論潮
近年の汎ヨーロッパ規模の「反動」的傾向を追いながら、それを第二次大戦前からの歴史的射程のなかで捉え直すフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』(新泉社・2018)を読めば、これを参照し舞台を日本に移した仕事の必要性を思うが、それは本欄の性格と異なるので、筆者の見解もまじえ本書を敷衍しつつ、別のことを論じたい。
「夕べの国」とそのライヒReich概念は、現在ヨーロッパの新右翼が「大空位時代」なる現状認識とともにその克服のため大いに依拠するところとなった。ギリシャとローマの遺産を継承防衛する、民族及び文化的「伝統」をそなえた「夕べの国」にアイデンティティを賭けるため、新右翼はこれを脅かす時々の「異物」の排外に努め、またアメリカ文化をも唾棄している。
故郷を遠く離れた移民が同化せず特殊な文化を濃厚に保持しているのを、出自の土地から離れてもいないのに自文化を見失い「伝統」の復興を唱える新右翼は嫉妬交じりに蔑視するが、それはみずからが一方でそれを憎悪しているはずの先進的で啓蒙された立場に既にあるとの自負に拠る。かくしてひとは「異物」の享楽に嫉妬しその頽廃を蔑視する。他方、アメリカ文化の「普遍主義」はそれ自体アイデンティティとして「無」であるが故に寛容の名のもと特殊文化を解消する脅威にあたり、またその文化的空疎故に頽廃と見做される。にもかかわらず新右翼がピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』に夢中となり、殊の外テンションを上げる際にはザック・スナイダー監督『300』の超人的スパルタ軍団に自己投影し、そこから世界観やら文化の意匠を借用するとき、彼/女らが誇る「伝統」はまさにアメリカ――ある映画に「歴史も物語も持たないアメリカ人はよそにそれらを求め、買い漁る」との台詞があったと記憶する――を介してのコスプレにすぎずその故郷喪失ぶりは明瞭となる。かくしてひとは「無」の頽廃を蔑視しつつも無自覚か問わずその享楽を嫉妬する。
ここで本書同様カール・シュミットに倣うなら、前者が「現実の敵」で後者が「絶対的な敵」に該当する。「現実の敵」に対する攻撃は通常防衛的なもので、領土からの物理的な追放や撃退で以て解決としうる関係性を保つが、「絶対的な敵」はある種の「最終解決」的制裁を下すべき、存在そのものが認められない犯罪者へと差別化される。シュミットは第二次大戦後に連合国側がその「普遍主義」においてドイツを「絶対的な敵」――これは「普遍主義」の専売特許でないものの両者の結合により必然的に「人類の敵」にまで至る――に措定し徹底的な「過去の克服」を科したと捉えた。比較的近年ではこの理論を承け、J・W・ブッシュ大統領治下でのアメリカ主導の「悪の枢軸」や「テロとの戦い」――地球上どこにいようとも処罰し殲滅する!――が「人類の敵」との「正戦」として分析されている。
さて、アメリカ文化そのものの指弾など稀な現在の日本にあって、けれども性別問わずそこはかとなくBitch めいた頽廃がわずかに嗅ぎ取れるところの半(?)蔑称「リア充」とは縁遠いと見做され、以てより嘲笑されがちだった在特会的または「ネトウヨ」的視角からすれば、絓秀実が『タイムスリップの断崖で』(書肆子午線・2016)で喝破した「鶴橋の焼肉」の享楽も頽廃に映る。いわゆるヘイトスピーチとは「異物」の享楽‐頽廃への道徳的呪詛であり、さしあたりそれを「現実の敵」と見做してのものだ。
しかし、この呪詛は「現実の敵対関係」を煽り立て平和を壊乱する以上、「みんな違ってみんないい」を「表面上客観的に達成する」のに奉仕する、したがって「敵あるいは敵対関係については語ってはなら」ない「普遍主義」においての唯一にして「絶対的な敵」による犯罪たらざるを得ない(『パルチザンの理論』)。そのため、とりわけ「普遍主義」の祭典たるオリンピックや万博の開催をひかえ、この「絶対的な敵」のめだった活動は少なからず沈静化へ向かうとしても、だがいずれにしろ「現実の敵は存在しない(故にその存在を指示するのは間違っている)」と否定するだけではもはや済まない。
「普遍主義」の「無」の享楽‐頽廃に対する呪詛に関しては、日本におけるカルト的復古主義と目される団体や人物の名をだれしも思い浮かべる。「絶対的な敵」と認定された者は「最終解決」を巡る争いにおいて、みずからもその相手を同様に扱わねばならないとばかりに、彼/女らにおいて「普遍主義」が「絶対的な敵」――空間的限定はあるにしろ――に措定し返された。その場合、「絶対的な敵」は「異物」でなく「昨日までの兄弟の中に」こそあり、例えばWGIP洗脳なる妄言の流布も、みずからを「絶対的な敵」に貶めた許すまじき「絶対的な敵」を同定せんとする欲望に支えられている。「日本の新右翼」がもっぱら改憲による「覚醒」をその「最終解決」と捉えているのは周知のとおりだ――尤も、彼/女らにしてもオリンピックや万博排撃を唱えるどころかほぼ歓迎一色であるほどに「無」の享楽‐頽廃を嫉妬し、そのおこぼれで国威発揚も賄わんとしているのだが。
