「お前、なんだその髪は!」志村けんの逆鱗に触れた“頭髪激怒”事件 愛弟子が涙で振り返った
「何が恩返しかというのは今もわからないんですけど、僕は鹿児島の(自分の)番組に志村さんをゲストに呼んで、ここまで成長できましたという姿を見ていただくのが夢でした。それが僕にできる恩返しだと思っていたので。できなくなってしまったのが、残念で申し訳ないです。頭ではわかっているのですが、まだ信じられず、お墓参りをしたときに“もう志村さんはいない”とわかるんだと思います」
そう語るのは、新型コロナウイルスによる肺炎で3月29日に亡くなったお笑いタレントの志村けん(享年70)の愛弟子で、現在は故郷の鹿児島でご当地レポーターとして活躍している乾き亭げそ太郎氏(49)。90年代の多忙を極めた志村と7年間、365日ずっと傍らにいたのがげそ太郎氏だった。
98年頃、番組でスウェーデンへロケへ行ったときの1枚。志村さんとげそ太郎氏(右)
4月18日からYouTubeで1987年~1996年に放送された「志村けんのだいじょうぶだぁ」(フジテレビ系)が次々と公開され、1本目の動画の再生回数は410万回を超えた。天国へ旅立っても尚、人々に笑いを届け続ける喜劇役者・志村けん。前回の記事では語り尽くせなかった師匠・志村けんの横顔を愛弟子が振り返った。
「普段から志村さんはよくニュースをご覧になっていました。スポーツ紙も全紙購読していて、忙しいときは車中に持ち込み、隅々まで目を通していましたね。そこから世の中の流行りや若者のブームなどの情報を取り入れていました。毎朝欠かさずニュースを見る理由について志村さんは、『常識を知らないと非常識はできないぞ。コントでも非常識を演じたりするけど、常識の範囲をすべて知らないと面白さは表現できないから。相手と会話をしていて“これ、知ってる?”と聞かれて、知らなかったらそこで終わってしまうだろ? 知っていて知らないふりをするのと、知らなくて知らないふりをするのはまったく違う』と、教えていただきました」
げそ太郎氏は、情報番組「かごニュー」(KTS鹿児島テレビ)で街中をレポートしているが、どの現場でも師匠の言葉を守り、社会の出来事を毎日意識しているという。しかし、志村は日々のニュースだけではなく、常にコントのヒントを探し求めていた。
月30本の映画を見てコントのヒントを探していた
「毎日帰宅が深夜だったのですが、志村さんは『どんなに酔って家に帰っても、俺は映画を観るようにしている。コントに大切なヒントやカメラのアングルも参考になる』と話していて、いつ寝ているんだろうと思いました。いつも仕事の移動中にCDショップに立ち寄り、月3、4回ほど新しい映画のDVDを10本くらい買われるんです。志村さんに『これは面白かったぞ』と、ホラー映画や、中国のロマンス映画などを勧められたりしました。舞台前には『為になるから見とけよ』と、昭和の喜劇役者だった藤山寛美さんの『松竹新喜劇』のビデオを貸していただき、何度も見て勉強しました」
厳しい芸の世界で、弟子が師匠にものを尋ねることはご法度。志村の弟子について間もなかったげそ太郎氏は、思わずしてしまった質問で志村の機嫌を損ねてしまったという。
「お前が俺にそんなこと聞くんじゃない」
「あるとき、志村さんのやさしさでスタッフさんたちとの飲みの場に同席させてもらったことがありました。話題がコントやお笑いの話になったときに、僕は志村さんのドリフ時代に憧れていたので、思わず、『志村さんのドリフのときはどうだったんですか?』と聞いてしまったんです。すると機嫌のよかった志村さんの顔から笑顔が消えて、『お前が俺にそんなこと聞くんじゃない。お前は俺に“こういうことが今、流行っていますよ”とか、“こういう物が今、人気ですよ”とかを言わなきゃダメなんだ』と注意されました。それからは車の後部座席に『これ最近、若い子の間で流行っている曲みたいです』と、CDを置いたりしておくと志村さんは黙って聴いていました」
