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百年の批評: 近代をいかに相続するか
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更新日:2019年8月31日
/ 新聞掲載日:2019年8月30日(第3304号)
百年の批評: 近代をいかに相続するか 書評
「相続」されるもの、されないもの
福嶋亮大著『百年の批評 近代をいかに相続するか』を読む
百年の批評: 近代をいかに相続するか 著 者:福嶋 亮大
出版社: 青土社
評者:大杉 重男(文芸評論家)
二〇一四年に『復興文学論』(青土社)でサントリー学芸賞、二〇一七年に『厄介な遺産』(青土社)でやまなし文学賞を受賞した福嶋亮大氏の最新評論集である。著者によれば、本書は二〇一〇年以降著者がさまざまな媒体に書いた日本文学および批評を集めたものであり、ほとんどの文章は自発的に書かれたのではなく依頼原稿だが、ただの寄せ集めではなく、一定のコンセプトがあるとされる。それは「派閥や人間関係ではなくテクストの次元での内在的な対話を明るみに出すこと、言い換えればテクストからテクストへの隠れた遺産相続に注目すること」であり、そのための方法論として「日本文学の作品たちを「シリーズ」として、作家たちを「チーム」として捉えること」が提案される。
しかしむしろ本書は逆に、バラバラな依頼原稿の寄せ集めとして、そこから必要な情報を読み取る方が有用に読める。本書で「シリーズ」「チーム」は分析概念としては機能しておらずイメージ的な隠喩にとどまっており、「語り」を強調する割に全体はテクスト論以前の素朴な作家論に見える。漱石的三角関係を論じる中で作田啓一の名が出て来て懐かしかったが、近代文学について参照している文献がアップテートされておらず古めかしい印象も受ける。
とりわけ疑問なのは、「相続」というキーワードである。本書には「近代をいかに相続するか」という副題が付いているが、「相続」という封建制的な言葉ほど「近代」と対立する言葉はない。実際本書において著者は、『太平記』論に端的に表れているように、千年以上持続する漢字文化圏の物語的伝統の相続者として振る舞っている。漱石・安吾・丸谷・司馬・三島・折口など、時期的には近代の作家が扱われていても、彼らは近代固有の問題圏の中で論じられるのではなく、むしろ近代的なものの否認の身振りのもとで読まれている。著者は「相続」と「コミュニケーション」を等号で結ぶが、「相続」が一方の側の死を含意する以上、そこにはディスコミュニケーションの契機が内蔵される。古代から現在までの文学を同一の神話的原型の反復としてとらえながら、自分が近代を否認しているということ自体すら意識せずに近代を相続すると豪語するのは、典型的なポストモダン的症状と言えるかも知れない。
たとえば漱石論の中で、著者は「彼が『道草』という私小説を手がけたのは、たんに同時代の自然主義文学の流行に沿ったという以上に、これまで直視してなかった「親になった夫婦」に肉薄しようとする動機があったからではないか」と述べるが、『道草』と「同時代の自然主義文学」(特に徳田秋声の『黴』)とのテクスト的なつながりは既に指摘のあるところであるにもかかわらず、著者は論証なく独断的にその「相続」関係を否定する。これは著者の「近代」理解の偏りと問題点を端的に示している。「同時代の自然主義文学」は、近代日本の最も厄介な「トラブル」を抱えた遺産のはずだが、著者はその相続は放棄して顧みない。本書の副題は「近代をいかに相続放棄するか」であるべきだったのではないか。著者は「私は近代の《日本文学》の作家は、谷崎と中上に加えて三島由紀夫しかいなかったのではないかと考えている」と述べている(これらの作家たちのテクストが持つフェティシズムに著者が無感覚に見えるのは皮肉だが)ので尚更である。
遺産は必ずしも正の遺産ばかりとは限らない。とりわけ日本の近代はむしろ負の遺産、負債の連鎖としてしばしば表象されてきた。しかし著者の眼中にはそのような負債は存在せず、負債なしで正の遺産だけを受け取れると信じているかのようである。だが負の遺産は簡単には相続拒否できない。本書収録のエッセイ「戦地の外で」において、著者は現代日本における「ヘイトスピーチの横行や排外主義の高まり」を「同胞意識なき右傾化」と診断し、高校時代に野球選手で戦時中に徴兵されながら他の球友たちと違って戦地に行かずに生き延びた祖父の人生に意味を見出しているが、それは結局著者の祖父に対する「同胞意識」の確認にしかなっていない。現代の日本人の「同胞意識」の欠如は、まさに第二次世界大戦に集約される日本の近代の負の遺産と結びついているはずである。中国文学を専攻する著者が、日本と東アジアの歴史的関係性について、近代以前については饒舌でありながら、近代に関して寡黙に見えるのは解し難い。著者は丸谷才一をその「内なる寂しい放浪者=失踪者に恩寵を授けようとする衝動」において評価するが、丸谷の「徴兵忌避」へのこだわりの政治性については沈黙する。香港の雨傘運動について「観光客」として傍観者的に無難なコメントをしているのも、それでいいのかと思う。著者は京都学派の伝承者として山崎正和流の関西中流階級的な「柔らかい個人主義」の相続者を目ざしているようだが、そこに真の「友愛」「コミュニケーション」は成立しないのではないか。著者は日本を自己完結的な文化世界と見なし(中国からの影響はあくまで文物的なものに過ぎない)、その箱庭の慈悲深い相続者=家長を目ざしているように見える。
