論潮
『現代思想』1月号の討議「思弁的実在論「以後」とトランプ時代の諸問題」のなかで小泉義之がマーク・フィッシャーの自殺と彼が抱えていた「リベラル左派に対する強烈な怨念」に触れているのを頷きながら読み、故人が残した好著『資本主義リアリズム』(堀之内出版・2018)の一節を思い出した。
そこではマイケル・マン監督『ヒート』におけるロバート・デ・ニーロが、「何事にも執着」せず、とりわけ危険な「熱」から柔軟に身を遠ざけ賢明に収益をあげる「企業投資家」に還元されていたが、はたしてそれでいいのか。紙幅の都合上詳細は削ったが、仮に『ヒート』に資本主義リアリズムの充満のみしか捉ええなかったとすれば、「超スピノザ主義」と評されるその戦略も心許なく思われる。あるいは、同書には「読むという行為そのもの」を拒む学生に関する記述が読まれるものの、スラヴォイ・ジジェク曰く「たまらなく読みやすい」文章を書くフィッシャーは、その遮断が厭われる「即時満足の果てしないフロー」に覆われた資本主義リアリズムの只中で「観る」ことに疲弊していたのか。いずれにしろ暗澹とする。
とまれ、この討議で話題にのぼる加速主義にも小粒から大粒まであるだろうが、そこでも名前が挙がっていた、テクノロジーで「魔法」を実現するメディアアーティストが「日本再興」のために「士農工商」の復活を説くのを読むに、多かれ少なかれ加速主義的な志向が夢見るのは、一見中世ふうだが没歴史的に多種多様な風習や種族が棲み分けられた「異世界」――シーステディング構想でも知られるシリコンバレーにおける加速主義者ピーター・ティールなど、いわゆるオルト・ライトにもファンが多いJ・R・R・トールキン的な――に転生しての無双なのではないか。H・P・ラブクラフトへの偏愛でも知られるニック・ランドも「死と遣る」(『現代思想』1月)では「ドラゴンに乗るドワーフのように」なる到底巧みといえない直喩を用いているが、彼らは総じて、加速のはての技術的特異点における転生のごとき大転換を期待するわけだ。
踏まえるべきは、文芸誌はいざしらず巷では異世界転生ものなど掃き捨てるほどあるように、落合陽一の発想は――「いまのエリート層って、みんな内心」これと同様なのではと小泉は疑っているが、恐らくエリートに限らず――ありふれており、「士農工商」が拙いなら、エルフやらオークその他で適当に言い換える方が「魔法使い」にはふさわしいくらいに考えているだろうことだ。なるほど、この種の物語の主人公は転生後能力や属性面で人間を超える――トランス/ポスト・ヒューマン?――場合があるものの、思考や認識は概ね人間主義的に留まるため、思弁的実在論(SR)の理論家はこれを低次な表現だと斥けうる。だがそのことは、大抵の異世界もので未発達どころか壊滅的とすら見受けられるジャーナリズムよりも秘教的サロンがその思弁には似つかわしい一事も含め、いずれも煩雑な言葉を介さない(からこその)実在との邂逅を理想とする以上、この線引きの身振りそのものが実のところ、異世界転生もの内部での閉じられた上流志向――「与太郎」な種族と違い高貴な我々は真の実在にありつける云々――に因ることを否定するに充分でない。この意味で千葉雅也がSRをサブカルと呼ぶことは首肯できる。
ついでながら――。現在流通している異世界転生ものの多くは、如何ともし難かった前世の不遇や欠如を挽回するかのごとき無双ないし見返りの体験を骨子とする傾向があるとの指摘が幾度か為されている。だとすれば、それはまずもって、マックス・ヴェーバー謂うところの「資本主義の精神」が見せるさもしい夢であり、その夢は資本主義的統治に都合のいい道徳の涵養をもたらす。落合の場合、現実に規定され抱えざるを得ない煩悶を迅速に突破解消できる処方箋を知っているかに振舞うことで支持を得ているのだろう。加えて、先の討議で指摘されていた「絶滅論の流行」とも無縁でない近年の思潮には、諸々の人間的限界を一挙に超出する転換後もしくは転生先でチート・キャラたらんと夢想しいまのうちにそちらへ宝を積んでおく徳高き労働――課金またはMOD? いずれにしろこの仕込みこそ意味の希求では?――が含まれていないかが一度検証されてもいいのではないか。
