読書人紙面掲載 特集
この本を手にしてまず感じたのはタイトルの素晴らしさです。「タイム・スリップ」というと普通過去にスリップするわけですが、スリップしながらも「断崖」で辛うじて踏みとどまっている、そういう身体感覚がこのタイトルには感じられます。最初にこの話をするのは適当でないかもしれませんが、「クール・ビズの不気味さ」について論じられた章も印象的でした(七八頁)。クール・ビズなるものは私服刑事の格好にしか見えない、「国会議員たちがクール・ビズをまとっているのも、まさに一種の「警察国家化」の象徴と見なすべき」だと言われています。こういうことを嗅ぎつける嗅覚のある人はあまりいない。批評家としての面目躍如たる感じがします。
批評家というとややもすると外野から石を投げているだけの人に見られがちですが、カさんの分析は時々の事象に対して違和感と共感をはっきりと打ち出すだけでなく、あくまで論理のレベルを大切にして分析されている。とりわけこの十二年間、公共空間で主流になった論調の問題点を鋭利に剔抉されていくその力業に感服しました。特に対米従属論批判における論理の進め方に共感を持ちました。一体いつからこれだけ対米従属論が幅を利かせるようになったのか。その背景がきちんと説かれている。そのような言説の中で絡み合っている様々な思想的系譜があり、他方で利害も絡み合っているわけですが、今の安倍政権を見ていても、トランプ政権が誕生する以前から、対ロシア外交ひとつとっても対米従属一辺倒ではないわけですね。そのことが社会運動の中でも、メディアでも問題にならない。あるいは一九四頁でカール・シュミットについて触れられています。シュミット問題は現代の世界的な思想情勢における大きなトピックのひとつですが、日本の政治思想史の中ではまた別の文脈を持ちながら一貫して重要なテーマであり続けてきました。丸山眞男や藤田省三など、天皇制について重要な仕事をしてきた人たちは陰に陽にシュミットを参照していました。カさんはここでそのシュミットの、たとえば『大地のノモス』を、単に援用するのではなく現状分析のツールにするために新たに読み替えて批評の言語に鍛え上げようとされている。そういうところからも、多くのものを学ぶことができました。
この本のふたつの柱は天皇制と資本主義ですが、面白いのはそれぞれの時評のあとに二〇一六年現在の言葉が付記として置かれていることです。たとえば六八頁には次のようにあります。「日本は「天皇を中心とした神の国」(森喜朗)である。今ほど、それがリアルな時代はない」。この言葉は小泉純一郎首相の靖国参拝が、A級戦犯が合祀されている靖国に対して距離を取る現天皇の立場に逆らった「不敬」な行動であることが論じられたあとに出てくるわけです。この言葉のアイロニーの深さに、カさんの天皇制に対するアクチュアルな批評的態度が端的に見てとれるのではないかと思います。
もう一点。この本には十二年間に起きた重要な政治的出来事が細大漏らさず盛り込まれています。しかし、あえて取り上げられていないポイントを挙げるとすれば、たとえば二〇一三年四月二八日、「主権回復の日」を記念する政府主催の式典がありました。ここで抜き打ちの「天皇陛下万歳」の三唱があった。その瞬間、明らかに天皇夫妻は驚いて立ち止まっていました。一方にこういう事態があり、他方に天皇制批判ができなくなっているという状況がある。この同時性をどう考えるべきなのか。この本の中で興味深い指摘がなされています。小泉純一郎は明らかに天皇を敬っていなかった。現在の首相の安倍晋三にしても、その復古的思想の裏にあるのは、天皇制は日本の支配者が民心を掌握するために使うものだという観念です。一君万民などまったく信じていない。「尊皇」も「攘夷」に劣らず方便だった倒幕運動指導者たちの系譜に連なるとみずから信じている人々にとって、天皇(制)は使うものであって、天皇が個人としてどんな意向を持っていようとそれに従う必要などまったく感じていないでしょう。このことが次第に明白になるにつれて、それと軌を一にしてリベラルの側が天皇賛美になだれ込んでいく、それが現在進行中の事態の特徴だと思います。
