読書人紙面掲載 書評
近代のはずみ、ひずみ 深田康算と中井正一
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更新日:2020年4月17日
/ 新聞掲載日:2020年4月17日(第3336号)
近代のはずみ、ひずみ 深田康算と中井正一 書評
「限界‐前衛を担う党」の萌芽を見出す
今日の思想を先導・煽動するプチブル・小市民の宣言
近代のはずみ、ひずみ 深田康算と中井正一著 者:長濱 一眞
出版社:航思社
長濱一眞もその一人であるが、美学・芸術系の出身者が、今日の思想を先導・煽動している。かれらは「ブルジョアにもプロレタリアにも即時に該当しない階級脱落者」たるプチブル・小市民であるが、まさにそこに「限界‐前衛を担う党」の萌芽を見出すこと、それが本書の宣言するところである。そのことを「試練の時」において確かめるべく、長濱は、京都帝国大学の美学者、深田康算と中井正一に焦点をあてる。
本書前半の深田康算論は学界で初の研究成果であると言い添えておくが、長濱は、新渡戸稲造の「修養‐教養主義」の系譜、天皇の正統性を奪い取る汎神論者のケーベルではなく、真のヨーロッパなるものを体現する人格者としてのケーベルを仰ぎ見る安倍能成らの「個人主義」「大正教養主義」の系譜、これに背信する深田の歩みを見事に描き出していく。さらに、聖職者的な教養人から離れ去りながら、「公衆」を前にして自分に「食ふ権利」「生存の意義」があるのかを痛烈に懐疑する深田の姿を取り出していく。この筋立てで、深田の美的仮象論や芸術論も読み解くことができるであろうと言い添えておきたい。
本書後半は中井正一論である。中井正一と言えば、私の世代にとっては、久野収が回想した中井、平野謙が「日本人民戦線の可能性」を見出した中井、吉本隆明が「日本知識人抵抗の、最大公約数的可能性」を見出した中井であった。あるいは、野間宏・本多秋五・ねずまさし・三浦つとむが書いたように、清水三男・永島孝雄・春日庄次郎・小林陽之助・加藤正からのアプローチを拒絶してその独立性を保ったとされた中井であった。近年では、上野俊哉が「翻訳者、脱党者、漂流者」として肯定した中井、その技術論とメディア論をめぐって、北田暁大が「きわめて傑出した」と顕彰した中井、前川真行が「時代のイデオローグ」の役割を担ってしまったと批判した中井であった。それらを見据えて、本書は何を書いているか。
かつて渡辺一夫は、二つの「狂信」に挟み撃ちにされて、ユマニスムの息の根を止められたことが戦争の狂気を導いたと示唆したことがあった。そこに狂信者とは、一方でユマニストに「耳を籍さない頑なな人々」、他方でユマニストの「心根を理解せずに、ただ熱狂的に反逆する人々」のことであった。前者は保田與重郎などに、後者は春日庄次郎などに当たるだろう。そして戦後の論者の多くが、そのユマニスムを『世界文化』に見出したわけである。
ところが、これが本書の山場の一つだが、中井正一と保田與重郎は「ドレフュス革命から生まれたふたりの嬰児」なのである。二人はともに、昨今の就活にも見られるような「衒いなく商品化に打ち込める「惨忍な鈍感さ」」を拒絶して、脱落者としての「階級の自覚」に至った者なのである。そして(しかし)、中井は、保田と並走しながらも、そのイロニーを凡庸なものとして斥ける。保田の「反革命」的な狂信を斥けるのである。
他方、これも本書の山場の一つだが、長濱は断固として『世界文化』と『土曜日』を区別する。後者の誌名は、「日曜日」の革命の前日を意味するからだ。文化主義的な人民戦線とは一線を画すからだ。ここで長濱は、党壊滅後の狂信に対して、『土曜日』を支える消費組合運動の担い手の「常務者」を押し立てる。返す刀で、本位田祥男・大塚久雄・三木清・大河内一男を薙ぎ倒しながら、「日本経済学」や生産力主義やオルドリベラリズムに対抗して、『土曜日』が「革命の前日」に不可欠な「革命的な大衆」の組織と創出を企図していたと宣言するのである。そこにこそ、中井映画論に言う「はづみ」「前のめつた歴史」がある、と。
