読書人紙面掲載 書評
アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制
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更新日:2018年6月23日
/ 新聞掲載日:2018年6月22日(第3244号)
アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制 書評
「ラディカル左翼」の行きづまりの中で
なぜ「ユートピア」が語られなければならないのか
アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制著 者:フレドリック・ジェイムソン
編集者:スラヴォイ・ジジェク
出版社:書肆心水
評者:絓 秀実(文芸評論家)
日本はもちろんのこと、世界的に見ても、「ラディカル左翼」(本書ジシェクの呼称に従う)の行きづまりは、誰の目にも明らかである。行きづまりの基点を一九六八年に見出すか、一九八九年/九一年の冷戦体制崩壊に置くかはともかく、である。その症状の一例として、左派が今やいかなる意味でも「ユートピア」を語れなくなっているということがあげられる。ソ連邦の崩壊と中国の国家資本主義化が、その背景をなしていることは、間違いない。ロシアのプーチン体制については、まあ言うまでもない。中国・習近平体制についても、支持している「左派」は多少はいるが、まあ、無理である(本書のジジェク論文「想像力の種子」も参照)。
ロシア十月革命以降、おおよそスターリン批判(一九五六年)までの時期、ソ連邦(レーニン―スターリン)は、世界の左派にとってユートピアの現実的な定在と見なされてきた。ラカン的に言えば、ソ連邦は「全知と想定された他者」だったわけである。それは、スターリン批判によってラディカル左翼に導入されたトロツキーを踏まえても変わらない。詳述する余裕はないが、スターリンに追放されたトロツキーは、早くからスターリン批判を敢行していたとはいえ、一方では「労働者国家無条件擁護」の立場があった。つまり、「全知と想定された他者」は、抹消符号を付されながらも、存続していたのだ。そのようなトロツキズム的環境のなかでは、ユートピアを語ることが、ともかくも可能であった。しかし、ソ連邦の消滅は、もはや、そのことを不可能にしてしまったのである。
一九九一年、つまり冷戦体制崩壊の年に刊行された『哲学とは何か』のなかで、ドゥルーズ/ガタリは――おそらくは、「あえてその時に」ということだろう――「そのつどユートピアを携えてこそ、哲学は政治的なものに生成し、おのれの時代に対する批判をこのうえなく激しく遂行する」と記した。本書の元になったジェイムソンの長編論文「アメリカのユートピア」は、ドゥルーズ/ガタリのこの要請に応えている。そして、そのゆえにこそ、発表以来、スキャンダラスとさえ言える反響を巻き起こし、ジェイムソン論文と、それをめぐる九人の論者の論文をまとめた本書が、ジジェクの編集で刊行されたわけである。
なぜ「ユートピア」が語られなければならないのか、今一度、問うてみよう。現在、一部の(ラディカルな?)左派のあいだでは、資本主義の終焉論が、ある種のリアリティーを帯びて語られている。しかしそれらは、資本主義がいかにして終わるのかについてはイメージさえ出せず(シュトレーク『時間かせぎの資本主義』など)、あるいはイメージを提出したとしても全く魅力を欠いたものになっている(ウォーラーステイン『ユートピスティックス』など)。そして、このような資本主義終焉論と相互補完的に、資本主義は永遠であるという言説が強力に主張されている。そのような磁場にあっては、市民主義的、社会民主主義的な力ない改良主義や、アナキズム的侵犯行為(一過的な暴動? 万引き?)が称揚されるか、近代以前的な「伝統」への回帰(アソシエーショニズム? 家族制度?)が夢想されることになる。本書の論者たちの多くも認めるように、ジェイムソンの「ユートピア」は、この「左」右の相互補完的な磁場をこえようとする「ラディカル左翼」的企図において、魅力的なものである。