国民国家の原理とは、『全体主義の起源』のアーレントが指摘したように、「国民=人間」だということです。このナショナル・ヒューマニズム(国民人間主義)の政治空間では、国民ならざるものは上方か下方に排除されるわけですね。天皇はもちろん上方に排除されているわけですが、あの位置にとどまりながら「人間」でありたいなどというのはおこがましい。カさんがおっしゃるように、天皇をやめていただくしか「人間」になる道はない。逆にいうと、あの位置にいる限り、何回でも人間宣言ができるということです。それが生前退位を望む「御言葉」が一部で第二の人間宣言だと評価されていることの理由です。人間宣言は何回でもできる。これを愚劣な仕組みだと言えないメディア環境は実におそろしいと思いますね。
しかし、共和制を考える以上、どんな思想のもとに兵士になるのかが問われるでしょう。誰に対して、どんな戦争をするのか。どんな戦略思想が想定されているのか。徴兵という提案は、こうした具体的な問題と別立てには考えられないように思います。徴兵制になった時、現在の技術的、メディア的条件のもとで、どんな状況が起きるのかも考えてみる必要があるでしょう。イラクのアブグレイブ監獄の捕虜虐待映像以前にも、アルジェリア戦争の時すでに、フランス人の兵士たちは殺したゲリラや虐待された女性の写真を個人で膨大に撮ってきていました。今、それらの写真がネットに出回って大変なことになっています。兵士の規律ほど困難な問題はありません。そこまで含めて徴兵制を主張できるかという疑問がひとつ。それと「権利としての徴兵制」といった時、権利であれば放棄もできるはずですね。その可能性をどう保証するのか。あるいは男女平等な徴兵制を考えればイスラエルに近いかたちになります。今日一九世紀的な国民国家を理念的に志向するとイスラエルに似たかたちになるけれども、それが望ましいことなのかどうか。
井上達夫さんの意見に関しては、いわゆる「普通の国」論の一バリエーションだと思っています。「まっとうな国」はこうあるべきという考え方が井上さんの中に強固にあり、その枠の内部で整合的に論理が構築されている。しかし、現在の戦争のあり方に照らして具体的な構想につながるかどうか、やや苦しいのではないかと思います。一九九一年の最初のPKО派遣の時、吉本隆明と江藤淳が揃って印象的なことを言っていました。「国際貢献なんていう理念で死ねるわけがない」。重みのある言葉だと思います。現在の世界情勢のもとで、徴兵制を支える共和主義的な理念が容易に発見されるとは思えません。これから先の時代に日本一国で武装して何が守れるのか。中国と戦争ができる兵隊の頭数が揃うわけがありません。
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更新日:2017年3月24日
/ 新聞掲載日:2017年3月24日(第3182号)
絓秀実・鵜飼哲 「共和制という問いの不在」
2月23日、東京・新宿の紀伊國屋書店本店で、絓秀実『タイム・スリップの断崖で』(書肆子午線)刊行記念トーク・イベント「共和制という問いの不在」が開催された(絓秀実・鵜飼哲/進行=綿野恵太)。討論を載録させてもらった。(編集部)
めくるめく思考と観察
綿野
本日のテーマ「共和制という問いの不在」について説明します。カさんは最新刊『タイム・スリップの断崖で』で次のように書かれています。「日本においては、自由民権運動から「大正デモクラシー」にかけて、あるいは、「戦後民主主義」においても、「民主主義ってなんだ?」という議論はなされても、共和主義が俎上に上ることは少なかった」(二九九頁)。この言葉を受けて、今回の対談は企画されました。まずは鵜飼さんに、本の感想も含めてお話しいただきたいと思います。鵜飼
カさんのこのご本にはめくるめく思考と観察が凝縮しています。三〇〇頁の中に十二年という時間が凝縮されている。これほどの期間を対象にクロニクルと政治=思想的分析を結合した本は、なかなか例がないのではないかと思います。時評という枠組みで、時々のアクチュアリティを踏まえながら、カさんがそこで何を見てどう考えたのかが、非常に犀利に書きこまれている。もちろんのちに起こりうる事象、たとえば一年後に起きる展開をすべて予測することはできません。思わぬ方向に事態が進み、そのことによって分析を修正しなければならないこともあります。そうした修正のプロセスをたどれることも、この本が与えてくれる貴重な経験だと思います。往々にして思想家は、自分が変わっていないように見せかけたりします。カさんの場合は自分自身の見方が変わってきたことも恐れず提示してくださっている。そこに知的な誠実さが感じられ、後進の人間にとっては励みにもなります。この本を手にしてまず感じたのはタイトルの素晴らしさです。「タイム・スリップ」というと普通過去にスリップするわけですが、スリップしながらも「断崖」で辛うじて踏みとどまっている、そういう身体感覚がこのタイトルには感じられます。最初にこの話をするのは適当でないかもしれませんが、「クール・ビズの不気味さ」について論じられた章も印象的でした(七八頁)。クール・ビズなるものは私服刑事の格好にしか見えない、「国会議員たちがクール・ビズをまとっているのも、まさに一種の「警察国家化」の象徴と見なすべき」だと言われています。こういうことを嗅ぎつける嗅覚のある人はあまりいない。批評家としての面目躍如たる感じがします。
