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論潮
更新日:2019年4月28日 / 新聞掲載日:2019年5月3日(第3287号)

メビウスの輪のなかの陣地戦――(日本における)ポピュリズム運動の限界――

近年「右」の台頭に抗すべく期待が寄せられているのは「左」からのポピュリズムであり、日本でもここ数年の関連書籍に続き今年はシャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』、エルネスト・ラクラウ『ポピュリズムの理性』(ともに明石書店)が刊行されている。その際世界各地での「有望」な事例が参照されるとして、それで以て日本で既に興った事例の総括を怠るべきでない。とは、昨今のそれは反緊縮が主流とはいえ、官なる「上」に抗して「下」から支持された民主党政権の誕生は左派ポピュリズムだったし、「アベ政治」に反対する国会前の「野党は共闘」運動及びそれを前後する彼是も同様の流れを汲んでいた。

「我ら」と「彼ら」の敵対性に拠り民主主義の主体を築くラクラウ&ムフのポピュリズム論はかねてから知られており、紙幅の都合もあるため詳述は措き、ここで小泉義之『あたかも壊れた世界――批評的、リアリズム的』(青土社・2019)から次に纏める記述を援用する。メビウスの輪の出現にあって最初に紙をネジルその出来事により紙片世界は一変し、この輪のなかでネジレなる事件がその全体に蔓延するとすれば、このことを犯罪発生マップに関連づけ、犯罪そのものでなく、それを「地図にマッピングするというそのことが事件」だと小泉は指摘する。つまり、それ自体は極々自然な成り行きであるかに為されるマッピングこそが偏在するネジレなのだ。
3月にニュージーランドで起きたモスク銃乱射事件の犯人は過去、イスラム過激派によるテロに衝撃を受け、スウェーデンで命を落とした少女をはじめとするその犠牲者の名を犯行に用いた銃器に書き込んでいた。むろんそれが最初にして唯一でなく、さらに遡り出来事の痕跡を辿りうるとしても、テロの報道に接して彼の世界はネジれ――We are __!――、いたいけな被害者とともに彼/女らを脅かす敵を、それぞれ白人とイスラム移民としてマッピングしたとの想定は可能だろう。その発言から彼が右派ポピュリズムに親和的なのは疑いないとして、では、この「彼ら」に左派ポピュリズムはいかに対処するのか。
例えばある区域が「将来も犯罪事件が発生するリスクの高い場所としてマッピングされ」るとは、関連情報がネット上で登録されるのに限らず、その区域の監視システムやセキュリティ保障の強化等々において為される。そして件の事件直後、ニュージーランドとオーストラリアで消費者保護のため法的手続きを介すことなく複数のウェブサイトへのアクセスが遮断され、世界的にも現在さらなる検閲及び規制強化が目論まれていることもマッピングに含めてよい。「我ら」と「彼ら」の峻別に意識的なニュージーランド首相の事件に対する対応を賞賛する声が一方で検閲を容認ないし黙認するとき、マッピングはあたかも自明の対処のごとく進行するものの、それこそがネジレなのだ。けれども「まともな人」は「監視される場所を通過して疚しくない良心を贈与されることによって、自分が疚しいものではないことを保証してもら」えるのを歓迎すらし、それがネジレであると知ることはない。そんなところ見られても(監視カメラ)、そんなところ見なくても(ウェブサイト)、疚しくなければ「我ら」はなんら困らない、そんなことでWe are __の連帯に与しない君は「彼ら」だ――かくしてマッピング‐索敵は機能し、「我ら」が相互に安全を保証しあうなかで功利主義的に幸福の総量は増大する。
この類いの事例は日本でも珍しくなく、例えばダウンロード違法化拡大方針は問題の矮小化も手伝ってマッピングに利用されている。あるいは16年のヘイトスピーチ解消法成立時、Twitter上で差別発言の「通報」を推奨してきた人々はしばしば法案への反対に「そんなに差別がしたいのか」と一笑に付す態度で臨んだものの、その翌年共謀罪法案が国会に提出されるに至り、慌ててこれは罪を犯すつもりのない「一般人」も無関係でないと説いた際には「なにか後ろぐらいことがあるのか」と哂われる羽目に陥った。この場合、「普通に仲良くしていれば、ヘイトスピーチ解消法の適用と無縁だし、むしろ平和な暮らしを得るはずなのだから、いわんや共謀罪においてをや」といずれもオリンピックを名目に快適な環境整備を志向する両法案に反対しなかった者こそ「自分が疚しいものではないことを保証してもらう」のに通報{●2字圏点}にも積極的な最も善良な市民として筋を通したこととなるだろうか。共謀罪法案反対運動がほぼ盛りあがらなかった所以はここにある。疚しくなければ云々の言は、これまで散々差別者がマイノリティに向けてきた脅迫でもあり、警察の言葉でもあった。

