第二章 スペースライター

 どくん、と心臓が鳴った。

 眩暈めまいにも似た視界のゆがみが生じ、僕はスマホを取り落としそうになる。

 ──な……なん……?

 何が起きたか分からず、その文字列を凝視する。『天』『野』『河』『星』『乃』。その文字、その並び。メールアドレスの英数字。

「馬鹿な……」慌ててメールの文面を開く。指先が震えて二度操作を失敗する。

 文面はシンプルだった。

【パソコンを起動して】

 え……?

 一行だけの内容。スクロールしても、それ以降には何の文章もない。

 僕はデスクに載った、星乃の愛用パソコンを見つめ、それからもう一度メールの送信者を確認する。やはりそこには『天野河星乃』の名前。何度見ても同じだ。

 ──ありえない。

 この名前が表示されているということは、誰かが星乃のアドレスでメールを送ったということだ。星乃のスマホはとっくの昔に料金未払いで解約されているはずなので、そんなことがあるはずない。

 誰かが、アドレスだけを引き継いだ?

 とにかく、僕はパソコンを起動した。メールを送ったのが誰かも気になるが、それ以上にメールで出された指示の内容が気になった。

 少しだけ間があり、スクリーンにはデスクトップ画面が現れる。

 奇妙だった。以前に見たときは、ずらりとほしのこしたフォルダが画面を埋め尽くしていたはずだが、今ではそれがすっかり消えている。そこにはゴミ箱フォルダすらなくて、ただ、中央に一つだけ、ちょこんとフォルダが置かれていた。


だいくんへ』


 そのタイトルに、びくりと体が震える。

 僕にてたことは間違いない。更新日時は三年前、察するに星乃が出国する直前の時期。

 手が震える。この先に書かれていることに、恐れを感じている自分がいる。彼女が僕に宛てた、最後の手紙──かもしれない。筑波つくば宇宙センターで見た彼女の『遺言』を一瞬思い出した。

 一度、深呼吸。そしてクリック。フォルダの中にはずらりと文書が並ぶ。


超光子タキオン通信機の原理について】


 タキオン……?

 僕は机の横に提げてある『それ』を手に取る。星乃がしょっちゅう首に提げていたヘッドフォン。当人はこれを『超光子通信機タキオン・シーバー』と呼んでいた。

 画面をスクロールしていくと、どうやらこれが星乃の作った『発明品』の説明書であることが分かってくる。発明の着想を得たときの覚書から、数式の並ぶ原理説明、立体的な設計図まで、多岐にわたって触れられている。


光子photonよりも速い仮想の粒子について、ジェラルド・ファインバーグは一九六七年に『タキオンtachyon』と名付けた。ここでは私も、先駆者にならって今回の超光子を『タキオン』と呼ぶことにする。ただ、タキオンといっても、厳密にはファインバーグのそれとは異なる点も多い。『超光速粒子』の存在を提唱したアルノルト・ゾンマーフェルトのイメージする、もっと原始的で本来的な意味で使うことにする。光よりも速い。ここが肝だからだ。超光子タキオンとルビを振ったらきっとカッコイイ、うん】


 あいつらしいな、と読み進めながら思う。論文というよりはエッセーか、あるいは日記に近いだろうか。

 じっくり読みたかったが、それ以上に続きが気になった。どこかに僕に宛てた記述があるのでは──そんな期待と恐れを抱きながら、画面をスクロールしていく。


【タキオンは時を超える。正確には、時をじようして、未来から過去に流れる。この仮説を証明するために、私は通信機の発明を試みることにした。超光子により時を超える通信機、シンプルに『超光子通信機タキオン・シーバー』と名付けよう。うむ、カッコイイ】


 ぴくり、と手が止まる。机に置かれたインカムをそっと触る。

 これが……時を超える通信機? いやでも、超光速って、時間を超えるのか? 理論的にはどうだったか?

 時を超える、という言葉から、僕はあることを思い出す。

 ──まさかほしちゃんの送った電波が、三年間ずっと宇宙空間をさまよっていた──なんてこともないだろうしな。

 JAXA筑波つくば宇宙センターで、から渡されたあの動画。星乃の『遺言』らしきものを再生した、野太い声の人型シルエットの映像も、三年前の過去から現在へと『時を超えて』届いたと言えなくもなかった。


【……実験を繰り返すことで、この通信機には、いくつかの弱点があることが分かった。ひとつ目。通信は、二つの子機の間でしか成立しないこと。一般の受信設備を受け皿にすると、映像や音声が決定的に乱れる。超光子に光子を載せて映像を送る都合上、超光子自体を受け止める仕組みがなければ情報がこぼれおちてしまうようだ】


 ──まさか……。

 すべては推測だった。だけど僕の中では、これまで理解不能だった事象のひとつひとつが、パズルが組み合わされるようにカチリカチリとはまっていくのを感じた。

 うまくいけば、星乃から届いた『通信』──映像がシルエットで、ひどい音声だったあの『遺言』の内容がきちんと分かるかもしれない。彼女の最後の言葉をきちんと聞けるかもしれない。それは怖いことではあったが、僕はどうしても知りたかった。

 あいつののこした遺言。最後の言葉。僕はそれを、もっときちんとした映像で、はっきりした音声で知りたいと思った。

 だから作業を続けた。

 データが表示されると、『着信一件』の文字が現れる。リール式のプラグを延長して、『超光子通信機』を頭からかぶると、すべてのセッティングが完了する。

 エンターキーを押す。ただの動画を再生するだけなのに、もう呼吸が荒い。何を恐れているのか、何を期待しているのか。ただひとつ言えることは、僕は星乃に飢えていた。星乃の顔を、星乃の声を、星乃の言葉を、星乃の存在を求めていた。三年もの間、遠ざかっていた彼女が、四角く切り取られたこのディスプレイの向こうにいるような気がした。

 しばらくは何も表示されなかった。

 十秒ばかり待つ。

 そして。

 パッ、と画面が明るくなる。フラッシュのような光が僕を照らし、そして何かが映る。乱れた映像は、パレットの上の絵の具のように色彩豊かにぜられ、それはゆがみが徐々に正され、ノイズまじりにひとつの『映像』となる。

「か……は……」空気がのどから漏れる。宇宙のように酸素が薄くなった感覚があり、心臓を人質に取られたような切迫感と緊張感で体がこわる。


 ほしが、映った。


         【2025】→【2022】


 つややかな光沢を放つ美しい黒髪。

 透き通る白い肌、ふっくらした唇。

 整った鼻筋、うっすら朱に染まるほお

 ──あ、あ……。

 そこにいたのはまぎれもなくあまがわ星乃だった。今は宇宙飛行士のユニフォームに身を包み、大きなひとみがこちらをじっと見つめている。出会ったころはぼさぼさで伸び放題だった髪も、今はきちんと整えられ、上品な髪留めでまとめられている。高校を卒業したころから急に背も伸び始め、JAXAの身長規定も難なくクリアーした、二十二歳の美しい女性。そこにはかつての引きこもりだった少女の面影はほとんどない。

 そして。


だいくん、久しぶり』


 ──ッ!

