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読書人紙面掲載 特集
更新日:2019年6月14日 / 新聞掲載日:2019年6月14日(第3293号)

長濱一眞長編時評(上半期を振り返って)
啓蒙の弁証法?
――「一億総活躍社会」にようこそ

第2回
明日の啓蒙?

けれども、最近の事例を挙げるなら、2018年から続く全日本建設運輸連帯労組関西地区生コン支部に対する官憲の弾圧とその一方的な報道などを鑑みるに、あるいはそも労組が既得権益団体と評されて既に久しいように、いまや労働者なる観念は普遍性を体現しておらず、したがってそれは「人生100年計画」で想定された「ひとかどの」市民なるものと当然ながら合致していない。もちろん、労組が些かの問題も抱えていないわけではないし、その一部は後述する。だがここでまず確認すべきは、現在の情勢において、生産及び交換が形成する労働の平等性なる観念フィクションが擬制として斥けられていることだ。そして、このことは啓蒙とも関係する。とは、かつて「ヘーゲルの弟子」を自称してカール・マルクスが論じた抽象的人間労働は、観念フィクションだといえば確かに観念フィクションにほかならないからであり、経験的には具体的な業務の種別差や能力の優劣差が明瞭に現象し、さらに性的、民族的そのほか多様な差異がさまざまな展開を見せるのは否定し難い。市民社会における労働に依拠した普遍性、及び人間の本質なるものは、これを抑圧し、コード化し、統制するものとして解体される、否、お望みならば脱構築されたといっても差支えない。恐らく「68年」以降、敷石の下から浮上したかのごとき多様な差異にまさしく照らされ、、、、本質はあられもなく蒙昧な虚構フィクション、旧弊な既得権益のよすがへと転落していった。
この傾向はいまも継続しており、それに対する反動すらもがこの転換を踏襲しつつ起こっている。振り返ってみれば、その周辺には酷く保守的で差別的な言辞を吐く国会議員や「応援団」が集まっているのは周知であるにもかかわらず、安倍晋三政権がいまも保持するスローガン「一億総活躍社会」とともに当初掲げられた「Shine!」――一部では「しね」と読まれたことで知られる――とは啓蒙Enlightenmentの謂いではなかったか。見やすい事例をひとつ挙げるなら、2013年の国連総会一般討論演説で「女性にとって働きやすい環境をこしらえ、女性の労働機会、活動の場を充実させることは、今や日本にとって、選択の対象となりません。まさしく、焦眉の課題です」と安倍は発言し、これを受け外務省もまた「「女性の力」は、社会において活かしきれていない最大の潜在力です」と記し、首相官邸には「すべての女性が輝く社会づくり本部」が設置され、内閣府の女性活躍推進法のインターネット・サイトがことさら「「見える化」サイト」と銘打たれているとき、「女性の力」は――これらの動向辺りで、しばしば「女性ならではの視点や感性」が謳われたことからも瞭然たるとおり――等価で均質な抽象的人間労働なるまやかしに還元し計ってはならない、具体的かつ有用に発揮され「輝く」べき「潜在力」であり、なんとなれば既得権益を打破する革新性も期待されている。もちろん「女性」なるカテゴリーは多様性を形成する唯一のものでないし、新たな「潜在力」――「生産性」ならぬ――が例えばLGBTなどに見出されることも充分ありうる。いずれにしろ、福祉国家体制と重なる「一億総中流社会」を間違いなく念頭に置き、このレジームを脱却し、刷新し、超克することが目論まれているだろう「一億総活躍社会」なるスローガンにあって、活躍する「一億」の「ひとかどの」市民にはかつての「中流」でなく、むしろ国民的一体性にも通ずる「総中流」なるものを早々に幻想と認めるほどまでに啓蒙を経て、たくましく生存戦略あるいは成長戦略を遂行していく人材が想定されている。かつて工場労働的な規律訓練が、またナショナリズムが批判されてきたとすれば、断わるまでもなく、ここで啓蒙は反革命的に横領されている。そして、かくなる啓蒙は「選択の対象となりません」、別言すればこの道しかなく、不可逆で「焦眉の課題」なのだ。

