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更新日:2019年10月6日
/ 新聞掲載日:2019年10月4日(第3309号)
ブルジョア独裁の風景――「最高責任者」の消極的な無責任について
かねてより日本は国家の民営‐私営化が進行しており、故に国家機関たるはずの行政は「全体の奉仕者」から既になっておらず、資本に益するべく国民や外国人労働者を宛がうだけでなく、その資産を切売しレント・シークの便宜を図る卑しき「社会の一員 の巣窟と化していることは本欄で触れてきた。現今の資本主義にあって日本なる国家が増強しているとすれば、諸々の権限集中を図ってきたのみならず、「政治主導」する行政がむしろ家父的な国家経営――資本主義原理と緊張関係にある「全体」への再分配――の観点を率先して放棄し、特殊かつ特権的な私営企業機関のそれへと傾斜しつつあるからで、ために、かつての国民国家は半ば宗主国的に自由な資本が使用する植民地のごとき(私)財として扱われている。「アベ政治」批判が資本主義批判でもなければならない所以だが、とまれ、にもかかわらず「上級」「下流」やら種々の国民が概ね現状肯定に服し、逃げ場がないサーバントの自由に汲々と縋っているさまはやはり不気味ではある。
9月9日に千葉に上陸した台風16号による被災に際し、改めてそのことを考えざるを得なかったのは、これも以前から確認できたことであるものの、第二次安倍政権が自然災害及びその被災者支援に対し極めて反応が鈍く、しかし案の定そのことで支持率は下がらないどころか、直後の共同通信の世論調査では上昇してすらいたからだ。周知のとおり、家屋損壊等々の被害のみならず断水、停電、電波障害などの窮状を訴える被災者からのSNS投稿が注目され始めてから数日、安倍晋三及びメディアが最も時間を費やしたのは内閣改造に関する彼是であって、組閣翌日の12日にようやく記者団の質問に答え「復旧待ったなし」の掛け声に続けて安倍が述べたのは、「現場現場で、持ち場持ち場で全力を尽くしてもらいたい」だった。この「最高責任者」の消極的な無責任性は、「プッシュ型支援」など迅速な被災地への行政の直接介入の条件を整備してきたのがほかならぬ安倍政権なだけに、また今回の組閣後真っ先に目標として掲げた改憲において創設が目指される「緊急事態条項」も、ともかくも建前上は大規模災害にあたり行政によるより強力な対応が可能となるからとその必要を説いていたことなど鑑みるに留意していいし、またこの消極的な無責任に対する国民の反応も、災害対応の遅れや不備のため大いに叩かれた過去の政権の事例と比すならあまりに「お行儀がいい」。むろん、前者については、安倍政権が国会を長期間開かないこととともに、もはや「全体の奉仕者」から遠い企業――ちなみに、台風をひかえ交通機関が運休を告知するなかでの出社に関する業務連絡のタイプに即した企業診断になぞらえれば、「連絡なし」の「グレー企業」または「各自で判断をお願いします」の「クソ企業」に近いか――と化していることを以て一定の説明は可能だろう。だが後者は何故このブルジョア独裁に従順で、これをかくまで支持してしまうのか。
ここでその充分な答えは提示しえないが、ひとまず『思想』(9月)で特集されたミシェル・フーコーを参照してみたい。箱田徹「人民の回帰?」は、社会契約を結末としないその戦争‐内戦概念の検討において、フランス革命に至る「大規模な民衆反乱の前に、日常的に実践され、かつ容認されてきた民衆の違法行為」を見出し、「「政治」の概念を、抽象的・普遍的な正義をめぐる争いとは異なる次元で考察する」フーコーの姿勢を強調する。フーコーによれば、ミクロな戦争‐内戦としての17-18世紀の民衆の違法行為は、ブルジョア革命を経て次第に民衆が「プロレタリア化」し闘争の質が変わっていくのと併行して、脱政治化されるとともに監獄に収監すべき非行や犯罪の範疇に矮小化されていった。それは社会の名において処罰と矯正を要する道徳的な悪と見做されたのだ。だとすれば、いかなる「違法行為」も厭いみずからをそれから防衛されるべき市民と見做す昨今の日本国民の「お行儀のよさ」のなかで、有効な戦争‐内戦が悉く封殺されたかに触知し難いのは、この転換以降のブルジョア独裁にふさわしい光景と評しうる。
