帰るか。
応急処置をしてもらった足をかばいつつ、ゆっくりと立ち上がって廊下を歩き出す。
救急車で運ばれたところは、偶然にも
確かに、
彼女が足を失うのを防ぐことができた。それはいい。
──ただ。
自動車から彼女を救った瞬間、僕の脳裏にはフラッシュバックのような現象が走った。それは事故についての『本当の歴史』ともいうべき事実で、今まで忘れていた記憶だった。
──変えてしまった。
僕が知っている『本当の歴史』では、盛田伊万里は交通事故に遭う。右足を複雑骨折して、回復も思わしくなく、二度と
でも、それだけじゃない。
伊万里は事故に遭い、足が不自由になった後、病院で懸命なリハビリを行う。そんな彼女の姿を見て、感銘を受けた一人の少年が、これまでぼんやりと考えていた医学部受験に本気になる。そして少年は、伊万里のリハビリにも協力するようになり、その中で二人は仲を深め、付き合うようになる──その少年の名は
──でも。
伊万里は今日、事故に遭わなかった。だから足を
二人を結ぶ運命の糸が、ワゴンの前から彼女を突き飛ばした瞬間に変わってしまった。いわばあの時点で、二人の運命のルートが『分岐』してしまったのだ。
──僕は、とんでもないことをしてしまったんじゃ……。
そんなことを思い煩いながら、病院の玄関ロビーを出ようとしたときだ。
「ヒラノ……!」
振り向くと、髪を乱した少女が肩で息をしていた。いつも頭上に盛っていた金髪が今はまっすぐに肩口を流れ、大人になった彼女の姿と少し重なった。
「おい、走って大丈夫なのか?」
僕は彼女の足を見て尋ねる。包帯の巻かれた右足は、
「あ、うん、大丈夫、大丈夫」
「ヒ、ヒラノこそ、足、大丈夫?」
「ああ、僕はなんともない」
「ヒラノ。今日は、その……」
少し間があって、ずいぶんと緊張
「あ、ありがとう」
「何が?」
「え? だって、命を助けてくれたじゃん」
「あ、そうか。うん。どういたしまして」
僕はやや間の抜けた応答をする。
命を助けた、という気持ちは全然なかった。むしろ、ギリギリまで彼女を危険にさらしてしまい、申し訳ないという気持ちのほうが強くて、だからこそ突然のお礼に戸惑った。
「……そうだ、忘れるところだった」
僕は話題を変えるように、ポケットから一台のスマホを取り出す。それは事故現場で拾っておいた伊万里のスマホで、今は画面が
「おまえ、歩きスマホで死ぬところだったぞ」
「ごめん」
伊万里は素直に謝り、スマホを受け取る。それから「あちゃー、こりゃ駄目だ」と言いながらも電源を入れた。しばらくすると、画面にライトが
「そうだ、事故に遭う前なんだけど」
「ん?」
「なんか、変なことが起きたんだ」
「変なこと?」
伊万里はうなずき、そして首をひねりながら話す。
「自動車が来た瞬間さ、急に世界が止まったような、そんな感覚になって……ほら、よくテレビドラマとかであるじゃん。死ぬ間際、時間がゆっくり動くっていうか、走馬灯みたいになるやつ」
「ああ、そんなのあるな」
人間は死の危機に直面すると、いろんな脳内物質が分泌されて、そういうふうに感じると何かで聞いたことがある。
「でもね、やっぱりどうにも……妙だった」彼女は納得いかないというように
「フラッシュバック……」
僕は驚きを隠せず、
スペースライト。
──いや、馬鹿な。ありえない。スペースライターは銀河荘にあるんだし、そもそも伊万里は何の関係もない。
そうやって必死に疑念を振り払っていると、
「やっぱ、コレのせいかな」
彼女はスマホを見ながらつぶやく。
「コレって……?」
「網膜アプリ」
──網膜?
じわりと、その単語は僕の心に入ってきた。
「な、なんだそれ?」
「ほら、えーと、なんだっけ、スマホの
「
「え、コウサイ?」
「目の虹彩で認証するセキュリティは実用化されてるだろ。でも網膜って珍しくないか?」
「さあ、よく分かんないけど……似たようなもんじゃないの?」
僕の言ってることがいまいち分からないといった様子で、伊万里は首を
「ごめん伊万里、その……『網膜アプリ』ってやつ、見せてくれる?」
「え? うん、いいけど。でも画面割れてるよ?」
──そういや、
伊万里のスマホをいじっていた悪友の顔を思い出す。あのときはロック解除に失敗していた。
画面を脇から
──あ!
その光景には見覚えがあった。青い光の線が、下から上へと走り、網膜をスキャンする光景。それは確かに、僕がこの世界に来たときに使った『あの装置』にそっくりだった。
「これ、ちょっと前からけっこう
次の言葉が、さらに僕の心を波打たせた。
「『ジュピター社』でググれば、すぐにアプリストアが出てくるから」