鈴木清順監督『肉体の門』
鈴木清順の『肉体の門』を観た。
このドラマで主演の宍戸錠と野川由美子は、僕のあまり好きな役者ではないので、
作品の存在は知ってはいたけど観ずに来たが、
なかなかの傑作だった。
僕の知識の中では、
鈴木清順という映画監督は、「様式美の監督」、
という先入観があって、
いくつか観た作品は、
例えて言うと、
『東京流れ者』、『チゴイネルワイゼン』、『陽炎座』など、
それらは、まさにそうだったので、
この『肉体の門』もそうかと思っていたけれど、
この作品だけは、そうではなかった。
お蔭で、最後まで観続けることが出来た。
笠原和夫・五社英雄の作品では、
パンパン集団のボス「関東小政」が主役だったが、
鈴木清順の作品では、その配下(?)の「ボルネオマヤ」が主役だった。
ボルネオで戦死した兄の話ばかりをするからの命名だという。
その「ボルネオマヤ」の役を、若い日の野川由美子が演じていた。
ストーリー的に言うのなら、
原作を大幅に改ざんしたのは、きっと、笠原和夫の方なのだろう。
僕は、ある意味頓馬な男なので、
タイトルの『肉体の門』、の意味を、この歳まで深く考えずにきたが、
先日、笠原版『肉体の門』を観ながら、
やっと、
「肉体の門」とは女性の性器のことであることに気がついた。
なるほどね。「肉体の門」か。
言い得て妙である。
「妙」って、「奇妙」のことじゃないからな。SOBA屋のじじい。
こんな但し書きまで書かねばならないネット荒野。
笠原版『肉体の門』に出てくるパンパンたちは、
のっけから何処かに<暗さ>を漂わせていたが、
鈴木版『肉体の門』では、
前半戦のパンパンたちは、やけに明るく、
その描き方が、僕には好感が持てた。
鈴木版パンパン曰く。
病気と妊娠はパン助の敵。
御説御尤。
脱帽した。
この女たちの<明るさ>は、
太宰治言うところの、
明るさは滅びの姿であろうか。
人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ。
の<明るさ>とは、
質を異にする、もっと動物的で野放図な<明るさ>で、
それは、僕の嗜好と合致していて、
心地よかった。
しかし、
途中から、
パンパンたちが、宍戸錠演ずる伊吹という男に恋情を抱き始め、
その心理葛藤の果てに、
伊吹が殺され、女たちは「仲間」でなくなってしまう。
その手の湿っぽい男と女たちの話は、
老いた僕には、あまり感動を与えなかった。
こうした敗戦期の映画や、
深作欣二のやくざ映画を観る度に思うのだが、
この国に、
だんだん、
「野放図」の居場所がなくなっていく。
肉体をネクタイで締めつけるだけじゃなく、
精神も、生活も、ネクタイで絞めつけなければならない、
そんな息苦しい時代が始まっていて、
それは、高度管理社会では当たり前のことなのかもしれないが、
「野放図」を偏愛してきた僕には、
なんともやりきれない。
まあ、
あと10年ほどのことだから、
やり過ごせばいいのだろうけども。