飲んだ次の日にはアセロラドリンクのはずが
それ以来、げそ太郎氏は二度と師匠に質問することはなかった。弟子となって日々、師匠への気配りをしていたが、空回りすることも多々あったと話す。
「泥酔した志村さんを車で自宅へ送迎しているときに、志村さんが『飲んだ次の日に車の後ろにアセロラドリンクとか置いてあるとうれしいんだよなぁ』と小さな声で呟いたんです。いつも志村さんが好んで飲んでいたのはミネラルウォーターだったので、それを聞いた翌日に水をやめてアセロラドリンクを何本か置いて自宅に迎えに行ったら、『オレは水がいいんだよ』って怒られてしまい、本人は酔っていて前日のことを覚えてなかったんでしょうね(笑)」
「オイ、お前ふざけてんのか! なんだその髪は!」
げそ太郎氏は、7年間の弟子生活の中で志村を激怒させたことが2度ある。1度目は前回記事の「ファミレスで4時間怒られた」事件。2度目は楽屋でのことだった。
「僕が27歳くらいのときに勘違いをして、髪の一部分を緑色に染めたことがあったんです。その緑の髪で志村さんを自宅まで迎えに行き、運転中は何事もなく、いつも通りテレビ局に着いて楽屋に入った途端、志村さんの表情が豹変したんです。『オイ、お前ふざけてんのか! なんだその髪は! その緑色の髪をしてサラリーマンや通行人の役ができるか? そんなヤツいないだろ。お前はどの役をやるつもりなんだ。自分がコントに出るときに、そんなリアリティのない髪色していてふざけてないか。黒く染め直してこい!』と、怒鳴られ、僕も『すみません』と何度も謝り、その日に髪を黒く染め直しました。本当に何も考えていない若気の至りでした」
「8時だョ!全員集合」(TBS系)から幾つもの人気番組を経て、最後の出演となった「志村でナイト」(フジテレビ系)まで46年間、コント一筋で生きて来た志村が語った“コントへのこだわり”をげそ太郎氏は聞いている。
「100点のコントは10本のうち1本か2本でいい」
「志村さんは1時間のコント番組の中で、『すべてが100点のコントは出さない』と、お話をしてくれました。『コントが10本あるとしたら、100点はその中に1本か2本でいい。10本の中には60点のコントも番組に出さないといけない。すべて100点だと、コントを見終わった人の印象が50点になってしまう。
いろんなバリエーションの違うコントを散りばめることで90点のコントが際立つ。だから俺は、そこのバランスはいつも気にしているんだ』と。志村さんは、コント番組全体のバランスや緻密な計算があるのだと驚かされました」
志村のコントは細かい台本はなく、簡単な打ち合わせのみで出演者は極度の緊張感に包まれる。げそ太郎氏もコントの大役を任され緊張していたが、唯一、志村から褒められたことが今でも忘れられないと語る。
「志村さんと優香さんが貧しい家の親子という設定のコントでした。なけなしのお金で買ったおでんのたまごを道路に落としてしまい、それを自転車で通りかかった僕が踏むというのがコントのオチでした。
「お前、よかったな」
志村さんは本番のリアクションを重視するので、ほとんどがリハーサルなしの一発勝負。たまごは滑るし、真ん中を踏まないと潰れない。失敗したらそこまで積み上げた志村さんたちのコントが撮り直しになってしまうので、緊張しかありませんでした。本番では、なんとか志村さんたちが落としたたまごの真ん中を踏むことができてオチが完成して、コントは無事に終わりました。めったに身内を褒めたりしない志村さんが笑いながら『お前、よかったな(笑)』って言ってくれて、初めてコントで褒められて、心の底からうれしかったです」