ジェイムソンの論点は多岐にわたるが、そのスキャンダラスな所以は、主に、「国民皆兵」の提起にあった。ジェイムソンは、ロシアの二月革命(ブルジョワ革命)から十月革命(社会主義革命)への「移行」期における「二重権力」の問題を、レーニンやトロツキーを――もちろん、マルクスやエンゲルスも――参照しながら検討し、現在における、「第一の確立された公式権力と並んで第二の権力システムが登場する可能性」を、国民皆兵の軍隊に見出すのである。ジェイムソンは、軍隊にクーデターを使嗾しているわけではない。その「ユートピア」は、WTOのコンピューターのリターン・キーを一つ押すだけで到来するかのような(キム・スタンリー・ロビンソン「マットとジェフはボタンを押した」、本書所収)、SF的想像力に裏打ちされてもいるものだ。ジェイムソンの提示する軍隊は、国家(第一の――今や衰退しつつある――公的権力)に代わる「新しい社会=経済構造」だと言われ、戦闘行為が不可能で、「食糧と家から教育と医療まで、ある人口の多様な必要を満たすのに最低限必要な生産を組織し、それにより(中略)自由時間を解放するのを許容するような」機構である。平たく言えば、それはベーシックインカムをヴァージョンアップした完全雇用制と言っても大過ないだろう。
しかし、ドゥルーズ/ガタリが先に引用したユートピアの必要性から翻って言うように、「ユートピアはよい概念ではない。なぜなら、ユートピアは《歴史》と対立する時でさえも、その歴史になお準拠しており、そのなかに理想あるいは動機として書き込まれているからだ」というユートピア論の正負も押さえておくべきだろう。本書の寄稿者の多くは、「歴史に準拠して」、ジェイムソンへの批判的コメントを綴っている。それは避けられない。しかし、そのことは、本書所収論文「日本のユートピア」の柄谷行人が言うように、ジェイムソンの論文がユートピア論でありながら、歴史的現在に対するジェイムソンの「絶望の深さ」が誘発する反論なのだろう。
ところで、ジェイムソンの国民皆兵論は、実は、日本においても、それほど奇異なものではない。政治哲学者・井上達夫が早くから主張しており(『現代の貧困』など)、それは先の安保法制問題の時に、いちおう話題にのぼった。日本の「ラディカル左翼」(そんなものが残存しているとすれば)が、井上の論をマトモに検討しないのは、いぶかしいことである。
井上の国民皆兵論は、ジェイムソンのそれとは異なり、成人男女が数年間兵役義務を負うという、きわめて正統な近代的アイディアだが、そのことは、本書に即して言えば、トスカーノの論文「十月の後、二月の前」にもかかわる。
いったい、戦後日本国憲法は戦力の不保持を謳うことで「平和」主義を標榜しながら、現在では自衛隊を「容認」している。しかし、フランス革命以来、国民皆兵は近代国家の要諦だったはずであり、兵役は「義務」である以上に、主権者たる国民の「権利」ではなかったのか。現代の先進資本主義国はおおむね国民皆兵を廃しているが(実質、傭兵制)、それは国民の「権利」の剥奪として捉えられるべきであろう。しかも、ここでは詳論できないが、日本の一国「平和」主義は、天皇制(憲法一条~八条)によって担保されている。今の天皇のめざましい「平和」主義は、そのことの帰結以外ではない。井上も言うように、国民皆兵とともに、憲法の天皇条項も廃棄するのが、ブルジョワ革命の要諦である。つまり、われわれはトスカーノの言う「二月の前」(ロシア二月ブルジョア革命以前)にいるのではないのか。日本において国民皆兵を主張するとすれば、ジェイムソン的なそれ(それは、十月革命以後というコンテクストである)ではなく、あえて「二月の前」的なものとして、であろう。そう捉えてこそ、ジェイムソンの国民皆兵の主張は、単に「アメリカの」ものではなく、われわれにとってもリアルなのである。
