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読書人紙面掲載 特集
更新日:2018年11月16日 / 新聞掲載日:2018年11月16日(第3265号)

絓秀実氏・外山恒一氏・佐藤零郎氏鼎談
“八九世代”はいかに闘ってきたか
「全共闘以後」(イースト・プレス)をめぐって

第6回
運動の外側に向けて

絓 秀実氏
佐藤 
 話を少し戻したいんですが、外山さんが、当時者性の強い運動には近寄らないようにしてきたと言われましたよね。その点について補足します。そこが、まさにこの本にも如実に出ているなと思ったんですよ。たとえば、華青闘の告発に衝撃を受けた「NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)の布川徹郎さんにしても、当事者性の強い人とどう出会っていくのか、どういう関わり方、出会い方、連帯の仕方があるのか。そういうことを模索していたと思うんですね。在韓被爆者の人から批判を受けながらも車座で宴会したり、沖縄の売春婦やヤクザと宴会したり、とにかく宴会ばかりですが。

外山さんの書かれている運動には、すごい発想がある。ひとつのアイデアによって切り開いている、ぱっと広がっていく強さがある。でも、同時に閉じている印象も受けるんですよね。こういう運動の外側にいる人たちに対して、内側の人間が一緒に何かを作っていこうとする回路がなかなか見えてこない。友人同志であったり、同じ考え方を持っている人間のあいだでは共有されているものがあり、運動が組織される。けれども、そこから広がっていかない感じがある。おもしろいとは思いながらも、逆にもったいないとも思う。外山さんのやっていることや、素人の乱での運動の展開の仕方はおもしろい。だからこそ、なんとか、外側にいる人たちと一緒にできないものなのかなと考えてしまうんです。まだ運動者ではない誰かと一緒になって、何かできることはないか。そのことを、本を読んで強く感じました。
外山 
 こちら側はどこかの時点で、インテリになってしまってるんです。観念世界の住人たるインテリが、大衆と何かを共有したり分かり合ったりすることは不可能で、それを認めないからスターリニズムが生じます。しかし、「民は由らしむべし、知らしむべからず」で、問題意識は理解してもらえなくても、面白がってもらったり、ファンになってもらうことは可能です。僕が三・一一以後に展開した、国政選での原発推進派の候補者に対する褒め殺し活動を見て、大衆的な人達もワクワクしたり、士気を高めたりしてたようです。そういう関係が作れれば充分でしょう。
佐藤 
 従来であれば、大衆に呼びかけるのが出発点だと思うんですけれど、そうじゃないやり方もあるんだっていうことを、ちらほら書いていますよね。たとえば、次のような一文があります。「法政大学ではボアソナード博士の像がある日、黒ヘルにサングラス、タオルの覆面という過激派スタイルに変装させられ、しかもセメントでそれらが固定されているなどの怪事件が起きた」とか(笑)。
外山 
 ボカしたけど、たぶん貧乏くささを守る会の松本君自身の犯行ですよ(笑)。
佐藤 
 原宿騒擾(一九九一年)の時の話もおもしろいですよね。「秋の嵐」の黒岩大助さんが、公務執行妨害の現行犯で逮捕されて、パトカーに押し込まれた。その際に、誰ともわからない群衆がパトカーを取り囲んで、ドアーを開けてしまう。ああいう箇所を呼んでいると、決して、一緒にデモをする側の隊列に加わる人ではない、人民の影が行為によって連帯している。
外山 
 期せずして、大衆との連帯が実現することもあるわけです。さっきの話に僕も補足しておきます。六八年の、あるいは六八年に至る新左翼運動は、若者達が、いわば無責任に、根なし草的にやってた。それが華青闘告発で、いきなり冷や水を浴びせられて、やっぱり「根」を持たなきゃいけない、責任ある、地に足のついた運動をやるべきだと反省させられる。しかしその結果、また別の閉塞状況に陥っていく。僕ら八九年世代は、無責任な運動、根なし草の運動、地に足のつかない運動を復活させたんだと思います。
絓 
