第三章 始まりの日 ──二〇一七年七月二十五日十四時三十三分

         1


『──どちらさまですか?』

 その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。

 忘れもしない、忘れられるはずもない。ぶしつけで、ぶあいそうで、いかにも面倒くさそうな、だけどはっきりと聞き覚えのある、その声。

 震える手でどうにかポケットを探り、スマホを取り出す。二〇一七年七月二十五日──間違いなく、画面の表示はここが過去の世界であることを示している。八年前の世界。僕が十七歳だったころの世界。そしてあいつがまだ──生きていた世界。

 ──信じられない。本当に……戻ってきた?

『あの……』

 また、声がした。僕はびくりと反応し、「は、はいっ」と変に高い声で答えた。この扉一枚隔てた向こう側に、あいつがいる。存在している。息をしている。僕を見ている。

『……どちらさま、ですか?』

 明らかに迷惑そうな声がインターフォンから伝わる。

「ぼっ、僕だよ、僕」

『…………』

「僕だよ、僕」

『…………』

 少し間があってから、ハッとする。

 ──いっけね、何やってんだ!

 我に帰り、自分の失態に気づく。ここは八年前の過去の世界──つまり僕と彼女は、まだ知り合ってすらいない。今が初対面だ。この時点での彼女は、不登校のまま姿を見せないなぞの転校生。対する僕は、彼女にとってまだ顔も知らない赤の他人。

 ──えっと、どうすれば……。

 自分の着ている制服に目を止め、そうだ、と思い出す。高校二年の一学期、終業式の日。僕はに頼まれて、ほしの家に学校のプリントや夏休みの宿題を届けに来たのだった。

「あ、あの、僕は月見野高校のクラスメートで、ひらだいって言います。それで──」


『間に合ってます』


 ぶっきらぼうな言葉のあと、プツッとインターフォンの光が消えた。

「……へ?」

 あつに取られる。間に合ってます──言葉の意味をしやくし、門前払いを食ったことを脳が遅れて認識する。

 ──と、とにかく、もう一度。

 動揺しながらも、僕は再度インターフォンを押す。しかし、五分待っても、十分待っても、いっこうに返事はない。

 ──もしかして……。

 断線していた脳内回路が、ようやく僕に結論を下す。

 無視されてる?

 それは、冷静に考えてみれば当然のことだった。あまがわ星乃という少女は、生粋の引きこもりで、極度の人間不信で、対人関係が苦手で、近所のコンビニすら行きたがらず、身の回りの物はすべて通販でそろえる、そんなコミュニケーション能力ゼロの十七歳。

 それは分かっている。

 だけど僕がショックだったのは、星乃に無視されているという事実そのものだった。

 五年間、いっしょにいた。毎日のように会った。恋人ではなかったけれど確かに友達以上の関係で、彼女の夢への道のりをいっしょに歩み、苦楽を共にした。それが振り出しに戻っている。

 彼女と出会う前の過去に戻ってきたのだから、それは当然のことだった。だが、どこかで寂しさと、切なさが僕の胸を覆っていく。

 ──〈スペースライト〉シタ場合、バッテリー不足ノタメニ戻ッテクルコトハデキマセン。ヨロシイデスカ?

 もしかして僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか?

 一瞬胸にいた後悔の芽は、しかしすぐに摘み取られる。

 ──た す け て。

 違う。そんなはずはない。この壁一枚の向こうに、ほしが生きている。たとえ僕のことは知らなくても、ともに過ごした五年間を覚えていなくても、それは確かに星乃で、僕が命をしても救いたかった少女だ。

 まぶたを閉じると、『スペースライト』の瞬間に見えた映像の濁流が、生々しいほどによみがえる。僕の一生を記録した記憶情報。その中には彼女の命を奪い去った『大流星群』が焼き付いていた。二度とあんなおもいはごめんだ。

 ──そうだ。僕はそのために来たんだ。

 彼女を救うために。その夢と未来を取り戻すために。

「えっと、ひらです。今日はこれで帰ります。木星ジユピター、何度も押してすみませんでした」

 最後に、また来ますね、と付け加える。

 返事はない。ただ、それでいいと思った。失われた時間をこれから地道に取り戻さなければいけない。ただそれも、あいつのいなかったこの三年の苦しみに比べれば、どうということはない。

 僕は床に転がっていた学生かばんを持ち上げ、二階の廊下をゆっくりと歩き出す。隣の二〇二号室のドアには、今朝の新聞がまだ顔を出しており、日付はやはり二〇一七年七月二十五日。そういえば、このころは銀河荘にもまだ星乃以外の入居者がいて、窓枠にひっかけてあるビニール傘や、すりガラス越しに見える台所用洗剤らしき容器などに生活感が漂う。

 見れば、久々に履いた空色のスニーカーの靴ひもが、片方だけほどけている。その場でしゃがんで靴ひもを結び直していると、高校を卒業するまで使っていたこの靴も、いつしかいこんでどこかに行ってしまったなあと懐かしく思い出す。さっき取り出した赤色のスマホもずいぶん前にもっと地味な色に機種変更したし、なんとなく明るい色調のものを排除していった自分のファッションセンスも、八年という歳月を通してみると如実に差異を感じる。

 ──本当に、戻ってきたんだな……。

 改めて、『スペースライト』──過去の世界に戻ってきたことに感慨のようなものを抱く。実際に体験した今でもなかなか信じられず、まだ夢を見ているような気分だ。

 靴ひもを結び終わると、僕は階段を下りる。鉄さびだらけの階段は、八年前と同じくボロボロのままで、ただ、下から三段目がまだへこんでいないのだけが違った。

 今日はこれからどうしよう──そう思っていたとき。

 不意打ちのように、カチャリという音がした。それは金属がぶつかり合うような、独特の音──開錠音。

 まさかと思って僕は振り向き、そして、


 息を飲む。


 二階の一番端っこの部屋。そのドアが開いており、そこに身を隠すように立っているのは一人の少女。きやしやな体に不釣り合いな、だぼっとした白っぽいジャージの上着をまとい、腰までかかる長い黒髪は、ぼさぼさのまま風に揺れている。短パンからは白い脚がすらりと伸び、上半身の服装のやぼったさとちぐはぐな印象。足につっかけたサンダルは子供向けのキャラプリントがされ、小柄なたいとあいまってひどく子供っぽく見えるのに、前髪の奥にある不機嫌そうなひとみは明らかにこちらへの敵意に満ちている。その証拠に、手に抱えたUFOのぬいぐるみには、内部にエアガンが仕込んであることを僕は知っている。そんな、美しくも近づきがたい少女。


 あまがわほし、十七歳。


「あ……」何か言わなくては、というおもいが、まず僕を動かした。「えっと、ど、どうも」

 気の利いた台詞せりふが出てこない。意識はただ、目の前にいる少女にくぎづけになって、頭の回線がショートしたようにうまく働かない。

 星乃が立っている。星乃が生きている。星乃が僕を見ている。

 吸い寄せられるように階段を引き返し、再び二階の廊下に戻る。そして足を踏み出すと、少女はびくりとして身を引くような仕草をした。まずい、と思って半歩下がり直す。

 もどかしい数メートルの距離を挟んで、僕たちはたいする。

「──どうして?」

 最初、質問の意味が分からなかった。

 少女は冷たい瞳で続ける。

「どうして、これが『木星ジユピター』だって知ってるの?」

「あ……」

 ──木星ジユピター、何度も押してすみませんでした。

 自分の失言に気づく。この時代の僕は、まだこのインターフォンのことを知らない。彼女の私的な発明品の名前を知っているはずがない。

「あ、ええと、その」しどろもどろになる。「ま……さんから、聞いて」

「あの女に?」

 あの女──その呼称が引っかかる。

「あ、ああ。おまえのこと、紹介されて、そのときに聞いたんだ」

「おまえ?」

「ほ、星乃」

れしく下の名で呼ばないでくれる?」

「じゃあ……あ、あまがわ、さん」

 すごい違和感だった。ほしのことを名字で呼んだのはいつ以来か。

 彼女はほつれた前髪の奥から、敵意を隠さないまなしをじっと向けたまま、「そう」と一人で納得したような声を出した。

「みんな、あの女の差し金ってわけね」

「え……」

「じゃあ帰って伝えなさい。余計なはするなって」

 彼女は吐き捨てるように言う。

 僕はに落ちない。星乃とって、そんなに仲が悪かっただろうか? 八年前の人間関係を脳内から呼び出そうとするが、いかんせん古いメモリーからなかなか目当てのデータを探し出せない。星乃と真理亜。被保護者と保護者。星乃から見れば、亡き両親の親友。真理亜にとっては、亡き親友の娘。そんな表面的なデータしか引っ張り出せない。

「えっと、僕は……」とにかく何か言わなくては。彼女との関係をつなぎとめなくては。僕は前のめりの姿勢で、一歩近づく。

 するとその瞬間、


 パンッ!