けれども他方で、諸々の違法行為に鷹揚なかつての封建制的風土の礼讃も、近代におけるそれらの回帰の待望も、ひいては「あらゆる犯罪は革命的である」云々のテーゼもフーコーからは導出すべくもない、このこともいわずもがなながら注記しておいてよい。まして、脱政治的な犯罪への転換は、封建制下の違法行為が総じて「あらたな合法性を求めてブルジョワジーがたたかう戦線のようなもの」を形成していったすえに生じたことに注意を向けるフーコーを差し置き、なお自由かつ脱イデオロギー的な実践 ( と称して非行ないし犯罪の奨励に甘んじるのは能天気にすぎる。戦争‐内戦は「あらたな合法性」を巡る権力闘争たりえなければ何程でもなく、フーコーも直言したごとくそれは「勝つために戦う」のでなければならない。ブルジョア道徳はそれとして批判すべきでありながら、これに抵触する犯罪を自由として礼讃しておけば済むわけでもない所以だ。
それにしても、メディアへの露出も人気取りも決して嫌いでない安倍が、「全体の奉仕者 ( 」の器でないとはいえ、災害に際して対策本部を設置し陣頭指揮を執って功を成し以て民から堂々たる喝采を浴びることに徹底して無関心であり、それを隠しもしないのは、だが、そのことを「全体」から咎められない「最高責任者」であり続けている事実ひとつ取っても、決して統治を放棄していることを意味しない。「グレー」か「クソ」かは問わず、この半ば企業機関化した行政の長は確かに国民にサービスを提供しそれなりの満足度を稼いでいる。恐らく民主党政権を念頭に、災害対策の類いに不備や失策は不可避で指弾 ( は免れえず、しばしば失態は真面目に取り組むほどまぬけに映るのなら、いっそ動かず前に出ないのがリスク・マネジメント上賢明だと安倍は判断しており、この消極性は同時に次のことにも資する。フーコーに倣っていえば、なるほど安倍政権はもはや人口を対象とした「安全」の保障に励まないものの、やはり安全と平和を提供しているのだ――飛来の恐れがないミサイルのためにJアラートを鳴らすのとこれは矛盾しない――。安倍にとって問題は、現に隅々まで安全 ( か否かよりも――現に好景気か否かよりも、とおなじく――その「感 ( 」であって、つまり安倍が宴会や内閣人事を優先させて「問題ない」以上は災害もまた「問題ない」程度なのだから、皆も同様に無関心で「問題ない」ばかりか、そうであれとのメッセージを波及せしめる。当然ながらこれには分断が伴う。しかし、善意のボランティアや地域コミュニティ含む「持ち場持ち場」にその対処を負わせた「現場」からの訴え ( が顧客 ( 全体の雰囲気を不穏にするに至れば、場合によっては切り捨て不可視化し、「安心してご利用いただける」日本をプレゼンテーションすることが、企業的な監視管理 ( であり、分断もこの統治のため利用される。事実、下請け先の「持ち場」で脱イデオロギー的に職域奉公に「全力を尽く」すサーバントへの「感謝」と併せて、魑魅魍魎からは「準備不足」など自己責任を咎める声が被災者に発せられた。安全と平和を脅かす「お行儀悪い」事態を「ある」から「ない」へ分離したうえで「全体」を再捻出するのに軽便な「風評被害」なる言葉も流布して久しいいま、公共圏に現われたなにがしかの抗議者は収監されないにしろ存在自体が「風評被害」と化し、そのとき消極的な無責任に徹する安倍は「風評被害」に屈しない「最高責任者」となるのだ。
来るオリンピックにおいても同様に安全と平和が提供されるだろうが、いつまでもかくなる監視管理 ( で遣り過ごせるはずもない。ブルジョア独裁に抗する戦争‐内戦はこれらを踏まえ、構想されなければならない。