「「ポスト」をめぐって――「後期印象派」から「ポスト・トゥルース」まで」(『新潮』2月)において、蓮實重彥は19世紀末ごろからいまなお「無自覚な集団的傾向」が接頭辞Postに担わせている「殺戮機能」について語っている。敷衍していえば、この接頭辞をある対象に付してみなが口にすることで以てひとはその対象を既に殺戮されたものと見做し、かつ衆目の前へたやすく引っ立てる、つまり適度にいいように使い回すことができる。この否定の符牒とともに示すなら、都度いいように扱われるその対象を、だが互いにわかった気のままそれ以上触れずに済ますべきものと安心して流しておけばよい。だとすれば、「その瞬間に聴衆をふとわかったような気持ちにさせはするものの、じつは見るはしから忘れさせてしまいもする邪悪な装置」に冒頭言及するこの講演は件の接頭辞と機能的に近しいものを指示して始められていたと知れる。
だがここでより興味深いのは、「ポスト・トゥルース」なる語を介し、『物語批判序説』以来の終焉の主題が「フェイク・ニュース」的なものへ繋げられたことだろう。とは、いかに過激な加速主義者であっても転生に至っていないからこそ終末への加速を煽っている以上、曖昧に対象を死に体と化さしめるポストの唱和のごとく、いまなおみずからがそこにいる現実を顧みる必要もない前世の残滓のように流し、わかったような口吻で済ます心地よさの共有があちこちで図られる際、その担保となる肝腎の転生先としてはどうやら概ね異世界に依拠せざるを得ないと思しいからだ。
「生産の時代が終わる」云々の多幸感に包まれていたかつてのポストの言説は、人類最後の政治形態たる自由民主主義の勝利が「歴史の終わり」として華々しく宣言されるまでの、歴史を手早く死に体として扱う過渡的な加速の物語だったとして、しかしその終焉に際し目的を果たせず、みずからも曖昧にポストの殺戮機能の犠牲となる。かくして終焉の到来が改めて引き延ばされたとき、ティールによる「自由と民主主義の両立不能」宣告から振り返るに、両者の結婚‐成熟なる一定程度正史めいた裏打ちを伴っての、ポストを煽る物語の加速的肥大化に代わり、悟り澄ましたうえでの「厨二病」的想像力によるそれが幅を利かしてきたといえるか。ラブクラフトであれトールキンであれ、偽史作家にほかならない。
ランドの「暗黒啓蒙」に熱狂したスティーヴ・バノンが「フェイク・ニュース」をばらまいたのは、啓蒙≒「トゥルース」に対する暗黒≒「ポスト」の符牒の拡散によるカウンターを企図してのことで、さらにその寄与を得て大統領に就任したトランプはといえば啓蒙≒「トゥルース」志向のジャーナリズムを否定的に「フェイク・ニュース」と呼んで流す心地よさに浸る。むろん、「「フェイク・ニュース」産業の問題は、いまなお充分につきつめられてはいない「トゥルース」なるものを、曖昧に生き返らせてしまうことにあります」と指摘する蓮實は、オルト・ライトの類いを憂慮する啓発的な論客もまた「フェイク・ニュース」的であることを見逃していない。
ほら、自由と民主主義の離婚後の、「トゥルース」なる偽装結婚に対する自由の側からの「暗黒」的裏読みがもたらす、ポストへの加速と偽史的異世界との結合からなる「邪悪な装置」のスライドショーがまた今日も――。(ながはま・かずま=批評家)
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更新日:2019年2月3日
/ 新聞掲載日:2019年2月1日(第3275号)