 乾いた音を立てて、僕の足元で何かが跳ねた。

「うわッ!?」

 見れば、星乃は僕のほうにUFO型のぬいぐるみを構え、『照準』をつけている。

「ちょ、待っ……」

 何か言う前に、また足元でパンッと音がした。それがBB弾と呼ばれるエアガンの弾であることは確かめなくても分かる。天野河星乃の標準装備だ。

「来たら撃つわよ」

「もう撃ってるだろ!」

 僕の返答が気に入らない、というようにまた足元に新たな着弾がある。「うわっち!」と僕は道化師のように飛び跳ねる。

「分かった、帰るから! だから撃つな! 危なイッテ! ちょっ、やめっ、痛いッテ!」

 何か言うたびに僕の足にパンパンと弾が当たる。激しく痛い。

「二度と来ないで」

「ちょっ、おまっ、覚えてろよっ!」

 前回の『ファーストコンタクト』と同じ台詞せりふを繰り返しつつ、僕は退散するのだった。


         2


 銀河荘を追い返された僕は、途方に暮れた。

「うわ、ひでぇ……」

 ズボンをめくりあげたらBB弾のあとがたくさんついていて、北斗七星みたいなアザが出来ていた。『銃口を人に向けてはいけません』という子供でも分かる注意書きを思い出す。

 ──そうだあいつ、凶暴なやつだった……。

 ピリピリと痛む足をさすりながら、さしあたりの手当ても兼ねて、わく家に立ち寄る。しかし、あいにくまだ留守のようで、づきも出てくる様子はない。惑井家の外観は屋根がやけに派手な水色で、そういえば雨漏りの補修工事をしたのがこの時期だったかと思い出す。

 ──仕方ない、いったんウチに帰るか……。

 八年前の街並みは、変わったところもあれば、相変わらずの景色もあった。いつも行くコンビニは同じチェーン店だったがアルバイトの店員が別の人だったり、猛犬注意と書かれた近所の家では、死んだはずの大型犬がまだ元気よくえしていた。雑居ビルの一階では廃業したはずの理容室がまだ営業しており、その二階にあるテナントはまだ空っぽで、個別指導系の学習塾が入るのは確かこの二年後になる。夜逃げした町工場が元気よく操業しているのを見ると、なんだか複雑な気分になった。

 変わったのはそれだけではなかった。自分の下宿に来て、かぎを出そうとしたところで、

 ──あれ?

 鍵がない。いつも持って出かけるキーホルダーはポケットになく、財布にも定期入れにもそれらしきものはない。

 参ったな、どうしよう、とドアノブをガチャガチャやっていると、

「ちょっと!」

 急にドアが開き、僕はガンと腕をぶつけた。「いてっ!」とうめきながら後退すると、室内からは見慣れぬ女性が顔を出した。しかもネグリジェ姿だ。

「あんた、ウチに何の用?」

「あ……」

 そこで僕は気づく。表札には『さか』という名字。ひらじゃない。

 ──しまった!

 この星雲荘は僕が両親の離婚を機に移り住んだところなので、今はまだ僕の家じゃない。

「あ、すみません、間違えました!」

 慌てて退散し、僕はアパートの敷地を飛び出す。完全にうっかりしていた。

 どこかでまだ、ここが八年前の世界だということに適応できていない。頭では分かっていても、足は自然といつもの下宿に向いてしまう。ほしをつい呼び捨てにしてしまうのといっしょで、気をつけねばならない。

「ええと……あっちか」

 道路に出て、僕はもつれる足で実家に向かうのだった。


「懐かしいな……」

 白塗りの二階建ての『自宅』を見上げ、当然というべきか、それとも不自然というべきか、微妙な感想が口から漏れる。

 高校卒業と同時に、僕の両親は離婚した。

 原因は父の浮気発覚で、母はあっさりと離婚届を突き付け、家を出ていった。ちょうど単身赴任中だった父は、そのまま家を売り払い、その売却代金から母への慰謝料と僕の学費や生活費をねんしゆつした。その後、父は急に体調を崩して病死、その一年後に母は子連れの男性と再婚、僕だけがふわりとほうり出されるような格好で今に至る。

 そんなふうに空中分解するのが、このひら家の未来で、今からその家に帰るのは正直言って違和感がある。倒産した会社に通い直すような気分、と言ったらいいのか。

「ただいま」

 玄関に入ると「あら大ちゃん、おかえり~」と母が出迎えた。顔を見るのは何年ぶりだろう。若いころは無名ながら舞台女優をしていた時期もあったらしく、白い肌と整った目鼻立ちは、わくと並んで年齢を感じさせない。自分が高校生のころは特に気にしていなかったが、こうして二十代なかばになった視点で見ると十分に美人だ。真理亜と違うのは、やや垂れたじりのせいでおっとりして見えるところだろうか。

「セイセキ、どうだった~?」

「え?」

 僕は何を言われたかとっさに聞き取れない。セイセキ?

「ほら、通知表よ。今日終業式だったんでしょ~?」

「あ、そうか」

 僕はかばんを開け、ごそごそと中を探る。当時の僕なら通知表の成績に気をんだかもしれないが、今は存在すら飛んでいた。

「これ」

 横に長い通知表を、中身も確かめずに母に渡す。

 母はペラリと中身を開け、ふんふん、と鼻を鳴らしながら確認する。

「数学が上がって、国語が下がったんだ~。あとは横ばいね~」

 のんびりした語尾で、母は僕の成績を確かめる。語尾を伸ばす癖は真理亜と似ているが、向こうが女戦士ならウチの母さんはいやけいの女僧侶といったところか。

「来年は受験生だから大変ね~。夏休みもお勉強がんばるのよ~」

 母は納得したのか、僕に通知表を返す。中身を確認すると、五段階評価で3と4が交互にくるような平凡極まりない内容で、そういえば僕はこんな成績だったと思い出す。得意科目も苦手科目もない、のっぺりとした無個性。

「夕ごはんどうする~?」

「なんでもいい」

「昨日の残りでいい~?」

「じゃあそれで」

 返事もそこそこに、僕は階段を上がる。

 ──さて……。

 さすがに自分の部屋くらいは覚えている。二階の一番奥を、曲がって左。ドアを開けると、窓際には金属製のベッド。左の奥にデスク。

「うわ、まだ『7』か、古いなー」

 ノートパソコンを開いて、出てきたOSの古さに驚く。ITの世界では半年てばひと昔という話を聞いたことがあるが、八年前はまさに大昔だろう。

「あー、そうかー。そういやそうだったなー」

 ブックマークした『お気に入り』の項目を見て、当時の自分の趣味や、よく行くサイトなどを思い出した。宇宙関係や天体観測がらみが多いが、海外アーティスト関係のサイトも多い。このころは洋楽をかじっていた。今ではすっかり聞かなくなったけど。

 パソコンやスマホのアドレス帳、机の中のへそくり、電子書籍のラインナップ、ネットであつめた無料エロ動画……当時の自分の『装備』を一通りチェックする。

「そうか、夏休みか……」

 八年後にはとっくに引退している水着姿のアイドルがにっこり微笑ほほえんだデスクトップの日付は、二〇一七年七月のもの。今日が終業式、明日からは夏休みとなる。

 当時の僕は、夏をどうやって過ごしていただろうか。記憶をたどるが、どうもうまく思い出せない。八年間というのはこんなにも人の記憶を薄れさせるものなのか。

 その後もなんとなく部屋を物色したり、ネットニュースから時事ネタを確認して過ごす。新内閣の顔ぶれ紹介とか、原発の廃炉問題とか、連続殺傷事件の公判内容、無人惑星探査機の更新途絶──政治経済から娯楽、文化、サイエンスに至るまで、最新の時事ネタすべてが懐かしい。ちなみに新内閣は閣僚の不祥事で二年もたないし、原発は八年後もまるで収束していないし、連続殺傷事件の容疑者は獄中死、無人惑星探査機は来月にはあっさり見つかる。

 初日はそんなふうに、頭の中身を『アップデート』して過ぎていった。ネットサーフィンの途中、ほしに電話しようかと思ったが、電話番号が携帯に登録されていないことに気づく。わく、惑井づきという八年後でもつきあいのある連絡先もあれば、高校卒業後に完全に疎遠になった者の番号も多い。アドレス帳の大半が、今は関係の切れた友人ばかりになっており、近年の自分の交友関係の狭さが身に染みた。イチロー、メッシ、ユニバースなど、懐かしいニックネームが並ぶ。

 母と二人だけの夕食が終わり、自室に戻ると急速に眠気が襲ってきた。

「ふぁ……」

 思えば、『今日』は本当にいろいろあった。に説教されながらぶん殴られたのも、づきに抱きしめられながら告白されたのも僕にとっては『今日』のごとだ。

 ──れしく下の名で呼ばないでくれる?

 ほしの言葉と、その顔を思い出す。

 冷たいまなしで、取りつく島もなく門前であしらわれた。だけどそれでも彼女は生きていた。たしかにそこに存在して、その耳に僕の声が届き、そのひとみに僕が映った。

 毛布をかぶり、ベッドの中で彼女のことを思い出す。

 少し泣いた。


         3


 翌朝。

『DO IT! DO IT! OH! F○CK ME♪』

 けたたましい着信音で、僕は目を覚ました。なんだよこの趣味の悪い洋楽と思ったが、これは高校時代の僕の趣味だ、と思い直す。

 画面を見ると、ひとつの名前が明滅している。


りようすけ


 ──あ。

 一瞬、スペースライト前の出来事を思い出す。同窓会の日、僕を羽交い締めにして、最後はあわれむようなで見てきた旧友。将来は医師になる人物──やましな涼介。

 眠気が飛び、やや意を決するように、通話ボタンを押す。

「も……もしもし?」

『おー、だいクン、生きてるー?』

 いきなり軽い感じの声が受話器から飛び出してきた。

 え……?

『あれ? どったの大地クン? まだ寝ぼけてる? 徹夜でエロ動画見ちゃった?』

 ──そうだった。

 やっと記憶がよみがえってくる。山科涼介は元はこういう性格だった。軽い感じのお調子者で、テニス部の練習がきつくて三ヶ月でやめたという根性なしの男。この時点では将来医者になるなんて想像もつかないほど成績も悪い。

『いやー、大地センセーはさすが。超リスペクト。初日から飛ばしてらっしゃる』

「初日?」

『おやおや、お忘れですか~。今日から講習でございます』

「えっ?」カレンダーを見る。そんなことは書いていない。いや、よく見ると本棚の中に無造作に突っ込んであるのは、予備校の名前が書かれた冊子。

 ──そうか、今日から夏期講習か!