けれども「普遍主義」が資本の文明化作用と不可分離だとすれば、遅くとも90年代以降それはニヒリズムへと傾斜していったのではないか。政治はおおまかに公正さの是正へと還元され、テロなど大きな「人類の敵」との闘争を除けば、いずれミクロ/マクロな分配を巡る改革が頻りと要請され宣伝された。それから「失われた30年」を経て、なお「普遍主義」以外の「正義」を欠いた現在、そこに「現実の敵は存在しない」が故に、いまや政治的に正しい「ファースト」を巡る競争(本欄1月掲載回参照)は、各処で小さな「人類の敵」の認定を下しあう――彼奴こそ差別主義者で社会を不穏にする危険因子だ等々――に至るまでまま亢進する――是非は措くが、最近ではシス女性とトランスジェンダーのあいだの加害/被害及び差別問題がネット上で喧々諤々された――。「みんな仲良く」と「ファースト」を巡る競争は矛盾しないし、まさしく「普遍主義」の内部でその競争が、むろん個別に応じ厳しく批判すべき種々の事柄を、「昨日の兄弟の中」からいまだ残存する「人類の敵」を炙り出す「正戦」にまで「炎上」せしめるのだ。
この競争は際限なき「普遍主義」における内戦へと転化し、そこで既得権益に乏しく、あるいはその剝奪に脅える者は、「人類 の敵」を指弾し以て「ファースト」たるべき弱者のアイデンティティ――いかにみずからが正常 で過誤なく、良き「人類」であるか――に固執する。その際重要なのは、「異物」のであれ「無」のそれであれ、享楽‐頽廃が悪 として「表面上客観的に」否定されており、その限りでこの競争が先述した新右翼らの闘いへと同調していくことだ。外国人労働者や未就労者におけるそれもたやすく内戦の火種となるごとく、享楽‐頽廃を逸失した、より「らしい」弱者が「ファースト」への優先順位を高め、「人類」は安心平和な公共圏へ導かれる。つまりここではBitchな弱者など語義矛盾で、「ファーストの敵」ですらありうるのだが、このことは「普遍主義」の内部からの自壊と併行している。
来るオリンピックや万博に向けた浄化もかくして進むだろう。その公共圏は、充分な正規労働者の配置含めた労働環境への予算配分をケチり、あまつさえ非正規労働者やボランティアだらけの現場で過重労働を強いておきながら、「不適切行為 」が起きるたび厳罰的制裁で以て対処すれば社会的責任を果たしたこととなり、かつやる気溢れる素敵で正常 な人材がおのずから集うと想定する、「維新の会」的とも評しうる「人間観」――享楽‐頽廃する弱者やバカどもは端的に存在そのものが許されない反社会因子にひとしい――と親和的だ。(ながはま・かずま=批評家)
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更新日:2019年3月3日
/ 新聞掲載日:2019年3月1日(第3279号)
「普遍主義」における「内戦」――安心平和な公共圏への自壊――
近年の汎ヨーロッパ規模の「反動」的傾向を追いながら、それを第二次大戦前からの歴史的射程のなかで捉え直すフォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』(新泉社・2018)を読めば、これを参照し舞台を日本に移した仕事の必要性を思うが、それは本欄の性格と異なるので、筆者の見解もまじえ本書を敷衍しつつ、別のことを論じたい。
「夕べの国」とそのライヒReich概念は、現在ヨーロッパの新右翼が「大空位時代」なる現状認識とともにその克服のため大いに依拠するところとなった。ギリシャとローマの遺産を継承防衛する、民族及び文化的「伝統」をそなえた「夕べの国」にアイデンティティを賭けるため、新右翼はこれを脅かす時々の「異物」の排外に努め、またアメリカ文化をも唾棄している。
故郷を遠く離れた移民が同化せず特殊な文化を濃厚に保持しているのを、出自の土地から離れてもいないのに自文化を見失い「伝統」の復興を唱える新右翼は嫉妬交じりに蔑視するが、それはみずからが一方でそれを憎悪しているはずの先進的で啓蒙された立場に既にあるとの自負に拠る。かくしてひとは「異物」の享楽に嫉妬しその頽廃を蔑視する。他方、アメリカ文化の「普遍主義」はそれ自体アイデンティティとして「無」であるが故に寛容の名のもと特殊文化を解消する脅威にあたり、またその文化的空疎故に頽廃と見做される。にもかかわらず新右翼がピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』に夢中となり、殊の外テンションを上げる際にはザック・スナイダー監督『300』の超人的スパルタ軍団に自己投影し、そこから世界観やら文化の意匠を借用するとき、彼/女らが誇る「伝統」はまさにアメリカ――ある映画に「歴史も物語も持たないアメリカ人はよそにそれらを求め、買い漁る」との台詞があったと記憶する――を介してのコスプレにすぎずその故郷喪失ぶりは明瞭となる。かくしてひとは「無」の頽廃を蔑視しつつも無自覚か問わずその享楽を嫉妬する。