 その点に関しては、私も付け加えておきます。華青闘告発以後の第三世界論の時代に、青い芝の会などの障害者運動やウーマンリブの運動でも、イデオロギー的な背景がありつつ、自らを「主体」として前面に押し出そうとしたわけです。そのことによって、学生プチブルジョアと対決しようとした。それは良かったんだと思います。私は第三世界論には懐疑的だったけれど、マイノリティと言われている人々が、自分たちを主体化しようとする動きに、異論はない。主体化した時に初めて、学生・プチブルジョアと対話・対決ができるようになる。殴り合いになるかもしれないけれども、コミュニケーションくらいは生まれる可能性があり、それはそれでいいんだと思います。だけど現在は、そうした主体化の背景さえないから、マイノリティは「弱者」としてしか表象されない。そして市民がそれを庇護するかたちでしか、コミュニケーションができないようになっている。昨今のPCがそうです。「Me Too」とか言って、誰によるものかまったくわからない告発を、大衆が支持をする。印象としては、一九七二年に、総評が弱者救済というスローガンを掲げた時が結節点でしょう。いわゆるマイノリティの「弱者」表象化ということです。ところが華青闘告発の時は、まがりなりにも「我々は弱くない」と言ったわけですよ。
絓 
釡ヶ崎の運動について詳しくは知らないけれども、佐藤さんの映画を見ていて感じたのは、彼らは自分たちのことを弱者だとは言っていないということです。「オレたちを弱者呼ばわりするな」くらいの気持ちでいる。諸戦線で、弱者一般として自分を位置づけない。そういうあり方が重要だと思うんですよ。 一方で今は、第三世界論というイデオロギー的な背景がないから、なかなかそうはできない。しんどいことだと思いますよ。人権しか拠って立つ所がないわけだから。しかしながら、自らを主体化していく形でマイノリティが立ちあがらないと、話にならない。少なくとも我々小ブルジョアは、いちおうは「主体化」している。その程度が取り得でしょう。おもしろければいいという形でね。もちろん批判されるべきところは多々あるでしょう。おもしろ主義だけで、簡単に連帯ができるとは思わない。ただ、現在の状況を見ていると、喧嘩もできない。そういう意味では、佐藤さんの映画は、フィクションではあるけれども、弱者として自分を匿名化しない人たちを描こうとしている。そこがおもしろかったんです。しかし一般的には、それぞれが主体化する契機を、思想的にどうやって作っていけるのか。このことが大きな課題になっているんじゃないかと思いますね。
外山 
 絓さんの言われたことにおそらく関わりますが、今回の本では実名表記を原則としていて、そのことへの反撥もかなり多いようなんです。しかしその反撥自体に僕は強く反撥してます。ある時期以降の運動では、たとえばフリーター労組の運動が盛り上がってた頃はすでに、逮捕者が出た時、その氏名等が伏せられるようになってました。本人が黙秘してる場合、その名前を出すのはどうかというのは確かに分かるけど、そうでない場合も、あるいは釈放されて一件落着した後でも伏せ続けられてます。それでは運動史は書けなくなる。誰が逮捕されたのか、僕は知ってるから実名で書いた。でも、実名を伏せてた運動の関係者からすれば、それは批判の対象となります。
絓 
 その場合、外山さんは主体化を促そうとしているわけですよね。ところが、彼/彼女らは匿名でやれると思っている。でも、そんなのは、「マルチチュード」でもなんでもないですよ。匿名ではやれない場合が必ずある。
外山 
 そもそも警察側は逮捕者の氏名を把握してるし、対警察的にどうこうという批判は当たらない。警察でも、その運動の関係者でもない人達だけが、歴史を知ることができない状況への苛立ちもあって、実名主義で書きました。当事者が記録を残さず、多くを僕自身の記憶に頼らざるを得なかったので、他にも事実誤認があるかもしれない。気づいたら指摘してほしいし、そういう指摘や異論の積み重ねで、運動史がさらに豊富化されればいい。
(おわり) 
〔註〕ドブネズミとは、八〇年代末の若い活動家の多くが文化的共通体験として持っていたというザ・ブルーハーツの代表曲「リンダリンダ」の歌詞に由来する。外山が『青いムーブメント』(〇八年)で自身らを「ブルー2016ハーツ世代」と形容したことを受けて、絓が『反原発の思想史』(一二年)で「ドブネズミ系」と言い換え、野間易通が笠井潔との共著『3・11後の叛乱』でそれを踏襲するなどして、徐々に定着しつつある用語。
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この記事の中でご紹介した本
全共闘以後/イースト・プレス
全共闘以後
著 者:外山 恒一
出版社:イースト・プレス
「全共闘以後」は以下からご購入できます
「全共闘以後」出版社のホームページはこちら
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