『じゃあねだいクン! あ、この前約束したエロDVDも忘れずにねっ!!』

 バカっぽい感じでそう言うと、りようすけの電話は切れた。僕はスマホの画面にある『涼介』という着信記録を見つめ、なんだか懐かしくも複雑なおもいにとらわれる。確かにやましな涼介とはこの前の同窓会で会ったばかりだが、こうして十七歳の彼と話したのは本当に久しぶりだった。遠く離れていた友人と八年ぶりに再会した気分だ。

「夏期講習、か……」

 僕はこの世界に、ほしを救うためにスペースライトしてきた。だから高校だの予備校だのというものは正直どうでもよくて、ただ星乃の命を救うために必要なことだけをすればいい。夏期講習などに行ってる場合ではない。

 ──でも。

 そこまで考えてみて、別の疑問が首をもたげる。

 星乃を救う。それは決定事項であり、すべての大前提だ。そのためなら僕はなんだってする。例の『大流星群』を引き起こしたテロリストがいるのなら、そいつの居場所を突き止めて警察に突き出すくらいは当然だ。しかし現状では、僕はテロリストの居場所も知らないし、だいたいテロ自体がまだ発生してもいない。八年後の未来で全世界の国家権力が躍起になって探し回っている正体不明のテロリストを、僕みたいな民間人が容易に探し出せるとは思えないし、テロに遭わぬように星乃のフライトを止めるにしても、彼女はまだ宇宙飛行士ですらない。

「そうか……」

 考えてみれば、今すぐ僕にできることは何もない。せいぜい星乃のところに通って、彼女と仲良くなることくらいだが、それも昨日追い返されたばかりだ。人間嫌いの星乃の性格からいって、無理に押しかければ関係が悪化するのは目に見えている。何か『作戦』が必要だろう。それに、スペースライトしてから僕はまだ『ブランク』を取り戻せていない。八年間の時差ボケともいうべき状態を何とかしておく必要もある。このまま勉強もせず学校も通わずに過ごすとなると、かえって親や教師との関係が面倒になるのは明らかで、高校生の経済力からいって親元から離れるのも現実的でない。星乃を救うための有効な作戦を思いつくまで、しばらくは『普通の高校生活』をトレースするのが無難だろう──僕はひとまず当面の方針を固める。

 スマホの画面には、『夏期講習』を示すリマインダーの文字が浮かぶ。

「とりあえず顔を出すか……」



「おー、重役出勤ごくろうさん!」

 講義室に入ると、一人の少年が手を挙げる。山科涼介。安っぽく染めた茶髪を肩まで伸ばし、胸にはシルバーのネックレス。見た目はホスト風で、根性は軟弱。押しの弱いチャラ男、という評価がクラスで定まっていたのを思い出す。

「うっかりしてたよ」

「昨日話してたのに、なんでもう忘れてるんだよ」

「悪い悪い」

 僕にとっては八年前だ。覚えているはずがない。

 電車で二駅乗り、到着したときにはすでに一時間近い遅刻で、休憩時間の講義室は出入りする受講生でごった返している。

「おっはー、ヒラノー」

 りようすけの後ろでは、一人の少女が気安い感じで手を挙げた。金色に染めた髪を、周囲に見せつけるように頭の上に盛った少女。ややきつめの目元がこちらをまっすぐ映し、服の上からもはっきり分かる豊かな胸元がぐいと薄手のシャツを突き上げる。美少女には違いないが、緩めたネクタイの胸元と、どこか斜に構える感じが不良っぽい印象だ。

 ──えっと……誰だっけ?

「ねえ今日はどうしたの? ヒラノが寝坊とか珍しい」

「そ、そうか?」

 とりあえず話を合わせる。

「そうだよ。何事も最低限、そつなくこなすのがヒラノじゃん。目立った活躍もないけど絶対失敗しない、みたいな?」

 ──あ!

 やっと思い出す。

もり……?」

「え? あ、うん。なに急に?」

 少女は少し驚いた様子でまばたきをする。

 そうだ、盛田伊万里──僕は複雑な気分で彼女の若い顔を見つめる。

 大人になってからこそ落ち着いたものの、高校のころはこんな容姿だった。クラスで一番不良っぽくて、チャラ男のりようすけと並んでワルガキ筆頭の二人組。こうして夏期講習に来ているのも、親に勝手に申し込まれてしぶしぶ、というのも共通している。

 ──そうか、こんなんだったっけ……。

 時を超えて『再会』した友人たちの姿に、僕は違和感を覚えずにはいられない。医師として立派になった涼介と、大人の女性として落ち着いた伊万里の姿が、今の若くて遊び盛りの二人とどうしても重ならない。

 ちなみに、伊万里は不自由な足のハンデをものともせず、将来は業界でも有名なデザイナーになる。その後、長らくつきあっていた涼介と結婚し、それから──

 ──あんたなんか呼ぶんじゃなかった!

 同窓会で僕をひっぱたく。

「お、どうしちゃったのだいクン?」ニヤニヤしながら涼介が言う。「モリマンをフルネームで呼ぶなんてちょっとアヤシイなあー」

「モリマンいうな」

 ていっ、と盛田伊万里が涼介にりを入れる。盛田の『盛』と、伊万里の『万』でモリマン。涼介が呼び出したあだ名だ。

 ──あれ、伊万里の足……。

 同窓会で、つえをついていた彼女の姿を思い出す。今、涼介に蹴りを入れた右足は、本来なら不自由な方の足だ。事故でをするのは、このあとのことだったか。だとすればそれはいつだったか?

 記憶をたどっているうちに、チャイムが鳴った。



「あー、終わった終わったー」

 涼介が大げさな伸びをする。

 合計三コマの講義で、初日の講習は終わった。

 正直、授業の内容は上の空だった。数学の公式などはすっかり抜けているし、今から気合いを入れて覚えようという気にもならない。頭の中では昨日会ったほしのことがぐるぐると回っていて、今日の帰りに会いに行こう、でも何を話そう、何か有効な作戦は……みたいなことばかり考えていた。これではりようすけを笑えない。

「さて、これからがお楽しみタイムだな」涼介が斜め後ろを振り向き、上半身を乗り出すようにアプローチを図る。「ちゃん、何か食べて帰ろうぜ」

「えー」

 もり伊万里はあからさまに面倒そうな顔をする。

「疲れたし、早く家に帰って休みたいんだけど」「つれないこと言うなよ。夏は始まったばかりだぜ」「じゃあ帰るわね」「ああん、伊万里ちゃん待ってよー」

 チャラ男らしく、涼介が女の子のしりを追いかけていく。こうして見ると懐かしい。実際、二人は何をきっかけに付き合いだしたのか? あしらわれているのを見る限り、とても結婚するなんて思えない。

 一分後、涼介が苦笑いをしながら帰ってくる。

「ちっきしょー。あの女、尻軽のくせしてガード固いわ」

 その尻軽と結婚することになるのはおまえだ、と内心で突っ込む。

「いいよなー、俺もだいクンみたいなイケメンだったらなー」

「おい、僕がイケメンなわけないだろ」

「あーあー、これだから大地クンは」

 涼介は大げさな手振りを交え、分かってないなあ、というポーズをする。

「女子の間ではわりと高評価なのよ、大地クン」

「マジで?」

「ツラはまあまあだけど、あの若くして人生に達観した態度がムカつくって」

「全然評価されてないだろ」

「大事なのはツラだよ、ツラ」

 そういう涼介のほうがよほどかっこいい、と思ったが、今は議論しても仕方ない。僕からすると彼は、どちらかというと髪を染めずに男らしい短髪にしたほうが似合うのだ。ただ、本人はそれとは真逆のセンスで走っているのが何ともチグハグだ。

「あー、それにしてもモリマン腹立つわー」フラれた腹いせに、涼介は彼女の悪口を並べ立てる。「あーいう可愛かわいげのない女は絶対に嫁のもらがないね。悪い男に引っかかって一生を台無しにするタイプだね」

「そうだな、悪い男に引っかかるかもなー」

 将来の旦那を見ながら、僕は内心でツッコミを入れた。


         4


 その日の夕方。

 僕はさっそく銀河荘へと赴いた。

 今日一日考えてみて、たどりついた結論は以下だった。

 ほしを救う──そのおもいは変わらない。ただ、そのために何をすればよいのか、いずれ起こるであろう『大流星群』や、そのとき星乃の命を救うための方法など、あれこれ考えてはみるが、現段階でひとつだけはっきりしていることがあった。

 彼女と親しくならなければならない──これは最低限にして最優先事項だ。星乃に助言をするにせよ、何か相談に乗るにせよ、とにかく基本的な人間関係ができているのが大前提だ。それなくしては何一つ話が進まないだろう。見ず知らずの人間からアドバイスを受けても半信半疑になるのは間違いないし、何より星乃の性分からして、赤の他人の意見など絶対に聞き入れない。

 しかし。

『…………』

 インターフォンを押して、待つこと五分。応答なし。

 引きこもりの星乃が、居留守を使っているのは分かっている。それゆえ応答がないということは無視されているのとイコールだ。

 ──ダメか……。

 焦ることはない、と自分に言い聞かせる。

 僕は星乃のことをよく知っている。彼女の趣味、こう、性分、好きな食べ物、苦手な虫、思い出の曲からお気に入りのプラネタリウムまで、すべてを熟知している。彼女と仲良くなった『一周目の人生』を知っている。それらの知識を生かしていけば、効率的に、コスパよく彼女と距離を縮められるはずだ。

「また、来るから」

 そう思い、二階の廊下を引き返していたとき。


 ガチャリと音がした。


 ドクンと心臓が跳ねる。思わず直立不動になり、そして振り向く。

 ──星乃……!