 それは確かに星乃の声だった。以前に筑波つくばで見た動画とは違う、間違いない彼女の声。

 彼女──天野河星乃は穏やかに笑みを浮かべ、僕を見つめる。こんなふうに優しげに笑うようになったのはいつからだろうか。前髪越しに敵意に満ちた視線をぶつけてきた少女時代がうそのように、今はそこはかとない大人の色気と落ち着きを感じさせる。三年前に亡くなった星乃は、今の僕より三つも年下のはずなのに、なんだか年上の女性と接している気分になる。

 そこに懐かしさよりも、寂しさを覚えるのはどうしてだろう。

『大地くん……?』

 耳元で聞こえる声と、ちょっと緊張したような息遣い、何より目の前にいる彼女の存在。頭にはインカムのようなものをかぶり、それは一対の円盤を三日月型のアーチでつないでいることから、こちらにある『超光子通信機タキオン・シーバー』と同じものと分かる。

『あれ、どうしたのだいくん? 返事がないけど……』

 スクリーンの向こうで、彼女がげんな顔になる。大地くん、と呼ばれるたびに、胸の深い部分が満たされるような、それでいて締め付けられるような感覚があった。呼ばれるたびに思い出の中のほしよみがえる、まるでじゆもんのような言葉。どんなに成長して、落ち着いた大人の容姿になっても、「大地くん」と僕を呼ぶ声だけは変わらない。

 ──ここって……。

 彼女の背後には、二つの丸窓と大きいエアロックが見える。ISS──国際宇宙ステーション、日本の実験棟『きぼう』の船内実験室。模型をじかに見たことがあるし、実物も映像で確認したから間違いない。彼女の体が無重力のために小刻みにふわふわしているのも、何か手袋のようなものが空中で回転し続けているのも、そのことを裏付けている。

『もしもし大地くん?』星乃はこちらに向かって手を振る。『ちょっと、聞こえてる? 見えてる? 大地くんってば……』

 まるで僕のことが見えているかのように、彼女は親しげに話しかけてくる。

『ねえ、ちょっと、無視しないで、何か、言ってよ……』

 星乃の顔が泣きそうになる。普段は偉そうにふるまっても、見た目が大人びても、ちょっとしたことですぐ弱気になる。久しぶりに見るその泣き顔が、僕の胸を締め付ける。

 思わず、ぽろりとつぶやく。

「泣くなよ、バカ……」

 その瞬間だった。まるで僕の声が聞こえたように、スクリーンの中の──の映像の中の彼女が目を見開いた。

『通じたわ!』彼女が笑顔になる。『やっと聞こえたわ! 大地くんの声』


 ──え?


 奇妙だった。一人芝居のように、彼女はあたかも誰かと会話しているような受け答えをする。

『じゃあ、改めまして。久しぶりだね、大地くん』

「え、え?」

『あ、大地くん、ちょっと驚いてる? その通信機をかぶっているってことは、ちゃんと届いたんだよね、あのメール』

 ──なんだ? なんだこれ?

 僕は混乱する。今、星乃と会話が成立したような気がした。

 錯覚だ。理性がそう伝える。

 ありえない。この映像は三年前の、彼女が録画した映像。ただの動画。生中継でもスカイプでもない。しかし次の彼女の言葉が、僕の理性を打ち砕く。

『──で、どうしたのそのメガネ。フレーム曲がってるし。というか視力落ちた?』

「うぇっ!?」

 思わず眼鏡めがねを外す。この眼鏡は去年買ったものだ。不規則な生活のためか、最近視力が急激に下がったせいで買った眼鏡。それを、なぜ三年前に死んだほしが知っている? しかもフレームが曲がっていることまで。

「見えて……いるのか?」

 スクリーンに向かって話しかける。馬鹿なことをしている、と自分でも思った。

『もちろん見えているよ』

うそだ」

『あらどうして?』

「だってこれはただの映像だ」

『まあ映像には違いないけど』

 押し問答のようなやりとりのあと、

『あれ、やっぱり変だな……』彼女は手元でキーボードを操作しながら、神妙な顔をする。『そちらの受信先の〈HOUOU〉って……ほうおう、ほうおう、ああ、不死鳥の〈ほうおう〉ってことか。だけどそんな名前の衛星は聞いたことないから、きっと新しい子かな? そっちは西暦二〇二五年だよね?』

「あ、ああ」

『じゃあやっぱり成功だ。ちゃんと三年後のだいくんにつながったんだ』

 ──なんだ?

 混乱は収まらない。

 彼女は何を言っている? 何が起きている? 僕はまだ夢を見ているのか?

『うん、なるほど、ね……』

 ちょっとうつむき、何かを確認するように視線を横に滑らせ、彼女は言う。

『三年後の大地くんからすれば、まあ、幽霊を見たような顔もされるか』

「星乃」

『なに?』

「本当に、星乃……なんだよな?」

 まだ信じられない。何が、どうして、どうなって。

『そう、私よ。あまがわ星乃』

 その自己紹介、ちょっと恥ずかしそうな笑み。僕の知っている星乃。

「これは……三年前のおまえと、つながっているのか?」

『そういうことだね』

「信じられない」

『でも、隠しフォルダの中身は読んだんでしょ?』

「隠しフォルダ……? あ、ああ、超光子タキオンがどうとか」

『じゃあ分かるわね。これは〈超光子通信機〉によって、時を超えて通信がつながっているの。あなたは私から見て三年後、私はあなたから見て三年前』

「そんな、ことが……」

 僕はほしの顔を見つめる。

 確かに、僕は例の隠しフォルダを読んだ。『超光子通信機』の説明も、基本的原理も、その使用方法も読んだ。でもそれは、僕がから受け取った『動画』を、ちゃんとした音声と映像で再生できるというだけのことで、まさか三年前の相手に『通話』がつながるとは夢にも思わなかったのだ。というか普通、そんなことは想像のらちがいだ。

『驚かないで聞いてね。私、だいくんにどうしても、伝えたいことがあって』

「伝えたいこと?」

 急に姿勢を正し、彼女は告げる。

『大地くんのこと、心配なの』

 ざわり、と心が波打つ。

「……心配?」

『そう、心配。大地くん、なんというか、いつもクールで、斜に構えてるでしょ。だからそういうところが、将来きっと悪いほうに働くんじゃないかって思って。だからわざわざ〈三年後〉に設定したの』

 彼女は大きなひとみで、じっと僕を見つめる。まっすぐで、曇りのない、宇宙のように深い瞳。僕はこの視線をどこかで恐れていた。自分のすべてを見透かされているようで。

『前にも言ったよね。大地くんは、未来のことを先回りしすぎて、今に全力投球するのが苦手なタイプだと思うの。失敗を恐れてチャレンジするのが苦手』

「それは……」

 反論できない。

『大地くんは、私を、広い世界に連れ出してくれた。大地くんのおかげで、私は引きこもりを克服して、こうやって宇宙飛行士になれた。だから私も、大地くんに恩返ししたい。大地くんの夢を応援したい』

「僕の……夢?」

『本当は気づいているはずだよ。胸に手を当てて、自分に正直になれば』

「何を言ってるんだ」

『そもそもこの超光子通信機タキオン・シーバー、宇宙で大地くんとのプライベートチャンネルに使うはずだったけど……こんな形で役立つとはね。本当は、地球に帰ってから伝えるつもりだったけど、もう戻れないから、今言うね。私に心配されるなんて、余計なお世話かもだけど』

 もう戻れない──その言葉で肝心なことを思い出す。

 ──そうだ!

