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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年2月10日 / 新聞掲載日:2018年2月9日(第3226号)

柄谷行人書評集 書評
批評家としての思考の足跡 最初期の選択、「内向の世代」への支持

柄谷行人書評集
著 者:柄谷 行人
出版社:読書人
柄谷行人書評集(柄谷 行人)読書人
柄谷行人書評集
柄谷 行人
読書人
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批評家柄谷行人の書評や文芸時評、さらには文庫や全集の解説などを広く収めた、新設の「読書人」出版部からの一冊である。第Ⅰ部には、「朝日新聞」書評委員としての仕事が、第Ⅱ部には最初期からの単行本未収録の書評や時評が、第Ⅲ部には全集や文庫の解説がそれぞれ収録されている。著者の批評は可能なかぎり読んできたつもりだったが、はじめて目にするものも少なくない。著者自身も「ほとんど覚えてい」ないような「書き散らした書評」を、恐るべき収集者として知られる山本均氏が集めていたものだという(「あとがき」)。

著者の本に親しんできた読者も瑞々しく読める。また第Ⅱ部↓第Ⅲ部↓第Ⅰ部の順に読むことで、概ね時系列に沿って、柄谷自身言うように、「確かに現場にいた文芸批評家」としての著者の思考の足跡を確かめることができるだろう。

今回通読してみて改めて感じたのは、批評家として出発した最初期に、著者はある選択をしたのだということだった。それはまず、詩から小説へという近代の歴史過程に即して、詩ではなく小説を擁護することである。著者が批評を開始した一九六〇年代末から七〇年代にかけては、現代詩の季節でもあったはずだ。だが、近代が散文=小説の時代である以上、必ずや「彼を相対化してしまう「他者」や「生活」が、彼と世界を緊密につないでいた自然的な〈詩〉的紐帯を破壊させてしまう」ほかはない(「小説家としてのダレル」)。ダレルは「詩的全体性」を装ったが、我々の内部に「他者」が入り込んできて「全体性」を不可能にするのが近代=散文なのだ、と。ここにはすでに、後年著者の思考に前景化する「他者」のテーマの萌芽が見られよう。

確かに、現代詩を論じる著者は想像ができない。例えば、吉本隆明『言語にとって美とはなにか』改訂新版の文庫解説においても、現代詩、とりわけ「荒地」的な隠喩論と切り離せないこの書物を、著者は詩には目もくれず、マルクス『資本論』とのアナロジーで論じきる。

こうして散文=小説を選択した著者は、なかでも「内向の世代」を支持することになる。本書の第Ⅱ、Ⅲ部は、『杳子』、『妻隠』、『行隠れ』、『水』など多くの作品が論じられる古井由吉を筆頭に、後藤明生、小川国夫、坂上弘、柏原兵三など、「内向の世代」の作家に多くの筆が割かれている。これも、高橋和巳らが読まれていた時期に、あえて古井や後藤に「加担」する選択をしたのである。小田切秀雄が命名した「内向の世代」とは、何より脱政治的で脱イデオロギー的な、知識人批判の文学を意味していたのだから、このとき著者はこの「転向」文学にあえてコミットしたのだ。七〇年代初頭には、この「内向の世代」を肯定するか否かをめぐって論争が起こったが、小谷野敦も言うように(『現代文学論争』)、したがってこれは「政治と文学」論争の一つのバリエーションだったと言えよう。

「内向」とは「内面」への自閉ではなく、あくまである方法的な懐疑――「内面」とは他者との関係に置かれた構造的な所産ではないか――であって、むしろ彼らの「内面への道」だけが「外界への道」なのだというのが著者のテーゼであった(「内面への道と外界への道」、『畏怖する人間』)。ここでは、「内面」(の豊〓さ)への不信から、「転向」もその「現実」感もすでに喪失されている。本書を読んでつくづく思ったが、著者の他者=外界への道は、実にここから出発したのだ。

政治、イデオロギー、神などあらゆる超越性への不信によって、「内面と外界」(=文学と政治)の双方に「手ざわりのなさ」(『文芸時評2』)しか感じられないからこそ、相対的な他者との非対称的な関係の認識が生まれるということ(後藤明生『パンのみに非ず』解説)。後年、この他者との非対称性から、個体の「単独性」や「固有名」が新たな「外」として著者の手につかまれていくのは知られるとおりだ。

それはまた、「何の意味があります?」(チェーホフ『三人姉妹』)とばかりの「意味という病」からの解放でもあった。著者によって見いだされたこの「外」に解放された読者も多かっただろうし、私自身その一人であったことを否定しない。だが、本紙「論潮」欄(二〇一四年七月四日)でも指摘したように、衰退しつつある市民社会や人的資本主義下の現在において、その「外」が外としてうまく作動しなくなっていることもまた否めない。

著者の「単独性」は、「個体的所有」(平田清明)やそれによって本源的な市民社会(アソシエーション)が高次に回復するという市民社会派マルクス主義の理論と同根であり、その思考が、例えば本書第Ⅰ部の、ネグリとハートや、デヴィッド・グレーバー、レベッカ・ソルニット、汪暉、あるいは佐藤優や宮崎学への高い評価と必然的につながっていることについては、率直に疑問がある。それは、中国を「帝国」として肯定しつつ、その一方で台湾のひまわり学生運動に共感を示すという近年の著者の混乱にも言える。

だが、誰も「外」が見出せない現在、もとより混乱していない者などいない。「いったい自己を賭けることなく、いいかえれば“心中”することなしに、「当為」として批評が存在すると思うことが迷蒙である」(『文芸時評3』)。これもまた批評家の選択なのだ。本書は全身でそう語っている。
この記事の中でご紹介した本
柄谷行人書評集/読書人
柄谷行人書評集
著 者:柄谷 行人
出版社:読書人
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