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更新日:2019年12月10日
/ 新聞掲載日:2019年12月6日(第3318号)
「身の丈」の偽史(ポスト・トゥルース)
――「真実の終わり」をめぐって――
あらかた解決が見えていた世界がいつしか壊れてしまっていた――それが最悪だとしてもほかにマシなものがないと皆で承服したはずの世界をここまで壊乱に導いた犯人はだれか? 「世界の警察」を称した国での思わぬ大統領の登場をはじめとする近年の社会情勢に狼狽え、なにやら警察に代わって取締りを図る勢いでかく問い質す者がしばしばポストモダンやポスト構造主義と俗称されるものをホシに挙げるのはわかりやすい事態ではある。ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(集英社・二〇一九)がその最近の一例だとすれば、土田知則「ポストモダニズムと「真実の死」」(『思想』十一月)はその取るにたらなさを穏当に指摘した論稿にあたる。カクタニがファシズムからポスト・トゥルースまでを媒介する元凶として罵るのはポール・ド・マンだが、さらにひろく脱構築その他を含む「68年」の言説に対して、以前から相対主義が罵倒語に用いられてきたことは知られている。最悪だがマシなものがない世界を徒に相対化したがために、マシじゃない現状に陥ったではないかと呪詛が吐かれてきたわけだ。
土田はカクタニがド・マンの主著一冊すら読んだ形跡がないことを指摘し、にもかかわらずそのバッシングに倦む様子がないのを訝しんでいるものの、カクタニがド・マンを碌に読まずに平然としている理由は明瞭であって、とは、それをオルタナ・ファクトと見做しているからにほかならず、何故読みもしないド・マンに対してみずからの正義をそこまで確信しうるのかと問われるなら、彼/女らは次のごとく返答するだろう――ナチスや現アメリカ大統領のデマゴギーに耳を貸さず、種々の嫌疑への奇天烈な言い逃れを鼻で嗤ったとして咎められることがあろうか、我々の正義が揺らぐことがあろうか、と。「読むことの不在」はこの尤もらしさにおいて居直られる。仮に「読むこと」を疎かにせずにおいたとして、解決はおろか、共感や承認による合意も得難いとすればそれこそが「真実 の終わり」に向け加速化せしめる時間の浪費であり、その些かも建設的でない終わり ( が認められようか。
ところで、あるべき世界が壊れた際にその再建を担うのはかねてより労働だったとして、如上の場合労働とは、再建といっても神の国のそれへの従事から程遠く、マシな――だが最悪な――世界を保守するにすぎないが、もちろん「読むこと」はそこで勤しむべき労働に数えられていない。否、だれかが述べたごとく保守とはメンテナンスの謂いだとすれば、むしろ即時的な改革 ( に要求される諸々の正解から遠い、前時代とともに斥けられた大仰で鈍重な労働とそれは位置付けられているのかもしれない。実際、最悪だがほかよりもマシなこの世界の幾度かにわたる承服とは、否定性を伴う労働の積み重ねを通じ然るべく再建を終えた、つまりこれ以上はない世界としてだったのだから、謳われる「真実」とは否定や労働や歴史の終焉そのことであって、故にひとは正義をわかりきった自明なものとして疑わない。それに従い改革 ( し、セーフ/アウト等々の解を口にしておけば大抵事足りるPostにあっていまさら「読むこと」は駄法螺のごとく不要で、それ自体がデマゴギーへの加担となりうるほど不穏なのだ。