「お、おまえ、大丈夫なのか? その、ISSは、なんともないのか?」

 三年前のISS。そのシチュエーションからして、もっと早く気づくべきだった。そこはほしが散った場所。

 質問に答えるのに、少し間があった。

『……たぶん、駄目だと思う』星乃は静かに、残酷な事実を告げる。『ISSは、いま制御不能の状態にあるの。あと数分で、機体が耐えられなくなると思う』

「そん、な……」急に目の前が暗くなる。

 星乃と、奇跡のような通信がつながったのに、あと数分なんて、そんなのあんまりだ。

「何かあるはずだ! 助かる方法……! だから星乃──」

『ないよ』彼女はぼそりと、だがはっきり告げた。『助かる方法はないの。もう全部試したけど、コントロールを完全に喪失しているの』

あきらめるなよ! 何か、探せば何か方法があるはずだ!」

『さっきまで私もそう思ってた。でも』

 彼女は視線を伏せて言う。

『内部の機器がすべてダウンしてるの。そうね、パソコンで言うとタッチパネルもキーボードも全部故障して、電源すら入らない状態かしら。打つ手なし』

「そうだ、ソユーズ! 脱出用のソユーズあるだろ! あと他のクルーは!?」

 彼女は無言で首を振る。その顔には静かで深い諦観。

うそだ……。し、信じないぞ、そんなこと……」

 言いながらも、僕は気づいてしまっている。あの星乃が、お手上げだと言っているのだ。あの天才が。

『安心して、だいくん。計算したけど、この軌道ならISSは大気圏で完全に燃え尽きると思う。だから大丈夫』

「な、何を言ってるんだ」

 彼女の言うことが理解できない。あと数分で自分の命が尽きるというのに、どうしてそんなに平気そうなのか。

 彼女はあくまで平然と言う。

『聞いて、大地くん。あなたには感謝してる。だからこそ、素敵な人生を送ってほしいの。私はここで終わるけど、大地くんには、大地くんにだけは、将来を、人生を、間違ってほしくないの』

「何を言って──」

『大地くんには夢が足りない』

 それはいつか聞いた言葉。

『あなたには、内に秘めた情熱がある。困ってる人に損得抜きで手を差し伸べる優しさもある。だけどそれが、ほんの少し時代に流されて、世間の目を気にして、自分を出せないでいる。それはすごくもったいないし、こわいことだと思う』

「恐い?」

こわいよ。だって、人生は短いから。誰かの目を気にしているうちに、気づけば何もできずに終わっている。人生にはそういう恐さがある。ぶっつけ本番の一度きりの恐さ、っていうのかな。私は十七歳でやっと気づけた。それを気づかせてくれたのはだいくん、あなただよ』

「僕が?」

『私、大地くんのおかげで、宇宙飛行士になれて、こうして夢に近づくことができた。だからこそあなたが心配なの』

「そんな心配……」

 いらねぇよ、という言葉は、ほしの真剣な表情を前にしてのどもとでつかえた。

『ずっと、この場所を夢見て来た。私が生命として始まった場所で、お父さんとお母さんが夢を描いた場所。そこに大地くんが、私を連れてきてくれた』

「違う。それはおまえが頑張ったからで、僕は何もしてない」

『ううん』

 星乃は首を振る。

『知ってるよね、私、引きこもりだった。家からろくに出られなかった。人間が嫌いで、誰とも話せなかった。世の中にも、自分にも絶望してた。だけど大地くんに出会って、私は変われたの。大地くんがそばにいてくれたから、もう一度頑張ってみようって思えたの。だから今、私はここにいて、お父さんとお母さんの夢を継ぐことができたの』

 両親の夢を継ぐ。それが彼女の悲願だった。そのために宇宙飛行士を目指し、CH細胞の研究を継ぎ、医学の飛躍的な進歩のためにまいしんした。そうすることで、彼女は両親の遺志を継ぎ、志なかばで倒れた両親の無念を──それだけじゃない、ばくだいな予算をかけた研究がとんしたことで各方面から浴びせられた「無駄遣い」だの「おおしき」だのという悪評や風評をはね返すために、二人の娘として是が非でも研究を完成させたかった。それは世界でただ一人彼女にしかできない、宿命ともいうべき悲願だった。

 苦難の連続だった。家からろくろく出られない筋金入りの引きこもりが、空よりも遠い宇宙を目指すのは並大抵のことではなく、近所の弁当屋に行っておばちゃんに注文を告げるまでいったいどれだけの日数を費やしたか。それだけじゃない。猛犬にえられては引き返し、羽虫が背中に入ったら涙目になり、すれ違う人とぶつかりそうになっただけでパニックになった。人のを見て話すこと、あいさつすること、気持ちを言葉にすること、悪いと思ったら謝ること、イライラしてもエアガンを撃たないこと──すべて、僕が彼女に教えた。思い出の数々が走馬灯のごとく巡り、それらはどれもが懐かしく、ときにこつけいで、でも彼女は大真面目で、社交力ゼロの少女にあきれながらも僕にとっては人生で一番充実していた日々で──

 そして彼女は宇宙に羽ばたいた。

『私ね、大地くんのおかげで、前に進めた。勇気を出して、自分の殻を破ることができた。だからあなたにも、同じように殻を破ってほしいの』

「僕に? 自分の殻を?」

『そう、だいくんも本当は気づいている。だからほんの少し、最初の一歩でいいの。私が銀河荘のドアを開けるときみたいに、お弁当屋さんで小声でエビフライ弁当って注文したときみたいに』

「おまえ、さっきからホント、何言ってんだ」僕は彼女が理解できない。「僕のことなんかどうだっていい。それより大事なのはおまえ自身のことだろ。なんで、なんで──」

 声が震える。

「なんで……そんなに平気なんだよ」

『え?』

 ほしの顔が戸惑う。

「おまえ、何終わったことにしてんだよ!」

 気づけば叫んでいた。

「お礼とか、心配とか、最後にとか……まだ終わってねぇだろ!」

『それは』星乃はびくりと首をすくめ『それは、でも』と言葉を詰まらせる。

「おまえ、言ってたろ! 何度も僕に語ってくれたろ! 宇宙飛行士になって、ISSで、親父おやじさんの作った『きぼう』で、お母さんの研究を継いで、それで一度は閉ざされた夢の扉を開けるんだって! 夢の続き、これからだろ! ここからが本番だろ! それを、それを、なんで、そんな悟り切ったツラして、しめくくろうとしてんだよっ!」

『だ、だけど、もう……』

 言葉が止まらなかった。星乃の夢を、星乃自身が終わらせようとしていることに納得がいかなかった。それは僕にとっても夢であり、だから心の底からの叫びだった。

「悔しくないのかよっ!」

 画面の中で、大きなひとみが、水の惑星のようにれた光を帯びて、それが没する陽光のように細められて──

『そんなの……』

 震える声で。

『悔しいに、決まってるよ……』

 星乃の瞳から、ひとしずく、光がこぼれる。

「だったら──」僕が言葉を継ごうとした瞬間。

 タイムリミットは訪れる。

 パッ、とスクリーンの色合いが変わった。それは照明が落ちたように、薄暗くなり、彼女の姿がぼやける。

『──ごめん、大地くん』

 星乃は視線を上げてつぶやく。

『もう、時間みたい』

 その言葉に、ぞくりと冷たいものが背筋を走る。

ほし! おい星乃! どうなってる!? 何が起きている……!?」

『もう、お別れなの』星乃が白い光の中で、まぶしく輝く。『最後に、こうしてあなたの顔が見れてよかった』

「おい、待て! 星乃!」僕はスクリーンにかじりつくようにして叫ぶ。「待てよ、ふざけんなよ! これで終わりなんてアリかよ!」

『ごめん』

「おまえ、夢、やっと、ここまで、来て……」叫んだあとは、急にいろいろと込み上げて、声がうまく出なくなった。「あと、ちょっと、ほんのちょっとで……、全部、全部、報われる、はずだろ……」