 ドアから出て来たのは僕のよく知る一人の少女。ぼさぼさの長い黒髪は腰まで伸び、肌はやはり病的なまでに白く、今日はジャージのズボンを穿いており、その上にはだぼっとした感じのTシャツ。やはりUFO型のぬいぐるみを胸に抱き、前髪の奥にあるまなしは、今日も敵意に満ちた視線を僕に向けている。

「──どうして?」

「え?」

 彼女は前髪の奥で、すっと目を細める。冷たい視線が僕に刺さる。

「どうして、また来たの?」

「ま、また来るって、言ったろ」

「二度と来ないでって言ったよね」

 彼女は畳みかけるように言い返してくる。不愉快なんだけど、という感情が、言葉にせずとも声の調子で伝わる。

「また、あの女の命令?」彼女はこの前と同じ人間を挙げる。

さんのことか?」

「決まってるわ」

「あの人、おまえの親代わりだろ」

「ふざけないで。あんなのを親だなんて認めないわ」

「なんでだよ。真理亜さん、いい人だろ。ちょっと変わってるけど」

「……いい人?」

 気配が変わる。けんに寄ったしわが、不機嫌を通り越して、怒りにシフトチェンジする。

「地球人にいい人なんて存在しないわ。誰一人ね」

「そんなわけないだろ」

「そんなわけある」ほしは怒りを込めて断言する。「地球人は信用できない。冷酷で、残忍で、すぐに裏切る」

「そういうやつもいるかもしれないけど、いい人もいるだろ」

「地球人は愚かだから。頭、悪いから。だから嫌いなの」

「星乃、聞いてくれ。僕は──」「星乃って呼ばないで!」

 いらった音を立てて、ドアは固く閉ざされた。


         5


 銀河荘から歩いて一分。目と鼻の先に、その家はある。

わく

 チャイムの音がしてから、だいぶ間があった。僕はいろいろなことを思い出し、わずかに緊張しながら待った。

「おう、だいかー」

 ドアが開くと、寝癖だらけの銀髪をガリガリときながら背の高い女性が出てきた。寝起きだったのか、パジャマ姿である上に、ちょっと胸元がはだけていて際どい。

 ──あ……。

 惑井真理亜の左ほおには、大きな古傷が存在していなかった。元々美人だということは知っていたが、八年分若返ったことと、顔から古傷が消えたせいで目の覚めるような美女になっている。女優です、と名乗っても十分に通じるだろう。元々日本人離れしたスタイルと、光沢のある銀髪が絶妙にマッチして、どこかファンタジーの世界のキャラを思わせた。

 ──ふざけるな、何がタイムマシンだ!? 八年前に戻る? あの子を生き返らせる!? ひこの夢の続き!? いい加減にしろよこの大馬鹿!!

 ふと、八年後の世界で──僕にとってはまだつい最近のごとだ──に言われた言葉を思い出す。『スペースライト』したことで、あのとき殴られたほおの痛みはもう消えたはずなのに、こうして彼女を前にするとなんだかまだ痛む気がする。

「ん、どしたー? ぼうっとしてー?」

「いえ……」

 ──そういえば、真理亜っていつ顔に傷を負ったんだろう?

 思い出そうとしてみるが、すぐには記憶を引っ張りだせない。

「ちょっと時間、取れますか?」

「おう、いいぞー」彼女はあっさり承諾し、それから家の中に向かって叫んだ。「づきー、お客様だよー。お茶れてー」

「はーい」

 二階の階段から、とてとてと少女が降りてくる。ふわりとした黒髪に大きめの赤いリボンをつけ、白地に桃色のラインが入ったトレーナーを着ている。

「お兄ちゃん!」

 わく葉月は元気よく叫んだ。

 ぴょん、と飛び跳ねるように階段を下りて、少女は僕のほうに駆け寄ってくる。すぐに僕の右腕を引っ張ると、「やった、今日は何して遊ぶ?」と甘えた声を出してくる。

 ──そうか、八年前だと、まだこんなか……。

 幼さと無邪気さがいっぱいの少女は、大胆な感じで僕にくっついて腕を引っ張ってくる。二十歳はたちから十二歳の変化はさすがにギャップが大きく、元々の童顔とあいまっていっそう子供っぽく見える。

「お兄ちゃん、今日はゆっくりしていける?」

「いや、少しだけ」

「ええー。夏休みなんだしもっと遊ぼうよ。ねえねえ、お兄ちゃん」

 このころは呼び名が「先輩」ではなく「お兄ちゃん」だったなと懐かしく思い出す。葉月とは小さいころから家族ぐるみのつきあいで、ずっととしの離れた兄妹のように育った。お互いの家に遊びに行ったり、近所の公園で遊んだり。

 ──私、昔からずっと先輩を見てきました。

 スペースライト前の、別れ際の言葉が脳裏をよぎる。

 葉月はいつから僕に好意を抱いたのだろうか? 元から兄妹のように親しかったせいもあり、どこで彼女が僕を異性として意識し始めたのか、いまだに分からないでいた。

 そして五分後。

「お母さん、紅茶に砂糖入れ過ぎ」

「いいじゃん別に。このくらい問題ないさー」

「お兄ちゃんはどうするー?」

「じゃあ、一杯だけ」

 丁寧にれられた紅茶の香りが、心地よくこうを抜ける。この家のこうひんは台所を預かるづきの趣味によって決まるため、このころは紅茶に凝っていたことを思い出す。

「──それでさ、だい

 はカップに指をかけたまま、静かに切り出す。

ほしちゃん、どうだった?」

「いや、それが……」

 ──二度と来ないで。

 僕は肩をすくめ、「全然、相手にされませんでした」と正直に打ち明ける。

「そっか……」真理亜は小さくため息をく。「あの子、何か言ってた?」

「いえ、特には」

 ──あの女の差し金ってわけね。

 また、星乃の言葉がよぎる。

 真理亜との関係は、そんなに悪かったのだろうか。僕が知る限り、確かに微妙な空気はあったが、『あの女』呼ばわりまではされていなかった気がする。それとも八年前のことで僕の記憶があいまいなだけだろうか?

「あの子、ちょっと前にいろいろあって、警戒心が強いんだー」

「……でしょうね」

 それはよく知っている。

「とっつきづらい子だとは思うけど、友達になってやってほしいんだー」

 そう言って、彼女は星型のピアスを愛おしそうに撫でる。それは小さいころの星乃からプレゼントされたという手作りの品で、真理亜がずっと大切にしている宝物だ。

 ──でも、星乃とはうまくいってないんだよな……。どうしてだろ。

「すまないね、面倒なことを頼んでー」

「まあ、やるだけやってみますよ。どうせ暇ですし、他ならぬ真理亜さんの頼みですし」

「恩に着るよ!」

 バン、と彼女は僕の背中をたたく。「ブッフォ!?」と僕は紅茶をむせる。

「わっ、お兄ちゃん大丈夫!?」

 葉月が慌てて紙ナプキンを持ってくる。

 僕のれたズボンを急いできながら、「もう、お母さんってば気をつけてよね! お兄ちゃんは大事な『お婿むこさん』なんだから!」と怒った。

 ──え?

 僕はその言葉を聞きとがめる。

「お、お婿さん……?」

「約束したよね、お兄ちゃん?」

「いつ?」

「小一のとき!」

 まるで記憶にない。

「結婚できるのは十六歳だから、あと四年もあるのかー。待ち遠しいなあ」

 彼女はまるで冗談めかした様子もなく、うっとりとつぶやく。なんだか遠い空の向こうを見る目だ。

 僕が困って隣を見ると、母親はアメリカンな仕草で両肩をすくめ、

「ま、あとは若い衆でー」

 面倒ごとはごめんとばかりに部屋から出ていった。



「おにーちゃーん」

 母親が消えて二人きりになると、づきはますます甘えた声を出して身を寄せて来た。ソファーの上で体をぴとりと密着させてきて、僕はちょっとのけぞる。

「ねーえ、今度どこか遊びに行こうよ。チケット、たくさんあるしー」

 彼女はそう言うと、「じゃじゃーん」と効果音をつけて四角い缶を取り出した。元はせんべいか何かだろうか、銀色のアルミ製の箱だ。

 かぱりと開けると、中にはチケットやパンフレットのようなものがたくさん入っていた。『JAXA夏休みキッズ教室 ~本物のロケットを飛ばそう』『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』『月見野美術大学 星空のアーティスト展』『劇場版HAGETAKA ──はるかなる帰還』『プラネタリウム〈みやび〉 ~月の砂、星の砂』『スペースマガジン特別企画 宇宙飛行士の千夜一夜』など、宇宙や星空に関するものが多い。

「お母さんが、どれでも好きなの行っていいって」

「そうか、さんのか」

 昔から、真理亜はよく宇宙関連イベントのパンフやチケットを家に持って帰ってくる。『JAXAの美人職員』としてタレント性があり、イベント出演の依頼も多いらしい。

「あ、これ、真理亜さん出るやつじゃん」

 僕は一枚のパンフレットを手に取る。『アストロ&コスモ ──宇宙飛行士たちの足跡』と題したイベントには、真理亜の写真付きで講演会の案内が記載されている。改めて見ると写真映りは抜群で、ハリウッドの女優と言われても違和感がない。

「もう~、お母さんの出るイベントはいいの……あ、お兄ちゃん、これなんかどう?」

 彼女は一枚のチラシを取り上げる。

 ──あ……。


 大ISS展 ─星空に浮かぶステーション─


 宇宙を背景に浮かぶ、巨大な四枚の太陽パネル。その四角いフォルムと青白い姿は忘れるはずもない。

 ISS──国際宇宙ステーション。

 づきから渡されたチラシを受け取り、静かに目を走らせる。小見出しには『世界中の注目を集めるISS』とあり、日本人宇宙飛行士の活躍などが伝えられている。ひこりゆういちの設計した『きぼう』は機能性においても耐用年数においても抜群の性能を誇っており、従来の単結晶シリコンに加えペロブスカイトを利用した高効率太陽電池パネル、液体金属を組み込んだ耐久性デブリシールドなど、画期的な技術は欧米や中国、ロシアなどにも公開され、それとともに宇宙ステーションそのものの寿命も大幅に伸びつつあった。しかし、運用延長を決定した矢先に『あの事件』が起きて、今から五年後、ISSは他の人工衛星たちとともにほしくずとなって消滅する。