9月9日に千葉に上陸した台風16号による被災に際し、改めてそのことを考えざるを得なかったのは、これも以前から確認できたことであるものの、第二次安倍政権が自然災害及びその被災者支援に対し極めて反応が鈍く、しかし案の定そのことで支持率は下がらないどころか、直後の共同通信の世論調査では上昇してすらいたからだ。周知のとおり、家屋損壊等々の被害のみならず断水、停電、電波障害などの窮状を訴える被災者からのSNS投稿が注目され始めてから数日、安倍晋三及びメディアが最も時間を費やしたのは内閣改造に関する彼是であって、組閣翌日の12日にようやく記者団の質問に答え「復旧待ったなし」の掛け声に続けて安倍が述べたのは、「現場現場で、持ち場持ち場で全力を尽くしてもらいたい」だった。この「最高責任者」の消極的な無責任性は、「プッシュ型支援」など迅速な被災地への行政の直接介入の条件を整備してきたのがほかならぬ安倍政権なだけに、また今回の組閣後真っ先に目標として掲げた改憲において創設が目指される「緊急事態条項」も、ともかくも建前上は大規模災害にあたり行政によるより強力な対応が可能となるからとその必要を説いていたことなど鑑みるに留意していいし、またこの消極的な無責任に対する国民の反応も、災害対応の遅れや不備のため大いに叩かれた過去の政権の事例と比すならあまりに「お行儀がいい」。むろん、前者については、安倍政権が国会を長期間開かないこととともに、もはや「全体の奉仕者」から遠い企業――ちなみに、台風をひかえ交通機関が運休を告知するなかでの出社に関する業務連絡のタイプに即した企業診断になぞらえれば、「連絡なし」の「グレー企業」または「各自で判断をお願いします」の「クソ企業」に近いか――と化していることを以て一定の説明は可能だろう。だが後者は何故このブルジョア独裁に従順で、これをかくまで支持してしまうのか。
ここでその充分な答えは提示しえないが、ひとまず『思想』(9月)で特集されたミシェル・フーコーを参照してみたい。箱田徹「人民の回帰?」は、社会契約を結末としないその戦争‐内戦概念の検討において、フランス革命に至る「大規模な民衆反乱の前に、日常的に実践され、かつ容認されてきた民衆の違法行為」を見出し、「「政治」の概念を、抽象的・普遍的な正義をめぐる争いとは異なる次元で考察する」フーコーの姿勢を強調する。フーコーによれば、ミクロな戦争‐内戦としての17-18世紀の民衆の違法行為は、ブルジョア革命を経て次第に民衆が「プロレタリア化」し闘争の質が変わっていくのと併行して、脱政治化されるとともに監獄に収監すべき非行や犯罪の範疇に矮小化されていった。それは社会の名において処罰と矯正を要する道徳的な悪と見做されたのだ。だとすれば、いかなる「違法行為」も厭いみずからをそれから防衛されるべき市民と見做す昨今の日本国民の「お行儀のよさ」のなかで、有効な戦争‐内戦が悉く封殺されたかに触知し難いのは、この転換以降のブルジョア独裁にふさわしい光景と評しうる。
けれども他方で、諸々の違法行為に鷹揚なかつての封建制的風土の礼讃も、近代におけるそれらの回帰の待望も、ひいては「あらゆる犯罪は革命的である」云々のテーゼもフーコーからは導出すべくもない、このこともいわずもがなながら注記しておいてよい。まして、脱政治的な犯罪への転換は、封建制下の違法行為が総じて「あらたな合法性を求めてブルジョワジーがたたかう戦線のようなもの」を形成していったすえに生じたことに注意を向けるフーコーを差し置き、なお自由かつ脱イデオロギー的な
それにしても、メディアへの露出も人気取りも決して嫌いでない安倍が、「全体の
来るオリンピックにおいても同様に安全と平和が提供されるだろうが、いつまでもかくなる
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