批評家というとややもすると外野から石を投げているだけの人に見られがちですが、カさんの分析は時々の事象に対して違和感と共感をはっきりと打ち出すだけでなく、あくまで論理のレベルを大切にして分析されている。とりわけこの十二年間、公共空間で主流になった論調の問題点を鋭利に剔抉されていくその力業に感服しました。特に対米従属論批判における論理の進め方に共感を持ちました。一体いつからこれだけ対米従属論が幅を利かせるようになったのか。その背景がきちんと説かれている。そのような言説の中で絡み合っている様々な思想的系譜があり、他方で利害も絡み合っているわけですが、今の安倍政権を見ていても、トランプ政権が誕生する以前から、対ロシア外交ひとつとっても対米従属一辺倒ではないわけですね。そのことが社会運動の中でも、メディアでも問題にならない。あるいは一九四頁でカール・シュミットについて触れられています。シュミット問題は現代の世界的な思想情勢における大きなトピックのひとつですが、日本の政治思想史の中ではまた別の文脈を持ちながら一貫して重要なテーマであり続けてきました。丸山眞男や藤田省三など、天皇制について重要な仕事をしてきた人たちは陰に陽にシュミットを参照していました。カさんはここでそのシュミットの、たとえば『大地のノモス』を、単に援用するのではなく現状分析のツールにするために新たに読み替えて批評の言語に鍛え上げようとされている。そういうところからも、多くのものを学ぶことができました。
この本のふたつの柱は天皇制と資本主義ですが、面白いのはそれぞれの時評のあとに二〇一六年現在の言葉が付記として置かれていることです。たとえば六八頁には次のようにあります。「日本は「天皇を中心とした神の国」(森喜朗)である。今ほど、それがリアルな時代はない」。この言葉は小泉純一郎首相の靖国参拝が、A級戦犯が合祀されている靖国に対して距離を取る現天皇の立場に逆らった「不敬」な行動であることが論じられたあとに出てくるわけです。この言葉のアイロニーの深さに、カさんの天皇制に対するアクチュアルな批評的態度が端的に見てとれるのではないかと思います。
絓
時評ですから毎回、行き当たりばったりで書いたものに対して、トータルに読んでいただき、ありがとうございます。今日のテーマである「共和制」について、もちろん鵜飼さんが現在の問題(とりわけフランスの)に対して、批判的な発言をなさっていることは承知しております。その上で、まず僕がいいたいのは、日本において戦後に合法化された共産党が当初何を目標にしていたのかということなんですね。二段階革命論であり、第一段階は日本民主主義人民共和国の設立を目標に掲げていたわけです。ところが、いつからか「愛される共産党」などというものに路線変更され、結果的に、共産党も共和国路線について言及しなくなってしまった。その他の勢力においておや、です。そもそも共和国に天皇はいない。つまり天皇制打倒を意味するわけですが、共産党さえも徐々に天皇制を容認するようになった。今でも問われれば、「遠い将来において天皇制は廃止すべきです」くらいのことはいうでしょう。しかし現在は、天皇制を事実上肯定している。昨年夏の「御言葉」をひとつの契機として、リベラルの側も、今上天皇を、あたかもリベラルの象徴であるかのように主張している。問題なのは、御言葉というのは、基本的に天皇の政治介入であり、憲法違反なんですね。それを棚上げして、高橋源一郎と内田樹が、こぞって天皇をめぐって仲良く一致するという奇怪な光景が現出しているわけです。一方で、櫻井よしこや平川祐弘などは、天皇の譲位を認めず、朽ちるまで天皇としていて欲しいと言う。この方が、政治介入を認めないという意味で、まだマトモです。現在のジャーナリズムの中で、天皇制批判は事実上タブーになっていると思います。こうした状況に対して、共和制という問いを立てながら、天皇制の問題について考えてみたらいいんじゃないか、というのが僕の基本的な意見です。天皇(制)は使うもの