 最後は泣き言のように言葉がかすれる。

だいくん──』

 星乃の顔がゆがむ。こらえていたものが、決壊するように、今まで張っていた虚勢の仮面ががれるように、唇がぎゅっとめられる。スクリーンがさらに白く染まり、何か大きな音が響き、画面が明滅とともにガタガタと揺れ、背後の壁が恐ろしいまでにベコリとへこみ、もう限界が近いことを知らせる。

 スクリーン上では、侵食してくるように『映像』が割り込んできた。彼女の周りを囲むように、いくつものウィンドウが開き、多角的な映像が表示される。そこに映る無数の人工衛星が、大気圏の中で熱を発して、その破片が光の尾を伸ばして──

 流星群となる。

「星乃……ッ!!」

 僕は叫ぶ。すると彼女のひとみから、ぽろり、ぽろりと、決壊したようにしずくこぼれる。

『大地くん、ごめん……』

 震える声で、搾り出すようにしながら。

 彼女は胸の前で手を組み、ざんをするように告げた。

『初めて会ったとき、プリントばらまいてごめん』

 星乃の姿が真っ白な光に包まれる。スクリーンには数々のウィンドウがちやちやに開き、燃え尽きるISSを映す。

筑波つくばでロケット飛ばしたとき、私だけ逃げてごめん』

 ISSの崩壊が始まる。翼のように広がっていた太陽電池パネルがひしゃげ、長方形の破片となってばらまかれる。両脇にあるラジエーターが折れ曲がり、パネルを追いかけるように宇宙空間に飛んでいく。

『ISS展で会ったとき、手当てをしてくれてありがとう』

 明滅するスクリーンの中で、崩壊するISSの映像に囲まれながら、星乃の独白が続く。映画のラストシーンのような非現実的な光景を前に、僕は何もできずにただ、彼女の名前を叫び続ける。

『あのとき大地くんが写真をくれて、すごくうれしかった』

 ISSのトラスが、心を折られたようにぽっきりと折れ、それはロシアの居住棟ズヴェズダを巻き込む形でバラバラになる。ロボットアームが一瞬だけぶらりと虚空をいたあと、アメリカの実験棟デスティニーが燃え尽き、続いてヨーロッパの実験棟コロンバスが激しい火花を散らして徐々に溶けていき、その脇をシャッターの外れた七枚窓のキューポラがはなびらのごとく横切る。

だいくんの買ってきてくれるエビフライ弁当、いつもしかった』

 最後に残された日本実験棟、その名も『きぼう』は──船外パレットが、実験プラットフォームにくっつくように折れ曲がり、釣られた魚のようにロボットアームの先で暴れたあと、根元から折れてほうり出される。

『私、お父さんとお母さんが死んでから、ずっと引きこもりで、世の中が嫌で、人間が嫌で、生きてるのが嫌で、死にたくて、消えたくて、毎日が苦痛だった。でも……』

 フラッシュバックする姿が、一瞬だけその輪郭を映し出し、はかなげな笑顔を見せる。

『大地くんに会えた』

 火花を散らしながら船内保管室が燃え尽き、かろうじて最後まで原型をとどめていた、船内実験室──ほしがいる部屋は、火の玉のように燃え上がり、その体積は落下とともに見る見る小さくなる。

『こんな私に、あなたはとても優しくて。いつも私の家に来てくれて。いつも私の話を聞いてくれて。いつも私の相手をしてくれて』

 そしてISSは最期を迎える。わが身を焦がしながら走る一粒の流星となって、大気の中に突入し、最後まで鮮烈に命の炎を輝かしながらも、一筋の薄い線となり、それもまた、眠りにつくまぶたのように、徐々に燃え尽きていく。

『お父さんとお母さんが死んでから……、私、生きてて、なんにも良いこと、なかったけど……大地くんと出会ってからの毎日は、本当に、本当に、楽しかったよ……』

 彼女の周りで開かれる数々のウィンドウが、しゆうえんを告げるように次々と閉じられていく。

 ともに落ちていく無数の衛星たちが、競演し、炎上し、それらも燃え尽きて、光の筋となり、戦死する兵士たちのように消えていく。

「星乃……ッ!!」

『大地くん──どうか、どうか、素敵な未来を、つかんでね……』

 もう彼女の姿は見えない。スクリーンには映らない。ただ音声だけが、かすかに、だがはっきりと彼女の叫びを伝える。

『ああ──だけどやっぱり、悔しいよ、せっかく、せっかく、ここまで来れて、大地くんと、いっしょに、夢を、お父さんと、お母さんの、夢の続き、これからなのに、やだ、やだよ、やっぱりこんなの、あんまりだよ、せっかく、せっかく、ここまで、ああ、ああ、大地くん、大地くん、大地くん──』

 そのとき、スクリーンには、ひとつの影が──違う、一人の女性が──破片の影から投げ出されるのが見えた。長い黒髪を翼のように広げたその姿は、最後に僕に向かって救いを求めるように手を伸ばしたあとに、大気のない虚空の中で、一瞬だけど確かに読み取れたその唇の動きは、

 た す け て

 次の瞬間、さらなる大きな光が彼女を飲み込み、それは青き流星となって、燃え尽きた。


 映像が途切れる。スクリーンが真っ暗になる。

 動けない。身じろぎひとつできない。何が起きたのか理解できない。真っ暗になった画面の前で、硬直したまま目を見開く。口が渇いている。心臓の鼓動はずっとおかしい。でも、ただひとつ、分かったことがある。三年前じゃない。今、僕の目の前で、


 あいつが死んだ。


         【2025】


『あの、先輩……、づきです。たびたび、留守番電話にて失礼します。……あの、余計なお世話とは存じますが、さ、最近、お姿を、お見かけしておりませんので、し、心配になりまして……。その、先輩は、お元気でしょうか? 今、どこにおられるんでしょうか?』

 久しぶりに押してみた留守番電話サービスの着信には、葉月から五件も伝言が入っていた。彼女の心配そうな声を聴いていると、申し訳ない気持ちになったが、今は返事をしようという気にはならなかった。

 パソコンのデータには続きがあった。例の『超光子通信機タキオン・シーバー』のことを説明した文書のあとに、膨大な量のテキストがまっていたのだ。ちなみに、通信機はあれから二度と作動しなかった。ほしと交わした最後の会話内容も保存されておらず、すべてが幻だったように何も残されていない。

 読み手のことをまったく無視したような作りなのは、星乃が誰にも見せることを前提としていないことを意味する。もっといえば、捨てる場所に困ったテキストや資料をまとめてここに投げ込んだような印象すら受けた。複雑な数式、あるいは手書きを取り込んだような図解など、章立ても小見出しもろくにないテキストの濁流が続く。その内容は信じがたいもので、予想していたものの斜め上、いやそれ以上にこうとうけいだった。

 しかし、星乃の書き殴ったような誤字脱字だらけの文章と、数式、図解、作業手順、実験結果、膨大な研究資料──それらが、このデータが冗談でも悪戯いたずらでもなく、若き天才科学者だった星乃が、大真面目に取り組んだ研究であることを裏付けていた。


【人間の記憶は、87%が視覚からの情報とされる】


【視覚とは、網膜を通過した光子photonを、視細胞のすいたい細胞とかんたい細胞で感知するプロセスである】


【光子には、常に等量の超光子がともなう。この超光子は、網膜視細胞内の錐体細胞および桿体細胞に、記憶の超光子残像を残す。つまり、光子が脳細胞に残す記憶を『ポジ』とすれば、超光子は網膜視細胞に『ネガ』を残す】