ここで本書同様カール・シュミットに倣うなら、前者が「現実の敵」で後者が「絶対的な敵」に該当する。「現実の敵」に対する攻撃は通常防衛的なもので、領土からの物理的な追放や撃退で以て解決としうる関係性を保つが、「絶対的な敵」はある種の「最終解決」的制裁を下すべき、存在そのものが認められない犯罪者へと差別化される。シュミットは第二次大戦後に連合国側がその「普遍主義」においてドイツを「絶対的な敵」――これは「普遍主義」の専売特許でないものの両者の結合により必然的に「人類の敵」にまで至る――に措定し徹底的な「過去の克服」を科したと捉えた。比較的近年ではこの理論を承け、J・W・ブッシュ大統領治下でのアメリカ主導の「悪の枢軸」や「テロとの戦い」――地球上どこにいようとも処罰し殲滅する!――が「人類の敵」との「正戦」として分析されている。
さて、アメリカ文化そのものの指弾など稀な現在の日本にあって、けれども性別問わずそこはかとなく
しかし、この呪詛は「現実の敵対関係」を煽り立て平和を壊乱する以上、「みんな違ってみんないい」を「表面上客観的に達成する」のに奉仕する、したがって「敵あるいは敵対関係については語ってはなら」ない「普遍主義」においての唯一にして「絶対的な敵」による犯罪たらざるを得ない(『パルチザンの理論』)。そのため、とりわけ「普遍主義」の祭典たるオリンピックや万博の開催をひかえ、この「絶対的な敵」のめだった活動は少なからず沈静化へ向かうとしても、だがいずれにしろ「現実の敵は存在しない(故にその存在を指示するのは間違っている)」と否定するだけではもはや済まない。
「普遍主義」の「無」の享楽‐頽廃に対する呪詛に関しては、日本におけるカルト的復古主義と目される団体や人物の名をだれしも思い浮かべる。「絶対的な敵」と認定された者は「最終解決」を巡る争いにおいて、みずからもその相手を同様に扱わねばならないとばかりに、彼/女らにおいて「普遍主義」が「絶対的な敵」――空間的限定はあるにしろ――に措定し返された。その場合、「絶対的な敵」は「異物」でなく「昨日までの兄弟の中に」こそあり、例えばWGIP洗脳なる妄言の流布も、みずからを「絶対的な敵」に貶めた許すまじき「絶対的な敵」を同定せんとする欲望に支えられている。「日本の新右翼」がもっぱら改憲による「覚醒」をその「最終解決」と捉えているのは周知のとおりだ――尤も、彼/女らにしてもオリンピックや万博排撃を唱えるどころかほぼ歓迎一色であるほどに「無」の享楽‐頽廃を嫉妬し、そのおこぼれで国威発揚も賄わんとしているのだが。
けれども「普遍主義」が資本の文明化作用と不可分離だとすれば、遅くとも90年代以降それはニヒリズムへと傾斜していったのではないか。政治はおおまかに公正さの是正へと還元され、テロなど大きな「人類の敵」との闘争を除けば、いずれミクロ/マクロな分配を巡る改革が頻りと要請され宣伝された。それから「失われた30年」を経て、なお「普遍主義」以外の「正義」を欠いた現在、そこに「現実の敵は存在しない」が故に、いまや政治的に正しい「ファースト」を巡る競争(本欄1月掲載回参照)は、各処で小さな「人類の敵」の認定を下しあう――彼奴こそ差別主義者で社会を不穏にする危険因子だ等々――に至るまでまま亢進する――是非は措くが、最近ではシス女性とトランスジェンダーのあいだの加害/被害及び差別問題がネット上で喧々諤々された――。「みんな仲良く」と「ファースト」を巡る競争は矛盾しないし、まさしく「普遍主義」の内部でその競争が、むろん個別に応じ厳しく批判すべき種々の事柄を、「昨日の兄弟の中」からいまだ残存する「人類の敵」を炙り出す「正戦」にまで「炎上」せしめるのだ。
この競争は際限なき「普遍主義」における内戦へと転化し、そこで既得権益に乏しく、あるいはその剝奪に脅える者は、「
来るオリンピックや万博に向けた浄化もかくして進むだろう。その公共圏は、充分な正規労働者の配置含めた労働環境への予算配分をケチり、あまつさえ非正規労働者やボランティアだらけの現場で過重労働を強いておきながら、「
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