鵜飼
私自身は基本的に反天皇制ということでやってきました。問題は、日本の戦後の文脈では、「反天皇制=共和制支持」ではかならずしもないということですよね。新左翼内部の議論では、共和制をストレートに唱えると一国革命路線になってしまうという問題がありました。一九八〇年前後、菅孝行さんが反天皇制運動のなかで議論をリードされていた時代に、共和制の問題は繰り返し議論されていました。共和制を掲げるべきという声は必ずあった。しかし安定した体制としての共和制の樹立を戦略目標として立てるよりは、「国家の死滅」という展望に突き進む傾向が強かったと思います。日本でも横井小楠以来共和制を唱えた人はいるし、木下尚江などはこの点で相当踏み込んだ思想を抱いていたようです。現在はこうした系譜自体、適切に語りうる言説が欠如した状況になっているのではないでしょうか。堀内哲さんの『日本共和主義研究』はそのことを直截に突いていると思います。堀内さんの本から学んだことのひとつは、通常言われていることとは裏腹に、現憲法が徹底的に天皇中心の憲法だということです。一条から八条だけではなく、構造的に天皇が中心的な位置を占めている。九六条二項には次のように書かれています。「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」。つまり、改正憲法公布の主体は、現憲法がそもそもそうであったように、天皇なのです。かりに改憲手続きを経て共和制にしようとしても、それを宣言するのも天皇であるという構造。堀内さんはこの条項をまず変えることなしには改憲手続きによる共和制樹立は原理的に不可能であることを指摘されています。そういう法的条件の中で、共和制を希求する思想的エネルギーをどこに見出すべきか。単に天皇制より共和制が好ましいという話にとどまらない、大変難しいポイントだと思います。そういう現実を踏まえたうえでカさんは今共和制の問題を出されたわけですが、非常にタイムリーな提言だと思いますね。もう一点。この本には十二年間に起きた重要な政治的出来事が細大漏らさず盛り込まれています。しかし、あえて取り上げられていないポイントを挙げるとすれば、たとえば二〇一三年四月二八日、「主権回復の日」を記念する政府主催の式典がありました。ここで抜き打ちの「天皇陛下万歳」の三唱があった。その瞬間、明らかに天皇夫妻は驚いて立ち止まっていました。一方にこういう事態があり、他方に天皇制批判ができなくなっているという状況がある。この同時性をどう考えるべきなのか。この本の中で興味深い指摘がなされています。小泉純一郎は明らかに天皇を敬っていなかった。現在の首相の安倍晋三にしても、その復古的思想の裏にあるのは、天皇制は日本の支配者が民心を掌握するために使うものだという観念です。一君万民などまったく信じていない。「尊皇」も「攘夷」に劣らず方便だった倒幕運動指導者たちの系譜に連なるとみずから信じている人々にとって、天皇(制)は使うものであって、天皇が個人としてどんな意向を持っていようとそれに従う必要などまったく感じていないでしょう。このことが次第に明白になるにつれて、それと軌を一にしてリベラルの側が天皇賛美になだれ込んでいく、それが現在進行中の事態の特徴だと思います。
「象徴」なるもの
綿野
二〇一七年一月十九日の朝日新聞で、高橋源一郎さんが、「皇居で手を振る、人権なき「象徴」」という文章を書かれています。天皇の一般参賀を見ながら、中野重治の『五勺の酒』を思い起こす。中野は、天皇自身の人権には思い至らない民衆の傲慢さと戦後民主義の薄っぺらさに怒っていたと、高橋さんは指摘している。そして最後は、戦没者慰霊の旅や被災地へのお見舞いといった天皇の振舞いに深く共感しながら、人権なき天皇の問題について、同情めいたかたちで締めくくっています。絓
そういう時は、必ず中野重治が使われる。中野は天皇が好きだっただけのことです。江藤淳が『五勺の酒』について、そういう読解をしているが、正しいと思うし、中野が天皇制に反対していたというのは大きな間違いです。天皇に人権がないという話は、かなり昔からいわれていることですね。確かに今の天皇には人権がない。それを人間化するには、天皇制をやめる以外にないでしょう。天皇を象徴のままにしておいて、人権を付与しようなどという意見は、本末転倒も甚だしい。人権が欲しければ、天皇をやめていただくほかはないと、はっきり言うしかないと思いますね。鵜飼