【視覚に残る記憶情報、という意味で言えば、日本語の描写で一番近いのは、さしずめ『記憶が目に焼きつく』だろうか】


【この網膜視細胞に刻まれたネガ記憶を、超光子によって再度スキャンし、データとして圧縮、それを超光子通信によって過去に送信する】


網膜視細胞超光子Retina visual cell tachyon痕跡走査型engram scanning記憶情報送信機memory space writer


 そうした長ったらしい正式名称のあとに、簡潔な略称が書いてある。


【スペースライター】


 それは過去の記憶の『空き容量space』に、現在の記憶を『書き込めるwrite』機械。すなわち『過去の世界』に行ける──あかのついた言葉で『タイムマシン』ということだ。

うそだろ……」すべてを読み終えた僕は、自分に問いかけるようにつぶやき、にもたれた。馬鹿げている。何度読んでもそう思う。しかし、僕には否定できない理由があった。だって僕は実際に体験してしまったのだ。『超光子通信機タキオン・シーバー』。これによって、僕は『過去の世界』のほしと会話をしたのだから。

 過去の人物と、通信をする機械──これ自体が、すでにタイムマシンといってもよい。過去に情報を送ることができれば、現在を変えることができるからだ。競馬のレース結果を過去の自分に送れば、瞬く間に億万長者だ。


【タイムマシンを作りたかった】


 星乃は明確に、そう書き残していた。タイムマシン。SFめいて、現実離れした、そのこうとうけいな響き。


【死んだお父さんとお母さんに会いたかった。だから過去に戻るタイムマシンを作れば、お父さんとお母さんに会えると思った。お父さんとお母さんの夢を取り戻せると思った】


 それは妄想じみた、無茶苦茶な願い。だけど彼女は実行した。


【そのために『スペースライター』を作った。でもそれには重大な欠陥があった。これまでの様々なタイムマシン仮説がそうであったように、過去にさかのぼるためには絶対的な制約がある。タイムマシンは、タイムマシンを作った時点にまでしか遡れない。どんなに過去に行こうとしても、タイムマシンの発明時点から先の過去には戻れない。スペースライターの場合、網膜視細胞をスキャンして創出したポイントまでしか遡れない。論理的に当然だ。過去に遡るための受け皿は、他ならぬ自分自身であり、それは自分の記憶をスキャンした時点より前には存在しないのだから】


【それが分かって以来、私は絶望した。この発明を投げ捨てた。そして死のうと思った】


 赤裸々に彼女は語り続ける。


【でも、私は変わった。だいくんに出会った】


 びくり、と指が止まる。でもすぐにマウスを動かし、画面をスクロールする。


だいくんに出会って、私は多くのことを学んだ。引きこもりを脱して、外に出て、人に会って、多くのことを体験した。大地くんといっぱい思い出を作った。そうしているうちに、私は死のうと思わなくなったし、過去に戻りたいとも思わなくなった】


 そんなことが……。ほしの知られざる悩みとかつとうに、僕は目を離せない。焦ったように指を動かし、さらに先を読む。


【私にはもうスペースライターは必要なくなった。だけど、大地くんにはまだ必要かもしれないと思った。なぜなら大地くんには──】


 ──夢が足りない。

 その言葉が繰り返される。夢、夢、夢。星乃は口癖のように言う。でも僕にはそれがしっくり来ない。宇宙飛行士を目指した天才の彼女と、凡人の僕には埋められない溝がある。夢なんてかなうもんじゃない。夢──それが何だっていうんだ。


【だから私は、ここにスペースライターを残す。大地くんが、どうしても後悔したときに、人生をやり直せるように】


 最後に、ぽつんと置かれていた一行には、公式のようなものが書かれていた。


【A×C=P】


         ○


 それから僕は狂ったように星乃の部屋をあさった。床に敷き詰められたガラクタの山をき分け、机の引き出しや押し入れはもちろん、キッチンの排水溝からトイレタンクの中に至るまで、探せるところはすべて探した。パソコンの中のデータまでまなこになって漁った。不眠不休で探し続け、体力の限界が来たら倒れ込み、意識が戻ってからは腐った固形食料と水道水を流し込んでまた探した。何を? そんなの決まっている。星乃ののこした最後の発明品、スペースライターだ。星乃は確かに完成したと書いていた。そして僕は『超光子通信機』によってそのへんりんを味わった。ならばあるはずだ。この部屋のどこかに、その発明品が。

 しかし、この一週間、僕がどれだけ探しても──


『スペースライター』は見つからない。


「ちきしょうめ……っ!」

 手にした物を拾い上げ、それを壁に投げつける。UFOの形をしたぬいぐるみは、ハッチにぶつかり、力なく跳ね返る。

 どうして見つからない。

 なぜ出て来ない。

 そもそもタイムマシンなんてなかったのか。

 人生をやり直そうとは思わない。僕のクズみたいな人生なんてどうでもいい。だけど、ほしの人生は違う。星乃の夢は違う。それだけはどうしても譲れない。あのふざけた流星群で、彼女の夢を踏みにじったやつらを絶対に許さない。だから僕には必要だった。

 タイムマシン──星乃いわく『スペースライター』が。

「くそ、なんで、見つからないんだ……」

 腹いせのように、そばにあった空き缶をほうり投げる。それは壁にぶつかり、乾いた音を立てる。

 そのときだ。

 ──!

 けたたましい警報音が鳴り響いた。ハッとして、パソコンの画面を見ると、そこにはアパート周辺の光景が映し出されていた。それは監視カメラの映像で、被害妄想と人間不信の塊だった星乃の手によって銀河荘にはこうしたセキュリティが都市銀行並みに整備されている。

「あ……」

 作業服を着た男たちが、五名ばかりトラックから降りてくる。何か会話をして、アパートのほうを指差しながら、周囲に赤いコーンを置いたり、テープをって囲んでいく。

 ──な、なんだ? 何をするつもりだ……!?

 男たちはアパートの外周を確認するように歩きながら、ブロック塀の上に設置されたバラ線や、塀が崩れてできたれきなどを乱暴な手つきで撤去していった。居住者がいなくなって久しいこのアパートで、彼らが何を始めようとしているのか、僕にも容易に想像がつく。アパートは近々取り壊すので、その前に遺品整理を頼む──の言葉を思い出す。

 僕は玄関で靴をつっかけ、外に出る。雨がいつの間にか降っていて、二階の廊下にもだいぶ吹き込んでいた。

「な、何をしているんですかッ!?」開口一番、階下に向かって思い切り怒鳴りつけた。男たちが驚いたように顔を上げ、こちらを見る。それから「おい、住人がいたのか?」「いや聞いてないぞ」と顔を見合わせる。作業服には近所の工務店の名前が書いてある。

「まだ僕が中にいるでしょう?」

 僕はアパートの階段を駆け下り、作業員たちに迫る。落ち着け、冷静になれ、という内心の声に気づきつつも、頭にはかなり血が上っていた。星乃の大事にしていたこの『宇宙船』を、傷つけられるのが我慢ならなかった。

 作業員の一人が、じろりと僕を見る。

「失礼ですが、どちらさまですか? この物件に住人はいないと聞いているんですが……」

 口調は丁寧だが、けんしわを寄せたまなしがありありと不信感をあらわにしている。それから僕の顔や服装をめるように見てくる。ガリガリにやつれて、薄汚い身なりの僕を疑っていることは確かだった。