それにしても、なぜ「軍隊」なのか。それについては、本書の論者たちも何人か疑問を投げている。戦争もできない(しない)社会=経済的な労働組織なのであれば、武器はどうして必要なのか(ジェイムソンの軍隊は、軍隊であるから、もちろん武器を持っている)。現実的に存在する国際紛争には、どう対処するのか。等々。それらの問いについてのジェイムソンの答えは見いだせない。しかし、そのような組織をあえて「軍隊」と命名したことに、ジェイムソンの面目があるように思う。これまたドゥルーズ/ガタリを援用すれば、それは、「戦争機械」の現在的な継承をひそかに含意しているのではないだろうか。(田尻芳樹・小澤史訳)
ロシア十月革命以降、おおよそスターリン批判(一九五六年)までの時期、ソ連邦(レーニン―スターリン)は、世界の左派にとってユートピアの現実的な定在と見なされてきた。ラカン的に言えば、ソ連邦は「全知と想定された他者」だったわけである。それは、スターリン批判によってラディカル左翼に導入されたトロツキーを踏まえても変わらない。詳述する余裕はないが、スターリンに追放されたトロツキーは、早くからスターリン批判を敢行していたとはいえ、一方では「労働者国家無条件擁護」の立場があった。つまり、「全知と想定された他者」は、抹消符号を付されながらも、存続していたのだ。そのようなトロツキズム的環境のなかでは、ユートピアを語ることが、ともかくも可能であった。しかし、ソ連邦の消滅は、もはや、そのことを不可能にしてしまったのである。
一九九一年、つまり冷戦体制崩壊の年に刊行された『哲学とは何か』のなかで、ドゥルーズ/ガタリは――おそらくは、「あえてその時に」ということだろう――「そのつどユートピアを携えてこそ、哲学は政治的なものに生成し、おのれの時代に対する批判をこのうえなく激しく遂行する」と記した。本書の元になったジェイムソンの長編論文「アメリカのユートピア」は、ドゥルーズ/ガタリのこの要請に応えている。そして、そのゆえにこそ、発表以来、スキャンダラスとさえ言える反響を巻き起こし、ジェイムソン論文と、それをめぐる九人の論者の論文をまとめた本書が、ジジェクの編集で刊行されたわけである。
なぜ「ユートピア」が語られなければならないのか、今一度、問うてみよう。現在、一部の(ラディカルな?)左派のあいだでは、資本主義の終焉論が、ある種のリアリティーを帯びて語られている。しかしそれらは、資本主義がいかにして終わるのかについてはイメージさえ出せず(シュトレーク『時間かせぎの資本主義』など)、あるいはイメージを提出したとしても全く魅力を欠いたものになっている(ウォーラーステイン『ユートピスティックス』など)。そして、このような資本主義終焉論と相互補完的に、資本主義は永遠であるという言説が強力に主張されている。そのような磁場にあっては、市民主義的、社会民主主義的な力ない改良主義や、アナキズム的侵犯行為(一過的な暴動? 万引き?)が称揚されるか、近代以前的な「伝統」への回帰(アソシエーショニズム? 家族制度?)が夢想されることになる。本書の論者たちの多くも認めるように、ジェイムソンの「ユートピア」は、この「左」右の相互補完的な磁場をこえようとする「ラディカル左翼」的企図において、魅力的なものである。
ジェイムソンの論点は多岐にわたるが、そのスキャンダラスな所以は、主に、「国民皆兵」の提起にあった。ジェイムソンは、ロシアの二月革命(ブルジョワ革命)から十月革命(社会主義革命)への「移行」期における「二重権力」の問題を、レーニンやトロツキーを――もちろん、マルクスやエンゲルスも――参照しながら検討し、現在における、「第一の確立された公式権力と並んで第二の権力システムが登場する可能性」を、国民皆兵の軍隊に見出すのである。ジェイムソンは、軍隊にクーデターを使嗾しているわけではない。