転生しますか、ポストまで
――ある「無自覚な集団的傾向」について――
『現代思想』1月号の討議「思弁的実在論「以後」とトランプ時代の諸問題」のなかで小泉義之がマーク・フィッシャーの自殺と彼が抱えていた「リベラル左派に対する強烈な怨念」に触れているのを頷きながら読み、故人が残した好著『資本主義リアリズム』(堀之内出版・2018)の一節を思い出した。
そこではマイケル・マン監督『ヒート』におけるロバート・デ・ニーロが、「何事にも執着」せず、とりわけ危険な「熱」から柔軟に身を遠ざけ賢明に収益をあげる「企業投資家」に還元されていたが、はたしてそれでいいのか。紙幅の都合上詳細は削ったが、仮に『ヒート』に資本主義リアリズムの充満のみしか捉ええなかったとすれば、「超スピノザ主義」と評されるその戦略も心許なく思われる。あるいは、同書には「読むという行為そのもの」を拒む学生に関する記述が読まれるものの、スラヴォイ・ジジェク曰く「たまらなく読みやすい」文章を書くフィッシャーは、その遮断が厭われる「即時満足の果てしないフロー」に覆われた資本主義リアリズムの只中で「観る」ことに疲弊していたのか。いずれにしろ暗澹とする。
とまれ、この討議で話題にのぼる加速主義にも小粒から大粒まであるだろうが、そこでも名前が挙がっていた、テクノロジーで「魔法」を実現するメディアアーティストが「日本再興」のために「士農工商」の復活を説くのを読むに、多かれ少なかれ加速主義的な志向が夢見るのは、一見中世ふうだが没歴史的に多種多様な風習や種族が棲み分けられた「異世界」――シーステディング構想でも知られるシリコンバレーにおける加速主義者ピーター・ティールなど、いわゆるオルト・ライトにもファンが多いJ・R・R・トールキン的な――に転生しての無双なのではないか。H・P・ラブクラフトへの偏愛でも知られるニック・ランドも「死と遣る」(『現代思想』1月)では「ドラゴンに乗るドワーフのように」なる到底巧みといえない直喩を用いているが、彼らは総じて、加速のはての技術的特異点における転生のごとき大転換を期待するわけだ。
踏まえるべきは、文芸誌はいざしらず巷では異世界転生ものなど掃き捨てるほどあるように、落合陽一の発想は――「いまのエリート層って、みんな内心」これと同様なのではと小泉は疑っているが、恐らくエリートに限らず――ありふれており、「士農工商」が拙いなら、エルフやらオークその他で適当に言い換える方が「魔法使い」にはふさわしいくらいに考えているだろうことだ。なるほど、この種の物語の主人公は転生後能力や属性面で人間を超える――トランス/ポスト・ヒューマン?――場合があるものの、思考や認識は概ね人間主義的に留まるため、思弁的実在論(SR)の理論家はこれを低次な表現だと斥けうる。だがそのことは、大抵の異世界もので未発達どころか壊滅的とすら見受けられるジャーナリズムよりも秘教的サロンがその思弁には似つかわしい一事も含め、いずれも煩雑な言葉を介さない(からこその)実在との邂逅を理想とする以上、この線引きの身振りそのものが実のところ、異世界転生もの内部での閉じられた上流志向――「与太郎」な種族と違い高貴な我々は真の実在にありつける云々――に因ることを否定するに充分でない。この意味で千葉雅也がSRをサブカルと呼ぶことは首肯できる。
ついでながら――。現在流通している異世界転生ものの多くは、如何ともし難かった前世の不遇や欠如を挽回するかのごとき無双ないし見返りの体験を骨子とする傾向があるとの指摘が幾度か為されている。だとすれば、それはまずもって、マックス・ヴェーバー謂うところの「資本主義の精神」が見せるさもしい夢であり、その夢は資本主義的統治に都合のいい道徳の涵養をもたらす。落合の場合、現実に規定され抱えざるを得ない煩悶を迅速に突破解消できる処方箋を知っているかに振舞うことで支持を得ているのだろう。加えて、先の討議で指摘されていた「絶滅論の流行」とも無縁でない近年の思潮には、諸々の人間的限界を一挙に超出する転換後もしくは転生先でチート・キャラたらんと夢想しいまのうちにそちらへ宝を積んでおく徳高き労働――課金またはMOD? いずれにしろこの仕込みこそ意味の希求では?――が含まれていないかが一度検証されてもいいのではないか。