「僕は、その……」

 とっさになんと答えてよいのか迷う。僕はなんだ? アパートの住人でもなければ、ほしの親族でもない。頭を冷やして考えれば、自分には解体作業を妨害する権限が何一つないことに気づく。

「えーと、前にいた入居者の、その、友人で……」

「友人?」相手はますますまゆをひそめる。「ただの友人が、なぜアパートの部屋にいるんです? わく不動産の話では、ここはずいぶん前から誰も住んでいないはずですよ?」

「それは……遺品、整理で、少し……」

「遺品整理? ふーん……じゃあ、やっぱりここの住人じゃないわけですね」

 作業員は手元のクリップボードを確認し、それから腕時計を見る。作業を早く始めたいのは明らかだった。

「あなた名前は?」

ひら……です」

「じゃあ平野さん、悪いがウチらも仕事なんでね。来週には重機を入れるし、早いところ足場作ってシート張らないと」

「そんな、困ります」

「困りますって、こっちだって困りますよ。何か文句があるなら惑井不動産のほうに電話してください。……さあ、始めるぞ!」

 男が号令をかけると、他の作業員たちが返事をした。

 そして作業が始まった。男たちがペンチやハンマーなどの工具を使い、敷地を囲む柵やバラ線を破壊していく。

「あ、あ、やめてくれ……!」「ちょっとあんた、警察呼ぶよ!」「壊すのはまだ待ってください!」「こいつ、くそっ、放しやがれ!」作業員数名ともみ合いになる。力まかせに引っ張られ、そのうちにバランスを崩して地面に体を打ち付ける。

「ぐっ……」

 ぬかるみに顔を突っ込み、僕は一瞬呼吸ができなくなる。「お、おいあんた、大丈夫か……っ!」と男たちが慌てて駆け寄ってくる。でもさせたらまずいと思ったのだろうが、僕はほどなく、よろよろと立ち上がる。頭の中は星乃の『宇宙船』を守ることでいっぱいで、他のことは考えられなかった。

「だ、大丈夫か?」

「うあああ!」また、男に組み付く。作業員がもんどりを打って倒れる。

 何をしているのか。何が目的なのか。愚かなことをしているとは分かっていたが、それでも自分の中の激情を止められなかった。ほしの宇宙船。あいつとの思い出。それを破壊する者は誰だって許せなかった。

「もしもし、警察ですか! 男が暴れているんです! 場所ですか? えっと、三丁目にある銀河荘ってアパートで──」

 作業員の通報の途中で、その手から携帯電話が取り上げられる。

 ──あ……。

 電話を取り上げた人物と、僕は目が合う。男が「わくさん!」とその名を呼んだ。

「悪いね、今日のところは中止にしてくれないかねー」

「い、いいんですか?」

「こいつ、ちょっと知り合いでねー。本社のほうには私から連絡しておくから、続きはまた明日頼むよー」

「わ、惑井さんがそうおっしゃるなら……」

 作業員たちは急におとなしくなり、いそいそとトラックに乗り込んでいく。僕のほうをにらける者もいたが、結局工務店のロゴ入りトラックは走り出し、見えなくなった。

だい……」

 銀色の髪をした女性が、かなしげに僕を見下ろした。



「どうしてなんだい」

 惑井は静かに問う。

 口の中の泥を吐き出しながら、僕は彼女を見上げる。雨足は強くなっていて、僕も、真理亜の銀色の髪もすでにぐっしょりとれている。

 ズキズキと痛む打撲に耐えながら、「どうもこうもないですよ」とふてくされたように答える。

「あいつの家が壊されて、黙って見ていられるわけないじゃないですか」

「ここは取り壊すって前にも伝えたはずだよ」

「ですよね」あえて皮肉めいた口調で言う。「誰も住んでないアパートなんて、修繕費と固定資産税だけ掛かって、コスパ悪いですもんね」

「そういうことじゃないんだ」

「じゃあどういう──」

「あんた、いつまでこんなことを続けるつもりだい?」

「え?」一瞬、返答に詰まる。

「星乃ちゃんが、あんたにとって特別だったのは分かってる。だけど、いつまでもこのままってわけにはいかないだろう?」

 いつもは語尾を伸ばす癖が、今はやんでいた。真剣に心配してくれているのが伝わる。

だい

 雨でれた銀髪が顔に張り付き、いつもの彼女じゃないみたいだった。

「どこかで、手放さないといけないんだ」強い視線が僕をまっすぐに貫く。「亡くなった人間は戻ってこない。それがどんなに大切な人であっても、いつかは手放さないといけない。思い出を整理して、胸にって、前に進んでいかないといけないんだ」

 ふと、自身のことを思い出す。真理亜は夫を病気で亡くしている。彼女の言葉は、どこか自分自身に言い聞かせているような響きがあった。

「亡くなった人は戻ってこない。時間は巻き戻せない。だから、受け止めて前に進むしかないんだ」

「それは違います」思わず口にしていた。


。──


「え?」真理亜が目を丸くする。「今、なんて?」

「時間を巻き戻すんです。タイムマシンで、過去に行って、それで──」

 僕は彼女をまっすぐ見て告げる。

ほしを助けるんです」

「タ……タイムマシン、と言ったのか?」

 真理亜の目つきが変わる。僕を諭す目から、あわれむ目になった。

「タイムマシンです」

「おい、大地」

「あいつ、タイムマシンを作ってたんです。『スペースライター』って名前で、目の中に残された記憶のネガを、超光子で転送して、それで、八年前の過去に戻れる可能性があるんです!」

「大地!」真理亜が僕の両肩をつかむ。「な、何を言っているんだ? タイムマシンなんてものが、この世に存在するわけがないだろう?」

「いえ、あるんです。タイムマシンはあるんです。星乃が作ったんです」

「おまえ……」

 真理亜がぼうぜんと僕を見つめる。その表情が悲痛そうにゆがむ。

「真理亜さん。僕がおかしくなったと思っているんですか? 僕は正気ですよ。タイムマシンで過去を変えて、星乃を──」

「しっかりするんだ!」彼女は僕の肩をゆさぶる。「おまえは、おまえは、星乃ちゃんの思い出が強すぎて、それで現実が見えなくなっているんだ! 過去は変えられない! それはもう、無理なことなんだ!」

「過去は変えられるんですよ! あいつが作った『スペースライター』で、僕は、あいつを助けに行くんです! だから、宇宙船も、銀河荘も、取り壊しちゃダメなんですよ! あいつを生き返らせて、それで、あいつの夢を、ひこりゆういちあまがわが成しえなかった、夢の続きを──」


 火花が散った。


 ゴッ、と衝撃が走って、僕は背中から泥水の中に突っ込む。

 殴られた、ということを自覚したのは、が叫んでからだった。

「この大馬鹿野郎ッ!」

 左のほおに激痛が走り、視界がぼやける。真理亜の泣きそうな声が、ぐわんぐわんと揺れる世界の中で、頭上から聞こえた。

「ふざけるな、何がタイムマシンだ!? 八年前に戻る? あの子を生き返らせる!? 弥彦と詩緒梨の夢の続き!? いい加減にしろよこの大馬鹿!!」

 顔面に感じる熱と、ひっきりなしに降り注ぐ雨。僕はめいていした惑星のように、ぐるぐると回転する視界の中で彼女を見上げる。

 雨に打たれ、前髪に隠れて見えにくいが、それでも真理亜が泣いているのが分かった。殴った彼女のほうが、何かの痛みに耐えているようにさえ見えた。

ほしちゃんは、死んだんだ。もう、戻ってこないんだ……」自身の言葉に身を刺されるように彼女は言う。「弥彦も、詩緒梨も、最高に輝いていたあの時代も、もう二度と、帰っては来ないんだ……」

