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<ポスト68年>と私たち
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更新日:2018年1月6日
/ 新聞掲載日:2018年1月5日(第3221号)
<ポスト68年>と私たち 書評
困難の中から言葉を発する
アカデミズムの臨界をこえて
<ポスト68年>と私たち著 者:市田 良彦、王寺 賢太
出版社:平凡社
評者:絓 秀実(文芸評論家)
一九六八年を五〇年後の今日において懐古することに何の意味もない。しかし、そこで生起した思想的あるいは運動的な事件が、今なおどのように現在を規定しているかを考えることには、それ相当の意味がある。本書は二〇一一年に京大人文研を共同研究拠点として始まった「ヨーロッパ現代思想と政治」プロジェクトの成果である前著『現代思想と政治――資本主義・精神分析・哲学』(二〇一六年)を承け、同じ編者によって、その続編として刊行された。言うまでもなく、前著あるいは本書のなかでも用いられる「現代思想」とは、いわゆる「六八年の思想」とも言われるものである。
二著を貫くモティベーションを端的に象徴するのは、本書のタイトル「〈ポスト68年〉と私たち」が示しているように、その共同研究がおおむねポスト68年世代に属する、アカデミックな研究者たる「私たち」によって担われているということだが、同時に、日本の六八年にも多大な影響を行使した『叛乱論』の著者で、六八年以前の六〇年安保世代に属する「新左翼イデオローグ」長崎浩を研究メンバーに擁していることにある。そのことによって、二著は、単なるアカデミズムの臨界をこえていこうとする構えを維持している(本書には長崎の執筆分はないが)。
そのことは、本書の冒頭で編者の一人・市田良彦によって明確に記されている。現在、アカデミズムや主流ジャーナリズムにおいては、六八年は、それを色濃く特徴づけていた「暴力の暗雲の向こうに別の〈68年〉を見いだそうとする」傾向が強い。それは、「『階級闘争』からは区別されて現在に受け継がれる市民運動の創世(ママ)こそを内実とする〈68年〉」である(その最近のアカデミックな成果が二〇一七年秋に開催された歴史民俗博物館における日本の一九六八年展である)。本書の執筆者たちは、アカデミズムに属しながらも、おおむね そのような傾向に対して、異なったスタンスを取ろうとしているかに見える。その意味で、フランス現代思想が「主体」概念を解体したとされる状況認識において、「主体の後に誰が来るのか?」(ジャン=リュック・ナンシー)と問われ、「市民―主体」が来ると答えた、アルチュセールの高弟エティエンヌ・バリバールをメインゲストに招いた国際シンポジウムの記録が、本書の第Ⅰ部を占めていることは、その意味でも時宜にかなっていると言える。
しかし、本書巻末の論文において布施哲がペリー・アンダーソン、トムソン、スチュアート・ホールらイギリス「新左翼」を「鏡」として言うように、かつての新左翼=現代思想が社会主義体制の崩壊と新自由主義の勝利以降の状況において「白旗をあげる」ほかないように見えるのも、これまた事実である。そこにおいては、「新しい社会運動」や「直接民主主義」といった市民運動の顕揚さえ、どこかうつろなものに響くほかない。それは、欧米のみならず日本においても不可避的に甘受されることだ。このような状況に身を置いている本書の執筆者たちの諸論考は、それぞれに、その困難のなかから言葉を発しようとしている。本書にはフーコーについての論文も複数収められているが、それは、後期フーコーを市民的リベラルの思想家に回収しようとする近年の大方の傾向に対して、別途の可能性を探ろうとするものである(小泉義之、箱田徹、廣瀬純などの論文)。また、長原豊論文は、市民主義的転回に抗して、マルクス主義の「真理」(バデゥウ的な意味での)を護持しようとする。
このような諸論考のなかでも、最初に触れておいたところの、長崎浩の参加に象徴される「現代思想と政治」プロジェクトの企図に応えるものとして強い刺激を受けたのが、「一九六〇年~七〇年代日本のアルチュセール受容」の副題を持つ王寺賢太の論文である。王寺は驚くべきと言っていいだろう博捜で、一九六〇年代初頭にアカデミズムや構造改革派(グラムシ派)によって開始された日本のアルチュセール受容を跡づけ、それが六〇年代後期には、当時の京大人文研グループ(河野健二、阪上孝、西川長夫ら)に担われていくなかで、その受容が、当時の日本の新左翼運動とも強い緊張関係を持ったものであったことを論証する。主に、アルチュセールの「重層的決定」概念にかかわる。しかしそれは、新左翼とりわけ京大人文研と「場所」を共有していた関西ブントの赤軍派結成をメルクマールとする過激化のなかで、その運動との緊張関係も失われていく。その後の日本のアルチュセール受容は、新左翼ではなく逆に、一九七〇年代に起こった日本共産党内の「新日和見主義」(田口冨久治)において民主化を求める理論として受容されるが、そこにおいて、アルチュセールのフランス共産党「プロレタリア独裁」放棄への批判は、ほとんど顧みられなかった。等々。