 ISS。それはあいつの墓標だ。

「ねえねえ、ISSの実物大モデル再現展示だって! 行ってみる?」

「いや、悪いけど」僕は静かに首を振る。「他のところにしよう。な?」

 結局この日、僕は葉月に押し切られて、『月見野美術大学 星空のアーティスト展』に行くことを約束させられた。


         6


「聞いたぜだいクン!」

 予備校に着くなり、りようすけが肩を組んできた。

「大地クンってばうわさの転校生に猛アタックしてるんだって?」

「なぜそれを」

「へへへ、クラスの可愛かわいい子ちゃんはみんなオレサマのチェックから逃れられない」

 涼介はニヤニヤしながら自慢げに言う。その胸元ではあまり似合っていないシルバーのネックレスが今日も輝いている。

「そうかー、女に興味を示さなかった大地クンにも、ついに春が来たか」

「べつにそういうんじゃないよ」

「それにしても、どうしてあまがわなんだ? まあ、すげえ美少女だけどさ」

「おまえ会ったことないだろ」

「またまたー。有名人でしょ、あの美少女ちゃん」

 涼介はスマホの画面をスクロールして、どこから探してきたのか少女の写真を出してくる。まだ十歳くらいとおぼしき、幼いころのほしの横顔。両親に手を引かれて、車に乗り込むシーンを撮ったものだろうか。

「おまえ、こんなのどこで見つけたんだ」

「いやー、ネットにたっくさん転がってるよー。十歳でこのぼう、十七歳の今はどんな美少女になってるやら──アダッ」そこで涼介は大げさに飛び上がった。

 イテテ、と彼が足を押さえて振り返ると、そこには不機嫌そうにまゆをしかめた女子高生。

「邪魔よロリコン」

「何すんだモリマン!」

「モリマンいうな!」

 哀れなチャラ男はまたあしにされ、今度は反対側の足を押さえてうめく。

「今度言ったらタマつぶすから」

 は席についてからも、しかめっつらでスマホをいじり、ガツガツと乱暴に机の脚をばしたりしている。あからさまに機嫌が悪そうだ。

「なんかあったのかな、伊万里」

「決まってるじゃん。女が機嫌悪いときはアレよ、アレ。女の子の日」

「そうなのか?」

「ホント言うと、最近ママンとけんしてるんだと」

「ママンね……」

 りようすけの言葉を聞き流しながら、もう一度彼女のほうを見る。

 伊万里は不機嫌さを隠さずに机をカリカリと爪で削るようにして、けんしわを寄せている。近づいたらバッサリられそうだ。

 ──そういや高校のころはわりと荒れてたよな。涼介蹴っ飛ばすのにも容赦なかったし。

 八年後のもり伊万里はすごく大人の女性のイメージがあるので、イライラしている今の伊万里が不思議に思える。

 講義が始まっても、彼女はずっと机をカリカリしており、終了のチャイムが鳴った途端に講義室を出ていった。

「女の機嫌が悪いときは、クールダウンが一番よん」

 涼介が知ったふうなことを言いながら、スマホをタップして水着のグラビアアイドルの動画をあさっていた。



 その日の夕方。

 予備校が終わり、涼介といっしょに帰り道を歩いているときだった。

「ヘヘヘ、だいクン、俺さ、『いいもの』見つけちゃった」

「いいもの?」

「これこれ」

 涼介はお宝でも取り出すように、ズボンのポケットから『それ』を取り出した。ピンク色の下地に、星のようにキラキラしたデコレーションが散りばめられた、ド派手なモバイル機器。裏返すと、そこには少女二人が映っている小さなプリントシール。

「おい、これって伊万里のか?」

「正解!」

「なんでおまえが持ってるんだよ?」

「いやー、後ろの机から変な音がするなって思ったら、これが入っててさ。この中にちゃんの秘密があるって思うとドキドキするぜー」

「バレたら伊万里に半殺しだぞ」

「大丈夫だって。だいクンはビビりすぎ」

 そう言うと、りようすけは迷わず伊万里のスマホを操作し始めた。画面が起動すると、彼はそれを自分の顔の前にかざし、何やらウインクのように目をパチパチさせる。

「さっきから何やってんだ?」

「何って、例のアプリだよ。ロックさえ外せれば……やっぱダメかあー」

 彼は残念そうにうなだれる。よく分からないが、スマホのロック解除に失敗したようだ。

「悪いことは言わんから、バレる前に戻しておけ」

「いやいや、今から伊万里ちゃんちに行こうぜ。スマホ返すって口実があれば部屋に上げてもらえるかも」

「そうか、頑張れよ」

「大地クン、ツレないこと言わないで! そりゃ大地クンは例の美少女ちゃんがいるからいいけど、俺にはまだ青春のたぎる炎を慰めてくれる子がいないの!」

 そのときだ。一昔古い流行歌のメロディで──この時代では最新の曲だが──涼介のほうから音が聞こえた。

「おっ!」涼介は自分のスマホを取り出し、

「やった! あさちゃんから返信キタ! 今から会えるって!」

「朝陽って、こうあさか?」

「そうそう、クラスで二番目に巨乳の朝陽ちゃん」

「一番は誰なんだ」

「それはこいつ!」そう言うと、涼介は僕の手にポンと何かを握らせた。

「じゃあ、俺は朝陽ちゃんと青春をおうしてくるから、大地クンはそれお願いね!」

「おい、まさか僕に届けさせる気か!?」

「クラスで一番の巨乳は大地クンに譲るから~!!」

 そう叫びながら早くも涼介は改札を抜けて、ホームへの階段を下りていく。「ちょっ、待っ」と言いかけたときには、電車の発車する音が聞こえた。

 右手に残されたのはド派手なピンクのスマホ。

「マジかよ……」


         7


「あ、やっぱさっきのとこ右だったか?」

 三十分後、伊万里の家を探して軽く迷子になっている僕がいた。

 ──わざわざ来ることもなかったかな……。

 忘れ物だけなら、明日予備校で返せば良かった。だが、のスマホを自宅に持ち帰るのはなんとなく抵抗があったし、明日返すまで責任を負うのも御免だった。結果、さっさと返してしまうのが一番ラクだという結論に至り、こうして駅からの道を歩いている。

 そのときだ。

「あれ……? ひら君……?」

 名前を呼ばれて、ハッと顔を上げる。

 振り返ると、そこには二人の少女がいた。

 一人は眼鏡めがねをかけた少女。今時珍しい三つ編みを両方とも胸の前に垂らし、やや驚いたひとみが僕を映している。

 ──えっと、誰だっけ?

「こんなところで何をしているの?」

「ああ、その……伊万里の家、探してて」

「そうなんだ。遊びに行くの?」

「いや、忘れ物を届けようと思って。あいつ予備校にスマホ忘れてったから」

 会話をしながら、必死に脳内データベースを検索する。この二人、確かに覚えがある。ええと、確か……。

 そうだ!

「ユニバース……?」

「その名前、やめてって言ったよね? そらって本名があるんだから」

「あ、ああ、ごめん。宇野……さん」

 やっと記憶がよみがえってくる。宇野宙海。何事にも真面目なクラス委員長。学業優秀、先生のお気に入り。地元の国立大を卒業したあとは県庁に就職。手堅い将来を約束されている人物だが、面倒くさい生徒会活動を率先して引き受けたり、ボランティアに熱心なところはコスパが良いというよりも、不器用で愚直なイメージ。ちなみにニックネームの由来は名前に『宇』と『宙』の文字があるから『宇宙ユニバース』だ。

「えーと、もりさんの家って、一本向こうの通りだったと思うよ。ほら、白壁のかなり大きな家」

「あ、そうだったっけ?」

「だよね、めい?」

 ──そうだ、こっちは『ブラックホール』だ。

 ユニバースの話しかけた少女は、大きな黒いリボンを腰まで垂らし、喪服のような黒い服装。その名もくろめい。いつも黒ずくめなので、ついたあだ名は『ブラックホール』。なぜかユニバースと仲がよく、ブラックホールの友達といえばユニバースだけだ。

 そういや黒井って、将来どうなるんだっけ?

 いつものとおり、同級生の将来をコスパで測ろうとするが、卒業後の黒井の進路はいまいち思い出せない。ユニバースと同じ進学先だったか?