天皇制について考えるためのひとつの補助線として、エルンスト・カントロヴィチの『王の二つの身体』を参照してみる可能性もあるのではないでしょうか。王は生物学的身体と政治的身体を持つ。前者は人間として生きるがゆえに死ぬ身体であり、後者は儀礼を通して受け継がれていく死なない身体です。カントロヴィチの議論を敷衍して、主権は「2+N個」の身体を有すると考えることもできます。「生前退位」をめぐる議論のなかでその一体性の危機が取沙汰されている「象徴」なるものも、そうした身体のひとつなのではないでしょうか。「象徴」をたとえば「隠喩」や「換喩」に言い換えることはできません。まして「日本国民統合のアレゴリー」などという表現はまったく意味をなさないでしょう。「象徴」はここで必要不可欠な概念です。「象徴」は当然文学や美学にも関わってきますが、この政治的な代替不可能性については、これまで以上に真剣に考えなければいけないと思います。国民国家の原理とは、『全体主義の起源』のアーレントが指摘したように、「国民=人間」だということです。このナショナル・ヒューマニズム(国民人間主義)の政治空間では、国民ならざるものは上方か下方に排除されるわけですね。天皇はもちろん上方に排除されているわけですが、あの位置にとどまりながら「人間」でありたいなどというのはおこがましい。カさんがおっしゃるように、天皇をやめていただくしか「人間」になる道はない。逆にいうと、あの位置にいる限り、何回でも人間宣言ができるということです。それが生前退位を望む「御言葉」が一部で第二の人間宣言だと評価されていることの理由です。人間宣言は何回でもできる。これを愚劣な仕組みだと言えないメディア環境は実におそろしいと思いますね。
綿野
戦後、日本国憲法において、象徴天皇制=一条を成立させるために、戦争放棄を記した九条がつくられた、という経緯があります。そのことに関して、井上達夫さんについてご意見を聞きたいと思います。井上さんは、「天皇制廃止、九条削除、徴兵制導入」を主張しています。カさんは一定の評価をしながらも、「皇室民営化論」と批判されます。むしろ、「国民の権利として徴兵制」を求めていくべきだと。絓
去年、一昨年の安保法制反対闘争の中で、井上達夫が一番真っ当だと思っていました。ただ、徴兵制に関してはネタとして消費され、天皇制廃止に至ってはほとんど話題にもされなかった。ならば、ここで共和制という問いかけをやっておく価値はある。しかし、井上の主張は「皇室民営化論」というべきもので、不十分ではないか。共和制においては国民皆兵であり、自分の国は自分で守るのが原則です。もちろん君主はいない。現在の軍事情勢の中で、国民皆兵なんてあまり意味がないことは百も承知ですが、これもフィクションとして、あえて二段階革命論に立っていっているんです。今や二段階革命の、二段階目は展望が見えない。新左翼の一段階革命は夢物語になってしまった。現在リアリティがあるのは、二段階目を抜かした第一段階の民主主義革命でしかない。では、とりあえず、それを徹底してみたらどうか。もちろん皇室を民営化しただけで、天皇制が崩壊するかはわからない。民営化では弱いと、個人的には思います。しかし、フランス革命の原則を押し出してみたらどうかということで、国民皆兵も言ってみたわけです。憲法制定権力の創設
鵜飼
絓さんらしいご意見だと思います(笑)。この問題を考える時、現在のフランスの状況が参考になるのではないでしょうか。フランス革命から二百数十年を経て、共和国が今どうなっているのか。フランス国民は今、一体誰を敵として「ラ・マルセイエーズ」を歌っているのか。二〇一五年十一月十三日、パリで六ヶ所同時襲撃事件がありましたが、直後にアラン・バディウが事件を論じた映像が、その三日後ぐらいに送られてきました。ありていに言って、現在のフランスで襲撃を計画している人は相当います。ほとんどはマークされているでしょうが、警察の監視が緩めばいつでも事件は起きる構造になっています。そういうなかであの事件は起きたのであり、陰謀ではなくとも、また体制側の積極的な意志が働いていたわけではなくとも、事件の効果を計算していたのは襲撃者ばかりではないということは明らかです。バディウはこうした見立てのもとに、オランド社会党政権の下で、フランス国民の精神的な再武装化が進んでいると主張します。そのとき彼が挙げるのは、「国のために命を捨てる用意があるか」という世論調査の結果です。ロシアでは六七パーセント、フランスでは三パーセントだそうです。