その宣言と少しずれるかもしれぬが、私は「常務者」の只中に、党中心主義とは無縁でありながら、それでも党再建を支援して殺害された「無名戦士」のことを想起する者であると言い添えておきたい。(こいずみ・よしゆき=立命館大学先端総合学術研究科教授・哲学・倫理学)
★ながはま・かずま=批評家。博士(人間学)。『子午線』編集同人。『週刊読書人』二〇一九年論壇時評「論潮」担当。一九八三年生。
本書前半の深田康算論は学界で初の研究成果であると言い添えておくが、長濱は、新渡戸稲造の「修養‐教養主義」の系譜、天皇の正統性を奪い取る汎神論者のケーベルではなく、真のヨーロッパなるものを体現する人格者としてのケーベルを仰ぎ見る安倍能成らの「個人主義」「大正教養主義」の系譜、これに背信する深田の歩みを見事に描き出していく。さらに、聖職者的な教養人から離れ去りながら、「公衆」を前にして自分に「食ふ権利」「生存の意義」があるのかを痛烈に懐疑する深田の姿を取り出していく。この筋立てで、深田の美的仮象論や芸術論も読み解くことができるであろうと言い添えておきたい。
本書後半は中井正一論である。中井正一と言えば、私の世代にとっては、久野収が回想した中井、平野謙が「日本人民戦線の可能性」を見出した中井、吉本隆明が「日本知識人抵抗の、最大公約数的可能性」を見出した中井であった。あるいは、野間宏・本多秋五・ねずまさし・三浦つとむが書いたように、清水三男・永島孝雄・春日庄次郎・小林陽之助・加藤正からのアプローチを拒絶してその独立性を保ったとされた中井であった。近年では、上野俊哉が「翻訳者、脱党者、漂流者」として肯定した中井、その技術論とメディア論をめぐって、北田暁大が「きわめて傑出した」と顕彰した中井、前川真行が「時代のイデオローグ」の役割を担ってしまったと批判した中井であった。それらを見据えて、本書は何を書いているか。
かつて渡辺一夫は、二つの「狂信」に挟み撃ちにされて、ユマニスムの息の根を止められたことが戦争の狂気を導いたと示唆したことがあった。そこに狂信者とは、一方でユマニストに「耳を籍さない頑なな人々」、他方でユマニストの「心根を理解せずに、ただ熱狂的に反逆する人々」のことであった。前者は保田與重郎などに、後者は春日庄次郎などに当たるだろう。そして戦後の論者の多くが、そのユマニスムを『世界文化』に見出したわけである。
ところが、これが本書の山場の一つだが、中井正一と保田與重郎は「ドレフュス革命から生まれたふたりの嬰児」なのである。二人はともに、昨今の就活にも見られるような「衒いなく商品化に打ち込める「惨忍な鈍感さ」」を拒絶して、脱落者としての「階級の自覚」に至った者なのである。そして(しかし)、中井は、保田と並走しながらも、そのイロニーを凡庸なものとして斥ける。保田の「反革命」的な狂信を斥けるのである。
他方、これも本書の山場の一つだが、長濱は断固として『世界文化』と『土曜日』を区別する。後者の誌名は、「日曜日」の革命の前日を意味するからだ。文化主義的な人民戦線とは一線を画すからだ。ここで長濱は、党壊滅後の狂信に対して、『土曜日』を支える消費組合運動の担い手の「常務者」を押し立てる。返す刀で、本位田祥男・大塚久雄・三木清・大河内一男を薙ぎ倒しながら、「日本経済学」や生産力主義やオルドリベラリズムに対抗して、『土曜日』が「革命の前日」に不可欠な「革命的な大衆」の組織と創出を企図していたと宣言するのである。そこにこそ、中井映画論に言う「はづみ」「前のめつた歴史」がある、と。
その宣言と少しずれるかもしれぬが、私は「常務者」の只中に、党中心主義とは無縁でありながら、それでも党再建を支援して殺害された「無名戦士」のことを想起する者であると言い添えておきたい。(こいずみ・よしゆき=立命館大学先端総合学術研究科教授・哲学・倫理学)
★ながはま・かずま=批評家。博士(人間学)。『子午線』編集同人。『週刊読書人』二〇一九年論壇時評「論潮」担当。一九八三年生。
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