「…………」

 くろめいは黙ったまま、小さくうなずく。日本人形のようなそろった前髪に隠れた目元はまったく見えず、何を考えているのかはさっぱりうかがえない。

「そっか、一本向こうの通りな。サンキュ、助かったよユニバース」

そらだってば!」

「悪い悪い。じゃあな」

 道順が分かった僕は、手を振って彼女たちと別れる。宇野宙海は手を振るが、黒井冥子のほうはあくまで無言のままだ。

 すれ違いざまだった。


「──つけて」


 ぼそり、と黒井冥子から、声が聞こえたような気がした。しかしそれは小さすぎてうまく聞き取れない。

 気をつけて───そう聞こえた。

 聞き返そうと思ったときには、もう二人は角を曲がり、見えなくなったあとだった。


         8


もり、盛田……お、あった」

 教えてもらったとおり道を進み、ようやく目的の家に到着する。広々とした敷地を囲む高い壁、白壁のまぶしい邸宅。そういえば、の家って金持ちだったな、と記憶がよみがえってくる。

 ──それにしても。

 すれ違いざまに、黒井冥子に言われた言葉を思い出す。「気をつけて」。聞き違いでなければ確かにそう言っていた。それがどういう意味なのか、僕にはよく分からない。

「っていうか、ブラックホールがまともにしゃべったの、初めて聞いたな……」

 そんなことを考えつつ、僕は伊万里の家の前に立つ。大理石かしんちゆうなのか、とにかく見るからに高級そうな表札と、大きな邸宅、門から遠い玄関。金持ちはやっぱり違うよな、と思いつつ、一度ポケットのスマホを確かめ、それからインターフォンに手を伸ばす。

 そのときだ。


「──るっさいっ!」


 叫び声が耳をつんざき、僕は指を止める。伊万里の声──のように聞こえた。柵ごしに敷地内を見ると、玄関のドアがわずかに開いており、そこから声が聞こえた。

「なんであたしの将来、ママに決められなくちゃいけないのよ! もう子供じゃないのよ!」「あなたはまだ子供でしょう! なのに三日も家に帰らないでどういうつもり!?」「夏休みだし、あたしがどこにいたって勝手じゃん!」「あなたが心配だから言ってるのよ!」「あーもうっ、それが余計なお世話だって言ってんの!」「親に向かってその口の利き方はなに!? パパが帰ってきたらうんとしかってもらいますからね!」

 玄関から少し離れた僕のところまで聞こえるほど、口論は激しいけんまくだった。どうやら親子げんらしい。

「もう知らないっ!」

 バーンと玄関が開いて、金髪の少女が飛び出してくる。

──」

 声を掛けようとしたが、彼女は僕には目もくれず走り去っていった。その後を母親らしき人物が出てきたが、僕を見て不審げな顔をすると、これ見よがしに扉を固く閉めて家に戻っていった。

「あー」

 手にしたスマホに視線を落とし、僕は厄介なことに巻き込まれたな、と自らの不運を嘆いた。



 すぐ近くの公園で、彼女は見つかった。

 ブランコに座り、キィ、キィとかなしげな音で一人の少女が鎖をきしませている。、と声を掛けると、その音が止まった。

「ヒ、ヒラノ……ッ!?」

 僕に気づくと、彼女はびっくりした声を上げた。それから慌てて顔を背け、ごしごしと目元をぬぐう。再び振り向いた彼女の顔は、アイラインがこすれて、ぼかした水彩絵の具みたいになっていた。

「これ」

 僕はポケットから、彼女のスマホを取り出す。ピンク色の機体が、ゆうを反射してキラリと光る。

「あ……」彼女は目を丸くする。「ありがとう。わざわざ届けてくれたんだ」

 ──三日も家に帰らないでどういうつもり!?

 玄関先で聞いてしまった、伊万里の母親の言葉がよぎる。

 この間、伊万里は予備校に顔を出している。だからまさか家出中だとは思わなかった。

「親と喧嘩したのか?」

「いつものことだよ」

 伊万里は顔を上げず、自分の影を追うように体をゆらす。ブランコは傷んだように軋む。

「なんか、進路のことでグチャグチャ言われて、それでカッとなって言い返したら口喧嘩になってさ……それでプチ家出。そんだけ」

「進路のことって?」

「あなたもう高二なんだから、ちゃんと将来のこと考えなさい──って毎日やかましくてさ。一学期の成績がサイアクだったから仕方ないんだけど、夏期講習とかも勝手に申し込んじゃうし、行かないと小遣いゼロってパパも言うし。そんな感じで両親とも最近ギャーギャーうるさくて」

「そうか……大変だな」

 口では同情したふうなことを言いながら、内心では「参ったな」と思っていた。正直他人の家庭の事情に首を突っ込むのは面倒この上ない。

「あーあ、これからどうしよ。あさは今晩ダメだって言ってたし……」

 スマホを手でいじりながら、彼女はブランコを揺らす。走ったことで今は少し乱れた頭の影が、僕の足元を行ったり来たりする。

 もう帰ろう、とも思ったが、なぜかすぐ立ち去る気が起きなかった。

 しばらく沈黙が流れる。キー、コン、キー、コンというブランコの寂しげな音が、どこか彼女の心情を表しているような気がした。

「ヒラノはさ」

 彼女はぽつりとつぶやく。

「卒業したら、どうするの?」

 ──だいくんはさ。卒業したら、どうするの?

 以前、ほしに言われた質問が、彼女の言葉と重なった。

「な、なんだよ急に」

 妙にどもりながら僕は答える。

「ほら、なりたい職業とか、やってみたいこととか……」

「そういうのはないな。なんとなく大学行って、どっかに就職するだろう、くらいにしか」

 実際にはバイトを転々として無職だが。

はデザイナー志望だったな」

「え?」彼女は目を丸くする。「ヒラノに話したこと、あったっけ?」

 ──しまった。

「ああ、いや」

 とっさにす。

「前にちらっと、おまえが話してたじゃん。デザインとか好きだって」

「そうだっけ?」

 彼女は首をひねるが、さして気にする様子もなく「それでさ……」と話を続けた。僕はほっとする。

「そう、あたしデザイナーになりたいんだ。……いわゆるファッションデザイナー」

 彼女は一度だけ視線を上げ、それからまたうつむく。

「子供のころからの夢でさ。誰でもなれるってわけじゃないし、才能ないとダメなのは知ってるけど……でも、あたし、それ以外にやりたいこととかなくて」

「いいんじゃないか、デザイナー」

「だけど親が真面目に取り合ってくれないんだよ。さっきも、そんな浮ついたこと言ってないで、現実的に考えなさい、だってさ」

「そうか。まあ、難易度高そうだしな。デザイナーって」

「うん。調べたけど、志望者がすごく多くて、成功するのは一握り」

 そう言って、はうつむく。その横顔は彼女には珍しく自信なさそうだ。

 内心、そんなに悩むことないのに、と思った。伊万里は将来、業界でも有名なファッションデザイナーになる。才能があることは間違いない。

「自分でも、夢みたいなこと言ってるのは分かってる。親の言うとおり大学行って、普通に就職したほうがいいってことも」

「まあな。夢なんて九十九パーセント実現しないし、そのとき就職先がないって後悔しても遅いからな」

「そう、だよね……」

 彼女はあいづちを打つが、それはだいぶ弱々しい。

「ヒラノは?」

「え?」

「ヒラノは、夢とかないの?」

「夢……」

 ──だいくんには夢が足りない。

 また、ほしの言葉がよぎった。あのとき感じたジュクリとした胸のうずきを思い出す。

「ないよ、そんなの」

「一つも?」

「悪いのか?」

「あ、ううん、責めてるんじゃなくて。ヒラノだってさ、小さいころは何か夢、あったでしょ? 良かったら教えて」

 彼女は顔を上げ、じっと、すがるように僕を見る。潤んだように揺れるひとみは、ゆうの中で影になった惑星のように見えた。

 その視線に押されたのか、僕は口を滑らせた。

「まあ、宇宙関係の職に就きたいと、思っていた時期はあったけど」

「宇宙関係?」

「ウチの近所に、JAXAの職員が住んでてさ。その人に昔から宇宙の話とか、ロケットの話とかをいろいろ聞いて育ったんだ。で、小学校の卒業アルバムに書いたのが『宇宙飛行士』」

「そうなんだ」

「笑っちゃうよな。あのころは、友達がパイロットで、僕が宇宙飛行士で、内閣総理大臣って書いたヤツもいた。みんなガキだったなあ」

「目指さないの?」

「へ?」

「だって、夢なんでしょ、宇宙飛行士」

「ガキみたいなこと言ってんなよ。高校生にもなって」

 思わず言葉が乱暴になる。宇宙飛行士を目指せなんて、軽々しく言ってほしくなかった。それがなぜかは分からない。

「でもさ。難しいのは分かるけど、あきらめなくてもいいんじゃない? なんというか、まだ高校生なんだし、ヒラノって頭いいし」

「おいおい」僕はあきに手を広げる。「宇宙飛行士ってな、世界で一番難しい職業って言われてるんだぜ? 日本でも十人ちょっとしかいない。内閣総理大臣の人数よりも少ないぞ?」

「どうして無理って決めつけるの?」

「無理なもんは無理だろ。だいたい、宇宙飛行士目指して、なれなかったらどうすんだよ? 必死に努力したのになんにも『つぶし』が効かないって、コスパ悪すぎだろ」

「違うよヒラノ」はまっすぐ僕を見つめて言う。「夢ってさ、そういうもんじゃないよ。なれそうだから、とか、なれそうじゃないから、って諦めちゃ駄目なんだよ。親すら説得できないあたしも、人のこと言えないけどさ」

「でも、なれなかったら将来困るだろ」

「そりゃそうだけど……。でも人生って、一度きりだし、最初から諦めちゃったらつまらないじゃん」

「おいおい」

 思わずツッコミを入れる。

 やっぱり子供だな、と思った。ファッションデザイナーみたいなきらびやかな世界を目指すだけあって、伊万里は昔からちょっと夢見がちなところがあった。彼女はたまたま才能があったから成功しただけで、考え方はまだまだ幼い。社会に出たことのない高校生だ。

「ちょっと待ってろ」

 僕はかばんを開け、一冊のノートを出す。そこにボールペンでさらさらと図を書いてやる。


①夢をかなえた人生>②普通に就職した人生>③夢が叶わなかった人生


「おまえの場合、①と②しか比べてないからそうなるんだ。でも、実際には③に行くのが大多数だからな? さんざん努力して、頑張って、挙句にほぼ全員が人生最下層になるわけだ。コスパ悪すぎだろ」