けれども注記すべきは、たとえ仮に労働により築きあげられる歴史が終焉を迎えたとしても――当然ながらいまも労働は消えていないがここでは措く――、なおそれに付随してきた自己意識は回帰することだ。別言すれば歴史が回帰する、――ただし胡乱な冗話として。すなわち、「真実 ( 」は断わるまでもなく無事終わりを迎えたことに拠る正史に依拠しているとすれば、その後に、にもかかわらず回帰する歴史は偽史 ( ――労働がメンテナンスと化すごとくにして、正史を継いでいようがいまいが、無自覚か否か問わず――であるほかない。正史につかんとする者は、しかしその「真実真実 ( を保守するしみったれた偽史 ( に囚われざるを得ず、そしてその「真実 ( 」は同時に最悪でもあった以上逃れ難いニヒリズムを払拭せんとして、最悪なみずからと峻別しうるマシではないポスト・トゥルースの犯人捜しに奔走し、マシな「真実 ( 」を保守すべくせわしく改革 ( の時間を引き延ばし続ける。だが、もう少しひいて指摘しておけば、「真実の終わり」なる問題は存在しないのだ。
とまれ、いましばらく検討を続けるなら、その幻想において「真実」はなにに照らして同定しうるのか。例えば「真実の終わり」をもたらした犯人としてド・マンを捕らえたカクタニは述べる――彼がなにを書き散らしたかは知らずとも、親ナチスの経歴を持つ詐欺師で重婚の嫌疑が掛かっているのを私は知っている、相対主義の罠に惑わされて見失ってはいけない真実がほかにあるわけもない、と。真実はいつもひとつ。ナチズムも重婚もいずれも歴史の「真実」を覆す重罪にあたるのだ。
カクタニが警察の類いだとして、罪状の立証が極めて杜撰なまま検挙に及ぶ過誤を犯していることは土田が既に指摘しているが、ここで確認したいのは彼/女らがいうなれば「実生活」を真実の基盤と解していることだ。証拠物件として参照される「実生活」がいまや情報の束に還元されているのは周知のとおりで、市民 ( により常時ビッグデータへと無償提供されていくネット上のプラットフォームから、申請書や報告書にわたる膨大で煩雑な書類提出義務まで、しばしばその情報の提供を拒めば事実上公共圏――「フルスペックの人権」?――への参与が阻まれる事態については本欄で何度か触れてきたが、「真実」の後のマシで最悪な偽史 ( に居直らんとする胡乱な警察気取りないし通報にいそしむ善意の市民 ( らは、みずからを犯人と見分ける根拠をこの管理下にあり証拠物件化した「実生活」に求めている。
そこで前提とされ要請されているのは、――土田論稿が引く言い回しをもじるなら――「情報と実在の一致という頑迷な真理観」であり、『映画芸術』(四六八・四六九号)掲載のインタビューにおいて、渡部直己は情報の典型としてシラバスを挙げているが、「文学国語」その他と差別化され、データ処理能力や規約・ガイドラインの読解力を問うと想定された「論理国語」試験でもいずれ「資料」として取り上げられておかしくないこの契約宣誓書はまさしく「シラバスと授業内容の一致」を前提とし要請するもののひとつだし、事実、監視項目に含まれている。
いまや「揺り籠から墓場まで」を見守り安心を提供するのはベネッセやリクルートなど情報商品で商売する資本であり、「実生活」はこれらに包摂されている。「読むこと」が不要なのは、書かれたことよりも例えばAmazonでの売買履歴にこそ真実 ( があり前者は後者の適切な反映であるべきで、「読むこと」はかくなる真実 ( を深め調書を豊かにする証拠となる限りで有意味であるにすぎない。情報にはむろんアルゴリズムで算出された「不都合な現実」から内定辞退率等々の予測まで含まれるわけだが、それらもやはり「情報と実在の一致」を、すなわち「身の丈」に合うことを要請する。実用性とはシラバス的に安心を与える情報とそこから実在を解する認知を指し、「身の丈」とは情報あるいはその予測どおりに「実生活」を送り「思想」もそれに還元し、かの真実を支持することを謂う。
