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更新日:2019年11月3日
/ 新聞掲載日:2019年11月1日(第3213号)
ユートピアの災難――「いますぐ自由と責任を請負った行動をとってください」
いわゆる災害ユートピア的な願望が大災害には不可避だとして、かつて民主党はそこで排すべき君側の奸さながら国民の審判を下され、あたかもその厄を野党におっ被せ以て自民党から祓うかのごとく下野するに至った。二〇一二年に潰えた政権がいまだ悪夢や呪いとして扱われる一方で自民一強が続く所以だが、つまりこの間日本国民は「常時」においても災害ユートピア的に浄化 を志向し、別言すればなお祓いきれずにいる斬るべき君側の奸を求め続けてきたといえる。
むろん左派においては概ね安倍政権やネット右翼の類いがこの不浄の輩に該当するわけだが、その場合人間的な「お気持ち」をほのめかす天皇及び皇后に国民の一体性を確認する傾向が抜き難く、他方で左派含む君側の奸 ( から「日本を取り戻す」安倍政権に依拠するかぎり皇室を蔑ろにしうることが右派にはいよいよ明瞭となった。ちなみに、真実 ( の伝播を阻害し、時に被災地 ( へ野次馬的に押し入ってくる「マスゴミ」もかねてから「ぶっ壊す」べきものと見做されているのは周知だ。いずれにしろ、かのユートピアの実現にあって殊更厭うべきがエリート・パニックである以上、前回本欄でも触れたとおり「問題」を風評被害として処理してきた安倍政権はエリート及びパニックの二語が意味するところから遠く、故に災害ユートピアの理論的典拠たるP・クロポトキンに還元しうるこれまでの左派からの批判は、右派のそれと相補的であるばかりか空転せざるを得ない。
ところで、仮に災害ユートピアにあってその構成員である市民がパニックに陥らず、おのずから公序良俗を弁えたコミュニティを形成するとすれば、それは相互扶助を含めた「持ち場持ち場」での職域奉公に従事する限りでそれぞれコンプライアンスを得ているからではないか。翻すにパニックを起こすのはその欠如ないし不備、ひいては「持ち場」の放棄と同義に見做される。『現代思想』(10月)の栗田隆子や羅芝賢などの論稿での概略をさらに約めるなら、日本においてコンプライアンスは九〇年代の行政改革論――市民を顧客と捉えたサービス産業への転換――の導入、〇〇年の行政改革大綱の閣議決定――「自由という特権を享受する企業に責任ある行動をとるよう求めることは、国民の利益に一致する」――などを経て新自由主義の深化とともにひろく浸透した。その四年後のイラク日本人人質事件の際のバッシングで自己責任の語が用いられたのは、まさに彼/女らが自由 ( なジャーナリストやボランティア、すなわち大綱が自己責任の主体に指定した「企業」――自己自身を経営する企業家だったためで、故に「国民の不安、疑念の蔓延状況に鑑み」「国民の安全を確保する見地から」そのコンプラ違反が追及されるに至ったのであり、決して誤用ではない。
コンプライアンスとは企業(家)が公共圏において自律的に活動するその正当性の保証を得るべく果たさなければならない配慮義務を謂い、その配慮は法律に留まらず社会的コンセンサスの遵守も含め、諸々の利害関係者 ( への責任を負う。その対処のため制定されたガイドラインが、企業に対し公害問題や労働環境の改善等々で一定程度有効に働く局面はもちろんあるだろう。だが、いわゆる炎上騒動は往々にして「不安、疑念の蔓延状況」下でのコンプライアンスに関する糾問にほかならず、例えば「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展中止や補助金不交付においても、詰るところ賛同者はステークホルダーたる市民や行政に対するコンプラ違反を理由に挙げていたと思しい。いまや市民――ここでは在特会すらも「市民の会」を名乗っていた意味でのそれ、利害関係 ( の民を指す――は、輝かしい公共圏 ( における「自由という特権を享受」しうるか否かが懸かっている以上、その自己経営とあるべき社会――排外主義からダイバーシティまで――に対する配慮 ( との直結で以て、それぞれに規範を内面化した企業家と相成り、而して市民の安全もしくはその「感」を脅かす障害に対しては、祓い取り除くべきものとして、しばしば自由なる特権の剝奪、存在の不認可の宣告を下すこととなる。また、少なからずひとを自由 ( にする災害にあってパニックを起こすとは、やはり個々の企業家として経営能力に難があり、開示されたユートピアとの齟齬なき自己管理が成っていないこと――社稷を思う心なし!――を意味し、自己責任の名のもと咎められるべき振舞いと解されるだろう。けれども、一見したところ階級や政治性をも払拭するかに見受けられるコンプライアンスをそなえた災害ユートピアも、決して夢想されるごときものでない。
一〇月の台風一九号の上陸に際して、マスメディアやツイッターでは「命を守る行動を」なる要請が頻りと繰り返され、避難勧告ないし避難指示が各地で発令されたものの、それはその地域に居住する数十万単位の人口が避難所で保護可能であること、また対象地域の居住者すべてが避難所へ行くべきことを意味しておらず、むしろ「速やかに全員避難」と周知した以上、あとの「行動」は各自の判断に委ねるほかない――これを自己責任と呼ぶとして、避難所での劣悪な収容を甘受することなく交通機関が停止していても「自力」で安全な場所に移動できる者もいれば、例えば台東区がホームレスの避難所利用を拒否したり、そも都心部の被害を「まずまずに」収めるため周辺地域の犠牲が前提であるなど「全員」のうちにはさまざまな選別が働く――。ここで指摘しうるのは、「命守る行動を」なる黙示録的な指令の強迫性はあくまで企業が果たすべきコンプライアンスの強迫性――「我々はちゃんといっておきましたから」――と一致することで、したがってその指令が危機管理能力を発動する個々の企業家たるべく受け手を追いたて、かくして安全な社会を維持するための責任を委託された個人事業主へと否応なく化さしめることだ。それはユートピアの自由な民たれとの指令でもある。さながら「上」の指令を請負い「下」の個人事業主がそれぞれに成果の責任を負うのと似て、ほぼ「がんばれ日本」と同程度に無責任な最後通牒としてそれは響く。