「うーん」

 はノートに視線を落とし、首をひねる。何か納得していない様子だ。

「でもさ、夢をあきらめたら、人生つまんなくなるじゃん」

「そうか? 夢なんて若いころあこがれるだけで、としを取ったら忘れるよ。それよりも歳を取ってから就職先がないほうがヤバいだろ」

「それは、確かにヤバいけど」

「だろ?」

 僕は同意を促すが、伊万里はさらに首をひねる。金髪がゆうで赤くなり、それがほつれた髪の毛を伝うように繊細な輝きを放った。

「なんていうか、ヒラノ、この図、違う気がする」

「は?」

「だって、これ、『結果』しか書いてないじゃん?」

「結果?」

「あのね、私はこうだと思うの」

 そこで伊万里は、「ペン貸して」と手を伸ばした。僕が手渡すと、ノートの余白に何かをさらさらと書き足した。


①夢を追う人生>②夢を諦める人生


「こうじゃない? たとえ結果的に駄目でも、①の人生には価値があると思うの」

「待て待て」

 僕はペンを奪い返すように伊万里から取り上げ、不等号を『<』に書き換える。

「この①の人生、すげえ悲惨だぞ? さんざん努力して、頑張って、最後はまともな就職先もないんだぞ?」

「でも、最初から夢を諦めるほうがつらくない? 全力でやってみて駄目なら仕方ないけど、やらずに諦めたら一生悔いが残ると思う」

「それ、就活の新卒キップを捨ててまでやることか?」

「人によってはそうじゃない?」

「九十九パーセント、無理なのに?」

「だけど諦めたら試合終了じゃん?」

 伊万里はいかにもあっけらかんと言う。その口調に迷いがないだけ、なんだか僕は心地ごこちが悪い。なぜだろう。

「人生って長いからな。そうやって若いときの勢いでレールを踏み外して、中年になって後悔するやつは山ほどいるぞ」

「でも、若いときの夢を諦めて、あとで後悔してる人もけっこういるんじゃない?」

「そうかもな。でも同じ後悔なら将来安定してるほうがマシだろ」

「そうかなあ」伊万里は退かない。「あたし、人生って短いと思う。だって今、あたしたち十七歳じゃん? 平均寿命から言ったらもう人生の五分の一が終わってるんだよ? やりたいことをやれるうちにやっておかないと、人生終わってから後悔しない?」

「若いころはそれでもいいけど、定年後はどうすんだよ。貯金や年金が少ないと老後悲惨だぞ?」

「確かにお金は大事だけど、問題はそれで何をするかじゃない? 夢をあきらめてまで貯金する意味ってなくない?」

「馬鹿だな、夢なんてとしを取ったら忘れるけど、老後に貯金がないとマジで人生詰むぞ。さっきも言ったけど、たいていの夢は九十九パーセントかなわないんだ。つまりイイ歳して夢を追ってるやつは九十九パーセント人生詰む。論理的に考えてそうだろ?」

「うーん……九十九パーセント、九十九パーセントかあ」

 は金髪をガリガリとき、少し空を見上げる。夕焼け空が彼女の顔をだいだいいろに照らし、それがなんだか後光みたいに見える。

「あのさ、ヒラノ。確かに、ヒラノの言うとおりだと思う。スポーツ選手でも、漫画家でも、たいていの夢って九十九パーセント、場合によっては九十九・九九パーセントくらい、叶わないよね。でもさ、『逆』よりいいかな、って思うの」

「逆?」

「私にとってはね、夢を諦めたら、それは『百パーセント』後悔する人生なの。大人になって、就職して、そこそこ収入があって、そこそこ趣味を楽しんで、それで幸せな家庭を作って、それで歳を取って、幸せな老後を送って──そこまで考えても、死ぬ間際、病院のベッドの上で、やっぱりこう思う気がするの。なんで、あたし、あのとき夢を諦めちゃったんだろう、あたしのバカ──ってね」

「…………」

 一瞬、言葉に詰まる。それは、伊万里のひとみがあまりにもまっすぐで、力強かったからだ。

「だからね、こうなるんだ」

 伊万里はノートに『確率』を書き加える。


①夢を追う人生(99%後悔)>②夢を諦める人生(100%後悔)


「これ、ほとんど後悔しかなくね?」

「アハハ、そうだね」伊万里はあまりにも明るく笑う。「まあでも、今のあたしにはこれが真実なんだよね。夢が破れてオバさんになったときに、あたし自身がどう思うかってのは分からないけど」

「後悔するぞ」

「それでもいいんだよ」

「一パーセントより低いかも」

「うん、低いかもね。実際には〇・一とか、〇・〇一くらいかも」

「だったら進路として現実的じゃないだろ」

「うーん、でもさ……」

 首をひねりながらも、その口調はなお確信に満ちている。

「現実にファッションデザイナーをやってる人たちが存在するってことは、この地球上で誰かしらは必ず夢をかなえているってことでしょ? だからそれは絶対にゼロじゃない」

 このとき少女の金髪は、王冠のごとくゆうを浴びて輝いた。

「すべての夢は、誰かにとっての現実なんだよ」


 まっすぐな彼女のひとみを前に、なぜか言葉が出てこなかった。

 正論なのは僕の方だ。そういうおもいは厳然と胸にあるが、一方でがノートに書いた「100%後悔」の文字が妙に力強く見えた。絶対に後悔する道と、いちの望みがある道。それが伊万里にとっての選択肢。①と②の間は一パーセントしか変わらないが、その一パーセントこそが彼女にとって一番大事な要素なのだろう。

 少しだけ時間がった。僕たちは無言で、変な感じで見つめ合ったまま、風が吹いた。伊万里がぶるりと震えて、会話が再開した。

「ごめん、なんか一方的に話して」

「いや、いいさ。おまえの言うことも一理あるし」

 そうは言いつつも、僕は内心自分の考えが間違っているとはまったく思っていなかった。伊万里はたまたま才能があったし、たまたま夢を追い続ける強い決断力と覚悟があった。それだけ彼女が『特別』な人間だったというだけで、僕を含む圧倒的多数の凡人には夢を実現する運も才能もない。彼女は選ばれた『一パーセント』の側の人間なのだ。

「話、聞いてもらえて、ちょっと楽になった。エラソーなこと言ってるけど、本当は不安だったの。でも、話しててやっぱり分かった。あたし、やっぱり夢を追うよ」

「あ、ああ……それがいい。伊万里は才能あるから」

「そ、そうかな。だったらいいけど」

「あるさ」

 僕が断言すると、彼女はちょっと顔を赤らめ、「……ありがと」とつぶやく。

 そう、伊万里には才能がある。将来は有名なデザイナーになる──『だから』彼女は正しい。

「ごめん、時間取らせて」

「いや、いいさ」

「あ、今日のことだけど、絶対バカりようすけにはナイショね」

「分かってる」

「じゃあ、そろそろ行くね。暗くなる前に今日の寝床を探さないと」

 彼女はスカートを軽くたたき、腰を伸ばす仕草をして言う。

「家には帰らないのか?」

「冗談。誰があんなクソババアの家に。また友達の家に泊めてもらうから」

「明日は来るのか?」

「行くと思う。一応、模試だし、受けなかったらまたけんになるし」

「そうか、じゃあまた明日な」

 返事をしながら、そういや明日が模試だったかと思い出す。正直、自分の受験はどうでもよかったので忘れがちになる。

 公園の出口で、が手を振った。僕も手を挙げてこたえる。別れを告げると、少女の姿が消えていく。今日の宿泊先を交渉しているのだろうか、その手にはピンク色のスマホが握られていた。

「夢、か……」

 夢を追う。それは一見カッコイイ。だけどその先に待つのは九十九パーセント、あるいはそれ以上の確率で待つ破滅だ。死なないまでも、まともな就職先もない道。みじめな老後。コスパ最悪の人生。

 そのときだ。

 ふいに、前触れなく、

「つっ……」

 ズキリと痛み、思わずみぎを押さえる。何か眼球の奥にあるれ物がうずくような、今までの人生で覚えのない激痛。

 やがて、ぬるりとした感触を手のひらに感じて、僕は下を向く。地面にボタボタと落ちる液体は、鉄くさく、赤黒い──


 血の涙。


 な、なんだ、これ……!?

 次の瞬間。

「あ……っ」何かがよぎった。まぶたの裏にフラッシュライトのようなものが走り、それは僕に迫り来る流星のごとく、光のシャワーを浴びせて全身を突き刺すように通り過ぎていく。

 この感覚……!

 忘れるはずもない。『スペースライト』の時に、自分の一生を振り返ったあの体験に酷似している。

 そして僕は思い出す。『一応、模試だし、受けなかったらまた喧嘩になるし』模試の前日。『冗談。誰があんなクソババアの家に』母親と喧嘩した当日。『また友達の家に泊めてもらうから』友人宅に泊めてもらうことになっていた日──


「あああっ……!」

 一人で叫び声を上げ、僕は駆け出す。の出ていった公園の出口を突っ切り、彼女の後を追いかける。

 ──そうだ!

 角を曲がり、路地を走り、抜けたところで駅へと向かう。通行人にぶつかりそうになり、けながらも疾走をやめない。

 ──どうして忘れていたんだ……っ!

 高校二年。夏期講習。模擬試験。その前日。

 あの日も、もり伊万里はけんをした。進路を巡り、母親と口論になり、家を飛び出して、駅前に向かった。スマホを片手に、心当たりの友人に何本も連続して電話を掛けながら、心ここにあらずといった感じで駅前の大通りに差し掛かる。その途中で彼女は──

 僕は走った。全力疾走なんていつ以来か分からない。スマホはさっきからずっとコールしまくっている。しかし通話中のアナウンスが流れるだけで一向につながらない。

「くっ……」

 間に合ってくれ……!

 角を曲がり、大通りに出る。駅までの道のりはあと少し。

「ハッ、ハッ、ハッ……!」

 息が切れる。帰宅部の軟弱な自分をのろう。でも止まるわけにはいかない。う、あ、はっ、と呼吸を乱しながら、ようやく駅前の道にたどりつく。

 ──いたっ!