かつて大学は規律訓練つまりは労働において真理を探究し教授する場と想定されていたとして、なんとなればコンサルタントの指導に忠実であればよい現代の大学は「真実 ( 」の保守に徹しており、なるほどPostの光景にふさわしい。「身の丈」とはこの意味での「真実の終わり」の後の民主主義の謂いだろう。信用スコアにおける高得点指南のコンサルタントとそれに適応し良き「実生活」を送る者たちの民主主義――真実の終わり/再興? けれどもこれこそフェイク・ニュースの震源であり、この民主主義 ( に乗っかった警察とやらはひたすらにマジで最悪なだけではないか。
土田はカクタニがド・マンの主著一冊すら読んだ形跡がないことを指摘し、にもかかわらずそのバッシングに倦む様子がないのを訝しんでいるものの、カクタニがド・マンを碌に読まずに平然としている理由は明瞭であって、とは、それをオルタナ・ファクトと見做しているからにほかならず、何故読みもしないド・マンに対してみずからの正義をそこまで確信しうるのかと問われるなら、彼/女らは次のごとく返答するだろう――ナチスや現アメリカ大統領のデマゴギーに耳を貸さず、種々の嫌疑への奇天烈な言い逃れを鼻で嗤ったとして咎められることがあろうか、我々の正義が揺らぐことがあろうか、と。「読むことの不在」はこの尤もらしさにおいて居直られる。仮に「読むこと」を疎かにせずにおいたとして、解決はおろか、共感や承認による合意も得難いとすればそれこそが「
ところで、あるべき世界が壊れた際にその再建を担うのはかねてより労働だったとして、如上の場合労働とは、再建といっても神の国のそれへの従事から程遠く、マシな――だが最悪な――世界を保守するにすぎないが、もちろん「読むこと」はそこで勤しむべき労働に数えられていない。否、だれかが述べたごとく保守とはメンテナンスの謂いだとすれば、むしろ即時的な
けれども注記すべきは、たとえ仮に労働により築きあげられる歴史が終焉を迎えたとしても――当然ながらいまも労働は消えていないがここでは措く――、なおそれに付随してきた自己意識は回帰することだ。別言すれば歴史が回帰する、――ただし胡乱な冗話として。すなわち、「
とまれ、いましばらく検討を続けるなら、その幻想において「真実」はなにに照らして同定しうるのか。例えば「真実の終わり」をもたらした犯人としてド・マンを捕らえたカクタニは述べる――彼がなにを書き散らしたかは知らずとも、親ナチスの経歴を持つ詐欺師で重婚の嫌疑が掛かっているのを私は知っている、相対主義の罠に惑わされて見失ってはいけない真実がほかにあるわけもない、と。真実はいつもひとつ。ナチズムも重婚もいずれも歴史の「真実」を覆す重罪にあたるのだ。
カクタニが警察の類いだとして、罪状の立証が極めて杜撰なまま検挙に及ぶ過誤を犯していることは土田が既に指摘しているが、ここで確認したいのは彼/女らがいうなれば「実生活」を真実の基盤と解していることだ。証拠物件として参照される「実生活」がいまや情報の束に還元されているのは周知のとおりで、
そこで前提とされ要請されているのは、――土田論稿が引く言い回しをもじるなら――「情報と実在の一致という頑迷な真理観」であり、『映画芸術』(四六八・四六九号)掲載のインタビューにおいて、渡部直己は情報の典型としてシラバスを挙げているが、「文学国語」その他と差別化され、データ処理能力や規約・ガイドラインの読解力を問うと想定された「論理国語」試験でもいずれ「資料」として取り上げられておかしくないこの契約宣誓書はまさしく「シラバスと授業内容の一致」を前提とし要請するもののひとつだし、事実、監視項目に含まれている。
いまや「揺り籠から墓場まで」を見守り安心を提供するのはベネッセやリクルートなど情報商品で商売する資本であり、「実生活」はこれらに包摂されている。「読むこと」が不要なのは、書かれたことよりも例えばAmazonでの売買履歴にこそ
かつて大学は規律訓練つまりは労働において真理を探究し教授する場と想定されていたとして、なんとなればコンサルタントの指導に忠実であればよい現代の大学は「
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