確かにコンプライアンス管理のウザさについては既に各処で洩らされている。だが、例えばUberの場合、輸送などのサービスの提供者もその受容者とともにアプリの利用者にすぎず、プラットフォーム上で自由に起業した個人事業主と見做し、以てステークホルダーへの責任を市民 ( へ半強制的に下請けに出し、サービス提供中に生じた一切の問題を市民 ( の自己責任に転嫁し、無責任に地代以上の「アガリ」を請求する立場に就くことで、みずからはそのウザさから逃れるわけだ。
さて、これらと親和的な行政 ( をいとなむ現政権の統治が「上」から「現場現場」へ責任の所在を外部委託する「最高責任者」を据えるが故に成立し、その上下間で科される責任の度合いも均等でなく、いうなれば階級差や政治性をおびることは疑いない。パニックや炎上から「万引き」まで種々の係争、というか自由を市民に与え、みずからにはその自由を免除する。そして、君側の奸と入替りで長期政権を築いた安倍はいつしか、然々の政策は首相の反対の意向にもかかわらず理を弁えない彼是の妨害で押し切られた等々の支持者による「真意」の忖度において無能にして安定した権力者となっている。天皇即位パレードも安倍にとっては「大きな被害を受けた被災者の皆さんにとっても元気と勇気を与えてくれる」スポーツと大差ない、つまりサーカスの一種にすぎず、スポーツ選手が現代の娯楽の英雄であるのと同様に、天皇は諸々のサービス業のうち「国民に寄り添う」類いのそれであればよい。安倍はこれらの催しを執り行ない、成果を上げた英雄を賞賛して成功を収める興行主として現われる。ユートピアの実現と平和は下請け先の自由の民に懸かっている。「がんばれ日本」。
むろん左派においては概ね安倍政権やネット右翼の類いがこの不浄の輩に該当するわけだが、その場合人間的な「お気持ち」をほのめかす天皇及び皇后に国民の一体性を確認する傾向が抜き難く、他方で左派含む
ところで、仮に災害ユートピアにあってその構成員である市民がパニックに陥らず、おのずから公序良俗を弁えたコミュニティを形成するとすれば、それは相互扶助を含めた「持ち場持ち場」での職域奉公に従事する限りでそれぞれコンプライアンスを得ているからではないか。翻すにパニックを起こすのはその欠如ないし不備、ひいては「持ち場」の放棄と同義に見做される。『現代思想』(10月)の栗田隆子や羅芝賢などの論稿での概略をさらに約めるなら、日本においてコンプライアンスは九〇年代の行政改革論――市民を顧客と捉えたサービス産業への転換――の導入、〇〇年の行政改革大綱の閣議決定――「自由という特権を享受する企業に責任ある行動をとるよう求めることは、国民の利益に一致する」――などを経て新自由主義の深化とともにひろく浸透した。その四年後のイラク日本人人質事件の際のバッシングで自己責任の語が用いられたのは、まさに彼/女らが
コンプライアンスとは企業(家)が公共圏において自律的に活動するその正当性の保証を得るべく果たさなければならない配慮義務を謂い、その配慮は法律に留まらず社会的コンセンサスの遵守も含め、諸々の
一〇月の台風一九号の上陸に際して、マスメディアやツイッターでは「命を守る行動を」なる要請が頻りと繰り返され、避難勧告ないし避難指示が各地で発令されたものの、それはその地域に居住する数十万単位の人口が避難所で保護可能であること、また対象地域の居住者すべてが避難所へ行くべきことを意味しておらず、むしろ「速やかに全員避難」と周知した以上、あとの「行動」は各自の判断に委ねるほかない――これを自己責任と呼ぶとして、避難所での劣悪な収容を甘受することなく交通機関が停止していても「自力」で安全な場所に移動できる者もいれば、例えば台東区がホームレスの避難所利用を拒否したり、そも都心部の被害を「まずまずに」収めるため周辺地域の犠牲が前提であるなど「全員」のうちにはさまざまな選別が働く――。ここで指摘しうるのは、「命守る行動を」なる黙示録的な指令の強迫性はあくまで企業が果たすべきコンプライアンスの強迫性――「我々はちゃんといっておきましたから」――と一致することで、したがってその指令が危機管理能力を発動する個々の企業家たるべく受け手を追いたて、かくして安全な社会を維持するための責任を委託された個人事業主へと否応なく化さしめることだ。それはユートピアの自由な民たれとの指令でもある。さながら「上」の指令を請負い「下」の個人事業主がそれぞれに成果の責任を負うのと似て、ほぼ「がんばれ日本」と同程度に無責任な最後通牒としてそれは響く。
確かにコンプライアンス管理のウザさについては既に各処で洩らされている。だが、例えばUberの場合、輸送などのサービスの提供者もその受容者とともにアプリの利用者にすぎず、プラットフォーム上で自由に起業した個人事業主と見做し、以てステークホルダーへの責任を
さて、これらと親和的な
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