この彼我の落差をフランスの国家、資本権力はもはや看過できない。そんな支配層の焦燥を背景に、いわゆる「テロ」が起こり、フランス人の精神的再武装化が進んでいるわけです。日本の場合、フランスのような痛ましい事件が起きていないにも関わらず、同様な事態に陥りつつありますね。「中国が悪い」「北朝鮮は正気ではない」「韓国はなまいきだ」などという排外的な空気が煽られて、隣国への憎悪が強まっています。しかし、共和制を考える以上、どんな思想のもとに兵士になるのかが問われるでしょう。誰に対して、どんな戦争をするのか。どんな戦略思想が想定されているのか。徴兵という提案は、こうした具体的な問題と別立てには考えられないように思います。徴兵制になった時、現在の技術的、メディア的条件のもとで、どんな状況が起きるのかも考えてみる必要があるでしょう。イラクのアブグレイブ監獄の捕虜虐待映像以前にも、アルジェリア戦争の時すでに、フランス人の兵士たちは殺したゲリラや虐待された女性の写真を個人で膨大に撮ってきていました。今、それらの写真がネットに出回って大変なことになっています。兵士の規律ほど困難な問題はありません。そこまで含めて徴兵制を主張できるかという疑問がひとつ。それと「権利としての徴兵制」といった時、権利であれば放棄もできるはずですね。その可能性をどう保証するのか。あるいは男女平等な徴兵制を考えればイスラエルに近いかたちになります。今日一九世紀的な国民国家を理念的に志向するとイスラエルに似たかたちになるけれども、それが望ましいことなのかどうか。
井上達夫さんの意見に関しては、いわゆる「普通の国」論の一バリエーションだと思っています。「まっとうな国」はこうあるべきという考え方が井上さんの中に強固にあり、その枠の内部で整合的に論理が構築されている。しかし、現在の戦争のあり方に照らして具体的な構想につながるかどうか、やや苦しいのではないかと思います。一九九一年の最初のPKО派遣の時、吉本隆明と江藤淳が揃って印象的なことを言っていました。「国際貢献なんていう理念で死ねるわけがない」。重みのある言葉だと思います。現在の世界情勢のもとで、徴兵制を支える共和主義的な理念が容易に発見されるとは思えません。これから先の時代に日本一国で武装して何が守れるのか。中国と戦争ができる兵隊の頭数が揃うわけがありません。
絓
まず、「国のために死ねるか」ということですね。もちろん、今や難しい。でも、仕様もなく国民国家に生きているわけで、ロジックとしては持っていたほうがいいということなんです。つまり自衛隊というものが現に存在しているのであって、なおかつ、今や自衛隊を支持する人が圧倒的に多いわけですから。じゃあ、お前もなれよ、と。鵜飼
東日本大震災以降、災害救助に貢献する姿が日々伝えられたことによって、自衛隊の株があがりました。リベラル派はそういう状況に対抗できないと思い込んでしまっているのでしょう。しかし、現在の改憲勢力の構想を見てみると、もはや改憲問題は九条二項だけを外科手術的に切除するか否かということではありませんよね。現在の改憲派主流は九条二項だけを変えようとしているのではなく、二十条の信教の自由や二十四条の男女同権規定もいじる、もちろん一条も変えて天皇を元首化するという意向を隠していません。たとえば二十四条については家族中心主義を前面に打ち出して、その中に両性の関係を封じ込めようという意図が明らかです。それに対する反対運動もすでに始まっています。ある意味で改憲をめぐる闘争のチャンスもそこにあるでしょう。九条だけでなく、二十条、二十四条、さきほどの九六条等、多くの条項が争点化しつつあります。そうした運動が相互に結びつくことが大切だと思います。絓
たとえば自民党という改憲勢力があったとして、それに対して護憲という立場しかないのか。本のあとがきにも書きましたけれど、現在我々が運用している戦後憲法なるものが、果たして合法的な手続きを経て成立したのか。それに疑義を出したのが「大正デモクラシー」の美濃部達吉だった。改定手続きの違法性を、美濃部は訴えた。そういう歴史が忘れられ、なおかつ我々は憲法制定権力を創設したことがないし、作ろうとさえ思ったことがない。まずは憲法制定権力を、思想的に作っていくことからはじめないといけない。それが徴兵制の問題まで含むと思っているんです。 この記事の中でご紹介した本
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