「「ポスト」をめぐって――「後期印象派」から「ポスト・トゥルース」まで」(『新潮』2月)において、蓮實重彥は19世紀末ごろからいまなお「無自覚な集団的傾向」が接頭辞Postに担わせている「殺戮機能」について語っている。敷衍していえば、この接頭辞をある対象に付してみなが口にすることで以てひとはその対象を既に殺戮されたものと見做し、かつ衆目の前へたやすく引っ立てる、つまり適度にいいように使い回すことができる。この否定の符牒とともに示すなら、都度いいように扱われるその対象を、だが互いにわかった気のままそれ以上触れずに済ますべきものと安心して流しておけばよい。だとすれば、「その瞬間に聴衆をふとわかったような気持ちにさせはするものの、じつは見るはしから忘れさせてしまいもする邪悪な装置」に冒頭言及するこの講演は件の接頭辞と機能的に近しいものを指示して始められていたと知れる。
だがここでより興味深いのは、「ポスト・トゥルース」なる語を介し、『物語批判序説』以来の終焉の主題が「フェイク・ニュース」的なものへ繋げられたことだろう。とは、いかに過激な加速主義者であっても転生に至っていないからこそ終末への加速を煽っている以上、曖昧に対象を死に体と化さしめるポストの唱和のごとく、いまなおみずからがそこにいる現実を顧みる必要もない前世の残滓のように流し、わかったような口吻で済ます心地よさの共有があちこちで図られる際、その担保となる肝腎の転生先としてはどうやら概ね異世界に依拠せざるを得ないと思しいからだ。
「生産の時代が終わる」云々の多幸感に包まれていたかつてのポストの言説は、人類最後の政治形態たる自由民主主義の勝利が「歴史の終わり」として華々しく宣言されるまでの、歴史を手早く死に体として扱う過渡的な加速の物語だったとして、しかしその終焉に際し目的を果たせず、みずからも曖昧にポストの殺戮機能の犠牲となる。かくして終焉の到来が改めて引き延ばされたとき、ティールによる「自由と民主主義の両立不能」宣告から振り返るに、両者の結婚‐成熟なる一定程度正史めいた裏打ちを伴っての、ポストを煽る物語の加速的肥大化に代わり、悟り澄ましたうえでの「厨二病」的想像力によるそれが幅を利かしてきたといえるか。ラブクラフトであれトールキンであれ、偽史作家にほかならない。
ランドの「暗黒啓蒙」に熱狂したスティーヴ・バノンが「フェイク・ニュース」をばらまいたのは、啓蒙≒「トゥルース」に対する暗黒≒「ポスト」の符牒の拡散によるカウンターを企図してのことで、さらにその寄与を得て大統領に就任したトランプはといえば啓蒙≒「トゥルース」志向のジャーナリズムを否定的に「フェイク・ニュース」と呼んで流す心地よさに浸る。むろん、「「フェイク・ニュース」産業の問題は、いまなお充分につきつめられてはいない「トゥルース」なるものを、曖昧に生き返らせてしまうことにあります」と指摘する蓮實は、オルト・ライトの類いを憂慮する啓発的な論客もまた「フェイク・ニュース」的であることを見逃していない。
ほら、自由と民主主義の離婚後の、「トゥルース」なる偽装結婚に対する自由の側からの「暗黒」的裏読みがもたらす、ポストへの加速と偽史的異世界との結合からなる「邪悪な装置」のスライドショーがまた今日も――。(ながはま・かずま=批評家)
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