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チビクロ
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更新日:2018年8月25日
/ 新聞掲載日:2018年8月24日(第3253号)
チビクロ 書評
壮大な「必敗」の記録
一人バリケードの向こうに居座り続ける
チビクロ著 者:松本 圭二
出版社:航思社
評者:中島 一夫(批評家)
以前、安里미겔は、松本圭二の『アストロノート』を高く評価する一方で、その末尾の二行「ああ/俺に出来ることは「否定」だけだ」を、「「必敗」的抒情性」、「必敗者の美学」と批判した(長谷川龍生、究極Q太郎との鼎談「現代詩―その過去・現在・未来」『社会評論』二〇〇六年・夏)。これは、究極Q太郎が『アストロノート』の書評(『社会評論』145号)で、「六八年」に挫折した七〇年代の詩人たちが「「必敗」という言葉でおためごかしし」、松本をその延長上に位置する存在と論じたことを受けたものだ。
松本圭二は、おそらくこれらの批判を否定しないだろう。松本にとって、「必敗」は現代詩の条件だからだ。松本は、その第一詩集『ロングリリーフ』から「必敗=戦意の喪失」の詩人として出発した。稲川方人が「六〇年代の気風を負う」ならば、自分はその後の負け続けている「七〇年代の気風」を負って「ロングリリーフ」に立つのだ、と(「子午線」vol.6)。実際、今回完結したセレクション全九巻を通読して、改めてこれらが壮大な「必敗」の記録であることを痛感した。詩と映画についてのエッセイや批評が収められた、この第九巻『チビクロ』は、創作でないぶん、とりわけ「必敗」がストレートだ。
「もはや自らの欲望を離れた書くべき文字が、書かれる直前に音と意味を壊しながら分裂増殖し、まるで言語自身がアナグラムのゲームのなかで崩壊を夢見ているような。(略)山本陽子、菅谷規矩雄の晩年、あるいは『ジャスミンおとこ』(みすず書房)のウニカ・チュルン。(略)そこではその双方の欲望が共に、対言語の敗戦の傷痕を正確に記録するために消失しているのだ」(「チビクロ」)。では、この「必敗=対言語の敗戦」とは何か。山本や菅谷に加え支路遺耕治らの名が散見されるように、六〇年代後半から七〇年代にかけて、現代詩は最もラディカルに日本語破壊を敢行した。それ以上進めば「狂うか、死ぬかする」(「ニッピョンギョと詩のことば」)しかない。そのリミットを見てしまった者が、尻込みしつつも、彼らが身をもって示した「外」にどうしようもなく誘引されていく。「必敗」とは、この現代詩人のジレンマそのものである。松本に許せないのは、そうした「六八年」後の現代詩において、「必敗」の「ロングリリーフ」を宿命としていることを知ろうともしない「ボンクラ詩人ども」が、「「判りやすい普通の言葉」で詩は書かれるべきだという勢力」として「ヌケヌケと存在する」ことだろう(「殺気と抒情」、「ミスター・フリーダム」)。「六八年」を嫌う松本はこうした見方を肯わないだろうが、「六八年」後の言語論的転回を、松本ほどまともに受けとめてしまった詩人を他に知らない。本書に「これから」という素晴らしいエッセイがあるが、松本に「これから」はないのだ。
だから、松本の「必敗」は、安里の言うようには、「短歌的抒情」や「日本浪漫派的心情」に直結するものではない。近代詩の端緒たる『新体詩抄』からして、「平常ノ語ヲ用ヒテ詩歌ヲ作ル事」という「判りやすい普通の言葉=俗語」で書く「勢力」に牛耳られてきた詩というジャンルに、真摯に向き合おうとするがゆえの「チンピラ」のような純粋な荒ぶりがそこにはある。近代が散文=小説の時代である以上、詩も散文化を免れない。だが、詩が詩であるためには、散文=小説を「奴隷の書き物」として退け自らを不断に生成させ続けなければならない。それは、自らも拠って立つ日本語の散文というプラットホームを壊し続ける自爆的な行為だ。本書後半の諸エッセイに読まれる「フィルムアーキヴィスト」という、松本のもう一つの顔ともそれは関わるだろう。フィルムアーカイブとは、進行する散文=ビデオ化、デジタル化に対して、いかに詩=フィルムを保存するかという、これまた「必敗」の実践だ。