日本のアカデミズムや「党」とアルチュセールとの「出会い損ね」を記述する王寺の論考は、本書の「私たち」たる著者たちの苦渋を表現していると同時に、アルチュセールが狂気におちいる手前でまで希求した、「科学とイデオロギー」(端的には「理論と実践」)が「出会う」ことへのかすかな希望をも、捉えているように思われる。
二著を貫くモティベーションを端的に象徴するのは、本書のタイトル「〈ポスト68年〉と私たち」が示しているように、その共同研究がおおむねポスト68年世代に属する、アカデミックな研究者たる「私たち」によって担われているということだが、同時に、日本の六八年にも多大な影響を行使した『叛乱論』の著者で、六八年以前の六〇年安保世代に属する「新左翼イデオローグ」長崎浩を研究メンバーに擁していることにある。そのことによって、二著は、単なるアカデミズムの臨界をこえていこうとする構えを維持している(本書には長崎の執筆分はないが)。
そのことは、本書の冒頭で編者の一人・市田良彦によって明確に記されている。現在、アカデミズムや主流ジャーナリズムにおいては、六八年は、それを色濃く特徴づけていた「暴力の暗雲の向こうに別の〈68年〉を見いだそうとする」傾向が強い。それは、「『階級闘争』からは区別されて現在に受け継がれる市民運動の創世(ママ)こそを内実とする〈68年〉」である(その最近のアカデミックな成果が二〇一七年秋に開催された歴史民俗博物館における日本の一九六八年展である)。本書の執筆者たちは、アカデミズムに属しながらも、
しかし、本書巻末の論文において布施哲がペリー・アンダーソン、トムソン、スチュアート・ホールらイギリス「新左翼」を「鏡」として言うように、かつての新左翼=現代思想が社会主義体制の崩壊と新自由主義の勝利以降の状況において「白旗をあげる」ほかないように見えるのも、これまた事実である。そこにおいては、「新しい社会運動」や「直接民主主義」といった市民運動の顕揚さえ、どこかうつろなものに響くほかない。それは、欧米のみならず日本においても不可避的に甘受されることだ。このような状況に身を置いている本書の執筆者たちの諸論考は、それぞれに、その困難のなかから言葉を発しようとしている。本書にはフーコーについての論文も複数収められているが、それは、後期フーコーを市民的リベラルの思想家に回収しようとする近年の大方の傾向に対して、別途の可能性を探ろうとするものである(小泉義之、箱田徹、廣瀬純などの論文)。また、長原豊論文は、市民主義的転回に抗して、マルクス主義の「真理」(バデゥウ的な意味での)を護持しようとする。
このような諸論考のなかでも、最初に触れておいたところの、長崎浩の参加に象徴される「現代思想と政治」プロジェクトの企図に応えるものとして強い刺激を受けたのが、「一九六〇年~七〇年代日本のアルチュセール受容」の副題を持つ王寺賢太の論文である。王寺は驚くべきと言っていいだろう博捜で、一九六〇年代初頭にアカデミズムや構造改革派(グラムシ派)によって開始された日本のアルチュセール受容を跡づけ、それが六〇年代後期には、当時の京大人文研グループ(河野健二、阪上孝、西川長夫ら)に担われていくなかで、その受容が、当時の日本の新左翼運動とも強い緊張関係を持ったものであったことを論証する。主に、アルチュセールの「重層的決定」概念にかかわる。しかしそれは、新左翼とりわけ京大人文研と「場所」を共有していた関西ブントの赤軍派結成をメルクマールとする過激化のなかで、その運動との緊張関係も失われていく。その後の日本のアルチュセール受容は、新左翼ではなく逆に、一九七〇年代に起こった日本共産党内の「新日和見主義」(田口冨久治)において民主化を求める理論として受容されるが、そこにおいて、アルチュセールのフランス共産党「プロレタリア独裁」放棄への批判は、ほとんど顧みられなかった。等々。
日本のアカデミズムや「党」とアルチュセールとの「出会い損ね」を記述する王寺の論考は、本書の「私たち」たる著者たちの苦渋を表現していると同時に、アルチュセールが狂気におちいる手前でまで希求した、「科学とイデオロギー」(端的には「理論と実践」)が「出会う」ことへのかすかな希望をも、捉えているように思われる。
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