3人兄弟の末っ子だった志村は、どんなに忙しくても年末は東村山の実家に帰省していた。当然、師匠を東村山へ送り届けるのも弟子の仕事。そこでげそ太郎氏は、志村の意外な一面を目撃した。
母親思いの志村さんは開演前に車いすを押して…
「志村さんはお母さまをとても大切にされていました。お正月に実家へ挨拶に行くときも、お母さまに連絡して、砂糖で甘辛く煮た厚揚げを頼んで作ってもらったりして、お母さまは志村さんのことを本名(康徳)の“やっさん”と呼んでいて、志村さんもリラックスした表情でした。
お母さまは毎年、志村さんの舞台『志村魂』を観に来られていて、志村さんが開演前にお母さまの車いすをゆっくり押してグッズ売り場を回り『どれがいい?』と、やさしく聞いたりされていました。舞台では志村さんが津軽三味線を披露するのですが、お母さまが観劇に来られると、緊張で間違えたりすることが多かったですね。志村さんも『なんでかなあ(笑)』と照れていました」
01年に7年間の弟子生活を終えたげそ太郎氏は、その後も師匠からお呼びがかかり、志村の舞台に出演していた。08年、舞台「志村魂」は初めて九州へ進出。福岡公演のステージでげそ太郎氏を待ち受けていたのは、師匠の意外な計らいだった。
「九州の舞台なんて初めてで、鹿児島に住んでいる僕の両親や親戚が劇場に観に来ていたんです。本番前にお時間をいただいて、親父とお袋を志村さんの楽屋に連れて行って挨拶をさせてもらいました。本番の喜劇では、僕が駅員役で志村さんがホームから飛び込もうとする役でした。僕の出演は台本で2行くらいの30秒ほどのシーンで、2回飛び込もうとする志村さんを必死に止める演技をしていました。
その日もいつも通り志村さんを『飛び込んじゃダメだよ』と引き留めるんですけど、志村さんが『止めないでくれー』と3度、4度、何度も飛び込もうとするんです。気が付けばそのやりとりが2分以上続いていました。それは、僕の両親が舞台を観に来ていたので、志村さんがいつもより長く僕が舞台にいる時間を作ってくれていたんですね。舞台終了後に、急いで楽屋に御礼を言いに行ったら志村さんは照れ笑いをされていました。いつもは厳しい志村さんですが、僕は感謝とうれしさで涙が止まりませんでした。本当にありがとうございます」
志村は、げそ太郎氏が東京を離れてからもずっと成長を見守っていた。12年、あるテレビ番組の撮影ロケで志村が鹿児島を訪れ、げそ太郎氏は師匠と再会を果たした。
「げそを使っても大丈夫だよな」
「志村さんがロケの前入りで鹿児島の指宿温泉街に来ていたので、挨拶に行ったら『一緒にご飯でも食べていけよ』とお声を掛けてもらいました。志村さんとスタッフさんを含めたお食事会に参加させていただいて、最後に志村さんが『お前、明日一緒に番組に出たらどうだ』と言われて、すぐスタッフさんに相談してくれて『ここのシーンで、げそを使っても大丈夫だよな』と。鹿児島で志村さんと共演することができて言葉がありませんでした。
実は、それまで僕はいつも本名の“シンイチ”と志村さんに呼ばれていました。それが芸名の“げそ”と初めて呼んでいただいて、少しだけ志村さんに認めていただけたようで、とてもうれしかったです。でも本当はもう一度、志村さんに“げそ”と呼んでほしかったです」
げそ太郎氏は師匠の遺品整理のお手伝いを切望したが、新型コロナの影響でそれも叶わない状態だという。「さよならするのはつらいけど、時間だよ、仕方がない、次の回までごきげんよう」--げそ太郎氏の脳裏にはドリフのエンディングの音楽が繰り返し鳴り響き、いまでも涙が止まらないのだという。
(「文春オンライン」特集班/Webオリジナル(特集班))