だが松本は、自らの「必敗」を、例えば岡田隆彦のような「敗北主義」とは考えない。松本はあくまで稲川の「彼方へのサボタージュ」に連なろうとする。「それは言わば勝ち目のないバリストである。そういう意味では敗北主義かも知れぬが、一人バリケードの向こうに居座り続けるという態度によって、あの甘く切ない敗北主義からもサボタージュし続けるのだ」(「稲川方人考」)。松本に必敗的「抒情」が宿るとしたらむしろこの地点だろう。おそらく稲川は、「一人」でバリストしようとは考えていない。そこに、いまだ一人称複数「われわれ」で詩を書こうとする稲川と、それを「うざい」と退ける松本の決定的な差異がある(「子午線」vol.6討議)。そこには、詩を「労働」ではなく「道楽」だと見なす松本の「思想」が関わると思われるが、もはや紙幅は尽きた。
松本圭二は、おそらくこれらの批判を否定しないだろう。松本にとって、「必敗」は現代詩の条件だからだ。松本は、その第一詩集『ロングリリーフ』から「必敗=戦意の喪失」の詩人として出発した。稲川方人が「六〇年代の気風を負う」ならば、自分はその後の負け続けている「七〇年代の気風」を負って「ロングリリーフ」に立つのだ、と(「子午線」vol.6)。実際、今回完結したセレクション全九巻を通読して、改めてこれらが壮大な「必敗」の記録であることを痛感した。詩と映画についてのエッセイや批評が収められた、この第九巻『チビクロ』は、創作でないぶん、とりわけ「必敗」がストレートだ。
「もはや自らの欲望を離れた書くべき文字が、書かれる直前に音と意味を壊しながら分裂増殖し、まるで言語自身がアナグラムのゲームのなかで崩壊を夢見ているような。(略)山本陽子、菅谷規矩雄の晩年、あるいは『ジャスミンおとこ』(みすず書房)のウニカ・チュルン。(略)そこではその双方の欲望が共に、対言語の敗戦の傷痕を正確に記録するために消失しているのだ」(「チビクロ」)。では、この「必敗=対言語の敗戦」とは何か。山本や菅谷に加え支路遺耕治らの名が散見されるように、六〇年代後半から七〇年代にかけて、現代詩は最もラディカルに日本語破壊を敢行した。それ以上進めば「狂うか、死ぬかする」(「ニッピョンギョと詩のことば」)しかない。そのリミットを見てしまった者が、尻込みしつつも、彼らが身をもって示した「外」にどうしようもなく誘引されていく。「必敗」とは、この現代詩人のジレンマそのものである。松本に許せないのは、そうした「六八年」後の現代詩において、「必敗」の「ロングリリーフ」を宿命としていることを知ろうともしない「ボンクラ詩人ども」が、「「判りやすい普通の言葉」で詩は書かれるべきだという勢力」として「ヌケヌケと存在する」ことだろう(「殺気と抒情」、「ミスター・フリーダム」)。「六八年」を嫌う松本はこうした見方を肯わないだろうが、「六八年」後の言語論的転回を、松本ほどまともに受けとめてしまった詩人を他に知らない。本書に「これから」という素晴らしいエッセイがあるが、松本に「これから」はないのだ。
だから、松本の「必敗」は、安里の言うようには、「短歌的抒情」や「日本浪漫派的心情」に直結するものではない。近代詩の端緒たる『新体詩抄』からして、「平常ノ語ヲ用ヒテ詩歌ヲ作ル事」という「判りやすい普通の言葉=俗語」で書く「勢力」に牛耳られてきた詩というジャンルに、真摯に向き合おうとするがゆえの「チンピラ」のような純粋な荒ぶりがそこにはある。近代が散文=小説の時代である以上、詩も散文化を免れない。だが、詩が詩であるためには、散文=小説を「奴隷の書き物」として退け自らを不断に生成させ続けなければならない。それは、自らも拠って立つ日本語の散文というプラットホームを壊し続ける自爆的な行為だ。本書後半の諸エッセイに読まれる「フィルムアーキヴィスト」という、松本のもう一つの顔ともそれは関わるだろう。フィルムアーカイブとは、進行する散文=ビデオ化、デジタル化に対して、いかに詩=フィルムを保存するかという、これまた「必敗」の実践だ。
だが松本は、自らの「必敗」を、例えば岡田隆彦のような「敗北主義」とは考えない。松本はあくまで稲川の「彼方へのサボタージュ」に連なろうとする。「それは言わば勝ち目のないバリストである。そういう意味では敗北主義かも知れぬが、一人バリケードの向こうに居座り続けるという態度によって、あの甘く切ない敗北主義からもサボタージュし続けるのだ」(「稲川方人考」)。松本に必敗的「抒情」が宿るとしたらむしろこの地点だろう。おそらく稲川は、「一人」でバリストしようとは考えていない。そこに、いまだ一人称複数「われわれ」で詩を書こうとする稲川と、それを「うざい」と退ける松本の決定的な差異がある(「子午線」vol.6討議)。そこには、詩を「労働」ではなく「道楽」だと見なす松本の「思想」が関わると思われるが、もはや紙幅は尽きた。
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