以上を鑑みるに、ポピュリズム論とメビウスの輪のモデルは接合できる。ラクラウ&ムフによれば、「我ら」民主主義{●ポピュリズム}の主体は個々の諸要求を代表する空虚なシニフィアンのもとで構成され、例えば一見相反する保守主義と新自由主義とをそれで結合したマーガレット・サッチャーも成功したポピュリストに数えられる。ネジルことで通常交わらない表と裏を繋げたメビウスの輪にそれを見立てれば、「潜在的には終わりのない等価性の連鎖」を実現する空虚なシニフィアンはその繋ぎ目に該当する。これはただ複数のイデオロギーからなる主体をひとつの繋ぎ目で構成することの謂いに留まらない。ラクラウが認めるとおり、「彼ら」の主体化に「我ら」と同一の空虚なシニフィアンが採られ「我ら」と「彼ら」のあいだをそれが浮遊しもするなら、メビウスの輪は敵対する主体同士が同じ地平を共有しているモデルともなる。ポピュリズムは左/右よりも上/下の関係に依拠するとの指摘は既にあり、これを承けつつ下からの左の運動を模索するのが左派ポピュリズムと規定できるとして、その四象限はメビウスの輪のなかへ転化される。立場の違いは厳然と残るにしろ、それはメビウスの輪においてどこに立つかの違いで、位置により上下左右は異なって観測されるし、表と裏の区別も解消されないにもかかわらず実体的に決定できない。そしてそのなかで陣地戦{●ヘゲモニー闘争}を争うのがポピュリズム運動だ。アントニオ・グラムシが提唱した陣地戦の概念は、だが市民社会の成熟をその前提に置いており、中間団体の衰退を是認する近年のポピュリズム運動の陣地戦は専ら広報戦に収束せざるを得ず、それは典型的なマッピングにあたる。
とまれ、日本にあって左派ポピュリズム運動の限界は極めて見やすい。とは、さまざまなアイデンティティやイデオロギーを等価性の連鎖に纏めあげ、下からの国民運動を支える「空虚な場所を具現する安定した象徴」と聞いて天皇を想起しない方が難しく、事実近年左派における天皇への依拠は甚だしいからだ。ここでいずれにも浮遊する天皇を繋ぎ目に左や下や表はメビウスの輪よろしく右や上や裏と同じ地平に組み込まれており、この民主主義{●ポピュリズム}の主体――We are __――は天皇を俟って可能となるも、ポピュリズムの理性はこれを批判できない。
だとすれば、ポピュラリティを得ている左派の広報にあって、一部でアリバイ程度に口にされるほかは、天皇制批判が到底共有されないどころか敵の言説とすら見做される始末で、またそのネジレが「そんなこと」として黙認されるのも宜なるかな――ましてや環境整備を伴っての疚しくない良心の贈与をこの象徴が果たしてきたならなおのこと。敗戦後に挙行された巡幸先の焼跡が遺体含めてあらかじめ最優先で清掃されていることを掴まえ、さる雑誌は「天皇はホウキである」と述べたが、とりわけ東日本大震災以降、より洗練された仕方で天皇は国民の邪な心と公共圏、時代までも掃き清め一新し連帯を促す、別言すれば「不安になり、次いで安心する。イノセンスを再認する」ための「ホウキ」の役目――象徴の務めとはこの謂いでもある――を果たしてきた。そうして回復された安心またはイノセンスは醜悪にネジレている。
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