 彼女はうつむき、髪から滴を、頬から涙を流しながら、がくりとうなだれる。左頬の古傷が、今はいっそう痛々しく見えた。

 ゆっくりと、僕は立ち上がる。

「──ちがう」それは三年分の、胸に鬱積したおもい。「死んでない」

「え?」

「星乃は、死んでないんだ」

 僕は吐き出す。想いの丈をありのままに。

「朝、起きると、隣で、あいつは眠り姫みたいな澄まし顔で、でもよだれ垂らしてて……、それで、起き上がると、猫みたいにまぶたをこすって、不愉快そうな大あくびをして……、昼になると、弁当食べるって言い出して、でも地球の治安は悪いって、自分では行きたがらなくて、だけどエビフライ弁当が大好きで、食べてるときは本当に幸せそうで、午後はゲームばっかりやって、でも負けず嫌いで、夜は望遠鏡で星空を見てると、あいつは目を輝かせて、だけどそれは、どこかさびしそうで……ずっと、ずっとそうなんだ。いつもあいつがそばにいて、あいつの声が聞こえて、あいつの夢ばかり見て……」

 星乃が死んで三年。その間ずっと、星乃を遠ざけて、星乃のことを忘れようと、必死に彼女から逃げた。その思い出の影から逃げ続けた。

 だけど無理だった。何をしても、ふとした瞬間に、あいつの顔を思い出してしまう。あいつの夢を見てしまう。最近はもうずっと毎日だ。いつも得意げで、自信ありげで、でもどこかさびしそうに「ねえ、だいくん」と呼びかけるあの声が、忘れられない。


「僕の中で、あいつが、死なないんだ……」


 言葉が土砂降りの雨の中に消えていく。その雨は僕の顔を何度もたたいては、ほおを伝う涙を乱暴に奪い去っていく。

 がゆっくりと近づき、僕のほうに手を伸ばす。襟元をつかみ、再びこぶしを振り下ろす。あっけなく僕はよろめくが、今度は倒れない。先ほどに比べて格段に弱々しい、その拳。

 僕は知っている。ほしの死後、真理亜が銀河荘のドアにすがりついて泣き崩れていたことを。星乃から贈られた星型のピアスを今も大切にしていて、それを毎日愛おしそうに身に着けていることを。亡き親友の娘である星乃を、実の娘のように愛していたことを。

 僕たちは似ていた。星乃という太陽を失い、それでも彼女のいた場所を回ることをやめられない、未練がましく哀れな惑星。

 もう一度、真理亜が僕の胸ぐらを掴む。僕は抵抗しない。彼女になら何度殴られてもいいと思った。彼女の拳が持ち上がる。僕は本能的に歯を食いしばる。

 そのときだ。


「やめて……っ!!」


 声が響いた。真理亜と僕の間に、一人の女性が割って入る。

「二人とも、な、何を、してるの……?」

 混乱と動揺を隠さず、震える声で言う。大きなひとみと、美しい黒髪の大和やまと撫子なでしこ

 わくづき

「お母さん、どうして? どうして先輩にひどいことするの?」

「どきな葉月。こいつは殴らなくちゃ分からないんだ」

「先輩に、ひどいこと、しないで……」

「いいんだ葉月。僕は殴られて当然なんだ」

「先輩、まで……」

 葉月は首を振る。転がった傘が、彼女の足元で雨に打たれて乾いた音を立てる。

「ふ、二人とも、どうしちゃったの。こんなの、おかしいよ……」

 彼女は肩を震わせ、ひっく、ひっく、と呼吸を乱し、鼻をすすり上げる。混乱しているのだろう。実の母が、幼なじみを殴りつける非日常な光景に。

 真理亜が手を放し、だらりと力なく腕を下げる。解放された僕は、血が垂れる口元をそでぐちぬぐう。殴られた痛みと、全身を打つ冬の雨の冷たさが、急に現実を呼び戻したような気がした。おびえた子供のように泣くづき嗚咽おえつが、耳元にじんじんと響く。

「…………」

 僕は黙って葉月を見つめる。も同じで、実の娘がれながら泣きじゃくるのを見ても、どうすることもできずにその場に立ち尽くして。三人で雨に打たれ続け、それはなんだか、この三年間の僕たちを表しているようだった。誰も前に進めず、引きずったかなしみにずぶぬれになったまま、その場に立ち尽くしていた三年間。

 真理亜はそれを終わらせようとした。

 僕はそれに抵抗した。

 葉月はそんな僕らの間で、どっちに行くこともできずに心を痛めていた。

 ──終わりにしよう。

 そう、思った。



 階段を上ろうとしたときだった。

「先輩……っ!!」

 いきなりだった。僕は後ろから手をつかまれた。ぎゅうっと、柔らかな手の感触が、右手からぬくもりとともに伝わる。

「どこへ、行くんですか?」

「え?」

 葉月は意外な問いかけをした。

「先輩は、どこへ行こうと、しているんですか?」

「どこって、ほしの部屋さ」

うそです」彼女は首を振る。「先輩、いつもと違う。なにか、こう、遠く……どこか遠く、私の、手の届かないところへ、行こうとしている」

「そんな、ことは……」

「私、変なこと、言ってますよね……。だけど、だけど、いま、先輩の手をはなしたら、きっともう、会えない気がする……、先輩、もう戻ってこない気が、するんです……」

 僕はなんと答えてよいか分からない。

「どうして星乃さんなんですか?」

「……え?」

「星乃さんは、もう、亡くなったんです。どこにも、いないんです」

「それは……」

 握られた手に、さらに力が込められる。こんなに大胆な彼女は初めてだ。

「私、昔からずっと先輩を見てきました。小さいころ、先輩と会って、友達になって、それからずっと、ずっと、先輩のことを見てきました」

 僕は何も言えず、彼女の言葉を聞く。

「……でも、先輩の目には、私が映っていなかった。先輩はいつも、ほしさんを見ていて、私と話をしていても、星乃さんのことばかりで、星乃さんが亡くなっても、ずっと、星乃さんのことを考えていて、私の、ことを、いつまでも、見てくれない……」

 彼女の手がぶるぶると震え出す。

「こんなに近くにいるのに……こんなにそばで、先輩のことを見ているのに。でも、かなわないんです。亡くなった星乃さんに、私、かなわない。私は生きて、いる、のに……」

 呼吸が乱れ、づきが苦しそうにむせる。

「先輩……私、生きているんです。星乃さんと違って、生きているんです」

 彼女はそっと手を放し、それからゆっくりと前に回り込んだ。僕たちは向かい合う。

「少しで、いいんです。ほんの少しで、いいですから──」

 大粒の涙が、ほおをつたった。


「私を見てよ、お兄ちゃん……」


 葉月が僕の胸に飛び込んでくる。

 今、ここで彼女を抱きしめれば、すべてが終わるのだろう。そして、すべてが始まるのだろう。彼女と結ばれて、この先ずっといっしょに生きていけたら、僕はきっと幸せになれるだろう。定職について、真面目に働いて、ちゃんとした家庭を築いて、いつしか今日のことも思い出となって、黄金のような幸福な未来が開けるだろう。