その「ユートピア」は、WTOのコンピューターのリターン・キーを一つ押すだけで到来するかのような(キム・スタンリー・ロビンソン「マットとジェフはボタンを押した」、本書所収)、SF的想像力に裏打ちされてもいるものだ。ジェイムソンの提示する軍隊は、国家(第一の――今や衰退しつつある――公的権力)に代わる「新しい社会=経済構造」だと言われ、戦闘行為が不可能で、「食糧と家から教育と医療まで、ある人口の多様な必要を満たすのに最低限必要な生産を組織し、それにより(中略)自由時間を解放するのを許容するような」機構である。平たく言えば、それはベーシックインカムをヴァージョンアップした完全雇用制と言っても大過ないだろう。
しかし、ドゥルーズ/ガタリが先に引用したユートピアの必要性から翻って言うように、「ユートピアはよい概念ではない。なぜなら、ユートピアは《歴史》と対立する時でさえも、その歴史になお準拠しており、そのなかに理想あるいは動機として書き込まれているからだ」というユートピア論の正負も押さえておくべきだろう。本書の寄稿者の多くは、「歴史に準拠して」、ジェイムソンへの批判的コメントを綴っている。それは避けられない。しかし、そのことは、本書所収論文「日本のユートピア」の柄谷行人が言うように、ジェイムソンの論文がユートピア論でありながら、歴史的現在に対するジェイムソンの「絶望の深さ」が誘発する反論なのだろう。
ところで、ジェイムソンの国民皆兵論は、実は、日本においても、それほど奇異なものではない。政治哲学者・井上達夫が早くから主張しており(『現代の貧困』など)、それは先の安保法制問題の時に、いちおう話題にのぼった。日本の「ラディカル左翼」(そんなものが残存しているとすれば)が、井上の論をマトモに検討しないのは、いぶかしいことである。
井上の国民皆兵論は、ジェイムソンのそれとは異なり、成人男女が数年間兵役義務を負うという、きわめて正統な近代的アイディアだが、そのことは、本書に即して言えば、トスカーノの論文「十月の後、二月の前」にもかかわる。
いったい、戦後日本国憲法は戦力の不保持を謳うことで「平和」主義を標榜しながら、現在では自衛隊を「容認」している。しかし、フランス革命以来、国民皆兵は近代国家の要諦だったはずであり、兵役は「義務」である以上に、主権者たる国民の「権利」ではなかったのか。現代の先進資本主義国はおおむね国民皆兵を廃しているが(実質、傭兵制)、それは国民の「権利」の剥奪として捉えられるべきであろう。しかも、ここでは詳論できないが、日本の一国「平和」主義は、天皇制(憲法一条~八条)によって担保されている。今の天皇のめざましい「平和」主義は、そのことの帰結以外ではない。井上も言うように、国民皆兵とともに、憲法の天皇条項も廃棄するのが、ブルジョワ革命の要諦である。つまり、われわれはトスカーノの言う「二月の前」(ロシア二月ブルジョア革命以前)にいるのではないのか。日本において国民皆兵を主張するとすれば、ジェイムソン的なそれ(それは、十月革命以後というコンテクストである)ではなく、あえて「二月の前」的なものとして、であろう。そう捉えてこそ、ジェイムソンの国民皆兵の主張は、単に「アメリカの」ものではなく、われわれにとってもリアルなのである。
それにしても、なぜ「軍隊」なのか。それについては、本書の論者たちも何人か疑問を投げている。戦争もできない(しない)社会=経済的な労働組織なのであれば、武器はどうして必要なのか(ジェイムソンの軍隊は、軍隊であるから、もちろん武器を持っている)。現実的に存在する国際紛争には、どう対処するのか。等々。それらの問いについてのジェイムソンの答えは見いだせない。しかし、そのような組織をあえて「軍隊」と命名したことに、ジェイムソンの面目があるように思う。これまたドゥルーズ/ガタリを援用すれば、それは、「戦争機械」の現在的な継承をひそかに含意しているのではないだろうか。(田尻芳樹・小澤史訳)
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