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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年7月3日 / 新聞掲載日:2017年6月30日(第3196号)

群島と大学 冷戦ガラパゴスを超えて 書評
地道なリサーチと洞察のダイナミズム

群島と大学 冷戦ガラパゴスを超えて
著 者:石原 俊
出版社:共和国
著者は、東日本大震災で福島第一原発のプラントが爆発する映像を見たとき、十数年にわたって関わってきた小笠原群島や硫黄列島の人々を思い浮かべたと言う。一九四四年、アジア太平洋戦争末期、その島民の大多数が、米軍との地上戦を計画していた日本軍によって本土に強制疎開させられたからだ。近年、イーストウッドの映画『硫黄島からの手紙』(二〇〇六年)などによって、凄惨な地上戦は知られるようになったものの、かえって島民の強制疎開とその後の難民状態は見えなくなり、「そこに社会があった」ことが忘れられてきた、という。

小笠原群島は六八年に施政権が日本に返還され、ようやく全島民の帰還が認められた(皮肉にも、この四半世紀にわたる住民の追放によって島々の自然環境は保持され、二〇一一年の世界自然遺産登録へとつながった)。だが、硫黄列島については、いまだに強制疎開が解除されていない。まだ戦争は終わっていないのである。

だが、著者の中で、三・一一と小笠原群島や硫黄列島とを結び付けたのは強制疎開ばかりではない。五一年、サンフランシスコ講和条約によって、再独立と引き換えに沖縄などは米軍へと貸与、小笠原群島や硫黄列島には、ソ連との核戦争に備え、核弾頭が配備された。グアム島やマーシャル諸島などミクロネシアの核実験場化、秘密基地化とも連動する、いわゆる冷戦下における「アメリカの核の湖」である。本土はといえば、アメリカの呼び声に応え「原子力の平和利用=原発建設」に着手していった。日米同盟とは、再独立後も日本の主権を潜在的なものに抑圧しておく装置だった。冷戦終焉後もこの装置は解除されず、いまだ日本は「冷戦ガラパゴス」状態にあるというのが、著者の見立てだ。

こうした本書の視点は、中央=中核が、自らのヘゲモニーのもとに周辺=地方=群島を都合よく配置し飼い馴らすという「世界システム論」(ウォーラーステイン)的と言ってよい。群島で「定点観測」していた著者の眼は、一気に十六世紀以降のグローバリゼーションにまで視座を広げ、このシステムが不可避的に「もつ者」と「もたざる者」との格差や差別を生み出し、両者の間に「殺す/殺される」の関係をはらんでしまうさまを捉えていく。この地道なリサーチと洞察のダイナミズム。

その著者の眼は同時に、二〇一四年以降の新安保法制反対のデモや集会における「平和憲法を守るか/戦争のできる国か」というスローガンを、いかにも一国平和主義的ではないかと批判する。確かに、それは単に戦争反対ではなく、格差や差別をあらかじめ内包するシステムそのものへの反対でなければならないだろう。

こうしたスタンスで、本書後半で著者は、現在の資本の包摂による大学の就職予備校化に対して、「学問の自由」や「大学の自治」を確保、保持するべきだと主張する。確かに、今や学生は、一年時からキャリア教育、卒業まで高額の学費と生活費のためにバイト漬け、卒業後は奨学金返済の「借金人間」という息もできないしんどさだ。大学教員にできるのは、せいぜいこれ以上学生に負担をかけないようにすることぐらいだとすら思うことがある。現在の「大学解体」とは、端的に大学生の心身の解体にほかならない。そんななか、できるところからの具体的実践、例えば憲法二十三条の護憲運動や助成補助金の受給拒否といった本書の提言は貴重だ。ただ、「学問の自由」や「大学の自治」をアジールとして取り戻すというのはやはりファンタスムではないか。あらゆるアジールの消滅こそが冷戦後の問題だったはずだ。もし「群島と大学」とが戦線として結びつくとしたら、大学や学問が、中央=中核に振り回される「不自由」なものでしかあり得ないという前提からではないだろうか。
この記事の中でご紹介した本
群島と大学 冷戦ガラパゴスを超えて/共和国
群島と大学 冷戦ガラパゴスを超えて
著 者:石原 俊
出版社:共和国
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