 それらをすべて捨てて、僕が選ぼうとしているのはなんだ。

 星乃ののこしたフォルダには、こんな一文があった。

【『スペースライト』に伴う副作用……頭痛、めまい、吐き気、幻覚、視覚障害、記憶障害、脳神経の不可逆的な破壊、ショックによる死亡】

 失敗と副作用を覚悟した、タイムトラベルなんていうこうとうけいで、命がけの選択肢。

 でも。

 ──た す け て。

「葉月……」

 僕は、ゆっくりと彼女を押し戻す。

「ごめんな」

 そう言うと、彼女の隣を静かにすり抜ける。鉄さびだらけの階段を、雨でれきった足で、一歩、また一歩と上がっていく。葉月がひざから崩れ、座り込むのが、二階の廊下から見えた。だけど僕は引き返さない。

 そして二〇一号室。宇宙船のある部屋。

『所属ト姓名ヲ告ゲテ下サイ』

「クルーのひらだいです」

『声紋認証。登録クルー・【ダイチ・ヒラノ】ト確認シマシタ』続けて、『指紋認証。【ダイチ・ヒラノ】ノ登録指紋ト確認シマシタ』

 そして最後。インターフォン脇から、ディスプレイが出現する。

『ディスプレイヲ右目デのぞイテ下サイ』右目を当てる。『こうさい認証。【ダイチ・ヒラノ】ト同一人物ト確認シマシタ。──開錠シマス』

 そのときだった。


 稲妻が走った。


 フォルダに書かれていた『スペースライター』の説明文を思い出す。

 ──この網膜視細胞に刻まれたネガ記憶を、超光子によって再度スキャンし──

 ──

「まさか……」

 部屋の『中』ばかりを探していたことから、『外』には目を向けなかったこと。『虹彩認証』という言葉から、『網膜』とはなんとなく別物であるイメージを抱いていたこと。

 なぜ気づかなかったのか。あまりの自分の間抜けさにあきれる。答えは文字通り『目の前』にあったのだ。


木星ジユピター……」


 それはこのアパートに来るたびに僕の『』を──こうさいだけでなく『網膜』もスキャンしていた機械。セキュリティ付きの、手の込んだインターフォン。

「おまえだったのか……」ディスプレイをすっと指でなぞる。すると、そこにキーボードと、『パスワード入力』と書かれた画面が出現する。

「パスワード……」

 ほしの誕生日、好きな数字、思い出のナンバー……いろいろと試してみるが、すべてエラーとなる。それからしばし考え、ふと、あるものが思い浮かぶ。

 ──もしかして、これか?

【A×C=P】

 それはスペースライターの説明の最後に、何気なく書かれていた公式。

 試してみると、それが当たりだった。次の瞬間、画面が切り替わり、

『パスワードヲ認証シマシタ』電子音声が正答を告げる。『ドノポイントニ〈スペースライト〉シマスカ?』

 そこにはずらりと数字の羅列が並び、スクロールするとかなりの量で続いていた。

 最初はただの不規則な数列に見えた。しかし、よく見ると『2018』『2019』といった数字からそれが年月日を表すものだと気づく。ここまでヒントがあれば僕にも分かる。星乃はスペースライターの原理をこう説明していた。

【この網膜視細胞に刻まれたネガ記憶を、超光子によって再度スキャンし、データとして圧縮、それを超光子通信によって過去に送信する】

 もし、このインターフォン『木星ジユピター』が僕の網膜をスキャンし、そこに刻まれた『ネガ記憶』を保存していたのだとしたら、まさにこの数字の時刻がそれなのだと察しがつく。実際、一番最近の日付は僕がここを訪れた一週間前の日付とぴったりだ。

 ──ってことは……だ。

 膨大な数のそれらを指先でスクロールしていくと、やがて、ひとつの日付にたどりつく。

 それは最も古い日付。

【2017072514331505】

 二〇一七年七月二十五日十四時三十三分。それは八年前の、あの夏の日。

 あいつと初めて出会った日。

 ──これだ。

 指でタップすると、また画面が切り替わる。

『ポイント確認。〈スペースライト〉シタ場合、バッテリー不足ノタメニ戻ッテクルコトハデキマセン。ヨロシイデスカ?』

 僕は背後を振り向く。

 づきが階下から僕を見上げている。しゃがみこんだまま、れたひとみで僕を映している。

 も僕を見上げている。何も言わず、張り付いた銀色の前髪の下で、唇をめている。

 さよならは言わなかった。これから先の世界で、二人とはきっとまた出会うはずだから。

 取り戻そうと思った。ほしを。あいつの命を、夢を、未来を。

 だから僕は画面に指を置き──


『YES』を押した。


 その瞬間だった。

 みぎの前を、光の線が下から上へと駆け抜けた。ディスプレイの中からほとばしったその光に、そのまま吸い込まれるような感覚があり、そして意識がふわりと浮かび上がる。

 なんだ、これは……!?

 光の奔流が、圧倒的なとうとなって僕を包む。その光の束は見る見る数を増し、僕の前を無限のトンネルのように通過していく。

 それは記憶だった。僕が生まれ、産声を上げ、育った記憶。物心がついたころから、成長し、保育園に通い、小学校に入学し、中学を卒業し、高校二年で星乃と出会い、彼女と過ごした日々、仲良くなり、天体観測をしたり、時にはけんしたり、そして彼女の夢を聞いて、応援することを決め、彼女が引きこもりを克服し、JAXAの試験を受け、特例で合格し、夢の宇宙飛行士になり、訓練の日々が続き、ISS搭乗任務に選ばれ、いっしょにお祝いをして、それから目の前を巨大な流星群が通り過ぎ、そこに映った星乃が涙を流し、砕け散るISSが大気圏に突入し──すべての光が──いや違う、これは光よりも速い粒子──超光子が僕の網膜を駆け抜け、それらは時をこうし、僕の網膜視細胞に刻まれた記憶のネガを、過去へと情報送信し、昔の僕に今の僕を届ける。それは光速を越えた走馬灯。光すら追いつけない四次元の世界。その先に──


         【2017】


 ハッ、と眼を開いたとき、すさまじいめまいが襲った。

 立っていられず、一度ひざをつき、目の前の壁に手をつく。

 何が起きた? 何が見えた?

 あまりにも多くの情報と、映像と、記憶の束が、光となって、いや光以上の何かとなって、僕を通り過ぎた。残像が、記憶のフラッシュバックとなってまだ目の前を、まぶたの中をさくそうし、暴走し、それらがやっと収まったときに、僕はやっと、まともに眼を開ける。

 ドアが、見えた。

 見覚えのある、黒色ともあいいろともつかぬ鈍い色のドア。銀河荘、二〇一号室のプレート。さっきまでいた場所だ。

 失敗した……?

 最初に感じたのはそれだった。同じ場所にいる。同じ景色が見える。遠くにジャンプしたはずが、ストンとまた同じ位置に着地しているような、何も変わらない今のポジション。

 だが僕は気づいた。

「あ……」づきがいない。さっきまで階下に座り込んでいた彼女が、今はどこにも見当たらない。もいつの間にかいなくなっている。雨もやんでいるし、それどころか、今着ている、この厚手の服は──制服。高校の制服だ。

 思わず全身を見回す。上下ともに、懐かしい学校の制服。見れば、学生かばんが足元に転がっており、靴も昔履いていた空色のスニーカー。

 きらりと、陽光がにまぶしい。晴れている。あんなに雨がひどかったのに。というか、外には水たまりすら見えず、雨が降ったこんせきは何もない。

 そのとき、ブゥン、とインターフォンが反応した。


『──どちらさまですか?』


 それは忘れもしない声。

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