 頭の上に盛った金髪がトレードマークの、すらりと背の高い少女。

……ッ!」

 大声で叫ぶ。だが彼女は気づかない。耳にスマホを当て、通話をしながら『現場』へと近づいていく。交差点の向こうからワゴンの軽自動車が出てくる。それは道を逆走しており、運転しているのは八十代の高齢男性で、周囲からは自動車の運転を止められていて、そんな中で起きた不幸な事故で──かつて見たニュース報道が僕の脳裏を高速で駆け抜ける。

「いまりぃ────ッ!」

 叫びながら駆け、彼女が横断歩道に踏み出し、ワゴンのクラクションが空気を切り裂き、彼女が顔を上げ、ヘッドライトを前にして硬直し、スマホを取り落とし、間に合え、間に合わない、間に合ってくれ──

「うああああっ!!」

 ヘッドスライディングのように、僕は彼女に向かって思い切りダイブする。ワゴンが接近し、その風圧を感じながらも、ぎりぎり手が届き、ブレーキ音が耳をつんざき、僕の体が彼女と重なって──

 ──あっ!

 そのとき、僕の脳裏には何か稲妻のようなものが走った。とうのごとく何かのビジョンが脳内を駆け抜け、事故──逆走──伊万里──りようすけ──リハビリ──進路──留学──そして──

「きゃあっ!」

 黄色い悲鳴と同時に、僕は彼女を後ろに引き倒すようにしながら路面へと突っ込んでいた。タイヤが僕たちのすぐ脇を抜け、急ブレーキのあとに停車。あたりが大騒ぎになる。

「伊万里っ……!」

 僕は叫ぶ。すると彼女は「う、あ、ぅ……」と動転しながら僕を見る。

はないか!?」僕は急いで立ち上がり、彼女の様子を見る。そばのガードレールになかば突っ込むような形で、彼女はあおけに倒れている。

「あ、う、うん……」

 彼女はまだ興奮冷めやらぬ様子で、目をパチパチさせて、「だ、だいじょうぶ……」と答える。わずかに足を擦りむいている他には目立った外傷がないようで、ひとまずほっとする。

「ヒラノ、足……!」

「ああ、こんなの大したことない」

 僕はすりむいたひざを見る。服が破れて血がにじんでいたが、別に大した怪我じゃない。

 彼女が足を失うことに比べれば。

「ほら、つかまれ」

「あ、うん……」

 彼女はまだ少し赤い顔で、僕の手をつかむ。

 落としたスマホが、ピンクの破片をはなびらのように散らして、道の向こうに転がっていた。


         9


……っ!」

 病院の廊下で待っていると、中年の女性が病室に飛び込んできた。

「ちょっ、ママ! 大げさだって! 足を擦りむいただけだって!」

 伊万里は戸惑った様子で、ベッド上で母親に抱きしめられていた。あれだけのおおげんをしたあとでも、娘の無事を泣いて喜ぶ姿を見ていると、二人は母娘おやこなのだなあと当然のことに少しジンと来た。

 ──帰るか。

 応急処置をしてもらった足をかばいつつ、ゆっくりと立ち上がって廊下を歩き出す。

 救急車で運ばれたところは、偶然にもりようすけの父親が勤める病院だった。駅から近い救急病院といえばそういくつもあるわけではないので、それ自体は別に不思議なことではなかったが、僕はそこに運命のちようのようなものを感じていた。

 確かに、もり伊万里を助けることができた。

 彼女が足を失うのを防ぐことができた。それはいい。

 ──ただ。

 自動車から彼女を救った瞬間、僕の脳裏にはフラッシュバックのような現象が走った。それは事故についての『本当の歴史』ともいうべき事実で、今まで忘れていた記憶だった。

 ──変えてしまった。

 僕が知っている『本当の歴史』では、盛田伊万里は交通事故に遭う。右足を複雑骨折して、回復も思わしくなく、二度とつえなしでは歩けない体になる。

 でも、それだけじゃない。

 伊万里は事故に遭い、足が不自由になった後、病院で懸命なリハビリを行う。そんな彼女の姿を見て、感銘を受けた一人の少年が、これまでぼんやりと考えていた医学部受験に本気になる。そして少年は、伊万里のリハビリにも協力するようになり、その中で二人は仲を深め、付き合うようになる──その少年の名はやましな涼介。

 ──でも。

 伊万里は今日、事故に遭わなかった。だから足をしないし、もちろん入院もしない。結果、涼介は見舞いに来ず、二人は付き合わない。

 二人を結ぶ運命の糸が、ワゴンの前から彼女を突き飛ばした瞬間に変わってしまった。いわばあの時点で、二人の運命のルートが『分岐』してしまったのだ。

 ──僕は、とんでもないことをしてしまったんじゃ……。

 そんなことを思い煩いながら、病院の玄関ロビーを出ようとしたときだ。


「ヒラノ……!」


 振り向くと、髪を乱した少女が肩で息をしていた。いつも頭上に盛っていた金髪が今はまっすぐに肩口を流れ、大人になった彼女の姿と少し重なった。

「おい、走って大丈夫なのか?」

 僕は彼女の足を見て尋ねる。包帯の巻かれた右足は、ひざのあたりからふくらはぎまでミイラのようになっており、パジャマのズボンが太ももまでめくれ上がっている。

「あ、うん、大丈夫、大丈夫」

 はちょっと慌てた感じで、ズボンのめくれた部分を直す。

「ヒ、ヒラノこそ、足、大丈夫?」

「ああ、僕はなんともない」

「ヒラノ。今日は、その……」

 少し間があって、ずいぶんと緊張に声を出す。

「あ、ありがとう」

「何が?」

「え? だって、命を助けてくれたじゃん」

「あ、そうか。うん。どういたしまして」

 僕はやや間の抜けた応答をする。

 命を助けた、という気持ちは全然なかった。むしろ、ギリギリまで彼女を危険にさらしてしまい、申し訳ないという気持ちのほうが強くて、だからこそ突然のお礼に戸惑った。

「……そうだ、忘れるところだった」

 僕は話題を変えるように、ポケットから一台のスマホを取り出す。それは事故現場で拾っておいた伊万里のスマホで、今は画面がの巣のように割れてしまい、角の部分も盛大に欠けている。

「おまえ、歩きスマホで死ぬところだったぞ」

「ごめん」

 伊万里は素直に謝り、スマホを受け取る。それから「あちゃー、こりゃ駄目だ」と言いながらも電源を入れた。しばらくすると、画面にライトがともる。どうやら画面がひび割れただけで、中のシステムは奇跡的に無事らしい。

「そうだ、事故に遭う前なんだけど」

「ん?」

「なんか、変なことが起きたんだ」

「変なこと?」

 伊万里はうなずき、そして首をひねりながら話す。

「自動車が来た瞬間さ、急に世界が止まったような、そんな感覚になって……ほら、よくテレビドラマとかであるじゃん。死ぬ間際、時間がゆっくり動くっていうか、走馬灯みたいになるやつ」

「ああ、そんなのあるな」

 人間は死の危機に直面すると、いろんな脳内物質が分泌されて、そういうふうに感じると何かで聞いたことがある。

「でもね、やっぱりどうにも……妙だった」彼女は納得いかないというようにけんしわを寄せる。「なんかさ、うまく言えないんだけど……すごく鮮明だった。ワゴン車のライトなのか、街灯が目に入ったのか知らないけど、なんだか『光の矢』みたいなのが体を突き抜けるように通り過ぎて、それで、あたしの小さいころの記憶とか、小学校や中学校とか、そういう思い出がいっぺんに、動画のスピード再生みたいにフラッシュバックしたの」

「フラッシュバック……」

 僕は驚きを隠せず、の顔をぼうぜんと見つめる。彼女の話した内容は、僕がかつて味わった体験にそっくりだった。

 スペースライト。

 ──いや、馬鹿な。ありえない。スペースライターは銀河荘にあるんだし、そもそも伊万里は何の関係もない。

 そうやって必死に疑念を振り払っていると、

「やっぱ、コレのせいかな」

 彼女はスマホを見ながらつぶやく。

「コレって……?」


「網膜アプリ」


 ──網膜?

 じわりと、その単語は僕の心に入ってきた。

「な、なんだそれ?」

「ほら、えーと、なんだっけ、スマホのかぎっていうか、セキュリティーみたいなのあるじゃん? それを網膜にしたやつ」

こうさい認証とは違うのか?」

「え、コウサイ?」

「目の虹彩で認証するセキュリティは実用化されてるだろ。でも網膜って珍しくないか?」

「さあ、よく分かんないけど……似たようなもんじゃないの?」

 僕の言ってることがいまいち分からないといった様子で、伊万里は首をかしげる。

「ごめん伊万里、その……『網膜アプリ』ってやつ、見せてくれる?」

「え? うん、いいけど。でも画面割れてるよ?」

 はスマホを持ち上げ、自分の顔の前にかざす。

 ──そういや、りようすけも似たようなことをしてたな……。

 伊万里のスマホをいじっていた悪友の顔を思い出す。あのときはロック解除に失敗していた。

 画面を脇からのぞむと、そこには『網膜認証をしてください』という文字と、画面の中央に円形のウインドウのようなものが表示されている。割れた画面で見づらいが、そこに伊万里の長いまつ毛と目が映しだされ、スマホのフロントカメラが光った。

 ──あ!

 その光景には見覚えがあった。青い光の線が、下から上へと走り、網膜をスキャンする光景。それは確かに、僕がこの世界に来たときに使った『あの装置』にそっくりだった。

「これ、ちょっと前からけっこうってるよ。えっと──」

 次の言葉が、さらに僕の心を波打たせた。


「『』でググれば、すぐにアプリストアが出てくるから」

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