労働にもとづく平等性? 国民としての一体性?――そんなものはエビデンスが得られない戯言にすぎない云々程度のことは事実、いまやだれでも口にできる。然るに、例えば統計的なデータ――そこでは「男性/白人ならでは」に比して「女性/黒人ならでは」等々の結果が導き出される――を根拠とし差別を正当化する潮流が注目を集める一方で、これとは逆に、生物学的実体性にもとづく区別に拘泥し、ほかの人格を毀損してでも最優先で救済し保護すべき真の弱者を僭称する潮流も最近のネット上に確認できる。これら「不都合な現実」が促すのは、故ある――なにしろエビデンス付きの――差別ないし弱者認定だが、この類いの動向と決して無縁でない、けれどもさらに効率的に全面化し、より多角的なエビデンスに依拠して運営されるだろう啓蒙的統治制度が、社会信用システムであることは双方の注意を引いていない。

AIとビッグデータを駆使した「アルゴリズム的公共性」にとってかなめとなる社会信用システムについては、その先進国である中国を特に参照しての紹介が進んでいる。なるほど生物学的に決定された真の弱者なる規定はエビデンスとしては薄弱だし、あるいは仮に統計的に有意な「不都合な現実」が明らかとなったとしても、それにも結局は個人差があり、そもその結果からして社会構築的な要因が抜き難い以上、「男性/女性」などの生得的な種別差に還元して強調するのは差別だと指摘することは可能だ。これらはあまりに安易で短絡的だと評してもよい。では、SNSをはじめとするネット利用状況、銀行口座記録、職場や学校における業績評価や成績評価ならびにパワー・ハラスメントやセクシャル・ハラスメント、いじめなどの有無、監視カメラが設置されている公共施設のほか市街での振舞い等々、あまたのデータを収集総合し、これをもとに個々それぞれの社会活動を常時AIによって一律に点数化していく場合はどうか? そこでは民族的、性的その他属性如何によって同じ行為の評価が変わることはなく――AIは「無知のヴェール」を被っているかのごとくだ――、ひとの手がどうしても加わる局面で不公正なデータを作成した場合、厳しい処罰やペナルティが科されるものと想定する。ここに生ずる点数差を謂れなき差別と断定するのは難しい。算出される各自の点数は種々のエビデンスにもとづく、とにもかくにも故あるものだからだ。

当然ながら、社会信用システムにおいて個人はなにかしらの本質から演繹される存在でなく、女性や白人などのカテゴリーを特権的に実体化しているかぎり、なお本質主義から脱却できていないとすれば、それとは違って、時々刻々と蓄積更新される膨大な情報の束として扱われる。これに照らせば本質とはむしろ、それらニュートラルな情報の束から偏向的に一部を拡大解釈し、捏造した幻想だとすら見做しうるかもしれない。だとすれば、そこでは「再チャレンジ」も期されるだろうし、むろんその際生得的な属性が妨げとなることはない。社会信用システムでは市民は常時みずからのスコアをチェックでき、「格付け」が下がれば挽回することも可能だ――「人生一〇〇年時代構想」が「いくつになっても学び直しができ、新しいことにチャレンジできる社会」を志向するとおり。先に例示したように、信用度を判定するデータ項目が社会活動のさまざまな範囲を包括していき、さらに、一定の限度を超えた低ランクの「格付け」の者には、然々の公共インフラや民営サービスの利用が制限されるなどのペナルティが科せられ、また一定の高ランクの「格付け」に達してそれをある期間維持すればそれに応じた利益還元が図られるなどの仕様が実装されたとするなら、功利主義的に考えて、ひとは社会適応及び社会貢献に尽くすことが自己利益に直結することを知る。毎日でもスコアをチェックし以て、その都度我が社会活動を振り返り、とりわけ大きな変動が生じた際にはみずからを深く省みてその原因を分析し、「いくつになっても」伸ばすべきところを伸ばし、撓めるべきところを撓め社会との照応のなかで成長を怠らない、――かくして「人づくり革命啓蒙」は成る。ここでは、労働組合とは違うかたちで、各自が特定の組織における陶冶を介さず、もっぱら自己利益のみを考慮した活動と社会の公益とが相互に反映しあい、個と全とが、自己への配慮と社会への配慮とが即時的にかかわりあう。

とまれ、それまで品の悪さなどがあげつらわれてきた中国の都市部が、社会信用システムの導入により実際に「行儀がよくて予測可能な社会」へと変貌したとすれば、それこそまさしく啓蒙の成功と称されるのではないか。「Shine啓蒙!」には共謀罪法を筆頭とする監視管理の強化が不可避的に併行しており、日本においても社会信用システムの導入を当て込んだ宣伝や実験は始まっている。「一億総活躍社会」が実現するのは紛れもなく管理監視社会においてのみだ。

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