著者はその世代としては博学であり、和・漢・洋全般に広く通じる教養のポテンシャルを持っているのは間違いないだろう。しかしその分テクストの細部に目が行き届いていないように見える。神は細部に宿るというのは近代的な発想で、現在では細部を気にしない俯瞰的な「観光客」用の地図が必要なのかも知れない。私は高校時代に『紅楼夢』を愛読していたので、本書の中では「ジェンダー・トラブル」の物語として『紅楼夢』を捉え直す合山究の『紅楼夢』論の書評などはとても面白く、別のエッセイでの曹雪芹と本居宣長の同時代性の指摘にもはっとさせられた。やはり著者は中国の古典文学を、一度徹底的に細部にこだわって論じるべきではないか。
しかしむしろ本書は逆に、バラバラな依頼原稿の寄せ集めとして、そこから必要な情報を読み取る方が有用に読める。本書で「シリーズ」「チーム」は分析概念としては機能しておらずイメージ的な隠喩にとどまっており、「語り」を強調する割に全体はテクスト論以前の素朴な作家論に見える。漱石的三角関係を論じる中で作田啓一の名が出て来て懐かしかったが、近代文学について参照している文献がアップテートされておらず古めかしい印象も受ける。
とりわけ疑問なのは、「相続」というキーワードである。本書には「近代をいかに相続するか」という副題が付いているが、「相続」という封建制的な言葉ほど「近代」と対立する言葉はない。実際本書において著者は、『太平記』論に端的に表れているように、千年以上持続する漢字文化圏の物語的伝統の相続者として振る舞っている。漱石・安吾・丸谷・司馬・三島・折口など、時期的には近代の作家が扱われていても、彼らは近代固有の問題圏の中で論じられるのではなく、むしろ近代的なものの否認の身振りのもとで読まれている。著者は「相続」と「コミュニケーション」を等号で結ぶが、「相続」が一方の側の死を含意する以上、そこにはディスコミュニケーションの契機が内蔵される。古代から現在までの文学を同一の神話的原型の反復としてとらえながら、自分が近代を否認しているということ自体すら意識せずに近代を相続すると豪語するのは、典型的なポストモダン的症状と言えるかも知れない。
たとえば漱石論の中で、著者は「彼が『道草』という私小説を手がけたのは、たんに同時代の自然主義文学の流行に沿ったという以上に、これまで直視してなかった「親になった夫婦」に肉薄しようとする動機があったからではないか」と述べるが、『道草』と「同時代の自然主義文学」(特に徳田秋声の『黴』)とのテクスト的なつながりは既に指摘のあるところであるにもかかわらず、著者は論証なく独断的にその「相続」関係を否定する。これは著者の「近代」理解の偏りと問題点を端的に示している。「同時代の自然主義文学」は、近代日本の最も厄介な「トラブル」を抱えた遺産のはずだが、著者はその相続は放棄して顧みない。本書の副題は「近代をいかに相続放棄するか」であるべきだったのではないか。著者は「私は近代の《日本文学》の作家は、谷崎と中上に加えて三島由紀夫しかいなかったのではないかと考えている」と述べている(これらの作家たちのテクストが持つフェティシズムに著者が無感覚に見えるのは皮肉だが)ので尚更である。
遺産は必ずしも正の遺産ばかりとは限らない。とりわけ日本の近代はむしろ負の遺産、負債の連鎖としてしばしば表象されてきた。しかし著者の眼中にはそのような負債は存在せず、負債なしで正の遺産だけを受け取れると信じているかのようである。だが負の遺産は簡単には相続拒否できない。本書収録のエッセイ「戦地の外で」において、著者は現代日本における「ヘイトスピーチの横行や排外主義の高まり」を「同胞意識なき右傾化」と診断し、高校時代に野球選手で戦時中に徴兵されながら他の球友たちと違って戦地に行かずに生き延びた祖父の人生に意味を見出しているが、それは結局著者の祖父に対する「同胞意識」の確認にしかなっていない。現代の日本人の「同胞意識」の欠如は、まさに第二次世界大戦に集約される日本の近代の負の遺産と結びついているはずである。中国文学を専攻する著者が、日本と東アジアの歴史的関係性について、近代以前については饒舌でありながら、近代に関して寡黙に見えるのは解し難い。著者は丸谷才一をその「内なる寂しい放浪者=失踪者に恩寵を授けようとする衝動」において評価するが、丸谷の「徴兵忌避」へのこだわりの政治性については沈黙する。香港の雨傘運動について「観光客」として傍観者的に無難なコメントをしているのも、それでいいのかと思う。著者は京都学派の伝承者として山崎正和流の関西中流階級的な「柔らかい個人主義」の相続者を目ざしているようだが、そこに真の「友愛」「コミュニケーション」は成立しないのではないか。著者は日本を自己完結的な文化世界と見なし(中国からの影響はあくまで文物的なものに過ぎない)、その箱庭の慈悲深い相続者=家長を目ざしているように見える。
著者はその世代としては博学であり、和・漢・洋全般に広く通じる教養のポテンシャルを持っているのは間違いないだろう。しかしその分テクストの細部に目が行き届いていないように見える。神は細部に宿るというのは近代的な発想で、現在では細部を気にしない俯瞰的な「観光客」用の地図が必要なのかも知れない。私は高校時代に『紅楼夢』を愛読していたので、本書の中では「ジェンダー・トラブル」の物語として『紅楼夢』を捉え直す合山究の『紅楼夢』論の書評などはとても面白く、別のエッセイでの曹雪芹と本居宣長の同時代性の指摘にもはっとさせられた。やはり著者は中国の古典文学を、一度徹底的に細部にこだわって論じるべきではないか。
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